南木曽 - 須原 地図→①南木曽-金知屋 ②金知屋-十二兼 ③十二兼-野尻 ④野尻-大桑 ⑤大桑-須原 |
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| 今回から木曽川の流れに沿って、中央本線とともに 中山道を進むこととなる。 |
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園山先生の碑 |
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南木曽の駅から線路沿いを南に少し歩いて跨線橋を渡って山側にでる。昔ながらの趣のある中山道があり、北に向かう。![]() すぐに園原家住宅の跡と、石碑が建っている。 この先の三溜野宿の神社の神官をつとめた家で、建物の跡には、「園原先生碑」があり、京都で学び「木曽古道記」などを著わした国学者の園原旧富(ふるとみ)の門人達が、天明元年(1781)に建立したという。 少し先には、昔から続いていたであろう 貯木場がひろがっている。![]() 左から南木曽町役場からの道が合流し、すぐ先で蛇抜橋を渡る。 右に進み、南木曽小学校のの下を通っていく。 中仙道という小さい木の杭が立っている民家の脇の細道を進む。その先の橋を渡ると右に等覚寺の矢印が見える。 少し進んで、右への細道を等覚寺に立寄る。く。 |
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等覚寺 |
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等覚寺の山門を入ると左手に円空堂があり、3体の円空物が納められている。寺の説明板によると、その一つが「弁財天十五童子像」で寺の棟札に貞享年(1686)に造られたことが記されている。 円空はその頃2~3か月滞在したといわれる。 元の道に戻る。 道路整備の為中山道のもとの道筋が変わってきている。 左斜めに下った細道に、享和3年(1803)の秋葉常夜燈が建ち、その先を小さな石段をあがると、整備された道となる。 |
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三溜野(みどの)宿 |
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三留野宿に入る。![]() 小さな宿で、天保14年(1843)は、本陣 1、脇本陣 1、旅籠 32軒、総家数は77軒であった。 中ほどに南木曽町森林組合の看板が建ち、そこが本陣跡である。 幕末には皇女 和宮が宿泊、明治13年(1880)には明治天皇が一泊し明治天皇行在所記念碑が建っている。 ![]() 町並みは、緩やかな上り道に沿って続き、所どころに、「出梁造りの家」が並んでいる。 明治14年(1881)の大火で、ほとんどが消失した。 ![]() その先から、道は下り坂となる。 木曽川が荒れた時に、野尻へのう回路となっていた峠越えの「与川道」が右手の山に分岐している。 山を迂回する形で下っていくと、JR中央本線のガードをくぐり、その先で木曽川沿いの国道19号線に合流する。 |
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木曽川 と国道19号 |
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ここから先木曽福島の手前までは、国道19号線は木曽川とほぼ並行して続いており、一方 旧街道の中山道は、地形により国道に沿ったり大きく離れたりして進んでいく。 少し先、歩道の更に左側よりに、旧道の痕跡が残ってしばらく続いている。 この辺りは旧金知屋(かなちや)村といい、一里塚があったという。 ![]() ![]() 少し先のJR中央線の鉄橋下に、山道と木曽川に流れ込む川が見えてくる。 天保15年(1844)の土石流の犠牲者を弔うために建てられた蛇抜地蔵がその先に安置されているという。 ここからの国道横断ができなかったため、訪れるのをあきらめた。 |
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道の景色 |
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国道の左側の歩道からの木曽川と奥の山々の景色を堪能しながら進む。 下の写真は、同じ場所から下流をみたところ。 ![]() ![]() 数百m先の国道の右側には、旧道の名残である大きな石塔がたっている。 「金刀比羅神社 椎(?)河脇神社」 と刻まれている。 |
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明治天皇中川原小休止跡 |
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十二兼駅の標識がありすぐ先の柿其(かきぞれ)信号で、左に分岐して19号線より一段低くなった道を並行して進む。 100m程先の小さい広場に「明治天皇中川原御膳水」の石柱と「明治天皇御小休所記念碑」の石碑が建っている。 ![]() 秋葉神社石塔→ |
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柿其橋と木曽川 |
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すぐ先を左、木曽川に架かる柿其橋の中央まで進むと、素晴らしい木曽川の景色が現れる。 明日訪れる予定の寝覚めの床のミニチュア版というところか。 更に旧街道を北に進んで行くと、十二兼駅の手前の山道に小さな石仏が2体ならんでいる。 ![]() ![]() |
