大湫-中津川

  
地図→①大湫-四ツ谷 ②四ツ谷-恵那 ③恵那-坂本 ④坂本-中津川


 
 今回は山歩きがほとんどの為、早めの新幹線を使いJR釜戸駅から、呼んであったタクシーで大湫宿へ。
前回からの続きの本陣跡を9時40分に出発できた。

大湫宿 問屋 丸森跡
 大湫宿の本陣のあった小学校の前からスタートである。
真向いの建物は丸森跡(森川家)で、その左が旅籠三浦屋跡で、宿の中を通る道のはずれに近い。。
その先で、三叉路となり、中山道は右へ向かって山道に入ることになる。
 その前に、三叉路を左折して、白木番所跡のあった場所を見に行く。右にカーブした先で、家並みが途絶えるが、その道脇に「尾州藩大湫白木番所跡」とある小さな説明板が立っている。
元禄7年(1694)に川並奉行所として設置され、その後天明年間(1781~89)に白木番所に縮小されたという。尾州藩の木曽御領林の管理や木曽川流木の監視、中山道筋の白木改めなどにあたったという。
 T字路まで戻り東へ進む。

宗昌寺
 坂の始まる右側に宗昌寺がある。
天正年間(1573~92)に大湫宿を開いた保々宗昌が慶長5年(1600)に開基した寺という。  控え本陣としても利用されたという。
鐘楼の脇には、宝暦4年(1754)の宝篋印塔などの石造物がある。
 駐車場からは、高札場あたりまで大湫宿の家並みがよく見える。

寺坂と石仏
 すぐに急な坂が始まる。右側には「是より東 十三峠」と刻まれた石塔や、太田南畝の十三峠に関する文学碑が立つ。




 左側の高台には、「寺坂の石仏群」の標柱がたち、石仏が並んでいる。寛延4年(1751)の石塔や、馬頭観音像などがある。

山之神坂
 坂を上り切ると平坦な道となり、左側に「中山道十三峠 童子ヶ根」と刻まれた石碑が建つ。
この先には、こうした十三峠にかかわる名前が刻まれた自然石が各所に建っている。
 少し先で、落ち葉を踏みしめながらの上り坂となる。 「山之神坂」という。

しゃれこ坂(八丁坂)石碑とと観音碑
  間もなく、右側に「十三峠 八丁坂の観音碑」と書かれた白い標柱があり、左側に大田南畝の「しゃこれ坂(八丁坂)」の石碑が立つ。
右奥に「南無観世音菩薩」の名号碑がたっている。
この辺りが、標高約540mで、十三峠のなかで最も高い地点という。
ここから下りとなる。しゃこれ坂(八丁坂)という。
 その先で車道を横切り、「地蔵坂」をのぼっていく。

尻冷し地蔵
 坂の途中の木立の下に、地蔵が安置されている。
宝永8年(1711)伊勢の豪商の夫人が急病になりこの湧水で助かったため、それを感謝して地蔵を建立したという。地蔵の後ろから泉がわいていることから尻冷し地蔵と呼ばれた。
さらに上って行くと広場が現れる。

阿波屋観音
 左側奥の斜面に石窟がある。
天保11年(1840)に建立されたもので、33体の馬頭観音が納められている。
大湫宿内の馬持ち連中と助郷に関わる近隣の村々からの寄進によるものという。


 広場の右側には、「阿波屋の茶屋跡」と刻まれた石碑が建っている。

緩やかな坂道が続く。
曽根松坂、その先は びあいと坂と続く。
    

巡礼水
 一部で石畳のある道をすぎる。左手の斜面の前に、説明板、石碑,などが建っている場所がある。
 「十三峠のお助け清水」として大切にされてきた小さな池の跡があったというが、今はその痕跡はない。
そこから先は、「巡礼水の坂」と呼ばれる下りとなる。

権現山一縷塚
ゴルフ場のカート道を横切って進むと、左右の塚がそのまま残されている「権現山一里塚」がある。
瑞浪市にある一里塚は、鴻ノ巣一里塚→奥の田一里塚→八瀬川一里塚からここの一里塚と4か所続いて、当時のままの塚が残されており、非常にめずらしい。


 

