鵜沼
御嵩


  
地図→①鵜沼-坂祝   ②坂祝-伏見   ③伏見-御嵩


  今回は初めて、横浜から夜行バスを利用しての旅である。
そのため、朝8時に鵜沼宿の東見附の赤坂地蔵堂を出発できた。


石塔群
  赤坂地蔵堂から左に急カーブし、坂を上っていく。赤坂神社の境内を過ぎた空き地に、石塔石仏群がある。
六十六部廻国供養塔や、南無観世音菩薩と刻まれた石塔、文化6年(1806)の文字も読める。
 坂道から振り返ると、犬山城がはっきりとみえる。
 その先に大きな調整池があり、池に沿って進むと右手一帯がに「日本ラインうぬまの森」となっている。
 公園広場があり、そこから多くの散策路が整備されている。
左奥に進んでいくと、大きな石碑と中山道の標識がある。

うとう峠の一里塚
 森の中を上るとすぐに一里塚の標識がある。うとう峠もの「うとう」とは疎からきたことばで、不案内、よそよそしいなどの意味があるといい、鵜沼宿からここまでをうとう坂と称されていたという。
ここから東側に行ったところが峠で、一里塚の「北塚」が原型を保っている。
 説明板によると、各務原の一部を治めていた旗本坪内氏の天保3年(1832)の文書に、この坂を通って10日ほどかけて江戸の屋敷へ到着する計画が残されている。1日の距離は、9里から10里が多く、関東平野に入ると14里という場合もあったという。

木曽川
 坂を下りきると、JR高山本線と国道21号線を狭いトンネルでくぐり、国道の右側の歩道に出る。何軒かあったドライブインの途中から、木曽川の上流(左写真)と、下流である。右端の川に迫った急な山の為に、うとう坂越えが造られたという。
 少し先で左側の歩道に渡り、しばらく進むと旧街道のあとが歩道の左に残っている。

岩屋観音
 中山道標識があり、左側の山道に入る。すぐに石段である。
真上にそびえたつ崖の前に、堂が建っているが、その中に岩をくり抜いた岩屋と精巧に造られた観音堂があり、観世音菩薩が祀られている。
 




 崖に沿った下り坂から見る木曽川は、岩と急流の激しい姿をみせている。

道標 関へ
 国道21号線の歩道に合流し、勝山西交差点を過ぎると、国道と木曽川の間に土手が造られており、この先ずっとつづく。

 その先の勝山交差点の左へ入る道の先(信号機の根元)に、自然石の道標がある。「右江戸善光寺 左せきかじ」と刻まれている。
ここを北西に向かうと、10キロ程で関市である。鎌倉から室町時代にかけて発展し、刀剣製造で量産を誇った。2代目関の孫六兼元が有名。


勝山湊跡とロマンティック街道
 国道を渡って土手に上ると、「庚申」と刻まれた庚申塔と祠がある。このあたりに勝山湊があったという。土手上の道は舗装され快適な遊歩道で「日本ライン ロマンティック街道」と命名されている。

振り返ると、岩屋観音のある山の頂上に城が見える。猿啄(さるばみ)城という。

宝積寺の石仏

 数百m先「取組」の信号で、坂祝(さかほぎ)駅入り口となる。すぐ先の宝積寺の入り口に祠がある。
2体の地蔵が祀られている。元禄8年(1695)と文化14年(1817)とあり、姿・形がよく残されている。
 ここからは国道の歩道を歩く。
右側の小公園を過ぎて坂祝町商工会館の前に、「難読町村名 坂祝(さかほぎ)」の看板がある。
取組の一里塚
 商工会館から200mほど先の小さな川の橋にかかる右側ガードレールに隠れていて解りづらいが、白い標柱があり、「史跡 一里塚趾」と記されている。

