藪原 - 贄川
 
  
地図→①藪原-奈良井  ②奈良井-長瀬   ③長瀬-贄川    

 今日の旅の楽しみは、木曽の漆である。木曽谷・・・藪原宿、奈良井宿で漆器産業が発展し、その圧巻の場所が、奈良井宿の先にある間の宿「平沢」である。

 朝の涼しい時間帯に峠越えをしようと、人々の行き来のほとんどない藪原宿の町並みを急ぎ足で過ぎて、JRの跨線橋を渡った。
午前8時ちょうどであった。
 

飛騨街道追分
 跨線橋の先の細道を出て、右手からの上り坂にぶつかる。
そのすぐ右手に、追分の説明板が立っている。
 この場所にはかって十王堂があり、ここから北に向かって飛騨高山に向かう飛騨街道の追分であった。
 信濃と美濃の国境である境峠を越え、更にその先で野麦峠を越えて飛騨高山に通じていた。
明治末に中央西線が開通すると、この街道は岡谷の製紙工場で働く
飛騨の女工が頻繁に往来するようになったという。

→すぐ先の高台から見た北方面…飛騨街道の先の景色

御鷹匠役所跡
 坂を上った突当りに、「尾州御鷹匠役所」の跡地がある。
 伊奈川にあった鷹の飼育場が統合されて、妻籠宿からここに移され、明治初めまで存続したという。
 鷹の巣を見つけて鷹の飼育や調教、巣山の管理 などを行っていた。
木曽谷中に、「巣山」といわれた御巣鷹山は六十余りあったという。

←役所跡から見た南方面・藪原宿

水場
 鳥居峠は、標高1,197mで、峠の西側は、今まで歩いてた木曽川がながれ、 東側は、奈良井川が日本海側に向かって流れる分水嶺である。旧中山道の難所であった。
 木曽谷地方が信濃国に編入される以前は、前述の飛騨街道の境峠と共に、信濃国と美濃国の国境であった。
 
急な登りの後、少し緩やかな道が続き、右手に原町の水場が現れる。奥に水神が祀られている。

 天降社
 
 少し上ると、右手の石段の先に天降社があり、石段脇に「天降社のオオモミジ」の標柱がある。
 その直径は約80cmで、説明板によると、この境内の森には、古くからカエデの老木が多くみられ、「大神宮の森」としてよく知られていたという。

登り道の景色
  自動車道である旧国道を横切って緩やかな上り道を進む。カラマツの林の中を気分よく歩きながら峠の案内版に到着。
 
鳥居峠への径
 

 ここから本格的な上り道である。
鳥居峠は木曽川と信濃川上流の奈良井川の分水嶺となっている。
この峠道は 和銅年間(708~715)に官道 「吉蘇路(「岐蘇路」)」として開かれ、その後 明応年間(1492~1501)に木曽領主であった木曽義元が松本の小笠原氏と戦った時、この峠からはるか西にある御嶽権現を遥拝し、戦勝を祈願し、勝利したことからここに鳥居を建立、以後 鳥居峠と呼ばれるようになった。

 急な坂道の左手には、馬頭観音の文字の入っている供養塔もあり、歴史を感じさせる径である。



 途中 見晴らしの良いところから、南側に木曽川沿いに沿った藪原の街並みがよく見える。
今まで歩いてきた木曽川の流れとはここで分かれることになる。

丸山公園
 まもなく小高い場所に整備された丸山公園があり、多くの石碑が建っている。信濃名所 鳥居峠碑、芭蕉句碑、木祖村史跡 鳥居峠碑などなど。
 
義仲硯水
 
   公園の東側には、御岳手洗水鉢ががあり、50mほど先の山からの湧き水が流れている。
 その上を少し上ったところに 「義仲硯水」 と呼ぶ小さな水場がある。 「木曽義仲が、宮ノ越で平家討伐の旗揚げをして、北國へ攻め上がるときに、鳥居峠の頂上で戦勝祈願の願書をしたためて御嶽山へ奉納した。その時の硯の水といい伝えられている」という。
  もとに戻り先に進むと峠への標識がありその奥に不動明王の石像がひっそりとたっている。

