武佐
鳥居本

  
地図→①武佐-老蘇 ②老蘇-愛知川 ③愛知川-豊郷 ④豊郷-高宮 
         ⑤高宮-彦根正法寺町  ⑥彦根正法寺町-鳥居本


 武佐で中山道近くのホテルに宿泊できたため、朝早く 7:30の出発となった。 


脇本陣跡
 信号のある交差点から100mほどすすむと、大きな冠木門があり、武佐宿脇本陣跡とある。
今は武佐町会館が建てられているが、その前に大きな「馬頭観世音」の石碑が建っている。
関東地方の古道には、馬頭観音の石仏が多くみられるが、このあたりでは、まだみたことがない。 




この先も、連子格子の家がつづいている。

牟佐神社
 左に牟佐神社がある。由緒によれば、平安朝から続く古社で、上下の両社があり、この神社は下社という。

神社の左側には、高札場跡の看板がたっている。

大門跡
 すぐ先には、大門跡という看板がたっている。 
武佐宿のはずれで、ここからは西生来町に入る。
道端には、石塔・石仏や地蔵が見かけられる。

西福寺と泡子延命地蔵尊
 少し先、左に西福寺があり、山門の右側に地蔵堂がある。地蔵堂から100m弱の所・・・小さな川の脇に「泡子延命地蔵尊御遺跡」の石碑が建つ。
 説明板によれば、「この地の茶店の娘が旅の僧に一目ぼれし、僧の飲み残した茶を飲んだところ、懐妊し男子を出産。3年後再び僧が現れ、話を聞いて息を吹きかけたとたんに、泡となり消えてしまったという。僧は西の方にある「あら井」の池に地蔵があるので安置するように言った。それが、泡子地蔵で、現在は西福寺地蔵堂に祀ってある」という。

道の景色
中山道は武佐からまっすぐにほぼ東に向かっている。左側に田畑が広がっている先に小高い山が見える。観音寺城のあった山並みだろう。
 通りには、古めかしい構えの民家が残る。

東光寺
 左手に、新しく建て替えられた山門、本堂の東光寺がある。
もとは清水鼻(五個荘町)にあった佐々木六角氏ゆかりの寺院という。
また、ここは秀吉の祐筆(書記)であった建部伝内の寓居跡という。

道の景色
<鎌若宮神社
    -奥石神社の一つ>
<民家 2軒> 
  板塀の造りがきれい             整った茅葺屋根と門構え




轟地蔵跡
 右手の小さな川のほとりに常夜燈がある。文化11年(1814)建立で、橋の向かい側には轟地蔵跡の石柱と説明板がある。 地蔵は小幡人形(この先の五個荘小幡町でつくられている土人形)の安産祈願の地蔵で今はすぐ先の福生寺に祀られている。
道は左に緩やかにカーブし、住宅街を北に向かう。

奥石(おいそ)神社 と 老蘇(おいそ)の森
 間もなく奥石神社の鳥居がみえ、その奥に大きな木に覆われた長い参道が続く。その先の街道沿いは民家が並んでいて良く見えないが、100m先まで進むと左手一帯に広大な森が広がるのがよくわかる。・・・老蘇の森と呼ばれる。
 
奥石神社は、老蘇のなの由来となった「石辺大連」(後述)が社檀を築いたのが始まりといわれ、延喜式内社であり、藤原氏の祖神をまつり、安産授福の神という。
鎌倉時代以降、、近江守護の佐々木氏、六角氏の崇敬があつく、また、本殿は天正9年(1581)信長が家臣柴田家久に命じて造営し、拝殿は、元禄15年(1702)の造営、鳥居は天明4年(1784)の建立という。

