鳥居本
柏原

  
地図→①鳥居本-番場  ②番場-醒ヶ井  ③醒ヶ井-柏原 


 米原駅から多賀大社行の近江鉄道で鳥居本駅に向かった。


上品寺(じょうぼんじ)
 鳥居本宿の北の入り口である枡形まで行く。
赤玉神教丸を売るの有川薬局の前の細道を左に入ると、国道8号線の向かい側に上品寺がある。
この鐘楼の鐘は、第二次大戦中の供出を免れて残っているもので、第7代の了海(法海坊)が江戸市中を托鉢して作ったものという。
鐘の周囲には新吉原の遊女 花里・花扇姉妹ら協力した人の名前が刻まれ、了海の托鉢の様子は歌舞伎のモデルになるほど有名であったという。
 
 桝形まで戻り、北に向かう。由緒ある家並みが残る。


番場宿方面から来る人の為に
鳥居本宿の案内立札がたっている。

道標
 しばらくすると、家並みが途切れ国道8号に合流する。矢倉川に架かる橋を越えてすぐ、川沿いを右後ろに向かうと、真新しい道標が立っている。 「右 中山道、 左 北国 米原 きの本 道」とある。川で途切れた街道の続きのようである。
 細い道を北に向かうとすぐに、国道から入ってくる舗装道路にでる。
 左手の国道からの入り口を見ると、「磨針峠望湖堂」と刻まれた大きな石碑がある。

摺針峠(摩針峠)への道
 すぐに山道が始まる。予想していたほど急な上りではないが、左に大きくカーブした先に、木製の小さな道標があり、そこからは自動車道から外れて、急な細い登り坂となる。
 長くは続かずすぐに、舗装した自動車道に合流する。
 すぐに開けた場所となり、摺針峠となる。

摺針峠と望湖堂跡
  ここには、望古堂という大きな茶屋が設けられていた。
 火災で焼失した跡に、「明治天皇摩針峠御小休所」の石碑がたっている。
 説明板によれば「参勤交代の大名や朝鮮通信使の使節が立ち寄っており、建物は本陣構えで、大いに繁栄した」という。
 左側の鳥居と石段の先に神明宮がある。





 そこからの琵琶湖方面の眺めは望湖堂の名前の通りすばらしい。
 北西に目を向けると、米原の岸辺に建つ大きなビルの先に、竹生島が黒っぽく見える。

磨針一里塚跡
 道は下り坂になり、右側の称名寺をすぎて、民家が途切れるあたりで、右にゆるくカーブする。 左側の空き地に 「磨針一里塚跡」の石柱がある。
 さらに進むと前方に名神高速道路が見えてくる。.
 高速道路の手前の三叉路に新しい道標がある。左へ進むのが中山道で、しばらくのあいだ高速道路と並行して進む。

泰平水と祠
 緩やかな上り坂を進み、高速道のトンネルが近くなるあたりの左側に泰平水と刻まれた水飲み場があり、隣には何を祀ってあるのか、小さな祠がある。
中山道は高速道の上あたりを通っていたようである。
小摺針峠(トンネルの上)をこえると、結構急な下り坂となる。
天気が良ければ伊吹山が正面の先に見えるはずであるが、小雨交じりの為、遠くは見えない。
高速道より、一段下がった左側の道を300mほど進むと、「中山道 番場」と刻まれた大きな石標がある。

西番場の景色
 道は斜め左に進んでいく。小さな集落に入っていく。西番場である。
元番場ともいい、東山道の宿駅があったという

蓮華寺
 番場宿の中心に入っていくところに、蓮華寺の石柱がある。右に150mmほど、高速をくぐると立派な勅使門が現れる。
蓮華寺は、聖徳太子によって開かれたといわれ、当初は法隆寺と称していたという。建治2年(1276)焼失ののち、一向上人が布教の為番場に立ち寄り、この地の豪族であった土肥元頼(もとより)の支援により弘安年間(1278~88)に寺を再興し、蓮華寺と改称したという。
 境内には石造 宝篋印塔があり、銘文はないが鎌倉末期から南北朝時代に建立されたものと、考えられ、寺伝では土肥元頼の墓と伝えている。
 弘安7年(1284)鋳造の梵鐘 →
 

