須原 - 木曽福島

  
地図→①須原-池の尻   ②池の尻-立町  ③立町-寝覚  ④寝覚-上松

         ⑤上松-神戸   ⑥神戸-木曽福島  ⑦木曽福島-上野
         


 
 上松駅の旅館に泊まったので、須原駅まで電車で12分 今日は早朝からのスタートである。

一里塚跡
 須原駅前広場から国道19号線に向かう。
その合流地点に一里塚跡の石碑がある。 


  

 国道から北へ進む前に南へ戻る。
100mほど戻ると、須原宿へ左方向に上がる旧道の跡が、残っている。

国道から分岐
 一里塚跡から、右側歩道を進むと、小さな橋の先から旧街道が見える。
集落を抜けると霜の降りた草道となり、国道の右側の斜面を進む。





国道左へ
 間もなく、国道に合流。   歩道を歩いていくと、国道の左手に分かれていく細道が見える。

 斜め奥に入ると、古い民家があり、そのまま家並みが続くと期待したが、すぐ途切れる。すぐに、国道と並行している旧道となる。

 歩道の外側なので、少しは安心して歩ける。

国道から向かい側へ横断
 草道が途絶える先で、右側にJR線路側に脇道がみえるので、そこに向かう。
 再び国道を横断して、JR線も横断して、山道を進む。
しかし、奥の山道に入ってしまうので、戻って、小さな池までもどり、そこからJR線まで下り、国道に出る。


池の尻村立場
国道左側に、「上松町」の大きなサインがある。
小さな橋の先のドライブインの廃屋がある。
 そこから、左に向けて分岐していく旧道があるはずであるが、見当たらず、やむを得ず左に大きく迂回してから、一段下がった旧道に行きついた。

 民家が並ぶ。旧池の尻村立場である。 玄関脇に、「池尻大屋」、「刻み屋」、 「新屋」、 「新茶屋」等の屋号を示す木札が架かっている。
 300m程進むと、池の尻信号で国道の合流する。

倉本一里塚跡
 信号を過ぎて少し先の道路際に駐車場があり、中ほどに一里塚跡の石碑が建つ。「江戸より七十四里 
    京へ 六十三里」とある。
説明板によれば、現在地より南へ20mのところに、左右の塚があったという。  

倉本集落へ
 右からの川に架かる橋の先を、右に入っていく。
 JR線をくぐって100m弱の地点で、左斜め上に上る小さな坂道(その先には畑があって、農道のような感じである)がある。

 すぐ先の畑を過ぎると家がまばらに建つ集落と舗装された道にぶつかり、、カーブミラーの脇に 中山道の標柱が立っている。
  倉本集落の南はずれである。

石塔群と庚申塔
 右側の山の斜面に、常夜燈が建ち、その後ろ側にいろいろな種類の石塔群が現れる。
 斜面の一番上に「上松町有形文化財指定」と記された標柱の前に、あまり見た覚えがない庚申塔がある。
前面に、「除三尸(さんし)之罪」と大きく刻まれている。
享保12年(1727)とあり、説明板によれば、上松町では一番古いものという。

 常夜燈のすぐ後ろには、徳本行者の名号塔がある。特徴ある文字で南阿弥陀佛と書かれており、木曽では大変珍しいという。


 


 倉本の集落の家並みがあり、坂道を下って行くと、その先の旧街道はJR線により、消滅している。




 JRの倉本駅が見えてくるので、すぐ南のガードをくぐり、国道にでる。



立町立場跡
 国道を500m程進み、横断歩道で、 左に分岐して行くのが旧街道である。
 立町(たちまち)立場跡で、民家には、「広せ屋」、「大屋」などの屋号の木札がかかっている