樫の木坂石畳
 ここには石畳が残されており、およそ120m続く。樫の木坂と云う。
一里塚の左側の塚の前に太田南畝の石碑が立っており、曰く 「一里塚を過ぎ樫の木坂を下りて俗に炭焼の五郎坂と云うを下れば炭焼の立場あり  左に近く見ゆる山は権現の山なり  しばし立場??立てて憩う」
 平坦な道に出て、右側には少し開けた場所で田圃がある。すぐに五郎坂となり山の中を進むがその先で右側に開けた場所となる。

炭焼き立場跡
 立場跡の説明板によると、大田南畝の記述とともに、「ここは眺望に恵まれていたので、十三峠の中では特に旅人に親しまれていたところ」 という。
少し先の左手に長い石段が権現山に続いており、「刈安神社」の参道口となっている。
鞍骨坂をすぎると急な下りの「権現坂」が続く。、

大久後の観音堂
 坂を下ったところで、視界が開けたところに、大久後の観音堂があり、脇に、「弘法様」が祀られた祠がある。
旧大久後の集落の西のはずれである。
ここからの南の眺めはすばらしい。 






 中山道は集落から離れ、左の坂道を上って行く。
すぐ右側に「灰くべ餅の出茶屋跡」という白い標柱がある。
このあたりは、大久後立場跡といわれる。
少し先で車止めの杭がたち、 急な上り坂となる。

観音坂
 上り切った所に観音坂の霊場巡拝碑の標柱がたち、比較的大きな石碑がある。「奉納 西國四國秩父坂東供養塔 天保12年(1841)」と刻まれている。



 観音坂の下りとなり、大きな説明板が立ちその奥の大きな岩の上に「観音坂の馬頭様」といわれた馬頭観音像が建っている。







中山道石碑-
 観音坂を下りると車道に合流し、しばらく平坦な道が続く。
「中山道」と大きく刻まれた石碑がたち瑞浪市と恵那市の境を示している。

しばし休憩の陽だまりにバッタがいた。

 奥の山が三城峠である。





 すぐ先で、車道から外れて山道に入る。
急な坂道で、茶屋坂という。




みちじろ峠とばばが茶屋跡
 坂を上り切ると、「みちじろ峠」という茶色の標柱がある。
三城峠ともいわれ、往時にはここから「藤、権現、奥」の三城が望めたという。
 その向かい側には「ばばが茶屋跡」の標柱と石碑が立っている。

 坂を下っていくと、少しの間石畳となる。






西坂の標柱のある坂を下っていくと、 しばらくぶりの開けた所となる。
 立場のあった集落の手前に、大きな立場の案内板がたっている。




深萱(ふかがや)立場跡:山形屋石柱
 集落を進んで行くと、左手に「山形屋 渡邊」という石柱が立っている。深萱立場には数軒の茶屋があったという。そのうちに一軒か?


 その先で国道とぶつかり、その角に「深萱立場」の説明板が置かれている。






<説明板に残されている「深萱立場本陣(加納屋)の写真> 







藤村高札場跡
 国道沿いに高札場が復元されている。
その左側には大きな文字の庚申塔が立っている。

高札場跡のすぐ先で、国道と小さな川を横切り、また山の中に入っていく。

三社灯籠と佐倉宗五郎大明神
 100m程先の左手に三社灯籠が立ち、その反対側の木立のなかに、小さな稲荷社、右に二十二夜の石塔、左側に「佐倉宗五郎大明神」と刻まれた石碑が立つ。
武並町のHPによると「岩村藩の元禄騒動で農民が一揆を企てた時、庄屋田中与一郎は単身で江戸に上り直訴、斬首とされたが、人々の難を救った、という話が残り、佐倉宗五郎に似ていることから大明神として祀った」という。

 里すくも坂という急な坂を上り、数軒の民家を過ぎると石畳の坂が始まる。
紅坂と呼ばれ、一里塚まで続く。
 少し道幅が広くなっている場所に「うばが茶屋跡」の標柱がある。

紅坂とぼたん岩
 紅坂の標柱の少し先に、左側に標柱が立っていないと見過ごしてしまうが、坂道の真ん中に大きな岩がある。
傍らの説明書きによると、江戸時代の初めから「ぼたん岩」として親しまれてきたもので、学術的にも「花崗岩のたまねぎ剥離」の標本として貴重な岩」という。