蓮華寺-北条仲時の墓所
 本堂右手の山林の奥に大小の五輪塔がぎっしりと並んでいる墓地がある。北条仲時とその従士430余名の墓である。
 元弘3年(1333)5月、鎌倉幕府滅亡の年--新田義貞が鎌倉で北条高時を滅ぼした時に、京都では、足利尊氏が六波羅探題を攻略した。 六波羅探題北方の北条仲時は鎌倉に逃れるため磨針峠を越えて番場宿まで来たが、味方のはずの佐々木道誉らにより行く手を阻まれ、蓮華寺の境内で自刃した。
 その時の住職が自刃した武士の姓名法名を調べ過去帳に留めさらに一々その墓を建てた。
記載したものが「陸波羅探題南北過去帳」として残されている。

 鎌倉では東勝寺で北条高時と一族・家臣が自刃したしたが、その東勝寺跡の奥に「腹切りやぐら」が残っている。
近くには釈迦堂奥やぐら群とよばれるやぐらが存在し、東勝寺での死者が葬られたという伝承があり、元弘3年5月の銘のある五輪塔の一部が発見された。

 尚 本堂裏手には忠太郎地蔵が建っている。長谷川伸の戯曲『瞼の母』の主人公の番場の忠太郎である。

番場宿
 街道に戻ると、間もなく番場宿の中心部となる。
 天保14年(1843)には、総家数178軒、本陣 1、脇本陣 1、旅籠 10軒で、中山道の宿場の規模としては最少の一つであった。
 左側の民家の前に「明治天皇小休止所」の石柱が建ち、
その少し先の交差点までの間に、、「本陣跡」の小さな石柱、少しおいて 「脇本陣跡」、その隣に「問屋場跡」の石柱が各々民家の前に立っている。

宿の景色
 交差点の角に「米原 汽車汽船道」という明治時代の道標がある。左に向かうと米原駅であるが、中世には年貢米などの荷物が、この番場から天野川河口にある朝妻港へ出て、琵琶湖の水運で大津・京都方面に送られたという。江戸時代になると、朝妻港の南に彦根藩が米原港を造り、中山道の荷物を大津方面の送るようになったという。
 交差点を過ぎたすぐ左手とその先にも問屋場跡の石柱がある。番場の集落をすぎると、右側に田畑が広がる山裾をカーブしながら、気持ちの良い道を進む。。ただしその先に、高速道と奥にはアイリスオーヤマの大きな建物があって現在に引き戻される。

久禮(くれ)の一里塚
 高速道の手前に小公園があり、一里塚の石碑と説明板が建っている。本来は、この手前100mあたりにあったという。(写真は、今まで通ってきた道を、振り返って右側に見ているものである)
 高速の高架(名神を分岐した北陸自動車道)をくぐり、少し広い道路を横切って東に向かう。

 少し先で国道21号線を横切り、国道と東海道線の間を進む。屋根に覆われている地蔵の祠をよく見かける。

道の景色
 数百m進んで、国道に合流する。
 丹生川橋を渡るとすぐ左側の空き地の端に石碑と五輪塔の一部などの石塔が並べられている祠がある。説明板には「一類孤魂等衆」の碑と書かれている。江戸時代後期にここで亡くなった旅人の供養の為の碑という。
 石碑のすぐ先に、国道から右に入る道が見える。

六軒茶屋
 右に入り150m程進んだところに、茅葺屋根をトタン屋根に代えた家が見える。道路から一段下がった位置にあり、現在の道が嵩上げされたことがわかる。入口に説明板が張られている。
 「醒井宿は、享保9年(1724)幕府の天領から大和郡山藩の飛地領となり、彦根藩との境界を明示するために六軒茶屋が建てられた。中山道の名所となり広重の浮世絵にも描かれている」という。

 少し先の十字路の角に「松尾寺 従是 南廿町」の石柱があり、100程進むと、左に地蔵川が見えてくるカーブに、比較的新しい「中山道 醒井宿」の石柱が建つ。

醒井宿
 醒井宿は天保14年(1843)のデータでは、総家数138軒、本陣 1、脇本陣 1、旅籠 11軒であった。
町並みは地蔵川に沿って北西に約800mである。
 醒井は古い昔から清水が湧き、名水で有名であった。
その清水の湧水点は3か所ある。