 国道を歩道橋で渡った先に 立町神明社がある。



 本殿はJRの線路を渡った先にあるようだ。、
 すぐ先を右に上がって行き、JRのガードをくぐって、て山の斜面を進む。
「木曽古道」の案内図がある。


 旧街道の面影を楽しみながら草道を進んでいくと、左下に、国道、その奥に木曽川の雄大な景色が広がる。 

荻原-間の宿
 山を下り、ガードをくぐって国道に合流 。 その先の荻原の信号で右へ分岐していく。 
 ここは間の宿のあったところで、題目塔、廿三夜塔、石仏、そして 常夜燈などがある。

   

荻原一里塚跡
 国道との合流地点に一里塚跡の石碑がある。
荻原集落の、北の入口であり、説明板によると、集落の南の入口には、高札場があったといわれているという。

 国道を北に500m程進むと、JRの鉄橋の奥に滝が見えてくる。

小野の滝
 近寄ると道路脇にある滝としては落差があり、(20m?)その素晴らしさはよくわかる。
 広重の木曽海道六十九次の上ヶ松 の中に小野の滝を描いている。
18世紀ごろには木曽八景にも選ばれたことがあるという。

 左手には、常夜燈や不動尊を祀ってある祠がある。
旧道を進む
 滝から国道を北に進むと、小野の滝信号があり、そこで右折し、JRのガードをくくって坂道を上がっていく。
 舗装された広い道路が続き、国道19号線ができる前の自動車道だったのだろうか。




 滑川橋からの滑川は深い渓谷であり、更に右手奥には、雪のある木曽駒ヶ岳の山々が見える。

石畳の道へ
 滑川橋を過ぎて、左へ曲がってすぐに、右への細い坂道を上がっていく。江戸時代から残っている石畳の道が、短い区間ながら残っている。






その先は上松中学校のの西側である。
 正門付近から雪をかぶった木曽駒ヶ岳の山々の雄大な姿が見える。

桂の大木
 間もなく、桂の大木がある。
上松町の桂の木の中で、一番太く、幹の周囲は4.1mもsるという。

根元には、津島神社が祀られており、南無阿弥陀仏と刻まれた題目塔や石塔が建っている。
 

越前屋 と たせや
<越前屋>  少し先の左手に 時代を感じさせる重厚な建物が並んでいるのが見えてくる。
 越前屋は、寛永元年(1624)創業の蕎麦屋の老舗で、現在は旅館、
たせやは、立場茶屋で、今は民宿をいとなんでいる。
<たせや>










この2軒の間から、左(木曽川より)に向かって急な坂道がある。
 中山道から、寝覚めの床に通じる道である。

臨川寺 -弁財天堂
 国道を横切り、臨川寺に向かう。山門が寝覚めの床入口であり、入園料を払う。
臨川寺の創立などははおっきりしないが、境内にある弁財天堂の説明板でその一端がわかる。
「尾張藩主四代徳川吉通が、正徳元年(1711)寝覚めの床に立寄った折り、母堂の長寿を祈願して建てたお堂」という。
 寝覚めの床は浦島伝説でも有名であり、江戸時代からの歌舞伎「浦島」は、本場とされる丹後とせず、この寝覚めの床としている。
 

寝覚めの床
 境内からも景色は眺められるが、時間がかかるが再び急な坂道を下り、川辺までいく。
 巨大な岩石の白と、水面のエメラルドグリーン、山の緑が美しく調和している。

 <岩の上の松の木に囲まれた浦島堂>


            <亀石>

花崗岩が激流によって浸食されてできたもので、屏風岩、床岩など巨岩・奇岩がならんでいる。
 
道の景色
 元の道に戻り、北に進む。国道19号線をまたいで、5~6百m先で、中沢橋を渡ると、右手に中山道道標がある。
 左に行くと上松駅で、旧街道はまっすぐに進む。
石塔や、常夜燈、その他石塔群
がある。

