御嵩
大湫


  
地図→①御嵩-津橋   ②津橋-細久手   ③細久手-大湫


  今回からいよいよ木曽の山歩きがはじまる。

御嵩宿
 御嵩駅前から願興寺の山門前を進む。唐沢橋を過ぎると、左手が「みたけ館」で、中山道の資料館となっている。
ここにはもと脇本陣があり、となりは問屋場だったという。

本陣跡
 すぐ東側が、本陣跡で、本陣門が残されている。
本陣は野呂家が勤めており、その隣には、野呂家から分家して、金融業をはじめとして木材、綿布など幅広い商いを手掛けていた「商家竹屋」がある。


町並み
 静かな佇まいの連子格子のある民家・商家を眺めながら東へ進む。途中左手に御嵩富士が見える。 

中街道 道標
 しばらくして斜め左手にすすみ、道21号線に合流し、さらに数百m先の左手に、大きな道標がある
「右中街道  中仙道 大井驛へ 達」 と大きく刻まれ、明治15年(1882)建立とある。
 平安時代の東山道の時代、 この辺りの御嵩から次月~日吉~釜戸~大井のかけての道は比較的平坦で木曽街道と呼ばれていたが、中山道がそれより北の十三峠などの険しい道筋に整備された時に、「中街道」という名前で残った。
 

和泉式部廟所
 
 その道標の奥に、瓦屋根の柱に囲まれた石碑がある。
和泉式部は三大女流文学者の一人といわれ(他は紫式部、清少納言)、東山道を辿る途中病に侵され、鬼岩温泉で湯治していたが、寛仁3年(1019) この地で没したという。
 石碑は、天文5年(1563)に建立されたといわれ、
「ひとりさえ わたれば沈む愛橋に あとなる人は しばしとどまる」
の歌が刻まれている。
ただし、和泉式部の墓といわれるものは他にもあるという。

山あいの道へ

 少し先で、国道から分かれ(左折)、100m程で右折し、その先は中山道の標識に従って、北東の方向に進む。
 間もなく山裾の道となり、街道らしく石仏が道端に建っている。
原形をよく残しており、文化13年(1816)の三面六臂の馬頭観音である。


 向かいの山が迫ってくるところで、右に「細久手8300m」の道標がある。
いよいよ山あいの道である。
牛の鼻欠け坂
 すぐに急な上り坂になる。西洞坂(さいとざか)という。荷物を背に登ってくる牛の鼻がすれてかけてしまうほど急なため、牛の鼻欠け坂とも呼ばれた。
 この坂を境にして、西側は比較的平坦なのに対し、江戸に向かう東は山間地域となる。
急な坂はしっかりとした石垣で補強されている。
 十返舎一九の「木曽街道続膝栗毛」に描かれているが、牛の代わりに馬となっている。

馬頭観音
 坂の左斜面に石窟があり、中に馬頭観音が祀られている。台座には「寒念仏供養塔」と刻まれており、明和2年(1765)建立といわれる。。
寒念仏=僧侶が寒の30日間、山野で声高く念仏を唱えることで、のち俗人も寒夜、鉦(かね)をたたいて念仏を唱え家々を巡回した。
 振り返ると、急な坂道である。

耳神社
 その先は下り道となり、小さな集落のはずれを進んでから車道に合流する。
100mほどの先 左手斜面に小さな社が建っている。耳の病気にご利益があるといわれる「耳神社」である。
 そなえてある錐を耳に当ててお祈りし、全快した人は、錐または錐をかたどった物を、奉納するというもので、戦前には名古屋方面からの参拝もあったという。
 説明板によると、「元治元年(1864)武田耕雲斎が尊王攘夷を掲げて率いた水戸天狗党が中山道を通った時、耳神社の幟を敵の布陣と思い、刀を抜いて通ったと伝えられている」という。