西行水
 少し先の右側の小公園の奥に「西行水」がある。岩の根元から清水が湧き出ている小さな池であるが、醒井湧水点の一つである。
 岩の中段に五輪塔がある。説明板によると、仁安3年(1168)建立で、泡子塚と呼ばれ、西行法師にまつわる伝説があある。
 武佐宿東の西福寺の近くの泡子地蔵と同様の話である。
 
 しばらく進むと、地蔵川にかかる小さな「醒井大橋」をわたる。

十王水
 すぐ先の川の中に石灯籠が建っている。その奥に水路が開かれ地蔵川に合流している。平安中期に天台宗の高僧が水源を開いたと言われ、近くに十王堂があったことから十王水と呼ばれるようになったという。
醒井の二つ目の湧水点である。

 すぐ先左に「了徳寺御葉付銀杏」の石柱が建つ。 一部の銀杏が葉の上に実るというもので、普通のものとは形が異なっており、一枚の葉に通常1~2個できるというが、これは葉脈が次第に大きくなって先端に形作られるものという。

宿の景色

地蔵川
  
明治天皇御駐輦所の石柱           醤油屋
(元宿役人の江竜氏宅)
  

問屋場
 川の向こう側に、問屋場を営んでいた旧川口家住宅が保存され醒井資料館となっている。
 建築年代が17世紀中~後半と推定されるという。説明板によると醒井宿には7軒の問屋場があったという。
 地蔵川に絶滅危惧種のハリヨが生息しているとして、展示されている。

本陣跡
 問屋場の隣が本陣である。
今は料亭兼旅館の「本陣樋口山」となっている。

前を流れる地蔵川には、きれいなバイカモが揺れている。

地蔵堂
 100m程先に川の向こうに地蔵堂がある。
本尊の地蔵菩薩は、このあたりから始まる地蔵川の水中に安置され「尻冷し地蔵」といわれていたもので、慶長13年(1608)に大垣藩主石川家成(いえしげ)が建立したという。

 地蔵堂から上流は、巾が少し広くなり、小ささな岩があ点在し、細長い泉池となっている。


居醒の清水
 一番奥の賀茂神社の建っている岩場の下から大量の清水が湧き出ている。ここが地蔵川の源である。
 説明板によれば、景行天王の時代、大和武尊が伊吹山の荒神退治に出かけ熱病にかかったが運よく清水を見つけ体を冷やし正気を取り戻したので、この水を名づけて「居醒の清水」と呼ぶようになったという。
醒井という宿名もこれから由来するという。
 醒井の4石といわれるうちの3つがこの池にある。
<蟹石>          <腰かけ石>      <鞍かけ石>
          

賀茂神社からの街道の景色
 源流の左手の石段を上り、本殿のある広場から宿を見渡す。
遠く米原方面までひろがる素晴らしい眺めであった。

 しばらく宿の雰囲気の残る町並みを150mほど進むと、道は直角に右折しすぐ左折する。宿の東の見附跡、枡形である。


景色
 ここからは名神高速を右側に見ながら上り坂を進む。
すぐに「鶯ヶ端」という説明板があり、昔はこの眺め-とくに西の山間に京都の空が望めるということで有名であったという。

少し先に行ったところからの西に眺め →

 




その先には「佛心水」と書かれた祠があり、その下に井戸がある。
井戸の内壁の石に佛心水と刻まれている。(写真が貼られている)
旅人の喉を潤しただけでなく、旅の安全を祈願した意味もあるという。

一色の一里塚跡
 左側の等倫寺の参道をすぎると右側に一里塚跡の石碑が建ち、と小さな松が植えられてい。

梓川と松並木
 八幡神社を過ぎて道は少し下り坂となり、国道21号線に合流する。200mほど先で国道から左へ分岐し梓川の土手沿いの道を進む。道は「梓河内」地区に入る。

 ここから柏原宿までの中山道は、川沿い、そして山裾に沿った道を進む非常に快適な道である。 天候は曇りで、のちに小雨がぱらつくうっとうしいものであったが、車の通行も非常にまれで、当時の街道歩きを思い浮かべながらの楽しい時間を過ごすことができた。
 

