中津川-南木曽

  
地図→①中津川-新茶屋 ②新茶屋-馬籠峠 ③馬籠峠-大妻籠 ④大妻籠-妻籠
         ⑤妻籠-南木曽


 
 前回の続きの、宿の西のはずれである中津川橋まで戻る。 中津川駅から中央本線沿いの道路を西に戻り本町公園まで行き、川の東側を南に向かう。「中津川遊歩道公園」ミニ中山道と書かれた木の門があり、まっすぐの道である。王子製紙への引き込み線の跡という。
 昨日暗くなってから渡った橋まで戻り、改めて中津川宿の西のはずれからのスタートである。

中津川j宿  

 中津川宿は、北東に向かって町並みが約1km続く。
天保14年(1843)で、総家数は228軒、本陣 1、脇本陣 1、旅籠29軒であった。

 中津川橋を渡ってから下町という標識のある通りを100m程進むと、恵那山という大きな看板を掲げた「はざま酒造」がある。創業は慶長6年(1601)という。

すぐ先が桝形で、左に曲がる。
角には恵那山道標がたっている。

白木屋 十八屋
 横町となり、約100mほど古い家並みが続く。
左側には、白木屋跡がある(現横井家)。天保13年(1842)に建てられたものという。
 その右隣が、十八屋で、江戸中期の建物という。

 突当りで桝形となり、右折してまっすぐに町並みを進むが、この先からは、中津川駅近くの町中を通っているため、古くからの家屋は比較的少ない。

庄屋跡と本陣跡
 すぐ右に中津川村庄屋跡の大きな石柱のある民家がある。
江戸中期の建築と推定され、「曽我家住宅」と呼ばれる。
旧中津川村の庄屋・脇本陣をつとめたこともある肥田家の建物であった。
 その向かいの駐車場の入口に本陣跡の説明板がある。
「本陣の入口には、5軒続きの長屋が建ち、その中央の1軒分が門となり、右手の1軒分は問屋場で、門をくぐると表庭があり、その奥に建坪282坪の本陣があった」という。

宿の景色
<脇本陣跡>
 本陣の向かいの道を20m奥にいると、脇本陣跡がある。
この辺りが本町で、宿の中心で、道の中央には用水が流れていたという。
<間(はざま)家の大正蔵>
 四ツ目川橋を渡った先、右手のおくに、「間家大正の蔵」とあるレンガの門がある。
間家は、東濃随一の豪商といわれ、尾張徳川家の御用商人であったといい、この辺り-新町-に広大な屋敷を構えていたという。大正年間に建てられた蔵という。


<すや>
300m程先に、元禄年間(1688~1703)創業という、栗きんとんで有名な「すや」がある。(元は酢屋)

<江戸側の入口へ>
 角の交差点を左折すると、中津川駅となるが、まっすぐに進む。
200m程先に小高い丘に上って行く茶屋坂とすぐ手前に高札場が見える。

茶屋坂
 復元された大きな高札場であるが、もとは、この左 約40mにあったという。
文化3年(1807)の庚申塔や、天保6年(1835)の十三夜塔がある。
坂の途中にある自動車道を歩道橋でわたり、さらに上って行く。
       <今まで歩いてきた中津川宿の眺め>








坂の途中に芭蕉の句碑と石仏がある。

「山路来て 何や羅遊かし 寿み連草」

という句碑で、芭蕉が京都から大津に出るときの句であるが、その情景がここから見た宿場のたたずまいに似ていることから、安永2年(1772)に建てられたという。

経王書写塔
 坂を上り切ったところに小さな公園があり、石塔がある。
 説明板によると、「この台石の下には、法華経の経文を一字ずつ 約3cmの丸い小石360個に墨で描いたものが納めてある。江戸時代文盲が多く、この塔を拝むと読経したのと同じ効果があるとされた。安永8年(1779)に建立}とある。

白木改番所跡
 100m程先左手に「尾州白木改番所跡」の石柱がある。
この番所は天明2年(1782)に建てられ、明治4年(1871)に廃止された。

 少し先右手には、文政2年(1819)秋葉大権現の常夜燈や、廿三夜塔が建つ。
200mほど進むと、国道19号線とに突き当たり、、地下道で横断する。
その先でを地蔵堂川を渡り緩やかな上り坂を進んで行くと、大きな枝垂れ桜の小高い丘があり、そこに石仏群がある。