左手上の大きな鳥居奥に 御嶽遥拝所がある。

御嶽神社
 鳥居の先に参道が続き、御岳神社がある。御岳遥拝所として多くの参拝者が訪れているのが分かる。
両側には数多くの石塔・石仏が建てられている。






奥にまわると、遠くの山並みの縁から、雪をかぶった御岳山が見える。

トチの木群
 ここからは 右側の峠山の斜面を回るようにして平坦な道が続く。
「鳥居峠のトチノキ群」という標識が立ち、まわりには、栃の木の大木が連なっている。

「子産みの栃」といい伝えられている中が空洞になった木→

鳥居峠
 しばらく進むと左手に小さな立て札で、「お六櫛原木 ミネバリ 植栽林地」 がある。

その先 左から、昔使われていた旧国道が合流しており、一帯が広い平地となっている。
自然石の大きな道標があり、「左 明治道路 右 旧国道」と刻まれている。 今まで通ってきた道を明治道路とよんでいたらしい。
ここからの御岳山の眺望もみごとである。

鳥居峠 茶屋跡
 まもな旧中山道はこの横の草道を上っていくが 道が分からず道なりに進んで通り過ごしたため、「中利茶屋跡」に立つ休憩所がある広場に到達した。

 ここから、御岳山眺望所まで180mあるとのこと。

 いよいよ下り坂である。

下り坂の景色
    広場の端から北に眺望が広がっており、これから向かう奈良井川沿いの谷間と、その先の中山道の道筋がよくわかる。

<一里塚跡>
古地図や文献でこの辺りにあったとさされる。






<中の茶屋跡>
菊池寛の「恩讐の彼方」に記されているという。






<葬沢>
天正10年(1582) 織田信長に寝返った木曽善昌が、武田勝頼の二千余兵を迎撃し大勝利を収めた古戦場で、武田方の戦死者五百余名がこの谷で葬られた場所という。



<石畳径>
 奈良井宿への降り口

奈良井宿
 林の間から わずかに奈良井宿の様子が見渡せる。
右側に奈良井川が流れ、左側の山すそに沿って長く続く街並み・・・良い眺めである。

この先でちょっとした杉並木を通り、石階段を降りると車道となる。

宿の街並みは、南のはずれにある鎮(しずめ)神社から北の八幡神社まで約1㎞にわたって続く。
 鳥居峠越えに備えて宿をとる旅人が多く「奈良井千軒」と呼ばれるほどの賑わいを見せたという。
 天保14年(1843)、総家数は405軒、 旅籠は5軒、本陣1、脇本陣1 であった。

奈良井宿観光協会によると、昭和43年から保存運動が始まり、建物自体だけでなく周囲の環境と一体となった歴史的な風致が目的とされ、国の「伝統的建物群保存地区」に指定されている。

鎮(しずめ)神社
 宿のはずれに位置するが、かっては奈良井村の鎮守として鳥居峠にあったという。天正10年(1582)の戦火により焼失、奈良井義高がこの地に移したという。
水場が設けられ、庚申塔や十三夜塔んどおおくの石塔が並ぶ。


高札場跡
 
 神社の隣、宿の京方の入り口に高札場が復元されている。
 ここから 整備された街並みが続く。

お櫛所 中村邸
 かって櫛問屋として栄えた中村邸で、天保年間(1830~43)の建物。
 二階を少しせり出させる山梁(だしばり)づくりで、鎧庇・猿頭など奈良井宿の町やの特徴を残している。

鍵の手と五平餅
 枡形と同じ目的で造られた「鍵の手」がある。
その手前の「駒屋」で五平餅を食べたが、そこで香港から来たという若者と会った。
奈良井宿に関心があり、一人で見学しているという。
 宿景色  
   奈良井宿は 南から 上町 、中町、下町の三町に分かれていた。

<上問屋資料館>
手塚家が務めた上の問屋で、時には庄屋を務めていた時もあったといい、多くの文書が展示されている。






<伊勢屋(元 下問屋)>
文政2年(1818)に建てられたといい下問屋も務めたこともあるという、旅籠屋。
現役の旅館。





<本陣跡>
左手山すそにある神明宮へ行く途中の広場に本陣跡の標柱がある。







<徳利屋>」
右手観光案内所の建物の先にある。昭和初期まで旅籠で、江戸時代には脇本陣を務めていたという。
 
大宝寺
 
 宿のほぼ中ほどの山側に、大宝寺がある。
天正10年(1582)奈良井義高がみづからの菩提寺として開いたのが始まりという。 本堂の裏山一帯には義高の館があったという。
 境内右手の墓地の一角に 「マリア地蔵」が祀られている。付近の藪の中から掘り出されたもので、頭部が失われているが、抱かれた子どもが手にしている蓮の花が、十字架を連想させる、という。