しばらく進むと松並木がある。
その先は、桜並木が続く。


東山道 横川の駅家(うまや)跡
クリックすると拡大桜並木の途中に「推定横川の駅家跡」の説明板が遠慮しがちに立っている。
「近江の東山道には、勢多(大津市)、篠原(野州市)、清水(東近江市)、鳥籠(とこ)(大津市)と横川(米原市)に駅家が開かれた。横川駅の位置は、醒井と梓河内の二説があり、梓河内には「馬屋の谷」や横川の略称とされる「小川」などの地名があることから、この付近が東山道横川の駅家跡に推定される」 という。
<古代近江の交通路>

梓河内
 少し進んで、国道21号線の信号の左側を通過する。梓河内のバス停があり、向かいには石仏の一杯詰まった祠がある。





 すぐ先の国道との間に自然石の「左中山道」の道標と「墓跡 黒谷遺跡」の石柱がある。

道の景色
 道は左にカーブし、山裾を緩やかに上って行く。
左手には少し大きめの祠があり、やはり石塔、石仏が詰まっている。
このあたりの道路工事の際、集められた石仏がひとまとめに祀られているものだろう。

中山道の旧道にはいる
 数十m進むと、.左手に新しい道標が立ち、「江戸後期 旗本西郷氏領 梓河内村」 手前側に 「右中山道]、裏側に 「左 旧中山道」を示している。
ここではもちろん舗装道路ではなく、道はぬかるんでいるが少し山に入ってすぐに右に進む旧道を選んだ。まさに東山道の雰囲気である。








 200m程進んだ左側には「館跡 小黒谷遺跡跡」 と すぐ先に「寺院跡 十善寺遺跡」と刻まれた石柱が立っている。

小川(こかわ)関跡
 少し先で舗装された中山道に合流する。写真は合流地点から振り返ったところ。
 下部分が新しく補修され継ぎ足された「小川関跡」の古い石柱が立つ。
このあたりに東山道の関所があったところという。
その隣には、「菖蒲ヶ池跡」の石碑が建つ。江戸後期には消滅したようである。

やくし道道標
 長沢の集落にはいり、古い家並みが続く。
右へはいる角に道標がある。享保2年(1717)建立で、「従是明星山薬師寺」 「やくしへのみち」とある。


 すぐに集落をはなれて、右側に田圃が広がり、左側に林が迫ってくるのどかな風景が続く。

道の景色
 左側には新しく松が植えられ、「掃除丁場と並び松」の説明板が立つ。街道の路面整備・除草・松並木の枯れ木の処置・補植の為に、柏原宿では21の村がその賦役として従事し、小さい村で15m、大きい村では488mの丁場があったという。 柏原宿では、松並木のことを「並び松」と称していたという。東西両隣りの村境までの松の本数は 幕末には約450本植えられていたという。

北畠具行(ともゆき)卿墓への入り口
 その先の鶯が原の説明版を過ぎると、左へ入る道の角に北畠具行の墓400mの標識がある。
北畠具行は後醍醐天皇に仕えた公卿で、元弘元年(1331)の討幕計画=元弘の変に加わり捕らえられ、後醍醐天皇は隠岐へ流罪、具行は佐々木道誉の手で処刑された。
16年後の貞和3年(1347)にこの地に供養塔が建てられた。
・・時間の関係で残念ながら訪れるのはあきらめた。

東山道と九里半街道
 少し先の松並木の数本残る手前の小公園に、説明板がある。
 「東山道は先ほど過ぎた北畠具行の墓へ行くところで、中山道と分かれて山越えする。東に向かい,JR野瀬山の踏切に至り、中山道と合流して長久寺へむかう。
 中山道 関ヶ原と番場宿の間は、九里半街道とも呼ばれた。木曽・長良・揖斐三川の水運荷物は牧田川養老三湊に陸揚げされ、関ヶ原宿から中山道にはいり番場宿で、船積の米原湊道へ進む。
牧田から米原湊まで九里半あった。関ヶ原・今須・柏原・醒ヶ井・番場の五宿には、この集荷で問屋場が6~7軒と多かった。」