子野(この)地蔵堂石仏群
 この辺りに地蔵堂があったというが、所在は明らかでないという。ここは無縁の石仏を集めた所と伝えられ、元禄7年(1694)の庚申塔や地蔵、観音像などが数多く祀られている。
その中でも目立つのは、高さ約2mの石塔である。「南無阿弥陀仏」と独特な文字で書かれた徳本上人の名号碑で、文政5年(1822)の建立という。
徳本上人(宝暦8年(1758)~文政元年(1818))は、浄土宗の高僧で27歳で出家し、諸国をめぐって幕末期の庶民層を勧化し「生き仏」と崇められた。
旧東海道をめぐって各地で名号碑と出会ったが、中山道筋でははじめてである。

覚明神社
 急な坂を上り切る手前に神社がある。
木曽御嶽講の開祖として知られる、覚明上人が、ここの茶屋に泊まったのを記念して建てられたものという。
 
すぐ先で「まき坂」という下り坂が始まる。右側の石垣の上に、元禄8年(1695)の供養塔と馬頭観音が建つ。

子野一里塚跡
 坂を下った先の谷間には、子野の集落がみえる。
坂の途中、右側に一里塚跡の石柱がたっている。
 

中津川と落合との境を流れる三五沢を渡ると、再び急な坂が始まる。与坂という。




 坂の途中で振り返ると、中津川方面の広大な眺めが広がる。左端の林が、覚明神社である。
・・・・リニア新幹線は、ここ中津川のどの辺を走るのか、息を切らしながらふと思いを廻らせた。
与坂立場跡
 坂を上り切ると、与坂の立場跡である。
ここには「越前屋」という茶屋があり、米の粉の餅に黒砂糖を煮詰めて塗った三文餅を売っていた。
またこのあたりには白木を取り締まる与坂ご番所が置かれていたが、その後天明2年(1782)に先ほど通ってきた中津川上金へ移された。
 向かい側には 弘法大師を祀った地蔵堂が建っている。

この先は、落合川の流れている谷あいに向かって山を下っていく。


行く手に見える木曽の山々の眺めは格別である。
中央に見える赤味がかった橋は、中央自動車道の落合川に架かる陸橋。
橋の手前に、落合宿の家並みがはるかに見える。
中山道は、橋の左、手前の山の中腹に沿ってすすむ。

落合五郎兼行の城跡(おがらん神社)
 坂を下った先は、国道19号線で消滅しているため迂回して地下道で渡る。左側に水戸浪士熊谷三郎の墓の立札の立つ空き地を過ぎて、小さな橋をわたり、国道に沿う形で進むと、正面の小高い丘に鳥居が見える。
 「おがらん神社」とよばれ、愛宕神社、山之神神社、天神社、落合五郎兼行神社の4つからなる。説明板によると、木曽義仲の家来であった落合五郎兼行が、美濃口への押えとして落合に館を構えていたといわれる。木曽義仲は、幼少のころ中原兼遠のもとで養育されており、落合五郎兼行は末子と説があり、樋口兼光、今井兼平、巴御前と兄弟という。

落合宿
 再び国道をわたり、坂を下っていくと、正面に善昌寺があり、桝形がある。落合宿である。美濃路のもっとも北に位置する宿である。
天保14年(1843)には本陣 1、脇本陣 1、旅籠 14件、総家数 75軒であった。町並みは約390m続く。
桝形の手前左側は公園で、「落合村役場跡地」の石柱が立つ。
その向かいの角には、道標がたっている。
「右至 中仙道中津町 一里」とあり、大正11年(1922)建立である。

善昌寺
 正面には形の整った松がある。「善昌寺の『門冠の松』(路上の松)とよばれ、樹齢は約450年という。
慶長5年(1600)の創建といわれ、明治24年の道路拡張工事で東側に移されたが、松はそのまま残されたという。

宿の景色
 善昌寺で右に曲がる。左手に連子格子の民家がある。少し先に「落合宿助け合い大釜」がある。 「文久元年(1861)皇女和宮の通行時には、4日間で延べ2万6千人余りが通ったという。当時暖かいもてなしをするために、各家の竃は引きも切らず焚き続けられたという。その時を由来するものとして、この大釜を展示し今も活用している」 という。