街道消滅ー土手沿いを歩く
 左側に三菱パジェロの工場を見ながら約1km進むと、右側にホテルチョコレの大きな建物が見えてくる。
ここから先、太田宿の手前までの街道は消滅しているので、木曽川の土手沿いを進むことになる。
 手前の歩道橋で国道をわたり、すぐを右折して土手に出たら、左折して木曽川の堤防上を進む。
途中で賀茂川をまたぐ所に水門があり、その先左側に、大きな石碑がある。
美濃を代表するといわれる俳人 兼松嘯風(しょうふう)の句碑である。(承応3年(1654)深田村で生まれる)

深田神社 庚申塔
 間もなく土手左下に小公園があり、その先の小さな林に囲まれた深田神社に行く。
境内左に「深田の石像庚申像」の標柱と、その奥に祠がある。
 青面金剛(しょうめんこんごう)の立像が彫刻された庚申塔である。寛文10年(1670)建立である。

 土手の戻り、木曽川を渡る中濃大橋の手前で、土手を下る。

虚空蔵堂
 ムクノキの巨木とその下の虚空蔵堂がある。
木の根元に「坪内逍遥ゆかりのムクノキ」の説明板がある。それによると「坪内逍遥は、安政6年(1859)尾張藩太田代官所の役人 平之進の末子としてうまれ、その後上京。大正8年(1919)生まれ故郷を訪れ、根元で記念撮影をした。」という。
 また堂の前には、「承久の乱 古戦場跡」の説明板もある。「承久3年(1221)の木曽川合戦で、北条泰時の幕府軍と後鳥羽上皇の朝廷軍が木曽川を挟んで戦った。可児側が幕府軍、太田側が朝廷軍で、このあたりが戦場の北端であったという。
 ここは大井戸の渡し跡でもあった。
<中濃大橋下流の木曽川>

 すぐ北にある道を西に行くと太田小学校で、太田代官所跡である。(生垣の中に説明板)

太田宿 京側枡形 
 虚空蔵堂まで戻りそのまま東へ進む。国道41号線の高架下を過ぎて、突き当りを左折する。
太田宿の京側入り口の枡形である。
天保14年(1843)で、本陣 1、脇本陣 1、旅籠 20軒、総家数 118軒で、町並みは約700mである。

 マンション前の説明板によれば、桝形の右側は弥勒寺跡で、新田次郎の「槍ヶ岳開山」では、播隆上人が太田宿に立ち寄った際に滞在した場所としている。この寺に葬られたが、廃寺になったため、祐泉寺に墓碑がある、という。
 すぐ先に秋葉神社と庚申堂がある。

郡上街道追分
 100mほど進んだ四辻で、右に曲がる。
店の前に道標がある。「左 西京伊勢 右関上有知 道」とあり、明治25年(1892)建立である。
その横には、追分と高札場跡の案内板がある。

 少し歩くと うだつ(卯建) の上がった店がある。

川並番所跡 渡船場跡
 次の四辻には、右側角に案内標識が立ち、「川並番所跡 170m」の案内がある。
突当りの土手の手前右側あたりが川並番所跡で、渡船場は明治以降~昭和30年代までここにあり、ワイヤーが対岸まで張られていたという。


         <堤防から宿の通りまでの道>

<通りへ戻る途中にある長屋門>

本陣門
 街道に戻り、すぐ先の左手が本陣跡で、明治に入り太田町役場が置かれていたが、現在は門のみが建っている。
門は、文久元年(1861)皇女和宮が江戸に向かう時に新築されたもので、平成14年に解体修理が行われた。

脇本陣 林家住宅
 斜め向かいに、脇本陣の林家の住宅がある。脇本陣の他、大田村の庄屋や尾張藩勘定所の御用達を務めていた旧家である。
 往時には、東西25間(約45m)の間口を持ち、土蔵・駅家・離れ座敷など壮大な構えだった。主屋は、明和7年(1769)に建築され、国の重要文化財に指定されている。切妻屋根の両端の立派なうだつが権威と格式を示している。(パンフより)
 槍ヶ岳開山の播隆上人はこの脇本陣で亡くなっている。