紅坂一里塚
 少し先のうばヶ出茶屋跡の標柱を過ぎた先から緩やかになり、石畳も終わる。
すぐ先に一里塚がある。南北の塚とも現存している塚で、北が高さ約2.2m、南が3.2mという。

 しばらく尾根道を進んで、「平六坂」を下る。 









一里塚から数百m進んで四ツ谷集落に入り、舗装された道を進む。

殿様街道
 最初の集落のはずれ手前に南からくる細道の脇に「殿様街道跡」の標柱がある。
岩村藩藩主が江戸への参勤交代の時にここで中山道に合流し、使っていた道という。
少し先には「竹折高札場跡」の標柱が立つ。
遠くには 恵那山が見える。

 集会所を過ぎて、緩やかな舗装路を下り、左にカーブするところで、中山道はまっすぐに進んで行く。
そこで橋をわたり、その先が急な坂となる。

乱れ橋と乱れ坂
 説明板によると、乱れ橋のかかる川は乱れ川といい、石も流れるほどの急流であったという。
宝暦年間(1751~63)に、飛脚たちが出資して長さ7.2m巾2.2mの土橋をかけたという。
 これからの坂は、大名行列が乱れ、女人の裾も乱れるほどであったので、「乱れ坂」といわれるようになったという。
坂の最初の所は、石畳である。

首なし地蔵
 坂の頂上近く、右手に首なし地蔵跡がある。
説明板によると、「この地蔵は宝暦6年(1756)に地元の人によって旅人の道中安全を祈って建てられたもので、次のような話が残っているという。
2人の中間が松の木陰で休んでいるうちに眠ってしまい起きると、一人が死んでいた。怒ったもう一人は、黙って見ているとは何事か、と言って地蔵の首を切り落としてしまった。それ以来、首をつけようとしたがどうしてもつかなかったという。」
<左が首なし地蔵>

姫御殿跡
 すぐ先が眺望のよい場所で祝峠という。
近くの松には松かさが多くつき、子持ち松といわれ縁起の良い場所といわれた。文化元年(1804)の楽宮(さざのみや)の時には仮御殿、、文久元年61)和宮の下向の時には、朱塗りの仮御殿を建てて休憩し地元の人たちは、姫御殿と呼んだ。


 そのすぐ先には、祝坂の標柱と、斜面には形がよく整っている馬頭観音がたっている。

下街道追分道標
 約400m程進むと、右手にくだる「下街道」との合流地点がある。槙が根追分と呼ばれ、明治8年(1875)の道標が建っている。
  「右 西京 大坂 左伊勢名古屋 道」
 中山道と名古屋・東海道を結ぶルートとして、ここから南へ釜戸・土岐高山・多治見を経由するのを下街道と呼び、一方、中山道を通り、伏見宿の西の土田から南へ下るのを上街道と呼んだ。
名古屋までの距離は下街道の方が4里半も短かったため、旅人や商人、伊勢神宮参拝者で大いに賑わったという。幕府や尾張藩は中山道の宿場保護のため下街道の商人荷の通行を厳し取り締まったが徹底できなかったという。
(下街道は鎌倉時代から使われていた道であった)

槇が根立場跡

 槇が根追分を控えて、江戸時代末期には ここから東にかけて槙本屋・水戸屋など9戸の茶屋があったという。
明治35年大井駅が開設され、その後中央線全線の開通に伴い、山麓の町に移転した。
 またここには伊勢神宮遥拝所があり礎石が残る。、伊勢まで行けない人はここで遥拝したという。

槙ケ根一里塚
 平坦な道を、松本屋跡、水戸屋跡などの標柱を見ながら東へ進む。
広い自動車道と合流、しばらく車道を歩いたのちに、右に分岐する。
500m程進むと、大きな「桜百選の園碑」が立ち、右側一帯に恵那山までの広大な眺めが広がる。
 すぐ先に槙ケ根一里塚がある。
北(高さ3.5m)南(3.9m)とも原形を留めている。


 尾根伝いの道で、両側の景色は当時も素晴らしかったものであろう。
 その先で、下りの西行坂が始まり、石畳に替わる。

西行塚
 
 左斜面への登り口があり、芭蕉句碑などの先に、西行塚がある。
西行は、俗名佐藤吉清(1118~90)で全国行脚の後、河内国で亡くなった。説明板によると、「伝説では この地で竹林庵を結び3年暮らしたのち、死期を悟り、この中野坂に埋葬するように村人に頼んだ。」という。
 