本陣跡
 本陣は井口家が務め、問屋を兼ねていた。
文化元年(1804)と文化12年(1815)に大火に見舞われたが、この本陣の門は、大火後、加賀藩前田家から火事見舞いとして贈られたものという。
本陣の向かいには、脇本陣跡の石柱が立っている。

桝形と常夜燈
 桝形を曲がる手前に、立派な常夜燈が建つ。
落合宿には、4基の常夜燈があったといい、この上町の常夜燈は寛政4年(1792)の建立という。他の3基は、善昌寺とおがらん神社に移されたというが、説明板によると、文化年間の2回の大火は、常夜燈があったことが要因と考えられるという。

高札場跡
 桝形から100m程進むと少し広い自動車道にでる。
その先には、与坂立場を過ぎた所から見えた中央道の大きな陸橋がみえる。
 横切ったところに、高札場跡の石柱が立つ。
脇の道を進むと、家並みがなくなる所で、さきほど横切った自動車道の下に突き当たる。角に「白木番所跡・下馬庚申堂跡」と書かれた小さな標柱が立っている。

落合川/下桁橋
 左側に落合川が流れている。
馬頭観音と道祖神が立つ2叉路を左へ進み、下桁橋で落合川を渡る。
広重の「落合」に描かれている橋である。

 橋の手前の説明板によると、「江戸時代には、「大橋」「落合橋」と呼ばれ、少し下流にあった。・・・この橋から、医王寺までの登り道がつづら折れの難所であったため、クリックすると拡大享保元年(1741)から上坂湯舟沢経由の新道が中山道となった。しかし悪路で遠回りであった為 明和8年(1771)から再び 十曲峠を通る道筋に戻った。」(クリックすると拡大)という。



 急な坂道がはじまる。

坂の途中から落合宿の眺め
 右手の土手に、馬頭観音がたっている。西向き観音 またはイボ観音とも呼ばれ、イボができると石を借りてさすり、治ったら石を二つにして返す習慣があるという。

 *手前の小さい赤いサインのあるあたりが落合宿の中心。
 *左の山の上にかすかに見える電波塔が、与坂の立場附近。

医王寺
 急な坂を上り切り、正面にひっそりと医王寺がある。
「山中薬師 医王寺」と書かれた大きな説明板がある。古くは天台宗の寺院だったが、天文13年(1544)に再興され浄土宗に転じた。本尊の薬師如来は行基の作と伝えられ、虫封じの薬師として信仰を集め、三河の鳳来寺、御嶽の蟹薬師とともに日本三薬師として信仰を集めている。 
刀傷に効く狐膏薬が有名。

これから平な尾根道を進むむ。今までの急な坂に比べ快適な道である。

鐘鋳り場(かねいり)跡
少し先の右手の林の前の空き地に、小さな案内板がある。「宝永2年(1705) 医王寺の梵鐘を鋳造したところから、このあたりは『かねいりば』とか『かねば』とよばれている」という。
その下に「この奥 馬頭観音」とある。
遠すぎて詳細わからず。

落合の石畳
 すぐ先の、こんもりした林の手前に、石畳への入口がみえる。
この先 難所と言われた十曲峠(じっこく)を越える坂道に、石畳が整備されている。
 幕府は一里塚や並木道の整備は制度化して丹念に進めたが、石畳については熱心ではなかったという。皇女和宮の通行と明治天皇の行幸の時修理されたという記録が残っている。(説明板)
従来から保存されていた3ヶ所の石畳(約70m→史跡と指定されている)をつなぎながら、全長約840mの石畳として復元された。

新茶屋の一里塚
 坂を上って行くと、舗装道路につながり、その先に一里塚が残っている。
このあたりは,今まで上ってきた坂の途中にあった茶屋が、ここに江戸後半に移ってきたため「新茶屋」とと呼ばれ、わらび餅が名物だったという。
一里塚の脇には、「信濃 美濃 国境」の石柱がたっている。


 右側には「是より北 木曽路」と刻まれた大きな自然石が立っている。
馬籠宿で生まれた藤村が、揮毫したという。



 藤村の『夜明け前』の冒頭の一文、「木曽路はすべて山の中である」を思い出す。

景色
 開けた急坂を上ると、小公園があり、そこからの中津川方面の眺めはすばらしい。正岡子規の句碑がある。
「桑の実の 木曽路出づれば 穂麦かな」と書かれている。
子規が馬籠宿から十曲峠を経て落合宿に歩いた時の句らしい。