柏原宿 西見附跡
 右側の桜並木が始まるあたりに西見附跡の説明板がある。
柏原宿の西の入り口で道の両側には食い違いの土手(土塁)がある。
ここから東見附まで13町(約1.4km)の町並みである。
天保14年(1843)のデータでは、総家数 344軒、本陣 1、脇本陣 1、旅籠 22軒であった。

一里塚跡
 少し先の右側に柏原一里塚跡の石柱があり、橋の向こう側に復元された真新しい塚がある。
北塚は、現在の中井町集会所(石柱の向かい側)にあったという。
日本橋から数えて115番目。

宿の家並み
 橋を渡ると、左手に金毘羅山と刻まれた常夜燈が建つ。文化12年(1815)建立である。(写真は振り返ってみたところ)
ここから先は宿場の町並みが本格的に始まる。



郷宿(ごうやど)跡
 右側の塀の前に「郷宿」の説明板。
「柏原宿で現存する一軒の貴重な加藤家。 脇本陣と旅籠の中間 武士や公用で旅する庄屋などの休泊に使用されてきた」 という。

 すぐに信号のある交差点となるが、この左手一帯が柏原御茶屋御殿跡である。 元和9年(1623)に秀忠が新築、徳川幕府の勢力増大につれて将軍の上洛は減少し、元禄2年(1689)に御茶屋御殿は廃止された。

 この先 家の軒先や前に、旅籠屋鶴屋、問屋役年寄、艾(もぐさ)屋亀屋、などの看板が掲げられている。

「やくし道」道標

  少し先右手にきれいに保たれた古い道標がある。
最澄が創立したという明星輪寺泉明院(眼病に霊験あるとされた)への道しるべである。同様の道標が、先ほど歩いてきた長沢にもあった。
 「従是明星山薬師道」  「やくしへのみち」 (-変体仮名で一面、平仮名で一面)  「享保二 丁酉*春」と刻まれている。
 

柏原宿歴史館
 日枝神社参道入り口から見た町並み。

 すぐ先に柏原歴史館がある。大正6年(1917)に建てられた旧松浦邸を改築したもので、幾重にもなった屋根が、虫籠窓が多い町並みから見ると珍しい。

伊吹堂
 右側には寛文元年(1661)創業の伊吹艾(もぐさ)本舗・亀屋左京商店がある。
 伊吹山の麓の柏原は、名産伊吹艾で知られ、多い時には十数軒の店舗があったという。
広重の柏原の「か兎や」に描かれている福助人形が有名である。

<すぐ先の市場川にかかる橋から西方面を振り返った宿場風景>

高札場跡
 橋を過ぎた左手には常夜燈が建ち、その隣に高札場跡の説明板がある。
ここの高札場は、長さ4.8m、高さ0.9mの石垣の上に、高さ3.3mの高札掛け という大きさであったという。
 このあたりが市場町で、4つの町からなる柏原宿の宿場機能の中心であったという。

本陣跡
 すぐ先が本陣跡である。
江戸時代を通し南部家が本陣役を務めていた。間口はこの家の両隣を合わせた広さで、屋敷は526坪、建坪は138坪あったという。皇女和宮宿泊の時には建物が新築されたといわれる。
 すぐ右側に続く家の前には、南部家の第4代辰右衛門と第九代の俳句・短歌が掲げられている。

案内板
 すぐ左に高札場とそっくりに造られた大きな柏原宿の案内版がある。
柱の脇には、「問屋役・・」の看板と、「映画監督吉村公三郎の実家・・柏原宿最後の庄屋・・・」の看板が掛っている。

その先の旅籠屋跡の説明板には天保14年(1843)の宿内職業記録が記されている。
 艾(もぐさ)屋  9 (屋号の頭はどこも亀屋) 造り酒屋  3
 請負酒屋  10  炭売茶屋  12 豆腐屋  9  他商人  28  大工  10  鍛冶屋  1 諸職人 13  医師 1 
 
JR柏原駅が近くなり雨模様だったので、今日の旅はここで終了。
 







  柏原駅から見た伊吹山の麓。
  散策日   2014年12月12日   近江鉄道 鳥居本ーJR柏原駅
  参考   「中山道を歩く」       横山正治・安斎達雄