 右側の隠居家が公開されている。


町並み

所どころに古い家並みが残る。200m弱で道は左/右に緩やかにカーブする枡形となる。

<御代桜酒造>

<小松屋>                 <祐泉寺前の枡形 >
    

祐泉寺
 桝形から入ると祐泉寺の案内板がある。それによると「寺伝によれば文明6年(1474)、土岐源氏 土岐頼政の次男東陽英朝が庵を結んだことに始まるという。山門は中山道ではなく、木曽川に向いているが、それは、対岸の「土田の渡し」の太田川の船着き場となっていたからという。
 境内には、北原北秋や坪内逍遥の歌碑がある。右の写真は北秋の歌碑で、昭和7年に訪れた際に祐泉寺の茶席で詠んだ句という。

太田稲荷神社
 隣にある太田稲荷神社の境内には、播隆上人の墓(左)と志賀重昴の墓碑(右)がある。
 播隆上人は文政11年(1828)槍ヶ岳に初登頂・開山した僧で、脇本陣の林家で亡くなった。
 志賀重昴は地質学者で大正12年(1913)太田から木曽川の川下りをし、「日本ライン」と名付けた。

飛騨街道追分
 道なりに500m程進むと国道21号線にぶつかり神明堂の交差点となる。
 そこで鋭角に南に進み土手沿いを東に進むことになるが、その前に国道を渡って道標を見に行く。

 「右 東京善光寺 左 飛騨高山 八百津 麻生 道」 「施主 伊藤満蔵」と深く刻まれており、明治26年(1893)とある。

古井(こび)の一里塚跡
 土手を進むと、「岡本一平終焉の地」の石柱がある。(岡本太郎の父親である。)
 その先、土手左下に美濃加茂市文化会館があり、土手と建物の間に一里塚跡」と書かれた白い標柱があある。(隣に茶色いモニュメントが建っており、土手から左下を気を付けていないと見過ごしてしまう)
 下まで降りて写真をとっていたら、会館の2階から 黄色い声で、教えてくれる声がした。・・・・「虹が出ている!」と。

 木曽川とともにすばらしい景色である。
雨による虹ではなく、雲に反射しているものである。
あとで調べたら、彩雲というらしい。

太田の渡し場跡
 太田橋手前で土手の道は左へ大きくカーブしている。このあたりから、対岸の「今渡の渡し場」跡も見えてくる。
橋までの間の川岸の広場は「化石森公園」として整備中であり、橋の近くの渡し場跡が見えるが、土手を下りる道がない。100mほどカーブを進んでようやく広場に降り、渡しの説明板までたどり着いた。
 「中山道の難所のひとつで、『木曽のかけはし、太田の渡し、碓氷峠がなくばよい』とうたわれ」 、昭和2年(1927)に太田橋が完成するまで使われていた。
 川までの石畳が残されている





    対岸の「今渡の渡し場跡」→



伏見から鵜沼にいたる木曽川の渡し場は、次のように変わっていった。
  1.うとう峠ができる前   内田の渡し(鵜沼の渡し)
  2..うとう峠のあと     土田の渡し
  3.土田宿 廃宿      太田(今渡)の渡し
  
     東山道時代には、土田地区から「大井戸」の渡しがあった。
      

今渡の渡し場跡
 渡し場跡の高台にあるベンチの場所から太田橋の道路に無理に出て、太田橋を渡る。北側には歩行者専用の橋ができている。
 
 渡り切ると、左側に今渡の渡し場跡という広場があるが道路反対側の駐車場端の細い道をくだっていくと、弘法堂がある。
可児の「銘地水 錦江水」の立札のある湧水が出ている。

 階段を下りると説明板と石畳がある。
下流へ行くと中山道時代の渡し場跡があり、上流側に明治の渡し場あとがある。
道の景色  
 弘法堂から坂を上り、太田橋からくる道路に出て、東に向かう。今渡公民館南の交差点をすぎると、左手に今渡神社の参道がある。道は広いが、南側を国道21号線が走っているため、車の交通量は少なく、快適な歩きとなる。このあたりは、立場があり、渡しを控えて大いに賑わったという。
 2km以上進み、可茂公設市場の所で国道と合流、愛知用水の水路を越える。
愛知用水は、木曽川水系のダムを水源として、尾張丘陵部から知多半島のかけて水を供給する用水で、昭和31年(1961)に完成した。