 土台部分に三猿、主柱に庚申塔と大きく刻まれた笠のある庚申塔→

諏訪神社
 右手に石垣が続き、諏訪神社の木の鳥居がある。
諏訪神社は上松の鎮守として古くからこの地にあったという。またここは縄文時代早期からの遺跡で、この辺りは古くからの住むのに最適な土地柄であったという。
 社殿は、北側の上松小学校の校庭の奥に見える。

上松材木役所跡
 その先には「尾張藩上松材木役所御陣屋跡」の大きな石柱が建っている。
 尾張藩の木曽の山林管理は木曽福島の山村代官に任されていた。寛文3年(1665)から4年にかけて尾張藩は木曽総山の検見で、大半が伐られていることから、山村氏から5管理権を取り上げて藩の直轄とし、上松に材木役所を開いたという。
 山村氏は、山林の管理権はなくしたが、木曽代官、福島関所の管理者としての地位は、明治になるまで続いた。

上松宿
 上松小学校からは、下り坂となる。木曽駒ヶ岳神社、登山道の道標が建ち上松宿の全体が一望できる。

 上松宿は天保14年(1843)には、総家数362軒、旅籠は35軒であった。
下り終わると、新しい町並みがならぶ。
昭和25年(1950)の大火のため、北のはずれの一部を残して、宿の面影はなくなっている。

<田政旅館>
 左手奥は上松駅があるが、右手に昨日宿泊した「田政旅館」がある。 江戸時代から続く旅籠だったという。
 普段はビジネスホテルに泊まるが、こうした旅館もなかなか味わいのあることが分かった。
 今朝6:30に宿を出発して、ちょうど5時間後 11:30に戻ってきたことになる。

桝形と一里塚跡
 すぐ先を右へ曲がり、更に50m程で、左へ曲がる。
2つ目の枡形角に、一里塚跡石碑がある。
元は、ここより30m戻った所にあったという。

本陣跡と脇本陣跡
 右側に双胎道祖神と自然石に「水速女人命(みずはやめのみこと)」と刻まれた石塔がある。その後ろ側が本陣跡である。

 斜め前の青い瓦の門に「といや」の木札がかかっているのが脇本陣跡である。

玉林院
 すぐ先の細道を右へ入っていくと王林院があり、立派な山門が建っている。
 玉林院は 天正10年(1582)に木曽義元の次男玉林が建立したものという。 山門鐘楼で、明和3年(1766)に再建され今に至っている。

 この裏手の山は、木曽氏館跡といわれている。
街道にもどり、次の右へ入る道から玉林院の北側に回って見た山→


宿の景色
 街道にもどり、昭和の火災から焼け残った「上町」の家並みをすすむ。
軒下には、「恵びす屋」とか「敷島屋」「餅屋」などの屋号が掛けられている。

高札場跡と十王橋
 間もなく宿の北側を流れる十王沢にかかる十王橋を渡る。ここは上松宿の北の入口で、高札場があった。
 かってあった十王堂は、慶応3年(1867)の洪水で流失、その時一緒に流された地蔵尊がその後発見され、ここに祀られてきたという。
(地蔵尊の右の石碑にはその経緯が記されている。)




←十王橋を渡った先で、宿の方を振り返ったもの。

木曽川の景色
 十王橋から500m程進むと国道19号線に合流する。交通量の激しい国道の右側の歩道をすすみ、JRのガードをくぐった先で、旧街道は右に分岐し、木曽川に沿って進む。(新国道が開通してからゆったりと歩ける)
 左は直進していく国道19号線と上松大橋。

ここからは、1km以上にわたり、車の通行量が非常に少ない広い舗装道路の歩道を、木曽川の流れの変化を楽しみながら進む。
 旧道の細い草道とは全く違う。

木曽の棧の手前から
 間もなく木曽の桟の場所に架かる赤い鉄橋が見えてくる。橋の架かっている道路の右側地点には、「木曽の棧は対岸からご覧ください」と大きく書かれた標柱がたっている。
対岸には広場があり、多くのの石碑、石仏、歌碑等が建ち、「木曽棧跡」の説明板がある。