老蘇(おいそ)の森
 伝説によれば、この地方は人の住めるところではなかったが、住民の一人の石辺大連(おおむら)が、松・過ぎなどの苗木を植え
祈願したところたちまちにして大森林となったという。
大連は百数十を数えても壮年を凌ぐほどだったので、人々は「老蘇」(老いて元気なもの)と呼び、この森を「老蘇の森」と呼ぶようになったという。
 やがて、平安時代から和歌や紀行文、謡曲などに詠まれて名高い森となったという。
北の方は、新幹線で分断されているため往時の面影は残っていない。
観音寺城跡
 奥石神社の東参道から中山道に出て北に向かうが、正面に新幹線の高架が見える。その向こうにある山が観音寺城があった繖山(きぬがさやま)-別名-観音寺山である。
 新幹線の手前で国道を右に曲がり東に進む。その後新幹線の高架をくぐって100m程過ぎて国道から分かれ山の麓に向かう。左手には地蔵堂と常夜燈(明治41年-?)がある。
突当りを右に向かうと、五個荘清水鼻町となる。
 ここを左折して西に向かうと観音寺城の城下町であった石寺となる。
 <観音寺城>
   観音寺城は近江源氏の佐々木氏、のちに近江守護六角氏の居城で、六角高頼が応仁の乱の頃、応仁2年(1468)築城したともいわれ、、六角氏、京極氏が東西に分かれ、またはともに戦った場所である。石垣や土塁で曲輪を各所に造り、その広がりは1キロに及ぶという。
城下町としての石寺には、六角氏の居館をはじめ家臣の住居など3000にも及ぶ建物があったといわれる。天文18年(1549)には、城主の六角定頼は城下の商業振興策として石寺に楽市楽座令をだし、税を免除し商人の参入を歓迎した。・・・信長はのちに安土城下で踏襲した。
永禄11年(1568)、六角義賢・義治父子は上洛を目指す信長軍にやぶれ、は観音寺城を無血開城した。

五個荘清水鼻
 観音寺山の山裾を進む道は、古道の趣がある。

湖東三名水の一つ清水(湧水)が道沿いにある。
 日枝神社への参道              自治会館前の石仏

てんびんの里-近江商人

 会館前から先は国道の為、道は消えるが、信号を渡ってから少し先で右に分岐しているのが見える。
分岐点に大きな中山道の石碑と、その上に天秤棒を担いだ近江商人の銅像がある。近江商人の発祥地は、ここ五個荘や近江八幡・日野などで、活躍の時期はそれぞれ異なっていたという。
五個荘商人は、活躍が比較的に遅く幕末から明治・大正にかけてという。
 この先茅葺屋根の民家が所どころに残る




旧片山家住宅

 しばらく進み、信号号のない交差点の手前に整った茅葺屋根の古民家がある。大名などが休憩した立場本陣であったという。金毘羅大権現と深く刻まれた常夜燈がある。

旧市田家
 左手に大郡神社の鳥居が見え、すぐ右手に白壁の蔵が目立つ建物がある。明治初期の建築で、江戸時代から呉服繊維商として京都・大阪で活躍した市田庄兵衛家の本宅という。北町屋町が購入・保存している。

常夜燈
 信号のある交差点を過ぎて200m行くと、道標を兼ねた大きな常夜燈が右に入る道の脇に建つ。
天保10(?)年(1839)建立で「右 京道」「左 いせ ひの 八日市」とある。

   道標の前の街道→

道の景色
むかし茅葺屋根だった家-今はとトタンに替わっている。 妻飾りの部分に 「水」と描かれている家で、ここから先にも数多く存在する。

西澤梵鐘鋳造所
 右手に黒い塀に囲まれ、門の前に梵鐘が置かれた屋敷がある。
西澤梵鐘鋳造所である。
「近江ワザ回廊ブログ」で紹介している。
・・・滋賀県における鋳物加工の歴史は古く南北朝時代までさかのぼるという。
西沢家は江戸時代以来の伝統技術を残す鋳造所で、すべて手作業で型作りから仕上げまで2~3ヵ月かかるという。
(県内に残るのは、ここも含め2軒のみとなってしまったという。)

小幡町へ
 300mほどすすむと、右側に大同川が近づいてくる。
少し川に沿って進む。川向こうに東近江市の五個荘支所、左には郵便局があり、広く整備された地域で道もひろい。
 郵便局を過ぎてから2本目の斜めにかかっている橋を渡る。
橋のガードレール 左側に「右中仙道」という道標の写真のある説明板が付けられている。 
ここ五個荘小幡町に曲がる分岐点(石橋のたもと)にあった常夜燈に彫られてあった道標の写真で、常夜燈そのものは100m北の五箇神社御旅所に移されているという。

いせ道(御代参街道)道標
100m程で左に曲がると、近江鉄道本線 五個荘駅への入り口をふくむ変形4叉路となる。
ガードレールの内側、、民家のフェンスのそばに彫りの深い大きな道標が立つ。
「左 いせ ひの 八日市 道」 「右 京みち」
 この道は、東海道の土山宿と中山道の五個荘を結んでおり、、お伊勢参りの後に多賀大社にも寄ってお参りするという風習があったので、大いに賑わったという。
明治になってから「御代参街道」と呼ばれた。