奈良井川と木曽の大橋
 奈良井駅の手前近くから、奈良井川と、そこに架かる「木曽の大橋」に寄り道する。
 
橋から見る上流の鳥居峠方面→



八幡神社
 奈良井駅の手前を山側に上り、八幡神社に進む。
 八幡神社は奈良井宿下町の氏神で、宿の丑寅の方角にあたり鬼門除けの守護神として崇敬されたといわれる。
その前に江戸初期の中山道が現存し、杉並木が旧街道の面影を残しているが、今は17本のみとなっっている。
奥の地蔵堂の前には、聖観音をはじめ千手観音・如意輪観音などの観音像が200体近く並んでいる。。
明治期の国道・鉄道開設の折に周辺から集められたという。
 その先で、、旧道は完全に消えている。
 
 駅の前の道まで戻り、JR線に沿って北に進み、 奈良井川をわたり、国道19号線に合流する。
 旧中山道の一里塚跡を見るために、国道を進まず、手前を奈良井川沿いの堤防を進む。
     奈良井川の下流=北 を望む。→

橋戸一里塚
 堤防に沿って300mほど進み小さな橋を渡っていくと、小公園がある。その奥に説明板と一里塚跡の石碑が建っている。
それによると、文化3年(1806)に完成した中山道分間絵図に 「此辺り古往還一里塚」と記載されている。 このことから当初中山道は奈良井川左岸にあり一里塚が設けられていたが、その後 川の右岸の移され、使われなくなったと考えられる」という。
 当初の中山道は、先ほど訪れた八幡神社の杉並木からここに
続いていた。

平沢 間の宿  漆器の産地
クリックすると拡大  堤防沿いの道を進み、JR線の踏切を超えたあと、右側の墓地を過ぎて右側の道に入っていく。
間の宿 平沢の入り口である。
古くから輪島・会津と並んで漆器の産地として栄えてきた。今回の旅の楽しみの場所の一つであった。

「中山道を歩く」によると、漆製品を売る店がここから2キロにわたって並び、住民の8割が漆関連の仕事に携わっているという。
 伝統的建造物保存地区に指定されているという説明板(クリック)が立ち、「道に沿って奥行きの深い短冊状の敷地が並び、主屋の奥の中庭の先に漆塗りの作業場であるヌリグラが置かれ、その奥に離れや物置が続く」 という。

その先の本通りに出ると津島神社がある。
 

平沢の街並み
 説明板の通り、街道の両側にびっしりと漆器店が並ぶ。


 その中の一軒、「ちぎりや手塚万右衛門商店」に入り、7代目手塚さんから木曽漆の説明を伺った。
 旅の途中で、荷物になるので「木曽春慶塗 へギメ盆」の小さな皿を記念に購入した。
 ヒノキの板をヘギ包丁という道具で 丁寧に割ってできた割れ目をそのまま素地として使っているという。
 





 漆関連の家並みが途切れ、道が左に大きくカーブする手前に、右側の丘への登り坂がある。 中山道の標識があり、上がると諏訪神社の西側となる。

諏訪神社
 諏訪神社は大宝2年(703)の創建といい、天正10年(1582)木曽善昌と武田勝頼が鳥居峠で戦った時に焼失した。この本殿は享保17年(1732)の再建という。

 鳥居の先から、平沢から進んできた県道257線に下りる坂--諏訪坂という--には、石垣がそのまま残され、中山道の面影がよく出ている。
 
芭蕉句碑
 
坂を下りると、塩尻市楢川支所の駐車場脇に芭蕉句碑が建っている。
   送られつ をくりつ果ては 木曽の秋
  (芭蕉が貞享5年(1688)に木曽を訪れた時に詠んだ)

