加納-鵜沼 地図→①加納-新加納 ②新加納-三柿野 ③三柿野-鵜沼 |
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今日の目標は鵜沼宿までで、時間があれば犬山城を見学してから帰ることを目指して、7:00amの出発とした。 |
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加納宿東側の景色 |
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中山道と岐阜道の分岐点に立つ道標が今日の出発点である。 東に向かう道は少しふるい町並みで、右手に専福寺がある。山門前に親鸞聖人御舊蹟とある石柱がある。その先の善徳寺で左折する。 |
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<町並み> |
<.専福寺> |
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東番所跡 |
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、すぐ先で右折するが、その角に右 鵜沼宿とある新しい道標とともに、「東番所跡」の石柱がある。左手には小さな秋葉神社があるが、加納宿の街道沿いにはその数の多いこと・・・いかに防火に努めていたかがわかる。 次のT字路を右折するが、空き地の角に自然石の道標がある。「右 岐阜 谷汲」 「左 西京」 とあり、明治18年(1885)の建立である。 ![]() <新荒田川の白鷺> |
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御鮨街道 |
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新荒田川の先が加納宿で最後の曲がり角となり、左折し、ここから鵜沼宿までは東へほぼまっすぐに進むことになる。 少し先左に「御鮨街道」の標柱がたち、そこから南に向かう道があり、ここは御鮨街道の分岐点となる。 江戸時代、長良川でとれた鮎を鮎鮨に加工して将軍へ献上しており、それを運んだ岐阜街道のことを通称「御鮨街道」と呼んでいた。長良川から南にすすんで、今朝の出発地点の道標のところで中山道に合流したあと、ここから南に分岐している。 |
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道の景色 |
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すぐに名鉄名古屋線の踏切と茶所(ちゃじょ)駅がある。このあたりで旅人に茶屋を設けて茶を振る舞ったところから、茶所と呼ばれたという。 踏切を越えてすぐ左側に長い黒塀に囲まれた広い屋敷・家屋がある。あとで調べたら岐阜市景観重要建造物に指定されている「森家」住宅であった。少し先 にも、長屋門のある民家がある。500m程歩く戸、右側に八幡神社があるが、中山道を背にして建っている。なぜ かと思ったら、この先で名古屋方面からくる伊勢道が合流しており、そちら側に向いているのであった。 |
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地蔵菩薩堂と道標 |
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![]() すぐ先の右からの合流地点に、延命地蔵菩薩が祀られた堂が立ち、前に大きな道標がある。「左(指さし印) 伊勢名古屋ちかみち 笠松・・・」 「右 西京道 加納・・・」 [右 木曽路 上有知 郡上 道」と大きく刻まれており、明治9年((1876)建立とある。 |
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細畑一里塚 |
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100m程先に一里塚が見える。右側の塚も右に入る道の脇に建っている。明治に入ってこわされたが、昭和27年(1952)に復元されたという。 |
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道の景色 |
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古い造りの民家がところどころにある。軒屋根に建っ ているふるい看板。 ![]() 連子格子の家。 |
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| 伊豆神社と馬頭観音菩薩 | |||||||||||||||||||||||||||
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長森細畑の交差点の南には境川に架かる橋が見える。次の信号を超えると切通の町に入り左手に伊豆神社がある。由緒によると、祭神は大山祇神(おおやまづみのかみ)の娘 石長姫命(いわながひめのみこと)で、健康長寿をつかさどる神で、全国の主要神社でこの神を主祭神とする神社は皆無という。 右手前には道標と祠があり、馬頭観音が祀られている。 |
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切通と陣屋跡 |
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道が緩やかに右にカーブしているところ(岐阜信金の前)に、「切通の由来」の説面板がある。境川の北岸に位置し、岩戸南方一帯の滞留[水を境川に落としていたことによるという。 この北すぐに陣屋公園があり、近くに切通陣屋跡の石碑がある。 そこには平安・鎌倉期から長森城があり、南北朝時代の延元2年(1337)土岐頼遠ー尊氏の家臣ー美濃国守護ーが長森に居を移し長森城を改修、美濃国を治めたという。 その後、この地は加納藩・大垣藩領から磐城平藩の所領となり、陣屋が設けられていた。 |
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手力雄(てぢからお)神社 |
