贄川 - 塩尻 地図→①贄川-日出塩 ②日出塩-洗馬 ③洗馬-塩尻 ④塩尻宿 |
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| 今回から新宿経由中央線で、塩尻から下って贄川駅まで来た。 以前の名古屋経由と違って、のんびりした雰囲気の列車旅である。 |
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| 贄川駅 | |||||||
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旧中山道は、この付近では消滅しており、駅前の国道の歩道を北に進む。 すぐ左手に「中部北陸自然歩道」の標識のある国道からの上り 口があるが、ここはスキップして、ほぼ500mほど先にある上り口を上がる。この先は、国道を右手に見下ろしながらの草道が続く。 贄川関所の前から北に向かっった先で消滅してた 旧中山道はこの辺りに繫がっていた。先ほどの自然歩道の標識がある。 ![]() その先、林の中に石仏・石塔がひっそりと並んでいる。 明和2年(1765)西国巡禮供養塔や、文化年間(1804~18)の廻国六部供養塔や、文字庚申塔などなどで、一部埋もれている。 |
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石塔群 |
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舗装道路にでて、さらに進む。地域バス「中畑」のバス 停を過ぎたところに地域の集会所があり、角に、しっかりと守られている石塔群が並んでいる。明和2年(1765)の廿三夜待供養塔や道祖神、青面金剛像の庚申塔などであるが、下部にはっきりと三猿が彫られた庚申塔(右写真)を見るのは中山道を歩いてからは珍しい。 |
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諏訪神社 |
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向かい側 鳥居の奥には、 諏訪社が建っている。 若神子(わかみこ)村の鎮守という。 鳥居の脇には、供養塔など石塔群が並び、文化10年(1806)、諏訪宮と刻まれている常夜燈が立っている。少し先に若神子のバス停と、豊富な水が流れている水場がある。 <若神子の道> |
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若神子一里塚 |
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まもなく国道に合流し、歩道を進む。 少し先の歩道の擁壁の上に、一里塚がある。 擁壁の上に説明板と石碑があるが、わずかに西側の塚の頭の部分が残されている。 旧道はこの先の歩道橋まではで国道の右側を通っていた。 歩道橋のある場所から、旧道は左に分岐していく。 |
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鶯着禅寺 |
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歩道橋の左 すぐ後ろに民家風の鶯着禅寺がある。境内には、2体の延命地蔵尊が祀られている祠がある。 ![]() 片平の集落を抜けると、また国道に合流。 |
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| (廃道)片平橋 |
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300mほど先の片平橋の手前に、右に分岐する古い自動車道があり、国道を横切って進んでいくと、古い橋が架かっている。 土木遺産として認定されており、昭和10年にRC 開腹アーチ橋として建設されたもので、アーチ部の曲線が美しいという(説明板)(アーチは見れなかった) 国道片平橋過ぎの景色→ |
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桜沢茶屋本陣跡 |
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奈良井川と国道の間に桃沢集落があり、茶屋本陣跡がある。蔵の前には、明治天皇桃澤小休所碑 などが立つ。 すぐ先の国道が左へカーブする手前に、カーブミラーが立ち、そこから右の山に登っていく坂道がある。 山の斜面を進んでいく旧中山道であるが、その標識はない。 |
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| 旧道-山道 馬頭観音 |
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馬頭観音の祠や、石塔が立っている。![]() 林の中の祠であるが、比較的保存状態の良い馬頭観音像である。 祠のすぐ上には、旧国鉄の線路のトンネルの廃墟が残っており、異様な雰囲気である。 国道の真上に位置する斜面を進んでいく。その右手の山の斜面には文字の馬頭観音塔の石塔や 苔むした馬頭観音像が立っている。 |
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| 木曽路碑 |
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斜面歩きを終え国道に下りると、道の反対側に、自然石に「是より南 木曽路」と大きく刻まれた石碑が建つ。 昭和15年に建てられた石碑である。 ここは木曽路の北の入り口であり、江戸時代には尾張藩領の北境であった。 島崎藤村の「夜明け前」の一節にもある 『東ざかいの桜沢から 西の十曲峠まで』の境である。 木曽路碑からほぼ200 mほど先に、右の山中に進んでいく県道254号線がある。初期中山道の説明板がある。それによると、「初期中山道は、桜沢から牛首峠-小野-三沢峠∸岡谷∸下諏訪 のルートが元和元年(1615)ごろまで利用されていた。 その後、塩尻-塩尻峠-下諏訪に変更された」という。 |