愛知川(えちがわ) 無賃橋と常夜燈
 近江鉄道の踏切を越えてしばらく進んで愛知川の堤防の道路に突き当たる。常夜燈がある。
堤防を200mほど進んで、御幸橋で愛知川をわたる。対岸にも同様の常夜燈が建っている。
 対岸の常夜燈のしたに説明板がある。それによると 『出水すると「人取り川」の異名の通り、旅人を困らせていた。橋が架かっていなかった頃は旅人「渡し」を利用しており、夜間の利用者の為に常夜燈が設けられた。 
 ・・・その後・・・愛知川の町人は、彦根藩に橋の建設を申し入れ、天保2年(1831)に橋は完成した。当時の渡り橋は通行料を払うのが普通だったが、無賃橋として多くの旅人に喜ばれた。』という。

愛知川宿
 
 そこからは、600mほど国道の歩道を進む。中山道は右に進む。道路上には冠木門を模した「中山道愛知川宿」という大きなゲートが建っている。
 ここで見過ごしたが、この付近に愛知川西一里塚跡の石柱があるという。
愛知川宿は 天保14年(1843)、家数、199軒、 本宿 1軒、 脇本陣 1軒、 旅籠 28軒、 人口929人であった。
南北に600mほどの規模の宿場である。

 すぐに、不飲川(のまずかわ)の橋をわたる。水源である野間津池で将門の首を洗い水が赤く濁ったためとか、戦いで、血が流れ込んで、誰も水を飲まなくなったので、不飲川と呼ばれたという。

竹平楼-旅籠
 すぐ右側に竹平楼という料亭がある。もとは宝暦8年(1758)創業の「竹の子屋」という旅籠だったという。
その一角に明治天皇御聖蹟の石柱がある。


宿の景色-1
 国道と並行しているせいか車の通りも多くなくゆっくりと歩ける。当時の面影を残している民家は少ないが通りの佇まいは街道だったころの雰囲気を感じさせるものがある。
 宿の通りの中ほどの左側に、とてもすっきりした造りの連子格子のある民家がある。弁柄で塗られた格子で屋根瓦と壁の色にマッチしている。また2階部分は半格子となっている。


高札場跡  本陣跡
 隣に八幡神社がある。鳥居の前の常夜燈の脇に小さな石柱があり、高札場跡という。
 少し先には。大正・昭和初期の頃と思われる白い建物があり、その隣の日本生命のビルとの間に、商店街の街灯の柱がある。
そこに「本陣跡」と書かれた小さなプレートがつけられている。

宿の景色-2

寶満寺
 
ポケットパーク                北方向 
    

郡分地蔵
 交差点を過ぎて少し過ぎると小さな川がある。手前左に 「愛知川宿北入口」の石柱が立つ。
その角には民家風の地蔵堂が建ち、「郡分地蔵」の看板が掛っている。むかしは、ここが郡の境であり、愛知川宿の北入口であったという。
 川側の壁にはに集められた石仏が並んでいる。

旧田中家住宅
 少し先、右側に板塀に囲まれた大きな屋敷がある。塀の外には「近江商人亭」という料亭の看板がたっているが、麻織物商を営んでいた田中家の別邸であったという。

 少し先、右側に地蔵堂があり、愛知川から入って来た時と同じ冠木門風ゲートがある。

 
 この先、愛知川少学校の所で、右、、左に曲がるが、住宅地・工場の地域をひたすら歩くことになる。
大きく視野が開け、宇曽川の橋をわたる。

宇曽川と歌詰橋
 左に説明板がある。この川は水量が豊富であり、かっては10数本の丸太棒を土台にして土を塗り固めた土橋であったという。
 ここでも将門の伝説・・・藤原秀郷を追いかけて北将門の首が、歌に詰まって橋に落ちたことから 歌詰橋と呼ぶようになった・・・・・・
 
 橋を渡った200m先には、近江の夏祭りには欠かせないという、江州音頭の発祥の地の石柱が立っている。


又十屋敷
 左手に、巨大な「又十屋敷』と描かれた看板が立っている。
ここは、近江商人藤野喜兵衛の旧宅で、「又十」は藤野が文政の頃、北海道で漁業や廻船業を営んでいた時の称号という。
今は「アケボノ缶詰」として受け継がれている。豊会館として歴史資料館が併設されている。
中山道一里塚の石柱があったが、これはここから北800mの豊郷駐在所付近にあったものと書かれている。

伊藤忠兵衛 生家
 数百m先に、長い塀のある大きな屋敷がある。
伊藤忠・丸紅の創始者・初代伊藤忠兵衛が暮らし、二代目忠兵衛が生まれた場所という。
初代は、安政5年(1858)近江麻布(高宮布)の行商から身を起こしたという。伊藤商店へ発展。
 少し先には「伊藤長兵衛屋敷跡」の石碑がある。7代目長塀衛は大正10年(1921)伊藤忠商店を合併し丸紅商店を設立、初代社長となる。