こちらは いよいよ木曽路への出発である。

道はなだらかな山の斜面を、緩やかな上り坂で進んで行く。
左側には畑地が広がり、民家が点在している。

馬籠諏訪神社
 
 民家が少しずつ増えて、荒町集落に近づく。右手に馬籠諏訪神社の鳥居があり、参道が奥まで続きその先はみえない。 
脇には、島崎正樹の顕彰碑が建つ。
馬籠宿の本陣の最後の当主で、藤村の父で、「夜明け前」の主人公青山半蔵のモデルである。国学者平田篤胤没後の門人となり、木曽山林の解放運動にかかわった。長男の広助が解決に尽力した。
その島崎正樹を顕彰するための碑である。

馬籠城
 下り坂の左手小高い丘の手前に「馬籠城跡」の大きな説明板がある。
ここには室町の時代から砦があったが、その後戦国の時代 豊臣の傘下の木曽義昌が治めていた。
 天正12年(1584)家康側の木曽攻略の際、木曽義昌は馬籠城を島崎重通(島崎監物?)に守らせたが、島崎は持ちこたえられず妻籠城へ逃れた。馬籠の集落は戦火から免れたという。
その後尾張徳川家の領地となった。
 島崎は、妻籠。馬籠の島崎家の先祖となったという。

緩い坂道を下って行き、小さな川を渡った先には農地が広がる。
そこからは緩やかな上り坂となる。石屋坂の小さな石柱がある。

馬籠宿
 中央道につながる県道との交差点となる。真新しい「中山道馬籠宿 江戸 八十里半 京 五十二里半」 の標柱が立って迎えている。
天保14年(1843) 本陣 1、脇本陣 1、総家数69軒、旅籠 18軒であった。
 明治28年(1895)と大正4年(1915)の火災により、古い町並みは石畳と枡形以外はすべて焼失したが、その後復元され、現在の姿になった。


 急な車屋坂を上り始める。
 

桝形


 すぐに突当りで左折し、右折する枡形となる。
明治38年(1905)の道路改修により焼失したが、昭和60年代になって復元された。改修された道は緩やかに右にカーブして上っているが、復元された桝形は、突き当りの水車小屋から石段となって上る。

町並み<清水屋資料館>
 
 すぐ先の右側に、清水屋資料館がある。
清水屋・原家は島崎家とともに宿役人を務めた家で、藤村が病弱の長男楠雄の健康を気遣って馬籠に帰農させたときに、その世話にあたった、という。藤村の「嵐」に描かれている。

<槌馬屋資料館>
 
3軒おいた先に、槌馬屋資料館がある。隣村湯舟沢の庄屋を務めていた家で、藤村の父島崎正樹の自筆資料が多いことで知られている。 





<町並み>
坂道の両側に、石垣が段をつくって並び、その石垣の上に家が段を作って建っており、町並み全体が斜面を上っている。

本陣跡・藤村記念館
 少し先に冠木門と板塀に囲まれた本陣跡がある。名主・問屋も務めた島崎家で、藤村の生家であった。
建物はは明治28年(1895)の大火で隠居所のみを残して焼失し、以後、隣の大黒屋の畑地になっていた。藤村の亡くなった後、隣の大黒屋が土地を提供し「藤村記念館が完成した。

←焼け残った隠居所は、藤村の少年時代の勉強部屋であった。

その左奥の文庫には藤村の自筆原稿などが展示されている。



庫の建物の北側から、島崎家先祖の墓のある永昌寺の森がみえる。

脇本陣跡 資料館
 本陣の隣が大黒屋で、10代目の当主の大脇兵右衛門が文政9年(1826)から明治3年(1870)まで書き続けた「大黒屋日記}は藤村の「夜明け前」のヒントになっている。