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| 日出塩一里塚跡 |
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<国道から日出塩への入り口>![]() |
ここから数百メートル、歩道をひたすら歩く。国道が右へカーブしていく手前で、歩道から左に入り、国道の高架下をくぐって進むことになる。 日出塩の集落となる。贄川宿と本山宿の間の立場であった。 日出塩駅前を通り、長泉寺を過ぎた先に一里塚跡の標柱が立つ。旧中山道は一里塚の反対側から左に入る細道を進んでいく。すぐ先で自動車道に接するが、再び左への道を進める。 ![]() その先 (株)「シンセイ」の建物の前に、「日出塩の青木」という看板が立っている。壁に沿って進むと記念碑が立っている。 「貴人の塚の上に 大桧があった」という。 |
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本山宿 高札場跡 |
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JRの踏切を渡り国道を進む。300mほどで国道に架かる橋の左に大きく「本山宿」のサインが掲げられており、左に入っていく。 そこに高札場跡の説明板があり、常夜燈と秋葉大権現がある。 本山宿の京からの入り口である。 本山宿は、天保14年(1843) 総家数117軒、本陣1、脇本陣1、旅籠34軒であり、街並みは南北に600mであった、 国道を挟んで、東側に本山神社がある。 ![]() <国道を渡る橋の上から、南方面を見る> ![]() |
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| 上町 石造群 |
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宿の街並みに戻る途中にある公園の一角に、社があり、脇に石造群が並んでいる。宝暦5年(1755)の念仏供養塔、文政2年(1819)の徳本商人の南無阿弥陀仏供養塔などが整備されている。 |
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宿の景色 |
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< 口留番所跡> ![]() |
右手の民家の前に番所跡の立て札が立っている。 寛永19年(1642)から幕末まで、松本藩によって口留番所が開かれたという。 <脇本陣・上問屋跡> ![]() 少し先の中山道の大きな石柱があり、脇本陣・上問屋跡の立て札がある。 <本山宿の説明板> 右手の広場の前に大きな説明板がかかげられ、「本山宿の歴史と地図」が描かれている。<本陣跡(奥側)と下問屋跡> ![]() この広場の左奥に本陣、道路に面して下問屋跡がある。 <旧旅籠…3軒> 道を挟んだ向かい側に、旧旅館・・左から 若松屋・池田屋・川口屋 の3軒が道路に沿って斜交いに立っている。3軒とも明治2年(1869)の大火直後の再建という。 間口は五間から七間の上級旅館であった。(説明板による) <川口屋の近景> 川口屋は、木林家住宅の主屋で、桁行12m、二階全面千本格子を通し、両端に袖うだつを設け、一階に式台を構える。 二重出梁。 |
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本山 そばの里 |
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しばらく進むと「本山そばの里」の大きな看板が建てられている。 ここに、本山宿の江戸口の下木戸が置かれていたという。 本山宿「は信州そばの発祥地であり、江戸時代の狂歌に 「本山の そば名物と 誰も知る 荷物をここに おろし大根」 (太田蜀山人)と歌われた。 |
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| 下町石造群 |
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広がる農地を背に、石塔・石仏が並べられている。 庚申塔、供養塔、馬頭観音 などで、中でも大きいものは、徳本上人の文政2年(1819)南無阿弥陀仏供養塔である。 ![]() |
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| 道の景色 |
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この後国道に合流のあと、牧野交差点で左に分岐していく。牧野の集落に入ってから、牧野バス停の少し先、緩やかな下り坂の右側に、使われなくなった「牧野公民館」が見える。 草に覆われた石段の先に、多くの庚申塔など石塔・石仏が、並んでいる。 本山宿にもあった徳本上人の南無阿弥陀仏供養塔がある。 ![]() |
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| 牧野一里塚 | |||||||
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その斜面の下には 牧野一里塚跡と刻まれた新しい石碑が建っている。 (平成28年建立とある)![]() 坂を下ると、小さな川の手前右側に鳥居が見えるのでいくと、「村社 瀧社」と石柱にある。 草道を少し中まで入っていったが、社殿にたどり着くには相当ありそうなのであきらめた。 |
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| 言成(いいなり)地蔵尊 |