 五輪塔は高さ約1.5mで、室町時代末期のものと推定されるという。
大田南畝も旅行記「壬戌(じんじつ)紀行」(1802)にも登場している。

→塚の近くの見晴し台から見る恵那山。

十三峠出口


 石畳を下った坂の出口には、「十三峠」の大きな石柱がある。

大湫宿の東口 寺坂から始まった十三峠の山道であったが、実際には13プラス7で20の峠を越えるという。
西からの十三峠は、下りが比較的多いという感じで、尾根沿いの道を通るので眺めのもよく、中山道の難所の一つと言われるほどでもなかった。
おそらく東からの方は大変だろうという感想である。
西行硯水
 細道を下り中央自動車道の高架下をくぐり、中央本線踏切を越えて左へ進む。
200m程先の右手に西行硯水公園がある。小さな標識があるのみであるが、ここの清水を汲んで硯水に使ったという。

 正面に恵那山を見ながら進み、豊玉稲荷大明神の石段を過ぎてから、坂の上交差点(五叉路)の歩道橋をのぼると、その稲荷神社の石段の左側に石仏群がある。






歩道橋から北東方面の眺め→

中野観音堂
 五叉路を北東に進み、100m程先を右に進むのが中山道である。 小さな川(永田川)を渡ると、正面の建物のすぐ右側に中野観音堂がある。
建立時期は不明であるが、江戸時代からこの場所にあったという。
観音堂の前の秋葉灯籠は、寛政8年(1796)建立。
この近くには中野村の高札場があったという。

 すぐ先に中野村庄屋の家がある。

大井宿
 500m程進み、阿木川で大井橋を渡る。 大井宿の西にあたる。
 大井宿の町並みは、6か所に枡形があり、東西700mほどジグザクに続いている。
天保14年(1843)の総家数110軒、本陣 1、脇本陣 1、旅籠41軒で、美濃16宿では最大という。
 橋を渡るとすぐ第一の枡形で左折する。50m程先の第二の枡形を右折して茶屋町にはいる。尾張藩の白木番所があったという。
100m先に 市神神社がある。由緒によると寛文12年(1672)創建という。もともと上宿にあったものが移転してきたという。
 神社の前を右折する。第三の枡形である。

大井村庄屋 古屋家
 50m先右側に古屋家の大きな建物がある。江戸時代は商業を営み、天保元年(1830)から20年ほど庄屋を勤めた。間口15間(27m)奥行31間の広い敷地である。

 突当りを左折する。第4の枡形であるが、その角に旅館「いち川」がある。当時は この場所に旅籠屋 角屋があった。(明治初年の写真が掲示されている)
 ここからは東西に約200mほどの町並みとなり、古民家が残されている。

 ここからは東西に約200mほどの町並みとなり、古民家が残されている。

<明治天皇行在所>
 明治13年(1880)2頭立て馬車で到着した時の、行列は300人以上だったという。宿泊は伊藤家で、(現岩井家)、部屋、風呂場などが当時のまま残っているという。

<宿役人の家 林家>
 林家は、本陣から分家して明治に至るまで問屋役を務めた家で、間口7間半、奥行き25間、部屋が14室もある大型旅籠屋であった、という。






<大井村庄屋古山家>
 古山家は酒造と商売を市波、大井村の庄屋を約150年間勤めた。
建物は明治初年に上宿より移築したものという。
現在は「ひし屋資料館」として復元されている

本陣跡
 資料館のすぐ先を左折する。 第5の桝形である。
大井宿の本陣(現 林家)で、角にある門が存在感を誇る。
間口22間(約40m)奥行22間の敷地に151坪の建物であったが、火災で焼失し、表門のみ残る。江戸時代初期に建てられ、安土桃山様式を伝えている。

 突当りに延寿院があり、第6の枡形で
右折する。小さな橋をわたると、上り坂が始まり大井宿の東口となる。



復元された高札場
 上り坂途中には、復元された高札場がある。もとは、50m程東にあった。
通常は3~4枚の掲示であったが、大井宿の高札場には十数枚の高札があったという。
 少し先に「山本用水」が横切っている。安永元年(1772) 阿木川の水を灌漑用水として引いてきたという。
 