 1軒さきが、脇本陣跡で、蜂谷家が務めていた。脇本陣資料館となっている。

 この先も石畳の敷かれた町並みが続き、県道7号を横切ると高札場が復元されている。
<高札場>



この坂は陣馬坂といい、見晴しの良い台地を上って行く。
今まで歩いてきた馬籠宿の町並みがよく見える。

陣馬跡からの景色
少し先に大きな広場がある。馬籠上陣馬跡である。
ここからの恵那山の眺めはすばらしい。
 先ほど通ってきた馬籠城の島崎重通と対峙した徳川方の 飯田の菅沼定利・高遠の保科正直・諏訪の諏訪頼忠の三武将がここに陣を敷いたところである。
島崎重通はあまりの大軍も恐れをなし、夜陰に紛れて木曽川沿い妻籠城へ逃れたという。

馬籠峠への道
 ここから馬籠峠に向かう上り道である。陣馬跡から北に向かうが、民家が建っているところを迂回して、急な石段を下って県道に合流した後、分岐して山道を登る。入ったところにクマ除けの鐘がある。
馬籠峠まで、県道と所どころで交差しながら上って行く。一昨日に降ったと思われる雪が道端に残っている。
 県道の向こう側に水車小屋があり、水車塚がある。土石流により犠牲になった一家4人を供養する。






 急な梨子ノ坂にはいる。最初は石畳が続き、そのあとは舗装されており、馬籠峠が先に見える。




十返舎一九 句碑
 途中の休憩所の前に、大きな自然石が建ち、十返舎一九の句碑が刻まれている。
文化8年(1811)中山道を旅して「木曽街道膝栗毛」を書いた。
「渋皮のむけし女は見えねども 栗のこはめしここの名物」とある。

峠集落
    
 しばらく行くと、峠の見える手前に集落がある。
宝暦12年(1762)の大火で焼失して以来、火災がないことからこの集落の家屋は江戸中期以後の姿をとどめている。

 村の入口に「峠之御頭頌徳(しょうとく)碑」が建っている。この集落には、牛方が多く住んでいた所である。
江戸時代には公式の伝馬制度による輸送の他に、中馬・牛方と呼ばれる民間の輸送機関があり、多くは馬が主であったが、木曽では牛が使われていた。
安政3年(1856) 峠の集落の牛方たちは、中津川の問屋の不正に対して、荷物の付け出しを拒否するという強硬手段を行使した。牛方の勝利に終った。その時の牛行司 今井仁兵衛をた讃えたものという。

<今井家住宅>              <ききょうや>










<村のはずれの熊野神社>           <柿>

馬籠峠
 熊野神社の前を過ぎると、杉木立の中の急な坂道をのぼり、県道に合流する。すぐに、標高801mの馬籠峠に到着する。
平成17年(2005)の越境合併で、木曽郡山口村が中津川市と合併したことで、ここが県境となった。
  
急な下り坂となる。最初は石畳があり、その先は檜の木立の中を進むが、右の斜面の奥に石仏、石塔がならんでいる。いかにも木曽の山奥という雰囲気である。

まもなく少し開けた場所となる。
一石栃(いちこくとち)の立場跡である。


立場茶屋 牧野家住宅
 往時は7軒の茶屋があったが、今は牧野家住宅1軒のみとなっている。
江戸時代後期の建物で、当初は間口が10間半もある大きなものであったが、今は南側が切り取られ8間に縮小されている。冷たい山道を下りてきたところで、管理人の主人に熱いお茶と漬物、お菓子を頂き、休みを十分とった。最近は外国人も多くみえるとのこと。

  

一石栃 白木改番所跡
 すぐ下に白木番所跡がある。
当初の下り谷(この南)にあったものが、寛延2年(1749)に移転してきたという。
西の奥に、子安観音が祀られている堂を覆っている建物がある。


 杉や桧の林の中を下っていくと、さわらの大樹がある。
「樹齢約300年、胴回り5.5m、樹高41mという。このさわらの下枝が立ちあがって特異な枝ぶりとなっており、このような形の枝ぶりを持った針葉樹を神居木(かもいぎ)という。」と説明板にあり。

、木橋や石畳の道を進んで行くが、このあたりは中山道の形状がよく残っている所で、国史跡に指定されている。


二つのルート

   
 県道に出てしばらくすると、右に入る道がある。江戸末期以降の中山道は、このルートである。
クリックすると拡大この先に男滝・女滝という二つの滝があり、周辺が険阻であった為、中山道はしばしば付け替えられたという。
更に先に下って行き、新旧二つが交差しているところに建っている説明板の地図がわかりやすい。(クリックして拡大)
今回は、幕末まで使われていたという滝の下の道を行く。