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JRのガードをくぐった先右手に地蔵尊の看板があり、踏切の先に言地蔵尊の堂がある。 はじめ洗馬宿の入り口の急坂にあり安全を願っていたが、落馬する人が多く、ある時武士が怒って斬ってしまった。住民は縁起が悪いと現在地に移して安置したという。 途中の民家の前にあった花 |
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洗馬(せば)宿 高札場跡 |
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もとに戻り坂を上った先の公園の前に、洗馬宿の石碑と高札場跡の説明板がある。洗馬宿の京口の入り口で、後に「御判形(おはんぎょう)」と呼ばれたという。![]() 公園内には芭蕉句碑がある。 入梅はれの わたくし雨や 雲ちぎれ 洗馬宿は、中山道がそれ以前の牛首峠から塩尻峠越えに変更となった時、中山道と北國脇往還(善光寺街道)との分去れ(わかされ)の宿場として新設された集落であった。 天保14年(1843)には、総家数163軒、 本陣1軒、 脇本31軒、 旅籠21軒であった。宿内町並みは南西約700mであったが、昭和7年(1932)の大火により宿内は全焼、面影はは失われてしまったという。 |
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宿の景色 |
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<脇本陣跡> ![]() |
<荷物貫目改所跡> ![]() <本陣跡> ![]() <洗馬宿 地図> 洗馬駅入口の手前の宗賀農林漁業体験実習館の壁に、洗馬宿の概要と地図が掲示れている。 |
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邂逅(あふた)の清水 |
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しばらく進み道が二股に分かれる手前の左手に、ちいさな標識がある。細道の先 急な斜面の先に奈良井川 流域の水田が広がる。斜面を降りる途中に清水が湧き出ている。 「邂逅の清水」といわれ、挙兵した木曽義仲が家臣の今井時平と落ち合った場所といい、強行軍で疲れた義仲の愛馬をこの清水で洗うと、たちまち元気になったという言い伝えがあり、それが洗馬の由来という。 |
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| 中山道と善光寺道の分去れ(わかされ) -現代版 |
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道はこの先で左右に分かれている。自動者道の中山道と善光寺道の分岐点で、今は 道標が建っているが、以前の旧中山道は左へ100m弱進んだ所に、その分岐があった。道標はそこから移された。 「右中山道 左北國往還」と大きく刻まれている。 その後ろには、徳本上人の南無阿弥陀仏」や道祖神がある。 |
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旧中山道の分去れ |
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左に進むと常夜燈があり、洗馬宿のはずれの枡形である。 左へ進むのが、北國脇往還の始まりで、松本を経て麻績から善光寺へ向かう。善光寺街道とも呼ばれ、17宿19里である。常夜燈は安政4年(1857)建立。 右に曲がった後すぐに左折して、先ほどの自動車道の右からの道に合流する。 <肱懸松> 坂の途中に肱懸松跡の標柱が立ち、自動車道に合流した先に説明板がある。「洗馬の肱松 日出塩の青木 お江戸屏風の 絵にござる」 と歌われた赤松の名木であったという。 |
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| 道の景色 |
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まもなく国道19号の平出歴史公園の交差点となり、渡ってすぐ国道と県道の間にある畑の中の草道を進んでいく。 この辺りからこれから行く大門の手前辺りまでの一帯は、「桔梗ヶ原」といわれた室町時代の古戦場であった。広大な畑・果樹園が続いている。 再び国道に合流し、中山道一里塚交差点を右折する。東へまっすぐ、果樹園・畑が続く中、ほぼ直線の道である。 |
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平出遺跡 |
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右側奥に平出遺跡が整備されている。 南北300m、東西1kmの範囲にわたっての、縄文時代から平安時代までの大集落の跡である。 ![]() 約1300年前の古墳時代の竪穴住居が再現されている。 4本柱、屋根は直接地面に接し、左手にカマドが設置されている。 |
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| 平出一里塚 |
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すぐ東側に平出一里塚が 整備されている。塩尻市内で両側の塚が残るのはここのみである。 宝暦6年(1756)のころには付近に茶屋が2件あった、という。 国道19号から分かれて約1㎞、一里塚からさらに約1km とほぼ東西にまっすぐな道である。 JR中央線のガードをくぐると、ようやく右に少しカーブする。 |
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耳塚 |
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大門神社の林が見えてくると、左側の空き地の隅に耳塚がある。 天文17年(1548)、武田信玄と小笠原長時との 桔梗ヶ原の戦いの時、討ち死にした将兵の耳を葬ったところといわれている。 耳の形をした皿を奉納すると、耳の聞こえが良くなるとの評判になったという。 |