 

木曽の棧
 参考本によると、この棧は、応永7年(1400)から14年にかけて木曽川沿いに新道を開いた時に、板の桟道を架したのが始まりという。
 「正保4年(1647)通行人の松明で焼失したため、尾張藩は翌年の慶安元年(1648)に長さ56間(102m) 中央に8間(14.5m)の木橋をかけた石積みを完成した。 
 その後も改修がなされ、現在、石垣積みの部分は、国道の下になっているが、ほぼ完全な姿で残されている。」という。

一里塚跡の石碑
 500m程 緩やかな坂を上って行くと、右に上る細道があり、その右端に「沓掛 一里塚」と彫られた小さな石碑と説明板がある。
 「明治43年(1910)の中央本線の工事のおりに、山側(西側)の一基は取り壊され 、川側の一基が残っている」 とあるが、この細道を上って行った先に、もとの中山道があり、一里塚もそこにある。
 この場所に建っているのが間違いである。

沓掛の一里塚
 急な細道を上がっていくと、台地の先に民家と、右手にJRの線路が見える。
道路標識があり、中山道、沓掛馬頭観音とある。右手後ろを振り返ると、草道の先に小高く盛り上げられた塚がある。




 これが、一里塚であろう。
下にあった説明板はここにあるべき。

沓掛馬頭観音
 木曽義仲は木曽谷の各地に馬場を造り乗馬の訓練をしていた。ある時名馬に乗り、木曽の棧の絶壁に通りかかり、義仲は「73間とべ」と命じ、馬は73間とんだが、実際には74間あったため、人馬ともに川に転落。命を落とした名馬を弔うために、観音堂を建てたという。
 説明板には、「少し南の観音坂にあったが、現在地の一里塚の上に移築された」 とある。
一里塚から先へ行く草道は消滅している。

 さきほどの道路標識にある中山道の矢印のとおり、北の方角に進もうとしたが、こちらも消えている。
 やむなく、もとの一里塚石碑まで戻り、、広い舗装道路を北に進む。
そして、国道19号線に合流した。
御嶽遥拝所へ
 合流後200m程進むと、「中山道コース 御嶽遥拝所」の標識が立っているので、右折し、すぐ先のJRガードをくぐって、JRと並行する山道(舗装道路)を上って行く。


西側の奥に、御嶽山がはっきりと見えてくる。

御嶽遥拝所
 左手の小高い杉木立のなかに、神戸遥拝所がある。
慶長6年(1601)の記録に鳥居のあることが確認されており、寛永2年(1625)に山村代官により再建された。その後 文政4年(1821)石の鳥居に建て替えられた。
 説明板によれば、「この遥拝所は 御嶽山四方遥拝所の一つで、北-長尾峠、西-三浦山、東-鳥居峠、南-神戸」である。
 先まで行ったが、そこからは噴煙がわずかに見えるのみで、山の姿は見れない。


 神戸の集落を下って、国道19号線に出る。

迂回路




 元町バス停を過ぎると、右へ分岐していくのが、中山道であるが、「この先は通行できない」という標識がたっている。
やむなく、国道19号線を進み、指示にしたがって、左側歩道の途切れる所らから下っていく。



国道19号線の高架下を通って、静かな車も少ない舗装路を行く。

中平立場跡
 間もなく「ここは中平(なかだいら)です」という説明板と中山道の道路標識がある。










 左下に木曽川のダムが見え、その先で、県道461号線に合流する。

道の景色
 県道に降りて100mほど先の日産販売店の手前を、右に進んで行く。
 右手台地の裾を進む静かな道となる。
 右斜面上に、石仏、石塔などがならんでいる。
道端の立札には、廿三夜塔、勢至大菩薩や、塩淵開発記念の石碑などという。