男滝・女滝
 右に曲がらす 県道を少し進むと右手に広場があり、説明板と、滝におりる階段がある。                  <女滝>
手前の川の右手が女滝、、向こう側の川にある左手の滝が男滝である。
 街道が開かれて以来、旅人に名所として親しまれ、憩の場であったという。
吉川英治の宮本武蔵の舞台にもなっている。
男滝をみてから、右手の山に上って行く。
右からの道との合流点に、地図の掲示板があり、山側には文字の庚申塔が立っている
道の景色
 しばらく緩やかな道を下る。
右側には、松本城主小笠原貞慶の重臣倉科七郎左衛門が大坂からの帰りに土豪の襲撃に会い討死し、その霊を祀ったという、倉科祖霊社がある。

民家をすぎたあと、林の中を進む石畳となり、その先で視界が急に開ける場所がある。


 手前に県道、その先には大妻籠の集落が見える。

牛頭観音
 急な下り坂が始まる。
左へ大きくカーブする手前に説明板が立ち、その奥に小さな観音像がある。
石の多い急な急な坂道を重い荷物を運ぶために黒牛が使われ、その供養塔である。街道沿いでは通常は馬頭観音が祀られているが、牛頭観音が祀られているのを見たのは初めてである。
関東の鎌倉古道、旧東海道でもなかったので、特別にアップで撮影した。かわいいものであった。

庚申塚
 県道に合流たあと、左側に大きな庚申塚が建っている。
大きな自然石に、「中山道 庚申塚  右 志ん道 左旧道」と刻まれている。 
 左に向かう道が、大妻籠にむかう旧道であり、県道をそのまま進むのが江戸中期の中山道である。
このあたりに、大妻籠の一里塚があったというが、その痕跡は見つからなかった。
左に進み、上流の滝があった男だる川を小橋で渡り大妻籠の集落に入る。

大妻籠の景色
<つたむらや>  大妻籠は、馬籠宿と妻籠宿の間の宿として栄えた。
袖卯建(そでうだつ)を持つ出梁(だしばり)作りの民家が並ぶ。
現在も民宿を営んでいる。
<まるや>         <手打ちそばと岩魚を楽しんだ金剛屋>


道の景色
 右に男だる川を見ながら広い舗装道路を進んで行き、その先で合流した蘭川(あららぎ)に架かる橋をわたる。すぐに左手に橋場道標がある。「左 旧道つまご 右志ん道」とある。左手の細い道を進む。
 左に蘭川を、右に田畑をみながら、300m程さきで、国道256号線を横切る。
右手には民家が少しずつ増えてくる。

尾又(おまた)
 左手に妻籠発電所の建物を過ぎると、右の石垣の上に2つの石仏と小さな祠がある。
 説明板によると、「木曽路(中山道)から伊奈(飯田)道が分岐していた処で、右の竹藪の中に痕跡があるという。宝暦年間(1760ころ)飯田道が付け替えられ、ここから600m程南の橋場に追分が移動した。」という。
祠は、「おしゃごじさま といい、御左口(ミサグチ)神を祀る。土俗信仰の神様で、諸説ある謎の神様」という。

妻籠宿

<新まきの>
 すぐ先から宿の町並みが始まる。
天保14年(1843)には、本陣 1、脇本陣 1、旅籠 31軒、総家数83軒であり、町並みは約700mで、木曽路11宿の内で最も小さな宿場であった。
過疎化が進んでいた中で、観光開発としての集落保存事業が昭和43年(1968)から本格化し、昭和51年(1976)「重要伝統的建造物群保存地区」に選定された。中山道では他に は奈良井宿だけである。

<あぶらや>             <いこまや>


江戸時代の雰囲気を伝えている町並みがずっと続いている。

延命地蔵堂と石仏「寒山拾得」像
 右手に地蔵堂があり、堂内に蘭川の川原から引き揚げられた自然石が安置されている。
堂の前には「寒山拾得」と書かれた覆いの下に、上部に彫刻の施された自然石が置かれている。
説明文によると、「地震で崩れた石段から発見されたもので、道祖神として祀られてきた。寒山拾得を題材にしたもので、文政年間(1818~30)に光徳寺の「中外和尚」が彫ったと推察されるという。寒山は、拾得とともに唐代の奇行の僧で、「巻物」と「箒」をもっている。」