謡坂(うとう)坂
 緩やかな上り坂の先は平坦地となる。街道はここから右手に進み、謡坂の石畳となる。
謡坂は、上り坂が急なため、旅人達が歌を唄い苦しさを紛らわしたことから、「うたうさか」と呼ばれ謡坂に転じたものという。
石畳は、平成9~12年に修復・整備されたもの。
 少し先に説明板とともに「左マリア像」の方角を示す石柱がある。

七御前遺跡とマリア像
  林の中の小道の先にある。斜面の上にマリア像が建っている。

 昭和56年(1981)に道路工事の際、、近くの五輪塔の移設が行なわれ、地下の中から数点の十字架を彫った自然石が発掘された。その後の調査で、小原、西洞、謡坂地内で、多くの遺物が発見され、この地に多くのキリシタン信者がいたことが判明、ここが仏教を利用したキリシタン遺跡だったことがわかった。
 マリア像の奥に、史跡七御前と書かれた古い柱があり、多くの五輪塔や石仏が建っている。
石畳にあった説明板によると、「宝暦6年(1756)の尾張藩士松平君山が編纂した書物に『七御前址、謡坂村にある、あるいは古城五輪塔、あるいは古樹あり、しかれども其所の由、知れず』と記されていた、という。

 近くの側溝の落ち葉をかき集めていたおばあさんに話を聞いた。何年か前に首を打ち再起不能といわれ、入院していたが、マリアさんの信仰のおかげで、完治した。以来、年に数回こうして掃き清めているという。
江戸時代の命を奪われるかもしれない信仰の、一端を感じた気がする。

馬頭観音
 石畳まで戻り少し進むと、左斜面に石窟があり、馬頭観音が、二体祀られている。
一つは三面六臂、小さい方は補修されたあとがあるが、馬の顔の部分が観音様の顔と同じように大きい。 
関東地方でよく見た馬頭観音は、額の所に馬が彫られているのが多いが、このような大きさは初めてである。

十本木茶屋跡
 石畳が終ると、平坦な道となり、左手に、もとは茅葺屋根だった建物が残されている。(写真は振り返ったところ)
 説明板があり、安藤広重「木曽海道六拾九次之内 御嵩」のモデルの地、という。「きちん宿」とあり,囲炉裏を囲んだ旅人が描かれている。
木賃宿は薪代を払って宿泊し、自炊が原則だったという。

十本木一里塚
 すぐ先の左へカーブしている所に「謡坂十本木一里塚」の石碑説明板がある。
れによると、明治41年(1908)に2円50銭で払い下げられ取り壊され、その後、地元有志の手でかっての一里塚近くに復元元されたという。
            風化した馬頭観音→

十本木立場跡
 細い道から車の通る町道にでると、左手に「十本木立場」の説明板と、新しい標柱がある。
それによると、宝暦5年(1756)の「岐蘇路(きそじ)安見絵図」にも、記載されており、もともとに人夫が杖を立て、駕籠や荷物をおろして休憩した所から次第に茶屋などが設けられ、旅人の休憩所として発展したという。

            石で囲まれた馬頭観音→


一呑の清水
 しばらく進み、町道とぶつかる手前に、屋根のついた清水がある。岐阜県名水50選に選ばれているという、「一呑の清水」であるが、今は呑めない。
皇女和宮が降嫁の際、野点に使われ、気に入られたといい、後、江戸から京へ上る時、多治見で休憩の際にも取り寄せたという。

 その先ですぐに車道から右に進む。数軒の民家をすぎたあと、大きな竹林がある。

唄清水
 道幅が広くなり、石碑が建ち、「唄清水」がある。
[馬子唄の 響きに波たつ 清水かな」 (五歩)の句から、名前が付けられたといわれる。
 再び、竹林の中を進み、町道を斜めに横切る。
町道から家族連れの車が入ってくるので、何かと思ったら、先に、ケーキ屋の大きな駐車場があった。

御殿場跡(諸木峠/物見峠)
 坂道を上るとすぐに峠となる。左手の階段の上に展望台ができている。
 ここは、和宮の休憩所として御殿が造られ「御典場跡」となった。手前にある説明板によると、和宮の行列は4~5000人に及び、前日宿泊した太田宿を早朝出発し、昼に御嵩宿で休憩、この御殿場で休息の後、大湫宿で宿泊したという。、