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| 大門神社 |
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この辺りは 大門とよばれ、塩尻宿への西からの入り口であると同時に、北國道や三州・遠州筋への脇道があり、交通の要衝として栄えた。 神社の縁起によると、「柴宮社と若宮社ともに大門地区の氏神であり、柴宮の境内地で銅鐸の完成品が出土したことから、10世紀ごろから祀られていたと推定できる」という。 桔梗ヶ原の戦いの際、南朝の指揮所であった、という。 昭和に入り両社が合祀され大門神社となった。 |
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| 堀内家住宅 |
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まもなく自動車道の中山道(国道153)に合流する。 北が松本方面で、善光寺道に合流することになる。 田川を塩尻橋で渡ったする先で、右折して土手に行き、すぐ左折していくのが旧道である。100mほど先で国道を斜めに横切り、左へ入っていく。その正面には庚申塔などの石塔が並んでいる。 ![]() 左手に堀内家住宅の標柱が立っているが、保存修理中である。説明板には改装前の建物の写真がある。 旧堀之内村の名主を務めた豪農で、建物は文化年間(1804~18)に移築された本格的な本棟造りという。 |
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| 塩尻宿 |
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左手に塩尻東小の正門、正面には阿礼神社があり、道は右へ曲がっていく。 その正門前に塩尻宿の標石がある。 塩尻宿の京側の入り口である。 塩尻宿は東西約800m、天保14年(1843)には、総家数166軒、本陣1、脇本陣1、 旅籠75軒 であった。 明治15年(1882)の大火で大半を焼失した。 |
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阿礼神社 |
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創建は不祥、延喜式神名帳に記載されている由緒ある古社である。 縁起によれば 「延暦年間(782~806)坂上田村麻呂が蝦夷征討の途次 戦勝を祈願、 治承4年(1180)木曽義仲が参拝し、塩尻諸豪族や諏訪一族らに挙兵参加を要請した 」などなど「武運祈願の神として厚く崇敬された」という。 社殿は寛保3年(1743)に再建されたもの。 |
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| 宿の景色 |
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| <鉤の手> ![]() |
神社の先で国道に合流する。鉤の手の石柱がある。 国道の向かい側、歩道橋の下に駕籠立場跡の石柱がある。 <街並み> ![]() <笑亀酒造 穀蔵> ![]() <笑亀酒造 造蔵> ![]() 県内最大級といわれる木造の建物。 入口には「陣屋跡」の石柱。 ここは当初 松本藩領であったが、享保10年から幕府直轄領となり陣屋がおかれた。 <脇本陣跡> 陣屋跡の隣が脇本陣跡。この辺り一帯に、本陣、上問屋跡などがまとまっている。 |
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| 本陣跡 |
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本陣は、明和8年(1771)から川上家がつとめた 間口24間で、中山道の宿場では最大という。 その先に、上問屋跡、飛脚問屋跡がある。 <高札場跡> 向かい側に、高札場が復元されている。 |
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| 小野家住宅 |
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天保7年(1836)に再建された屋号を「いちょう屋」という旅籠で、間口8間、奥行き40間という。 <十王堂跡の石塔群> ![]() しばらく進むと、「五千石街道」、「十王堂跡」石柱があり、さらに先に、「口止留番所跡」の石柱が立つ。 右側には、新たに舗装された道路の入り口に「三州街道」の石柱がある。 その少し先、阿礼神社の御旅宮(おかりや)が立っている。 ![]() |
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| 柿沢一里塚跡 |
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仲町交差点となり、左に進むとと永福寺に向かうが、その角に 柿沢一里塚の石碑が建つ。 説明板によると、この場所についての明確な記録はなく、文献や古老の話などから特定した、という。 |
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| 本日の中山道歩きはここまでで、塩尻駅近くのホテルが取れなかったため、岡谷駅までいっての宿泊となった。 そこで、先ほど通りすぎた三州街道の入り口を南に進み、みどり湖駅まで行く。 三州街道は、信濃と三州(三河)を結ぶ街道で、伊那街道とも呼ばれる。 この塩尻を起点として、天竜川沿いに伊那谷を南下し、下伊那の駒場・根羽を経て、三州(三河)の岡崎で東海道に合流する街道である。 ![]() ![]() すぐに「三州(伊那)街道」の標識がある。 道筋には、石仏・石塔が立ち、古道の面影を残すところもある。 |
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