桝形
 すぐ先に枡形の跡がある。
文化6年1809)建立の常夜燈がたっている。


 桝形の山側には、石垣をめぐらせた光徳寺がみえる。明応9年(1500)の開山という。









<町並み>

本陣
 数軒おいた先、右手に本陣がある。
島崎家が任命され、明治まで本陣と庄屋を兼ねていた。藤村の母、ぬいの生家で、藤村の兄 広助は、養子となり、最後の当主となった。
 その後取り壊されたが、平成7年(1995)に江戸時代後期の間取図を元に復元された。
門の左には、入馬会所(問屋場)が復元されている。

向かいは脇本陣である。

脇本陣
 問屋・庄屋を兼ねた林家で、屋号を奥谷(おくや)といった。木曽氏の家臣として妻籠城に籠城した林六郎左衛門を中興の祖としている。今の建物は明治10年(1877)に建て直された。
 林家は、藤村の『まだあげそめし前髪の 林檎のもとに見えしとき・・・・」の「初恋」に詠われた「おふゆさま」が馬籠の大黒屋から嫁いできた家でもある。

高札場
 急な坂を上って行くと、高札場が復元されている。
           <ここから振り返った町並み>

 更に上った先の右側空き地が、口留番所跡である。
江戸時代初期から17世紀中頃まで、中山道を監視していたという。
 

鯉岩
少し先には、中山道三名石のひとつ 鯉岩がある。明治22年(1891)の濃尾地震で頭部が落ちて形が変わってしまったという。
 文化2年(1805)の木曽名所図会にある鯉岩→

熊谷家住宅
 その向かい側に、熊谷家住宅がある。19世紀初頭に建てられた長屋の一部であるが、左右の建物が取り壊されたことから、長屋の間取りの右半分と左半分が残り、一軒の家として使用されたものという。








ここで妻籠宿の町並みから離れる。

妻籠城址
 山の中を走る車道を標識に従って進む。道を上り切った付近に、妻籠城の説明板が建っている。左側の小高い山の頂上-主郭まで約10分である。
 築城時期は不明だが室町中期には築城されていたという。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いの折、戦場となり、木曽義昌の家臣山村甚兵衛良勝が籠って、徳川配下の菅沼・保科の軍勢を退けている。
元和2年(1616)には廃城となった。
曲輪・土塁・空堀など規模の大きな構えの典型的な山城であった。

<主郭のあった頂上>       <妻籠宿の町並みの眺望>

上久保の一里塚
 間もなく、左右の塚が残っている上久保の一里塚がある。








 その先には下り坂の石畳があり、分岐点には「せん澤」の道標が建っている。

かぶと観音
 急な上り坂となり、そのさきで変形五叉路があり、その奥に観音堂がある。説明板によると、「木曽義仲が挙兵して京都に向かう際、木曽谷の南の押さえとして妻籠城を築き、その鬼門に当たる神戸に祠を建て、義仲の兜の八幡座の観音像を祀ったのが起こりという伝承があるという。そのため、木曽にゆかりの武将が手厚く保護してきた」という。
 他に境内には、『「袖振りの松」の水舟』の説明板がある。
『木曽義仲が弓を射るのに邪魔になった松を巴御前が袖を振り、なぎ払ったといわれる「袖振りの松」が、虫食いの為伐採された。この松が、やく7mの水舟として残された』という。

SL公園
 山の中の道をどんどん下っていくと、木曽川と南木曽の町が一望で斬る場所となる。
 
 木曽川に架かる赤い橋のすぐ上に、吊り橋が見える。(右写真)
桃介橋と言い、木曽川の読書発電所の建設に際し、福沢桃介(諭吉の養子)らによってつくられたものである。
(妻籠本陣の島崎家の戸長であった広助(藤村の兄)が桃介の発電所建設に抵抗した。)

 すぐ下にSL公園があり、D51が展示されている。
中央線の旧線三留野駅跡である。

時間の関係で、ここから南木曽駅へ直行した。


  散策日   2015年12月19日   中津川ーJR南木曽駅
  参考   「中山道を歩く」       横山正治・安斎達雄