 すぐ先に、2つの馬の飲み水場の跡がある。 道の両側には、5軒の茶屋があったという。

道の景色

ここからは下り坂(諸木坂)が続く。 県道にでたあと、公民館前を通ってから右に進むと、四辻にでる。

<左上の斜面の馬頭観音>

<遠くに津橋の集落>      <供養塔と題目碑>
  
<諸木坂→県道への出口 5叉路> <田植え前>             <津橋の四辻>
  

薬師堂
 津橋の四辻から寄り道して右へ100mほど先の薬師堂に行く。
境内には、庚申塔、題目塔、五輪塔、石仏など多くの石塔が、並らべられている。中でも目を引いたのが、あまり見かけることのなかった宝篋印塔(上部のみ)である。
堂前の石灯籠は、宝暦3年(1753)で、何代目かの山内嘉助が奉納したものという。

山内嘉助屋敷跡
 四辻までもどり、東へ進む。
左手に常夜燈がある。
 緩やかな上りとなり、数軒の民家を過ぎると、舗装道路から草の生えた砂利道となり、山の中に進んでいく。  ふじあげ坂である。
城のような石垣が突然現れ、山内嘉助屋敷跡の標柱がある。江戸時代に、酒造業を営んでいたという。
 石垣の上は何も残っていないが、ここから、津島の集落がよく見える。。

ふじあげ坂の馬頭観音
 左手にあらわれたのは堅牢な石窟で守られた馬頭観音である。
落ち葉の残る気持ちのよい街道歩きである。

 一里塚0.7kmという標識には、「東海自然歩道」の文字がくっきりと浮かんでいる。

鴨之巣一里塚
 道はすでに尾根道となっている。鴨之巣一里塚がはっきりとみえてくる。
左右の塚とも原形をとどめている。
地形の関係で両塚は左右対称ではなく、地形上の関係で北塚(左側)が16m程東方にずれて造られている。
              右側の塚→



 100m程で左に「切られヶ洞」の石柱がある。ここで牛追いが盗賊に切られた所という。

日吉辻(鴨之巣辻)
 すぐに右に分岐する道が現れる。鎌倉街道の追分で、「右旧鎌倉街道迠約一里余」の道標が立つ。
その右後ろに、道祖神と彫られた石碑がある。


 快適な尾根道・・鴨之巣道・・をしばらく進む。
右手に「鴨之巣道の馬頭文字碑」の標柱があり、背後の斜面を数m上がっていくと、林の中に「馬頭観音」の文字が彫られた石碑がある。

秋葉坂の三尊石窟
 緩い下り坂となり、傾斜が急になる左側に、三室に分かれた石窟がある。
説明板によると、
 右側:三面六臂の馬頭観音立像
           明和5年(1768)
 中央:一面六臂の観音坐像
、          明和7年(1770)
 左側:風化の進んだ石仏



、  <左>       、<中央>       <右>


 石窟の上の斜面には大正10年(1921)の馬頭観音、さらに上の杉の根元には秋葉大権現の祠がある。
(秋葉坂の由来という)

平岩の辻
 坂道を下りて、車道に合流する所に、「瑞浪市内旧中仙道の影」と刻まれ、「地趾」を紹介している大きな石碑がある。
 車道は緩やかにカーブして下り、県道366号線を横断する。この店で久しぶりの休憩ができた。
←平岩の辻の手前
 平岩橋から平岩の辻方向を振り返った景色→

くじ場跡
 県道65号線をすすみ、間もなく左へ分岐して緩やかな上り坂となる。左に大きくカーブする地点に「旧中仙道くじ場跡」の石柱がある。
かってはここに茶屋があり人足たちが集まり荷扱いの順番をくじで決めたという。
 