 

上宿の石仏群
 寺坂という坂を上って行くと、左手に上宿の石仏群がある。
説明板には「上宿は大井宿を一望できる位置にあり、宿の人達はここを宿場はずれとして、数多くの石仏を立て、宿内への悪病や、悪人の侵入を防ぎ、宿内の無事息災を祈願しました。」とある。
 すぐ上の階段わきには、自然石に彫り込まれた馬頭観音がある
。文政9年(1826)に上宿8人の女講連中で建てたもので、かつ、そめなどの名前が見える。

関戸一里津塚跡
 すぐ上の中央道の歩道橋をわたり、100m程先の正善寺のT字路を右に進む。
400m程先、右手の空き地奥に「関戸一里塚跡」の大きな石柱がたっている。


そこから200mほど進むと、根津神社がある。甚平坂の手前右側の高台にある。

関戸 宝篋印塔
 「根津甚平祖霊社」といわれ、本殿の裏に根津甚平の供養塔といわれる宝篋印塔が建つ。
 根津甚平は、源頼朝の家臣で信濃国根津郷の城主で、この先にある甚平坂由来の武将で、子宝でを授かったお礼に寺地を寄進し、大井宿の近くの長国寺を再興したという。
 塔は花崗岩製で、高さ2.24m 基礎の幅 0.95mで県内最大級の規模で鎌倉時代のものと推定されている。

甚平坂

 

 神社の反対側には石仏群があるが、続いて急な坂が始まる。自動車道とは別に公園形式で坂 と階段が整備されている。(工事中であった)
説明板によると、「この坂は距離は短いが急な坂道で嫌われていた。明治13年(1880)明治天皇巡行の際、土地の人が総出で頂上付近を2mほど下げて傾斜をなだらかにした」という。

 根津甚平にまつわる伝説もあるが、この坂は、広重の木曽海道六十九次 大井」のモデルになっているという。

道の景色

甚平坂から約2km 車の往来も少なくのんびりとした道である。

<岡瀬沢の庚申塔>

<岡瀬沢の永代燈>
 岡瀬沢から遠州秋葉山への参詣道との分岐点
 
<広久手坂の馬頭観音>
 広久手坂の途中にある、三面八臂の姿である

御嶽山
  
 中津川市に入る。
土地の人が「今日は御嶽山がきれいに見えるよ」と教えてくれた。

間もなく、旧茄子川村となる。

茄子川村 篠原家
  
 大井宿と中津川宿の間は約10.5kあり長丁場であったので、ここに、茄子川御小休所-篠原家がおかれ、大名・姫宮通行などの休憩所の役割を果たしたという。
 また西側には 中仙道から遠州秋葉道への分岐点を示す常夜燈が建っている。「是よりあきはみち」と刻まれており、安永5年(1776)の建立である。

尾張白木番所跡
 旧茄子川村の東になると、家もまばらとなり両側には畑地が広がる。左手に、白木番所跡の説明板がある。
 「尾張藩の直轄地であった木曽山から伐採した材木の輸送は、重量材(丸太類)は、木曽川を利用した流送と、、軽量材の板材や土居等白木類は 牛・馬による駄送による方法が採られていた。木曽川沿いには「川番所」、中山道には「白木改番所」が設けられ、抜け荷の監視と量目の点検など厳しい取締りが行われていた。」
 すぐ先には、茄子川村高札場跡の石柱が立っている。

坂本立場跡
 間もなく坂本川を渡り、美乃坂本駅に通じる県道の下を、隧道で抜けていく。右側に石仏、石塔が並んでいる急な坂道を上り切ると、左角に「坂本立場跡」の石柱ある。
 旧茄子川村と旧千旦林(せんたんばやし)村の境にあたり、古くは東山道の宿駅でもあったという。
 少し先の民家の横には、大きな石の板に囲わて、頭部が三つある三面馬頭観音が祀られている。

約200m程先に「三ツ家の一里塚跡」の石柱がたつ。

将監塚
 すぐ先の左手空き地に 将監塚がある。
二代目美濃代官の岡田将監善同(よしあつ)の墓である。
 300m程先には「中平神明神社」の説明板があるが、社殿は、右の奥にあるようだ。その先に中平弘法堂の案内板がある。