恵土一里塚跡
 少し先の中恵土交差点の地下道入口に真新しい石柱が立っている。
一里塚はこれより約30m東とかかれている。





 数百m先で、国道21号線のバイパスが右へ分岐していく。中山道は道なりに東へまっすぐに進む。左手に上恵土神社がある。

新村湊跡付近の木曽川
 すぐに、上恵土交差点である。
交差点から北に向かう細道を進み、新村湊跡の痕跡があるか、見に行ったが、木々が生い茂って先へ降りていくには難しそうなので、あきらめた。
 その交差点で、南西からくる道と斜めに交差する地点に道標がある。
「右太田渡ヲ経テ岐阜市二至ル約九里」「左多治見及犬山二至ル約四里」「大正四年十一月建之 伏見村青年会新村市会」とある。

播隆上人名号碑
 100m程で、国道は左へ、そして右へと緩やかにカーブしている。
 その左手角に、大きな自然石に南無阿弥陀仏と刻まれた石碑がある。槍ヶ岳開山で名を馳せた播隆上人が建立したものである。
御嵩町観光協会のHPによると、御嵩町西部には、播隆上人の名号碑は8ヶ所残されており、そのうちこれが一番大きいという。

伏見宿
 このあたりから伏見西坂で、緩やかな上りとなり伏見宿となる。
伏見宿は、木曽川の流れが変わり、それまでの土田の渡し場から今渡(太田)の渡し場に代わり、土田の宿場が廃止となったのに伴い、元禄7年(1694)に それまで間の宿であった伏見が宿場に格上げとなったものである。
 先ほどの木曽川の新村湊が物資輸送の拠点であった為、湊とともに発展しそれなりの賑わいもあったが、御嵩宿に近く、農業従事者が多かったため、苦しい宿場経営であったという。
 天保14年(1843)で、本陣 1、 脇本陣 1、旅籠 29軒、総家数 82軒、宿内人口 485人 であった。
 町並みは約570m、駱駝が逗留した宿場として有名。
現在は、国道21号線となっていることで、宿場としての面影は少ない。

伏見宿の以前の家並み

 この写真にある家並みは、今はない。
岐阜県歴史観光見所>伏見宿のホームページに掲載されている伏見宿の写真のうちの一つで、何年か前に撮影されたものであろう。

 会社入社以来の友人が、伏見出身であり、しかも中山道沿いに住んでいたということで、伏見への旅を楽しみにしていた。
今回は、彼の帰省する日程にあわせて、鵜沼からの中山道歩きを計画したのである。クリックすると拡大
 
 数年前にそれまでの家を取り壊した跡地に新しく建てた実家を訪れ、話を聞かせてもらった。
 母上はご健在で、さっそく、代々家に伝わる江戸時代の身分帳や、取り壊す前の家の写真、新聞記事などを見せていただいた。
記事は、中山道の現在を物語っている。(クリックすると拡大)

旧旅籠 三吉屋
 宿の中心方面に向かう。
現在の家並みの中で、唯一往時の佇まいを残しているのが、右側に建つ旧旅籠 三吉屋の連子格子の建物である。
 すぐ先の交差点、左に一本松公園があり、伏見名所めぐりの大き掲示版がある。
 その脇には年代は不明であるが、「右 御嵩 左兼山 八百津」とある道標もある。。

洞興寺 女郎塚
 少し寄り道となるが、交差点から南200mの伏見小学校の先にある洞興寺に出かける。
創建は不詳であるが、戦国時代、当時の領主斎藤正義の正室が尼になり、草庵を設けたのが始まりとされる。(岐阜県歴史観光見所>伏見宿による)
 右手に、多くの石仏が祀られている「女郎塚」がある。一説には旅人の道中安全を祈願するため、また一説には、多くの飯盛り女が働いていたが、身寄りのない人をこの塚に葬ったともいわれている。
 隣には子安観音堂ある。
本陣跡
 街道に戻り、少し先右手の伏見公民館の前に、本陣跡の石碑がある。本来はこの位置ではなく、国道の反対側にあったとされる。本陣は岡田与治右衛門が勤め建坪が120坪あったという。嘉永元年(1848)の伏見宿の大火で焼失後は、脇本陣がその任を継いだという。
 その右奥に「是よ里 東尾州領」の領界碑が立つ。元は西坂にあったものが移されてきたという。