 細久手2.1kmの木の標識をすぎると、左手の木陰にひっそりと津島神社が祀られている。尾張津島神社、京都八坂神社、江戸天王社の分祠という。


穴観音
 先の左斜面の高台に、白い説明板が見える。上がっていくと奥に石窟があり、石仏が祀られている。
説明板は、この先にも細久手宿の旧跡に立てられており、「細久手長寿クラブ」の手書きの説明である。
「一回お参りすると九万九千日の功徳が頂けるというもので、九万九千日観音」という。寛政13年(1801)の馬頭観音という。

大塚、おくそ塚
 間もなく集落が始まるが、その手前左に白い説明版がある。
ここから北一帯が大塚という字名で、高貴な方がこの宿で病死し、ここに埋葬したことからその名が付いたという。
また、『おくそ塚』があり、「皇女和宮降嫁の折、細久手宿に宿泊予定であったが、火災の為復興できておらず、急遽大湫に変更した。しかし「用便」は変更できずこの地で埋め敬愛したとか。」と記されている。


日吉・愛宕神社
 左への道の先に日吉愛宕神社がある。
天正年間(1573~92)に細久手村を開いた国枝重円が、文禄4年(1595)に創建した神社で、宿の鎮守という。この辺りが宿の上方口であった。

 細久手宿は、大湫宿と御嵩宿の間が4里30町(約19km)あり、その間に物見峠・琵琶峠がある為難渋を極めたことから、慶長15年(1610)に新しく設けられた。
 宿の規模は、天保14年(1843)で、本陣 1、脇本陣 1、旅籠 24軒、総家数 65軒、宿内人口 256人という。
宿の長さは東西400mほどで、江戸後期に3度の大火に見舞われ、今の町並みは安政5年(1858)の大火以降に形成されたものという。

細久手宿の景色

<南蔵院跡>

<商家日吉屋・・唯一残る民家>  <本陣跡>
     
本陣の跡には、石柱が残るのみで、その向かい側が脇本陣であったという。

大黒屋
 その先の宿の中ほどにひときわ存在感を示している旅館「大黒屋」がある。
 細久手宿の本陣・脇本陣が他と比べ規模が小さく、尾張徳川家は他の藩との合宿を避けるため、問屋役であった大黒屋を尾張藩指定の本陣に定めていたという。今の大黒屋の建物は、安政5年(1859)の再建で、卯建、玄関門、式台、上段の間んど当時の旅籠の面影を残している。

宿景色

<公民館から振り返る>

 <公民館の広場から北へ>           <高札場跡>
     

庚申堂 
   高札場跡から左へ坂を上ると庚申堂がある。
 宝暦年代(1751~63)以来の小堂宇が寛政10年(1798)の大火で焼失、そのご享和2年(1802)に宿の鬼門除けとして再建された。
 境内には多くの石造物が残っており、宿場時代の名残が感じられる場所である。

 そのうちの一つ、石窟内に石像が祀られている。
役行者像(修験者)で、下駄履像として珍重されている、という。




三国見晴し台と馬頭観音
 その先で、右に進む道が街道であるが、工場が建ち途中で消えている。車道を進んで迂回することになる。
 右側から消えた道が合流したあとは、尾根道となる。左へカーブする所に標柱と説明板がたち、馬頭観音が建っている。
三国見晴し台というが、樹木のため、その眺めはない。
 馬頭観音は元治元年(1864)と刻まれているのがはっきりと読める。

奥之田一里塚
 数百m進むと、道の左右に一里塚がはっきりと見えてくる。
鴨之巣一里塚に続いて左右そろった一里塚である。

←左塚

 右塚→




 古い木製の説明板は、高さ4m、直径12mとしている。
合わせて立っている「瑞浪一里塚」の説明板は、「市内には、東から西へ順に、権現山(樫ノ木坂)、琵琶峠(八瀬沢)、奥之田、鴨之巣の四か所が当時のまま残っているのは、稀」としている。

女男松の跡
 100m程先の右手に{女男松の跡」と書かれた白い標柱が立っており、その手前の林の前に石柱がある。石柱は「陽松女陰神」と刻まれている。
松は、夫婦円満、子授けの神として親しまれていた名跡であったが、昭和初期に枯れてしまったという。