間の宿 石畑
 間もなく豊郷町役場の信号が見えてくる。一里塚はこの交差点南にあったという。(八幡神社の説明板より)
 「一里塚の里 石畑 」の看板が脇道の入り口に多く目につく。ここ石畑は、愛知川宿と高宮宿の「間の宿」として発展し、立場茶屋などで大いに栄えたという。、

八幡神社
 説明板によると、那須与一宗高の次男、石畠宗信はここに那須城を築き治めていた。延応元年(1239)石清水八幡宮.を勧請して八幡神社を創建したという。

道の景色
 

県最古の鉄筋コンクリート
豊郷小学校

茅葺または茅葺だった屋根が多い      ケヤキの並木
相変わらず「水」の字
   

無賃橋
 途中で彦根市に入り、無賃橋に到着する。
橋をわたると、「むちんばし天保3年」(1832と刻まれた大きな石柱がある。犬上川の増水時の川止めを解消するため、この地の富豪や町民から費用を募らせ架けて、無賃とした橋である。
 昭和の架け替え工事の時に橋脚の下から2体の地蔵尊が発掘され、地蔵堂に祀られている。

高宮宿
 ここから高宮宿である。
天保14年(1843)、総家数は835軒、 本陣 1、 脇本陣 2、 旅籠 23軒で 町並みの長さは約800mであった。

 周辺の農村は麻布の生産地であり、高宮に集められた麻布は高宮布(近江上布とも)として流通し、宿場には問屋や店が軒を並べたという。
また多賀大社への多賀道が通じていて、門前町としても栄えた。

円照寺
 連子格子の家が所どころにならんでいる通りを150m程進んだ左側に、円照寺の参道があり、少し奥まった所に山門がある、。境内奥に立派な本堂がある。
 明徳7年(1498)、高宮氏の重臣北川九兵衛が仏道を建立したのが起源で、天文5年(1740)に焼失し9年後に再建されたという。

本陣跡
 円照寺の向かい側に本陣跡がある。
間口約27m、建坪約396㎡で、表門だけ残されている。

脇本陣跡
 少し先の左側にある脇本陣跡で、間口約14m、建坪約244㎡で、門前は高札場であったという。
この脇本陣役は問屋をかねており、問屋場とも呼ばれていた。
 
当時の趣の残る家が多い。

   
高宮の大鳥居  
 つぎの交差点に大鳥居がある。
多賀大社へ約4kmの表参道に面して位置し、一の鳥居である。高さ11m、柱間8mの石造り明神鳥居で、寛永12年(1635)の建立という。
 脇に建つ常夜燈は高さ6m底辺3.3mと大変大きく、燈明をともす小窓までは石造り13段の階段が付いている。(今までも大きな常夜燈は見てきたが石段付きは初めてである。) 

道標  「是より多賀みち三十丁」

宿の景色
鳥居のすぐ先にある提灯屋

高宮布の問屋・・「布惣」跡
 100m程行くと左に高宮神社があり、その向かいに年代を感じさせる建物があり、軒の屋根に大きく「座・楽庵」という看板が置かれている。
 ここは、高宮布を全国に販売していた大きな問屋-「布惣(ぬのそう)」の跡で、裏には当時の蔵が五つ残っているという。
説明板によると、「高宮周辺で産出された麻布-高宮布-は、室町時代から貴族や上流階級の贈答品として珍重されていた」という。
 明治中頃から衰退していった。

木之本地蔵尊
 高宮町大吉の交差点となる。このあたりが高宮宿のはずれで、左角に「木之本分身地蔵尊」という地蔵の祠が建っている。
堂の周りには、お地蔵さんや石仏など周辺からもの集められたものが並べられている。

道の景色
 しばらく進むと、左へ入る角に、道標がある。
「すく 中山道  左 彦根道」とある。そんなに古くはない道標か?
連子格子の家。

石清水神社 扇塚
 左側に丘陵の端に階段があり、鳥居の先に、古く飛鳥時代からここに祀られているといういう石清水神社がある。
 石段途中右側に「扇塚」がある。能楽の五流派の中で江戸時代に新しく認められた喜多流の九代目家元は、隠居したのち数年間彦根にいて門人の育成と能楽の発展に尽くし、彦根を去る時に記念にと門人たちに「面と扇」を与えた、という。
門人たちがそれを埋めて塚を建てたが、もう一対と思われる面塚の行方は分からないという。