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十二兼一里塚跡碑 |
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間もなく、右手に無人駅の十二兼駅があり、跨線橋を渡って、国道側に出る。 国道を右にいくと、十二兼南の信号の手前、反対側に「一里塚の跡」と刻まれた碑が建っている。![]() 無人駅舎から、旧道に戻り、北にすすむと、JR線路と国道をくぐる小さなトンネルがある。 トンネルの中には川の流れており、国道の右側にでる。 |
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熊野神社 |
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石段を上がっていくと、熊野神社がある。 拝殿の中に入れるようになっており、その奥に本殿がある。 ![]() 拝殿の壁には、牛の絵馬が架けられている。 |
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旧十二兼村 |
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熊野神社から北に向かって、旧十二兼村の集落がある。かっては立場であった。 大きな欅の下に金毘羅大権現と刻まれた常夜燈が建つ。 天保13年(1842)の建立である。 ![]() 集落のはずれ下り坂が始まるあたりの右側に高台があり、石塔石仏群がある。 文政2年(1819)の馬頭観音や、宝暦10年(1760)の観音像、弘化3年(1836)の二十三夜塔などなど、道路改修のおり、各地から集められたものであろう。 |
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道の景色 |
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坂を下り、国道19号線を横断する。 200m程先で、国道から左へ分岐し、ここからはJR線と並行して、静かな中山道の雰囲気を楽しむことができる。踏切を渡ると、左手に読書きダムによってできたダム湖を見ながら進む。 対岸にはフォレスパ木曽の建物が見える。 ![]() |
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下在郷 一里塚跡 |
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国道19号線の阿寺渓谷入口の交差点を近くに見て、広くなった通りをまっすぐに進み、下在郷にはいる。しばらくすると、右手に「下在郷 一里塚跡」と刻まれた花崗岩の新しいそうな碑がある。 |
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野尻宿 |
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しばらく行くと、野尻宿の西端で、「はずれ」の屋号で呼ばれる家がある。東の入口にも はずれの家がある。 野尻宿は、天保14年(1843)で、本陣1、脇本陣1、旅籠19軒、総家数108軒だった。 外的を防ぐための枡形が随所に設けられ、「七曲り」と呼ばれる曲がりくねった道が特徴となっている。宿場の多くは、明治27年(1894)の大火で焼失した。 町並み ![]() ![]() |
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旅籠 庭田屋 |
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中ほどまで進むと、右手に「旅館庭田屋」という看板の昔の洋式を持った建物がある。「男はつらいよ」のカットにも出てきたという。![]() その脇の細道を上って行くと大きな地蔵菩薩の石像が建っている。 小休石 |
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宿の町並み-脇本陣跡 |
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庭田屋の少し先から見たの町並み。左側に脇本陣があった。 |
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本陣跡 |
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すぐ先の向かい側が本陣跡である。 大きな説明板が立っている。 それによると、本陣は慶長6年(1602)に指定され、木曽氏家臣の森家(徳左衛門または喜左 衛門)が家督を継いでいたという。建坪192坪[632㎡)明治天皇小休所の碑→ ![]() 常夜燈と小さな社がある。 その脇の坂道を上って行くと 大きく「庚申」「**夜」と刻まれた自然石の間に参道がつづき、国道19号線を地下道でくぐって行く。 |
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妙覚寺 |