舗装された道を数百m歩く。右に
「瑞浪市天然記念物 南垣外ハナノキ自生地」の石柱がある。

 

 なだらかな道を数百m進むと、左右に開けた場所となる。
左側に弁天池が,右側には田圃がある。

弁天池
 池の手前側のカキツバタが満開で、中ほどの奥に石の祠があり、道に沿って細長く、静かな池である。
「享和2年(1802)の太田南畝(蜀山人)が著わした『壬戊(じんじゅつ)紀行』に『左の方に小さき池あり。杜若生ひしげれり。池の中に弁財天の宮あり。」との記述がある、と説明板に紹介されている。
 弁財天は、天文5年(1740)の建立、八臂の立像で、石祠は天保7年(1836)に建てられたという。

二叉路 (左は北野天神への道)
 緩やかな上り坂を200m程進むと、道は二叉路となり、中山道は右に進む。左に行く道のすぐ先に「旧中仙道 大湫宿4.6km」という大きな立札形式の標識があるが、これは北に位置する北野天神を経由する道である。
間違えやすい。

 数百m程進み緩やかな上り坂を越える。その左側に「焼坂の馬頭様」とある標柱が立ち、斜面奥に馬頭観音がひっそりと建っている。

天神辻の地蔵尊
 少し先にバス停があり、「天神辻の地蔵尊」という標柱が立ち、大きな石に刻まれた地蔵尊がある。享保13年(1728)の建立である。
 中山道では、馬頭観音が数多く建てられているが、地蔵尊を見るのは久しぶりである。



 少し行くと、道の開けた左側に「一つ屋茶屋跡」の標柱がある。
この辺りに、茶屋が一軒あり、一つ屋立場とも言われたという。

北野坂の廻国塔
 北野のバス停を過ぎると国際犬訓練所があり、その先に「北野坂の廻国塔」の標識がある。
林の中の小道の先に「奉納大乗妙,典日本廻國供養塔」と刻まれた塔が建つ。
 裏に安永6年(1777)と刻まれている。

 下り坂を進むと 両側に田んぼが広がる開けた場所となる。
その先の山が琵琶峠である。

琵琶峠入口=八瀬沢立場跡
 車道が右へカーブするところに、まっすぐに進む草の生えた坂道がある。 中山道 琵琶峠西上り口という標識がある。
この辺りに八瀬沢の立場があったという。
 
 琵琶峠は、全長約1km、標高558m、高低差は西側83m、東側53mで、中山道の難所のひとつであった。 林の中へ入っていくと徐々に坂道が険しくなり、石畳が始まる。

琵琶峠石畳
 峠を越えた東上り口に掲げられている「琵琶峠の石畳」に説明がある。
 「琵琶峠を中心とする約1kmには一里塚や馬頭観音などが現存し当時の面影を残している。昭和45年には500m以上にわたる石畳も確認され、峠を開削した時のノミの跡を持つ岩や土留め・側溝なども残されている。平成9年度から12年度にかけて石畳や一里塚の整備を行い、江戸時代当時の琵琶峠に復元した」

八瀬沢一里塚(琵琶峠の一里塚)
 石畳の坂道の途中にある一里塚は左右 ともにほぼ完全に残っている。
江戸から91里、京都から43里の地点である。
北塚(左側)は高さ約4m、径約9.5mで、道から少し離れて高さ約5m、径約10mの南塚(右側)がある。

琵琶峠 頂上
 大きな石の敷かれた急坂を上ると狭い峠が現れる。
標柱に「琵琶峠頂上の馬頭様」と書かれた宝暦13年(1763)建立の馬頭観音と和宮歌碑が立っている。
  
  「住み馴れし都路いでてけふいくひ
   いそぐとつらき東路のたび」




<見晴し台>、
 峠のすぐ手前に、右上に入る道があるので、そこまで戻って上ると、頂上の広場があり、琵琶峠、琵琶坂の文学碑が建っている。
 周りには木が茂っているため何も見えない..。