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100mほどの正面に手力雄神社の大きな鳥居が建ち、その奥に長い参道が続く。 街道はここで、左に曲がりすぐ右へ進んでいく。このあたりは立場であったという。、400m程進んだ四辻を右に行くと神社の左手に出る。 ![]() 神社の説明板には、貞観2年(860)の創建といい、他に、この地の歴史がのべられている。・・古来、都に軍勢が上る時、東海道から東山道に移るには木曽川渡河地点として必ず長森を通ることから美濃側の防御拠点でもあった。 天正14年(1584)の大地震と洪水により木曽川の本流が境川から現在の流路に移る。・・ 伝統行事である「火祭り」は、明和年間(1760年代)に一時中断し、文化2年(1805)に復活し、今も毎年4月の例祭として行なわれている。 ![]() ![]() 数百m進むと田園地帯が広がり、東海北陸自動車道の高架をくぐる。 |
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間の宿 新加納 |
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小さな川に架かる橋の手前に、「間の宿 新加納」の真新しい石柱が立ち、そこから緩やかな坂となる。しばらく進むと変形三叉路があり、そこで直角に右に曲がる。 右側に大きな屋敷があり、塀に新加納の説明板が掲示されている。 ![]() 新加納は、江戸期には、旗本坪内氏がここの陣屋に拠点を移し治めていた。 この屋敷は、坪内氏の御典医を務めていた今尾家の屋敷で、母屋、塀、門などが登録有形文化財とされている。 このあたりに、高札場があった。 |
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| すぐ先の枡形で左に曲がり、100mほどで左からの道路と合流する。 その広場には、新加納一里塚跡の石柱や新加納の案内板が建っている。。 |
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<合流地点:一里塚跡 > |
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日吉神社 |
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少し先に日吉神社の鳥居がある。寄り道となるが(100m北)、案内板に珍しい狛蛙があるということで、参拝する。 大津市の山王総本宮の分祀社で、平安時代の創建という。境内には瓢箪池があり多数のガマ蛙が生息していたという。 毎年4月に「げえろ祭り」がおこなわれている。 →拝殿前の狛蛙。台座には昭和14年(1929)とある。 |
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各務原公園 |
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しばらく行くと交通量の多い広いバス道路に合流する。 数百mで新境川をわたり、市民公園の脇を進む。![]() 1km以上、進んだ先に、鳥居の奥から本殿まで広い境内を持った六軒神明神社がある。 左手には馬頭観世音菩薩の幟がはためいている。 |
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六軒町 一里塚跡 |
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![]() 次の信号から100m程左に六軒町公民館があり、左手には秋葉神社が祀られている。六軒町の町並みが続くが、このあたりには六軒茶屋と呼ばれる立場があったという。その先の左手に入る手前の建物の前に、「中山道一里塚跡」の標柱が立っている。 道の向かい側には竹林寺がある。 |
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道の景色 |
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少し先で、交通量の非常に多い国道21号線に合流。左側の歩道をひらすら歩くのみである。 名鉄各務原線を越えてから、1kmほど先、三ツ池町交差点まで来ると、左側に長楽寺があり、道路側に三面 六臂の馬頭観音の祠がある。この交差点から400mほど先のJAのビルの手前(道の向かい側がニトリに駐車場がある)に、二十軒バス停がある。 このあたりに、二十軒茶屋があったという。 |
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播隆上人の碑 |
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国道21号線は各務ヶ原駅前をとおり、その先 でJR高山本線をまたぐ陸橋となる。JR線を越えた南側に「播隆上人の碑」があるということで、陸橋の右側を進んで、JR線を越えたらすぐに階段で降り、国道下の側道を進む。(右写真) 右側の工場の建物の間に、碑が建っている。 「旅人道中安全」の石碑も建ち、このあたりに、一里塚があった、という。 |
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津島神社 |
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数百m先の鵜沼羽場町交差点で、国道は、右に分岐していく。 ようやく静かな街道歩きとなる。 ![]() 次の信号手前に津島神社がある。鳥居のすぐ奥の拝殿が「皆楽座」という建物になっている。廻り舞台、奈落、セリ、太夫席などを備え、公演時には舞台前面にむしろを敷いて見物席とした。明治24年の濃尾震災で倒壊、明治32年の再建された。 (説明標柱より) 拝殿の前に津島神社の藩塀(明るい部分が建っている。 |
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坊の塚古墳と衣裳塚古墳 |
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静かな住宅街を少し進むと右手のおくに、林が見えてくる。都クリニックの駐車場を右折してすぐに右折すると坊の塚古墳がある。5世紀前半に築かれた前方後円墳である。街道に戻り少し先、空安寺の隣に衣裳塚古墳がある。直径52m、高さ7mの円墳で、県下最大という。築造は、4世紀後半から5世紀前半と推定されるという。 |
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鵜沼宿 西見附跡 |
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少し先左手に翠池の土手があり、階段わきに「西見附跡」の説明板がある。 遺構はないが、鵜沼宿家並み図と今の地図をあわせると、このあたりだったという。高台に位置しており、右手の先には、小さく犬山城がみえる。 鵜沼宿は、天保14年(1843)で、本陣1、脇本陣1、旅籠25軒、総家数68軒で、東西約800mの町並みであった。 |