伏見宿江戸口
 公民館から東へ進むと緩やかな下り坂となる。100m程先で、国道から左斜めに分岐していく。中山道+矢印の標識がある。
 このあたりが、伏見宿の東の入り口であったらしい。




右に国道を見ながら畑の中を進み、すぐに国道となる。再び国道を300m程進んで、左斜めに分岐する。(石の道標がある)
 今渡の渡し場跡を過ぎてからずっと車の多く通る道歩きだったので当分の間、街道歩きの雰囲気を味わえる。

比衣(ひえ)一里塚跡
   比衣川をわたり、東海環状道の高架下を抜ける。 少し先で、国道に合流する手前に一里塚跡石柱がある。
 右側を流れる可児川に沿って国道を進み、先の顔戸(ごうど)の交差点を過ぎてから国道から離れる。
 しばらく歩いた先-大庭交差点の手前でまた国道に合流する。     

鬼の首塚
 しばらく進むと左手に「鬼の首塚」と書かれた幟が数本立っている一画がある。
柵に囲まれた祠に、「関ノ太郎首塚」「鬼首塚」と刻まれた石碑が立ち、案内板に次のような伝説が書かれている。
 『鎌倉時代建久・正治の頃(1190~1200)、凶暴な男が住民を困らせ、「関の太郎」と呼ばれ恐れられていた。住民は地頭の盛康に懇願し、4人の武士が京から派遣され、蟹薬師の祭礼に女装して現れた関の太郎の首を切った。検分の為、京に運ぼうとしたところ、ここで首桶から落ち動かすことができなくなり、この地に首を埋めた。
 この辺りを「桶縄手」と呼び、十返舎一九の「木曽街道膝栗毛」に 「桶縄手 今もその名を朽ちざりき 塩漬けにせし 鬼の首かも」と詠まれている。』
御嵩宿 入口
 次の「中」交差点を右折する(南へ)。
左手に秋葉山の常夜燈が建つ。更に100m程進んで中公民館で左折する。 古い家並みが一部に残る道をまっすぐ進み、400m程で、右折すると、名鉄広見線の御嵩駅前である。
この桝形を 左折していくと、御嵩宿の中心の通りとなる。
        <御嵩駅前・左が願興寺>









御嵩宿は、天保14年(1843)、本1、脇本陣 1、旅籠 28軒、 総家数 66軒であった。町並みは 東西約550m、宿内人口は約600人。

願興寺
 駅前桝形を回ると山門で、広い境内の奥に、十分に歴史を感じさせる大きな本堂が構えている。願興寺は「蟹薬師」{可児大寺」といわれ、多くの信仰を集めている。
                            <境内西から見た本堂>
 寺伝によると、弘仁6年(815)天台宗の最澄(伝教大師)がこの地を訪れ、自ら薬師如来像を彫り込み安置したのが始まりと伝えられる。
戦国時代武田軍によって、本堂は焼失したが、本尊をはじめとする仏像群は無事だった。
現在の本堂は、天正9年(1591)に地元民の寄進により再建されたもので、「四周一間通り」という四方どこからでも本尊を拝める造りになっている。

 <江戸時代からの鐘楼門。(最近葺き替えたとのこと)
 
 霊宝殿の拝観は予約が必要であったが、たまたま坊から出てきた住職に頼んで拝観できた。(本尊は厨子の中)。
平安時代末の様式をたもっている日光・月光菩薩をはじめとする国の重文 24体(本尊含む)が安置されている。

御嵩駅が名鉄広尾線の終点であり、この先は鉄道がなくなる為、ここで終了とした。
  散策日   2015年5月22日   名鉄 鵜沼駅―名鉄御嵩駅
  参考   「中山道を歩く」       横山正治・安斎達雄