東上り口
 峠からの下りは石畳が続き、右側の斜面に明治24年(1891)の馬頭観世音と刻まれた石碑がある。
 下りきったところには「東上り口」の石碑とともに、その両脇に身代わり観音が彫り込まれた石碑が2体ある。(大垣の大店の娘が山賊に襲われた時に身代わりになって斬られた身代わり観音と、娘の父が寄進したもう1体、という。)
 石碑は、文化11年(1814)建立で、左側面に「左 ざいみち」と刻まれている。(ざいみち・・田舎道)

二つ岩
 車道(県道65号線)に出ると、左側には大きな岩が露出している。大湫病院を過ぎたところに、高さ6mほどの「烏帽子岩」と「母衣(ほろ)岩」がある。
石碑に「中山道二つ岩」という太田南畝の文章が紹介されている。
岩の形から、夫婦岩とも言われ、中山道の名物であったという。

大洞の馬頭様
  クリックすると拡大 すぐ先に、「大洞・小坂」の石碑があり、安藤広重の「木曽海道六拾九次之内 大久手」はこの辺りを描いたもの、としている。





 石碑の奥に、「大洞の馬頭様」の標柱が立ち、文政8年(1825)の馬頭観音が祀られている。

小坂の馬頭様
 緩やかな坂を進むと、右手の岩の上に馬頭観音が祀られている。右手の石碑は馬頭観音の文字が刻まれている。明治2年(1869)建立である。

 すぐ先に「紅葉洞の石橋」という標柱と、道の両端に欄干らしいものがある。

大湫宿 高札場跡

 少し先で釜戸駅方面に行く道との三叉路で、左へ進む。
左に復元された高札場がある。
大湫宿の西の入り口である。
ここから東に位置する大井宿と御嵩宿の間は32kmあり、当初は宿場がなかったが、慶長9(1604)に大湫宿が置かれた。(その後、細久手宿が開かれた。
 天保14年(1843)で、本陣 1、脇本陣 1、旅籠 30軒、総家数 66軒であった。
町並みは300mあまり。

大湫観音堂
 すぐ先、左に上ると観音堂がある。
道中安全・病気全快の観音様として知られ、現在の建物は、弘化4年(1847)に再建されたという。
多くの石造物が並んでいる。




神明社の大杉
 宿の中心に位置して慶長13年(1608)に再建されたという神明神社がある。
境内の大杉は 幹周り11m、樹高60m、樹齢約1200年で、大湫のシンボとなっている。
この杉の根元には、水不足から人々を救ったという泉があり、神明元泉と呼ばれていたという。




文化4年(1807)の灯篭。

宿の景色


神社向かいの問屋 新森 森川家 

  

脇本陣跡
 神社の先、道から少し奥まったところに保々脇本陣がある。(駐車場の奥)
部屋数19、153畳の規模で、今は半分ほどになっているが当時の門、庭、母屋などが残っている。

問屋場跡
 脇本陣の隣が問屋場あとで、隣が白山神社の参道である。
説明板は生垣に隠れている。

本陣跡
 すぐ先左手に奥に大湫小学校(廃校)があり、その校庭が保々本陣跡である。
 大湫村を開いた保々氏は関ヶ原、大坂の陣にも参戦し、300石を得ていた。宿ができると庄屋、本陣、問屋を勤め、明治時代まで続いた。
建坪 182坪、間口 23間(約40m)、部屋数23の規模であった。
 皇女和宮の歌碑が立っている。
  「遠ざかる 都と知れば 旅衣 一夜の宿も 立ちうかりけり」
 


 隣が大湫公民館である。
土曜日で閉館であったが、玄関前の大きな注連縄が印象的であった。
当初は、高札場跡から、南に向かい釜戸駅まで歩く予定だったが、今回はタクシーを呼んだ。
  散策日   2015年5月23日   名鉄御嵩駅ーJR釜戸駅
  参考   「中山道を歩く」       横山正治・安斎達雄