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| 宿の町並み | |||||||||||||||||||||||||||
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緩やかな坂を下った交差点から、つぎの交差点まで約400mにわたり、道路が舗装されきれいに整備された町並みが続く。すぐ右側から、古い家並みが並んでいる。「安田家住宅」で、旅籠屋で若竹屋と号した。昭和5年(1930)建築。 続いて、「梅田昭二家住宅」 明治元年(1868)建築 |
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梅田家 茗荷屋 |
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その隣が 梅田吉道家住宅で、 「茗荷屋」として旅籠を営んでいた。約160年前に建てられ、鵜沼宿唯一の江戸時代まで遡れる建物である。 続いて、坂井家住宅がある。明治27年(1894)の建築。 |
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二ノ宮神社 |
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左手の石段をのぼると、二ノ宮神社で、本殿を囲む石垣に、石室が見える。この神社は、古墳の上に 建てられたもので、直径29mの円墳という。向かい側は、明治4年(1871)創業の菊川酒造があり、土曜日の為多くの人でにぎわっていた。 |
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脇本陣 |
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二ノ宮神社の隣に、新 しく復元された脇本陣がある。説明板によると、坂井家が代々勤めており、(後に野口家)、貞享2年(1685)、芭蕉が「野ざらし紀行」の道中に鵜沼を訪れ坂井家に滞在したという。元治元年(1864)の「鵜沼宿家並絵図」に描かれた坂井家の建物を復元したという。 |
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本陣跡と旧大垣城鉄(くろがね)門 |
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左側の角に 「鵜沼宿本陣跡」の説明板が建っている。江戸時代を通じ桜井家が勤め、また問屋、庄屋を含めた三役を兼ねていたという 。向かい側には、大垣城の本丸の表口に建てられていた鉄門が移築されている。 正面の木部をすべて鉄板で覆っている。 |
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大安寺橋 |
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大安寺川にかかる新しい木橋を渡る。 川の上流.1.4kmには、応永18年(1411) 美濃の守護土岐頼益の創建という大安寺があ、土岐頼益の墓とともに、斎藤利永の墓もある。利永は守護代として土岐家を補佐し、後、稲葉山城(岐阜城)を居城にして斎藤家の基礎を築いた。(のち斎藤道三が名跡をつぐ) ![]() < 問屋場跡> 少し先に広い交差点がある。手前右側あたりが問屋場跡で、その説明板がある。(東町と西町それぞれにあった) その前に「是より西 尾州領」と刻まれた傍示石がある。交差点の向かい側には、「是より東 尾州領」が立つ。 交差点を越えた左側には、復元された高札場が建っている。 |
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高札場跡 |
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交差点から先は、通常の街道の道幅となる。次の信号角には常夜燈が建つ。道の舗装はここまでである。 そのさきで、Y字路となり、左へ進み、緩やかな坂となる。 ![]() 赤坂神社の参道入り口に常夜燈がある。宝暦6年(1756)と刻まれた自然石が使われている。 右横の白い建物の前に新しい説明板がある。 東見附に近いこの場所に高札場があったという。 |
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東見附跡と赤坂の地蔵堂 |
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すぐ先で道は左に曲り、坂道を上っていく。このあたりが、東見附であったという。地蔵堂があり、道標を兼ねた地蔵尊が安置されている。「左ハ江戸幷せんこうし(善光寺)」「右ハさいしょみち(在所道)」と刻まれており、宝暦13年(1763)の建立である。 |
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| 中山道の旅は今日はここまでとし、予定通り、犬山城を訪れる。 地蔵堂から坂を下り、新鵜沼駅前通りをすすみ、木曽川を犬山橋で渡る。ゆったりとした流れの木曽川を右に見ながら城の東側をながれる郷瀬川まで進み、東側を半周して入り口まで向かう。 天守閣からの木曽川の流れと、の中山道のこれからの木曽方面の眺めは、雄大そのものであった。 犬山城は織田信長の叔父 織田信康が天文6年(1537)に築城したと伝えられる。 天正12年(1584)の小牧・長久手合戦の際には、秀吉は大阪から12万余の大軍を率いてこの城に入り、小牧山に陣を敷いた家康と戦った。 江戸時代になり、尾張藩付家老、成瀬正成が城主となってから、成瀬家が代々受け継ぎ、明治にいたる。 天守の創建年代は天正(1573~93)頃、慶長5~6年(1600~1601)など説があるが、現存の4城の中でも最古といわれている。 |
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<犬山橋からの眺め> |
<天守閣> |
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| <北-中山道が通る> | <北東ー木曽川上流 御嶽山方面> | ||||||||||||||||||||||||||
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