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臨済宗妙心寺派の古刹で、創建は不詳。 寛永年間(1624~45)の大火により、焼失。本堂は享保11年(17269に再建された。 訪れた時は本堂、観音堂ともに改装中であった。 ![]() 裏庭には天保3年(1832)作といわれるマリア観音と呼ばれる石 仏がある。12本の手を持つ千手観音像をかたどっているが、左手に十字架を高く掲げているのがわかる。。 野尻川向にあったものを、現在の場所に安置したものという。 ![]() 門から見た野尻宿の町並みと向かいの山。 |
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東のはずれ 高札場 |
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野尻宿の東の「はずれ」の家は、特定できなかった。![]() 奥に見えるのが高札場跡。 そこには 大きな「南無明妙法蓮華経」の題目塔がの建つ。 ![]() 題目塔の建っている大きな台石は、イボ石と呼ばれ これに触るとイボがとれるという。 |
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国道19号に合流 |
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坂を下ってすぐにJRの踏切を渡る。 車の往来も少なく快適な歩きである。 再びJRの踏切をわたり、国道19号に合流する。 大桑の道の駅、ENEOSのスタンドを過ぎて200m程進むと廃業した建物があり、 その手前左に「関所跡 モーテル **」と刻まれた石碑が立っている。 木曽義仲が設置したといわ れている。 |
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大桑一里塚の場所 |
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中山道を辿るルートは、この後、大桑駅の少し手前のJRの踏切を渡り右側の山方向に進んで行く。 その前に、大桑一里塚を訪れる。 <実際には、一里塚にたどり着くのに30分以上費やしてしまったので、参考に、詳しく記しておきたい。> その場所は、大桑駅の北側に位置する。、 左の写真は、踏切の反対側の国道から (国道は高い位置にある) 北東方向を写したもので、、写真の中央である。 畑の奥、2階建ての家の右の 白い電信柱が目印である。 ![]() 国道の左側歩道をこの先100m程このまま進み、(右には大桑駅の壁) 左へ入る坂道を下る。右側のコンクリート擁壁の角に、電信柱があり、一里塚の場所と由来を記した紙が貼られている。 その角を右へ入っていく。 |
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大桑一里塚 |
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民家の庭の前を進んだ先に、墓地があり、その奥に一里塚がある。脇に、石碑が立っている。 「中仙道一里塚 当地は鎌倉時代より木曽の街道として栄えた。桃山時代に主要街道とされ、一里ごとに土を盛り塚とし 道標とした。」 とある。 |
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大桑駅から東方向へ 間の宿 |
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前の国道地点まで戻り、JRの踏切を渡り、大桑駅の南方向に進む。 長野宿橋を渡ったあと、左の山裾に沿って沿いに東に向かって坂を上って行く。 もともと中山道は木曽川近くを通っていたが、元禄年間(1688~1704)の崩壊で、通行できなくなった。 そのため、山側の大桑駅のある個々長野地区 弓矢を通る新道が整備されたのである。 これにより新たな街道ができ、その周辺に立場茶屋ができ、間の宿として機能してきた。 先ほ見てきた大桑の一里塚は、元禄以前の中山道のものであろう。 ![]() 山裾沿いに緩い坂を上り、右手にはのどかな田園風景が広がる。 |
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天長院 |
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右手に少し入った先の天長院に、マリア地蔵があるというので、寄り道する。説明板によると、元は木曽家の祈祷所であったが、一度廃絶、その後、文禄年間(1592~94) 須原宿の定勝寺七代和尚により天長院として開かれ、寛文年間(1661~72)にこの地に移転したという。 山門の前に、石仏がある。子どもを抱いた像で、結ばれた紐が十字に見えないこともないが、近くにキリシタンがいた形跡もないから、単なる子育て地蔵だろうという。(参考の本より) ![]() 元の道に戻り、山裾沿いの道を進むが、天長院の先で、道は北に向かう。 バス道路にぶつかり、「右 岩出観音」の標識が立っている。 |
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伊奈川・伊奈川橋 |
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400m程進むと、伊奈川橋が現れる。浮世絵「木曽街道六十九次」(広重と英泉の合作)の中で、英泉が「木曽路駅 野尻 伊奈川橋遠景」を描いているが、その雰囲気は今でも変わらない、といわれる。 伊奈川はすぐ先で木曽川に合流。 |
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岩出観音堂 |