 旧茄子川村の東からの中山道沿いにこのような案内板が、「坂本文化遺産保存会」が作られており、参考となっている。



手差し道標
 遠くの山が夕焼けで黄色く染まって来ている。畑の中の道をしばらく行くと、左手奥からまっすぐな道が合流してくる。
「手差し(左) 旧国道大井町二至ル  手差し(右)右 新国道 美乃坂本ヲ経テ**」とある。

千旦林村高札場跡
            
 400m程先に「千旦林村の高札場跡」の石柱がある。
少し先に「式内坂本神社八幡宮」との大きな石柱が建ち、長い参道の入口がある。

六地蔵石憧
 約500m程先、左手に六地蔵の石憧が、きれいな形を残して建っている。
 説明板によると、「南へ100mほどの大林寺が、寺の創立後24年後の明暦3年(1657)に造立したとされる。・・・・通常は寺の入口に置かれる石仏が六地蔵で、平安末期から六地蔵信仰がはじまったが、『石憧』は六地蔵信仰と結びつき龕部(がんぶ)に六地蔵を彫る物が多く室町末期から普及している」 という。

嵐讃岐の供養碑
 中山道の南側には国道19号線がはしり、このさ先の中央道・中津川インターへの入口の工事で、中山道は消えている。
そのためインター入口の北側に沿って東へすすみ、国道257号横断したあと、19号線を右へくぐっていく地下道の直前にある階段をのぼっていく。 国道19号の北側にあるコンビニの前にでることになる。

 すぐ前に「嵐讃岐(あらしさぬき)の供養碑」がある。嵐讃岐は木曽家の有力武将の一人で、千旦林八幡宮の再建に尽くしたと伝えられ、、供養碑は寛永3年(1626)に建てられた。」

小石塚の立場跡
 すぐ先右手に「小石塚の立場跡」の石柱がある。
時刻が夕方5時ちかくなり、あたりが暗くなってきた。先を急ぐ。

坂を下り、北東に進む。
住宅街で、緩やかな上り坂となり、右手の一段高い場所に石仏群と地蔵の祠がある。



上宿一里塚
 約500m先に、北側のみ復元された「上宿一里塚」がある

双頭一身道祖神と石仏群 と 苗木道道標
 間もなく、道は突当りとなるが、左手一帯には多くの石仏・石塔が立っており、正面には、自然石の道標がたっている。

 左手石塔群の前にある双頭一身道祖神の説明文によると、 「石碑の右上に『是より苗木道』と彫られたこの道祖神は、通称『こでの木坂』の頂にあって、『道しるべ』にもなっていて、苗木道との分岐点に置かれている。 文化13年(1816)に建立され、男女別々の頭部を持ち方から足元にかけて一体となっている珍しい石造物である」という。

  正面突当りは、向こう側が崖のように見え、そこから中津川の町並みが見える。
ここから北へ、中山道から飛騨方面に至る道が分岐しており、苗木道と呼ばれた。

こでの木坂
 自動車道は右へ大きくカーブして下っていくが、中山道の道筋としては、すぐ先を左手に下る道がある。
<写真は、下から坂を見上げたところ>

上宿の一里塚からここまでを「こでの木坂」といい、急峻な道であり、明治13年(1880)の明治天皇巡行の際には駒場村の青年たちが待ち構え、天皇の馬車を先引きして通したといわれている。

 東山道の坂本駅はこのあたりと思われるという説明板がある。
(東山道は美濃の坂本駅から信濃の阿智駅へと続いていた)

 小さな橋に架かる上宿橋を過ぎると、自然石に刻まれた駒場村の道標があり、少し先には「駒場村の高札場跡」の石柱がある。民家の壁に高札が復元されている。
     
    

中津川橋手前
 少し広い車道を横切って緩やかな坂道をくだる。
左側の斜面に南無阿弥陀仏題目塔や馬頭観音が立っている。

 その先が三叉路で、左に「津島神社参道」とある大きな石柱が建つ。

ここを右折し住宅街を進み、約300m程先の中津川橋を渡り、中津川宿に入る。
 これ以上の写真撮影は無理なので、今回はここまでとあきらめ、中津川駅前までのホテルに急いだ。


  散策日   2015年12月18日   JR釜戸駅ー中津川
  参考   「中山道を歩く」       横山正治・安斎達雄