宝暦11年(1761)に木曽代官山村甚兵衛良啓が建立したという。




 県道257線を進み、道の駅「木曽ならかわ」の先でと国道19号線に合流して300mほど進んで、右に分岐して国道と並行しているのどかな長瀬集落の道を北上する。

押込一里塚
    少し先で国道に合流した後、奈良井川を越えるとすぐ桃岡交差点があり、右折してすぐ先を、国道に並行する細道に入り北に進む。

 少し先に押込一里塚跡の石碑と説明板がある。のどかな集落で
花がきれいに咲いている畑が広がる。
 
 
道の景色 桃岡
 
  <津島神社>

道の景色ー国道で分断
 さらに進むと草道となり左手の奥から国道19号線の車の音が聞こえる。
左手の斜面の上には、祠が中山道の面影を残している。。

 

 この辺りから先はJR線と国道のため、消滅している。

 草道を上った先で国道の側道につながり、さらに国道の歩道に出て北に進むことになる。





 国道19号を横切って、西側の歩道を進むと食堂SSという大きなサインの下に 文化8年(1811) 「攝待囘國一千*」 と大きく刻まれた石塔やそのた石仏大きな石塔が並らべられている。

トチの木
 200mほど進むと左手に天然記念物 「贄川のトチ」という標識が立ち、少し離れた山の斜面に大きな大木がそびえている。
推定樹齢千年 樹高33m、根本周囲17.6mの栃の巨木。

 
 
 当時の中山道は、国道とJR線の間にあったらしいが、消滅しており、少し先のJR跨線橋を渡ってから 中山道に戻ることになる。

 宿に入る前に、寄り道してこのまま国道を進み、この先2~300mにある観音寺を訪れる。
(地図を見ると宿の途中からも行けそうだが、他の中山道歩きのHPを見ても この国道を通っていくのが唯一の方法のようなのでここを進む。)

観音寺と麻衣廻神社
    観音寺は、木曽谷に残る唯一の真言宗の寺院で、坂上田村麻呂の創建という。山門は、慶長2年(1597)に再建されたという。

左参道奥に麻衣廻神社がある。、 拝殿脇にある縁起によると、「麻衣廻(あさぎぬの)は木曽の枕詞であり、ここが木曽の地であることを示している」という。
天慶年間(938~947)に平沢にある諏訪神社を本社として創立、文禄年間(1592~95)に現在地に遷宮。社殿は延享4年(1747)の建立という。
 
贄川宿
 
 もとの跨線橋までもどり、JR線を越える。
 枡形道となっており、贄川宿の街並みとなる。


贄川宿は、天保14年(1843) 総家数124軒、 旅籠25軒で、江戸時代と昭和に入っての火災で 宿の面影はほとんど消えてしまってる。    

深澤家住宅
 すぐ右手に深澤家の住宅がある。
屋号を加納屋と称し、京・大阪にも販路を拡大した贄川屈指の商人であった。 この主屋は、大火の後の嘉永7年(1854)に建築され、「江戸末期の木曽地方の宿駅の町屋の姿を忠実に留めている」という。
            (左側からの写真→)


 宿の景色
 
その向かい側にある水場

津島神社 道祖神→

観音寺・麻衣廻神社参道
 
 宿の街並みの中ほどに水場と小さな広場があり、そこから観音寺と神社への参道がJR線に向かって伸びている。説明板も立てられ、ここから神社へ行けるようだ。
 
本陣跡  
 
 少し先右手の郵便局の向かいが本陣跡である。
その手前に脇本陣があったという。

そこから100mほどで、贄川駅方面に向かうJR線を関所橋となる。
その先に関所が復元されている

贄川関所
 ここに関が置かれたのは戦国時代の天文年間(1532~55)にさかのぼるという。江戸幕府の支配下に入ってからは、山村氏が木曽の統治を任され、木曽福島に関所ができるとその副次的な管理となった。
 女改めのほか、ヒノキなどの木材、その曲物や漆器が移出されないように厳重な管理が行われた。

 本来の位置は、線路内に入るので少しずらして復元されたという。

<贄川宿略図>            <幕末関所配置図>
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中山道 関所から北へ向かう
 
 関所前から北に向かっているのが旧中山道であるが、途中でなくなっている。(左に見えるのがJR贄川駅)


 贄川駅 中央線上り電車の本数が少なく、待ち時間があったため再び関所まで戻り、少し先まで歩いて様子を確かめた。
それでもさらにビールを飲む時間が充分あった。

 


  散策日   2018年4月21日   藪原―贄川駅
  参考   「中山道を歩く」       横山正治・安斎達雄