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橋を渡ると橋場集落となり、右手の山の中腹に岩出観音堂が見える。 江戸中期に建立された懸崖造り建物で、木曽の清水寺と呼ばれる。. ![]() 時間の関係で下から眺めるだけであったが、本尊が馬頭観音で馬を育てる人々の侵攻を集めたという。 |
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道景色 |
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橋場集落から、須原に向かう。左手木曽川の対岸の須原発電所を見ながら、緩やかな坂道を下って行き、JRの踏切を渡る。 その先の須原宿の全景が見渡せる。 200m先の二叉路で、左折して行くのが旧街道である。(右写真) |
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須原宿 |
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須原宿は、天保14年(1843)で、本陣 1、脇本陣 1、旅籠 24軒、総家数 104軒であった。 慶応2年(1866)の大火で80軒が消失したという。 ![]() しばらくして枡形となり、道の真ん中を流れる水路のある坂道(鍵屋の坂)を上がり、「鍵」の紋のある蔵の角をすぐ先を左折していく。 宿の町並みに入る前に、右に見える定勝寺を訪れる。 |
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定勝寺(じょうしょうじ) |
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ちょうど紅葉が真っ盛りで、木曽町の興禅寺・長福寺とともに木曽の三大寺といわれるのにふさわしい趣である。 嘉慶年間(1387~88)に木曽氏11代木曽親豊が創建したという。現在の建物は、文禄(1592~95)の洪水のあと、当時木曽を領していた豊臣家の木曽代官 石川光義がが、慶長3年(1598)に再建したといわれる。 本堂・庫裏・山門いずれも桃山建造物で、「鶴亀蓬莱庭園」とともに、 近世禅宗寺院の姿を示しているという。 |
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宿景色 |
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枡形まで戻り、町並みを歩く。 右側に「かしわや」の看板を掲げる旧旅籠。 この辺りには、当時の旅籠の様式がよく残っている。 ![]() |
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脇本陣跡 西尾酒造 |
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中ほどまで進むと、左手に「清水医院跡」の説明板が立つ。藤村の「ある女の一生」の舞台となったところで、建物は明治村に移されたという。 その隣に、西尾酒造の建物と酒樽が並び、、続く右の建物の前に脇本陣・西尾家の沿革が記された説明板が立つ。 ![]() 大永・天文年間(1522~54)から続き、宿場となってからは脇本陣、問屋、庄屋も兼ねていた。 西尾酒造は「木曽のかけはし」を作っている。 |
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水舟と正岡子規の歌碑 |
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向かい側には、道路脇に置かれた水舟と、須原宿の石碑が建ち、子規の歌が刻まれている。明治24年(1891)に須原宿で一泊。 寝ぬ夜半を いかにあかさん 山里は 月出つるほどの 空たにもなし 水舟は 木を舟のように刳り抜いて 中に水を入れたもので、昔から清水が湧いて宿の随所に置かれていた。 その井戸と水場の案内図が、定勝寺前に掲げられている。 (→案内図 クリック) ![]() 少し先に、 「須原宿本陣跡 主 木村平左衛門」 という立札あり。 |
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高札場跡 |
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宿の東はずれ近く、緩やかな坂道の左手に、高札場跡がある。 道をこのまま進むと須原駅であるが、中山道は、ここから、左下を通る国道19号線に斜めに下っていた。(道がはっきりしない) 今回の中山道の歩きは、ここまでとし、今晩の宿を予約してある上松の「旅館 田政」に須原駅から電車でいく。 |
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大和屋 |
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駅の広場の前に 「大和屋」がある。 江戸時代から「桜の花漬」を売っており、須原宿の名物であった。 電車の時間があったので、中に入り雑談、普段は買わないことにしている土産を今回は特別に買った。(800円)、 駅前に「幸田露伴と須原宿」と題した石碑が建っている。 ![]() 「文豪幸田露伴は、明治22年(1889)冬のころ木曽路を旅して須原に泊る。 彼は此の地を訪ねた縁を基に その出世作小説 風流佛を著す。時に二十二歳」 とあり、続けてその一部を抜粋している。 |
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