常夜燈と道標
 すぐ先の公園のフェンス前に、「旧跡 床の山」(芭蕉が句を詠んだという)の石柱が立つ。
芦川をわたり、新しく住宅地のなかを道はまっすぐ北東に進む。
左に街道脇にある神社としてはあまり整備されていない春日神社をすぎて、正法寺町交差点となる。
 すぐ先の右へ入る細道に常夜燈や道標が並んでいる。常夜燈のわきには「多賀大社東参道近道のしるべとして多賀町住人・・(略)・・・・慶応3年(1867)寄進した」との説明石柱がある。他に道標などがならんでいる。
 
小野塚
 名神高速のインターチェンジの下をくぐり、左手の芭蕉の昼寝塚があるという原八幡神社を過ぎて 緩やかな上りとなる。
新幹線の高架下をぬけ、ここからは真北に進む。
 右側の高速道路側に小野前茶屋という標識が立つ。明治中期まで、茶店があり、多賀神社参りの客でにぎわったという。
 すぐ先には 小野塚の石碑と小さな祠がある。 説明板によると「地元に伝わる郷土芸能「小野町太鼓踊り」の中に小野小町がうたわれており、この地を誕生地とする伝承が残っている」という。
  祠の中には小野地蔵として親しまれてきた石仏(15世紀後半ごろのもの)がある。・・阿弥陀如来像が彫られている。

小野の町並み
 しばらく進むと 小野の集落に入る。 先ほど通ってきた八幡神社の入り口の由緒に書かれていた「中世の東海道(近世の中山道)の宿駅=小野宿」であろうか。集落は約600m位であろうか。
当時の町並みがそのまま残っているような、「街道歩き」にぴったりの雰囲気であった。
 

鳥居本宿
 集落がとぎれ、田畑が広がる。400mほど歩くと家が並び始める。鳥居本宿である。
天保14年(1843)のデータでは、総家数 293軒、本陣 1、脇本陣 2、旅籠 35軒、人口 1448人であった。
名物は、鳥居本合羽と赤玉神教丸であった。
 100mほどで、彦根道道標がある。

彦根道(朝鮮人街道) 道標
 野洲の小篠原で分岐した朝鮮人街道がここで合流する。約40キロの道程である。ここから彦根城まで約1.5kmほどで、彦根道ともいう。
文政10年(1827)の建立で、「左 中山道京いせ」「右彦根道」と大きく刻まれている。

道の景色

専宗寺:太鼓門の天井は石田光成の居城であった佐和山城の遺構という。

 呉服屋跡:連子格子、虫籠窓        豪華な常夜燈:檜皮葺の屋根 
 

合羽所「松屋」
 屋根に合羽型の看板)、戦後は合羽の製造から縄づくりに転業したという。(2001年に改修された)


 →連子格子、虫籠窓
の家・・・道路面ーフェンスで保護されている。

脇本陣跡 と 本陣跡 
 間もなく右側に脇本陣跡、少し先に本陣跡があるが、建物はなく、いずれも説明板立札がたっているのみである。
 脇本陣の南側は、問屋場を兼ねていたという。

合羽所「木綿屋」

 少し先右側の軒下に、古い看板が掛っている。「本家 合羽所 嘉右衛門」とある。
 説明板によると、「木綿屋」は天保3年(1832)創業で、大名、寺院、商家を得意先に、大八車などにかぶせるシート状の合羽を生産していたという。
 ここは、宿の一番北に位置する合羽屋で、鳥居本宿には文化・文政年間(1804~30)に15軒の合羽所があったという。

赤玉神教丸 有川家
 少し先で、道は大きく右へカーブする。 
正面に、創業 万治元年(1658)という有川薬局がある。
 赤玉神教丸は、消化不良、食欲不振、飲みすぎなど胃の症状改善の和漢健胃薬で、今でも、有川製薬(株)が製造・販売している。
旧東海道 六地蔵にあった和中散など東海道・中山道の旅人相手の売薬で、今に残っているのはここだけという。
 現在の建物は 宝暦年間(1751~64)に建てられたものという。
道はここが桝形となっており、鳥居本宿の北の入り口であった。
 

鳥居本駅
 今回の旅はここで終了とし、少し南に戻って近江鉄道鳥居本駅から電車に乗った。この駅舎は昭和6年(1931)建造された。
  散策日   2014年11月8日   武佐-近江鉄道 鳥居本駅
  参考   「中山道を歩く」       横山正治・安斎達雄