塩淵一里塚跡
 すぐ先に一里塚之跡石碑があり、中山道の案内板、地図が掲げられている。
 
「ここは塩淵です」という説明板もある。享保9年(1724)の「岩郷村家数書上帳」には「家数拾四軒塩淵」とある、という。

 少し先で、右の斜面を上って行く。
中山道標識あり。



 細い坂道を上がった先、木曽町役場の脇をすすみ、 木曽福島駅前を通過する。

木曽福島宿
 坂道を下り、道なりに緩やかなカーブを進み、中八沢橋を渡る。 この先から上り坂となる。
この辺りから先は、「上の段」と呼ばれている地区で、古い町並みが残っている。
 
 福島宿は、天保14年(1843)には、総家数 158軒、旅籠 14軒 本陣 1、脇本陣 1、宿内人口 972人であった。

 坂の突き当りは枡形となっており、手前には 江戸時代の井戸がある。説明板によると、深さ21尺(6.5m)で、過去の地震でも壊れることなく、昭和中頃まで町民の飲料として使われたという。

上の段の町並み
 「上の段」は、木曽義仲から19代目の木曽義昌の居城「上の段城」があったところで、多くの路地が残されており、左の写真の路地は「寺門前小路」といって、大通寺山門につながっている。 武田信玄の三女「真理姫」の供養塔があるという。

 手前は上の段用水を利用するための「水場」で、八沢川の2km上流から引水していたという。

高札場跡
 次の角で右に曲がって急な坂道を下って行く。
左手に高札場が復元されているクリックすると拡大

 横に、福島宿の昔の地図が掲げられている。(クリックすると拡大)


坂を下って左折、その後右折して行く。


<七笑酒造>





本陣跡
 次の支所前交差点を右に入っていくと正面が木曽福島支所で、そこが福島宿 本陣跡である。

その交差点を、左へ行くと、木曽川を渡って、代官屋敷がある。交差点を左に行って、木曽川をわたると、代官屋敷跡である。
中山道から代官屋敷へ渡る橋で、かっては御屋敷前橋といわれた。 今は大手橋。

山村代官屋敷跡
 山村氏は木曽義元に仕えて以来重臣として活躍、後に関ヶ原に向かう徳川秀忠の先陣を承って活躍、その功により、木曽代官を命じられ、関所も任されて、明治まで木曽谷を支配してきた。
 
 下屋敷の一部と、庭園が現存するが、かっては北側に位置する福島小学校の土地も含まれていた。
屋敷内には、山村氏伝来の品々が陳列されている。

福島関所西門
 支所前交差点まで戻り、中山道を進むと、300m程で、右手に関所への上がる坂道がある。
 坂道の手前に高瀬家資料館の説明板と、石碑が建っている。高瀬家は島崎藤村の「家」のモデルとなっており、また徳川家献上の秘薬「奇應丸」の製造販売でも知られていた。
 石碑には「高瀬奇應丸」と彫られ、当時の目印になっていた、という。
福島関所番所跡
 西門をくぐると 番所があった広場である。
クリックすると拡大関所跡の復元図がある。(クリックすると拡大)

関所資料館  上番所
 関所資料館には 興味深い展示が多くある。

<当時のジオラマ>         <江戸時代関所配置図>  







               (クリックすると拡大
 

 福島関所はすぐ北側を木曽川が流れる狭い河岸段丘に造られており、木曽川を見下ろす位置にある。
 木曽谷のほぼ中央にあるとともに、中山道のほぼ真ん中に位置している。 江戸防御を第一に考える幕府にとって、西国の大名の動きを抑える場所として、福島関所の役割は大きかったとおもわれる。 (「中山道を歩く」から) 

 このまま中山道を進み次のJR原野駅まで行く時間もあったが、木曽福島の町の雰囲気を楽しむために、今回の散策はここまでとし、木曽福島駅までゆっくりと戻った。


  散策日   2017年11月17日   須原駅-木曽福島駅
  参考   「中山道を歩く」       横山正治・安斎達雄