草津―武佐 地図→①草津-栗東 ②栗東-野洲 ③野洲-鏡 ④鏡-武佐 |
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旧東海道の旅が終わって1年ぶりの散策であるが、草津にはその時に2回ほど宿泊し、また草津線経由で水口に行き来したので、すっかりなじみの駅となった草津である。 草津宿の中心地であった東海道と中山道の分岐点まで行く。そこの道標が今回の中山道の出発点である。 |
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道標 |
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駅から南に向かい、天井川であった旧草津川の土手にぶつかり、左に行い、トンネルを右に進むと本陣など草津宿の中心となる。 道標がある。 常夜燈を兼ねた道標で、高さ4.45m、文化13年(1816)建立された。 右 東海道いせみち 左 中仙道美のぢ と刻まれている。 このあたりには高札場もあり、東海道は、土手に沿って東に500mほど進んだところで川を渡ったが、中山道は、ここで天井川の堤防を上ってから川越し、北(左)に進んでいった。 トンネルから先は、アーケードのある商店街である。朝早く横浜を出発し、午前11時スタートとなった。通り全体を覆うアーケードが少なくなっていく中で、めずらしく、ここの商店街は草津駅前に続く交差点まで300mほどつづく。 |
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大路井(おちのい)道標 |
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商店街の途中約200m進んだ交差点右側前方に覚善寺の山門が見える。先ほど通ったトンネルが明治19年(1886)に完成したのち、東海道のルートが変更され、ここから東へ進むことになり、新しく道標が建てられた。 中山道に面していた覚善寺の南西角にあったが、ここ山門前に移された。 ![]() アーケードを抜けたところあたりに、草津一里塚があったという。 その先の通りは中山道を示す薄茶色に舗装されている。 |
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伊砂砂神社 |
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小さな川を渡った先に右側にこんもりした林があり、伊砂砂神社がある。 創建は不明で、この名前は明治からのもので、古くは天大将軍社と称したという。、国の重文の本殿は棟札によれば、応仁2年(1468)に建立され、ご元禄4年(1691)修理されているという。 室町時代後期の本殿建築の様式がよく出ているという。 しばらく行った先はJR線に、さえぎられている。そこで、畳店の前から左に入りちいさな細いトンネルをくぐって、JRの西側にでたあと、北東にまっすぐ進む。栗東市にはいる。 |
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大宝神社 |
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栗東駅入り口の信号を過ぎた先右手に大きな鳥居があり、その奥に広い敷地が広がっている。 長い参道の先の享保3年(1718)に建立されたという四脚門を入ると、広い境内に檜皮葺の拝殿、本殿がならぶ。 由緒及び神社のHPによれば、大宝年間(701~4)に大宝天王宮として創建、慶応4年(1868)の神仏分離令で、大宝神社と改めたという。 参道入り口の脇に、芭蕉句碑がある。「へそむらのまだ麦青し春のくれ」 芭蕉が北陸方面を旅した帰りに綣(へそ)村の立場で詠んだ句、との説明がとなりの石碑にある。 ただし、芭蕉の句かどうか今後の研究課題である、としている。 ここの地名は「栗東市綣」であり、鳥居の近くに、綣の由来が書かれた説明板がある。・・・弥生時代後期集落が形成されたころから「へそ」と呼ばれ、漢字が伝来したした時に「綣」を考えたという。 この地では、糸づくりが盛んで、植物繊維から糸を紡ぐ時の糸を巻き取った形状のものを「へそ」といったことから、糸と巻くを一字にしたというのが伝承のひとつである。 |
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十王寺 |
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数百m先左に 十王寺があり、門の前に「焔魔法王小野篁御作」と彫られている石柱がたつ。 平安時代前期の公家・文人である小野篁の開基という。 篁は夜ごと井戸を通って地獄に通い、閻魔大王の補佐をしていたという伝説がある。十王寺を建てたとき閻魔大王の像を安置したことから、この付近は焔魔堂村とよばれ、今でも町名に残っている。 ![]() 向かい側の空き地の端に「従是南淀領」という傍示杭がある。 ![]() すぐに、「焔魔堂町」という交差点を通り過ぎる。 その先には古い佇まいの民家もある。交差点から200m程先にJAの建物が見えてくる。その前に一里塚がある。 |
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今宿一里塚 |
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中山道の一里塚は、江戸日本橋から草津宿まで129か所あったが、今宿の一里塚は128番目にあたる。南塚のみ残っており、、滋賀県内で唯一現存している塚で、榎が枝をひろげている。 先代の木が枯れた後の脇芽が成長したものという。 その先右手に本像寺のあるところあたりから、ところどころに古い民家が残っている家の前に「中山道守山宿」とかかれて木製の灯篭風のものがおかれている。 いよいよ守山宿である。西のはずれである。 |
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守山宿 |
町並みは、東西に1.3kmで、天保14年(1843)の総家数は415軒、本陣 2、脇本陣 1、 旅籠 30軒という。 京都三条大橋から江戸に向かう人の最初の泊りが守山宿という。 |
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どばし |
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この先に小さな守山川があり、欄干に「中山道守山」 「どばし」かかれた橋を渡る。手前左の樹下神社の参道入り口にたっている石柱によると、 「戦国時代は、瀬田の唐橋と同様に近江路で戦略的に重要な橋で、板の橋のうえに土を盛った橋で、、どばしといわれ、全長 20間(約36m)巾 2間(約3.6m)であった」という。 守山銀座商店街西の交差点を過ぎるあたりから、宿の雰囲気があらわれてくる。 |
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東門院 |
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すぐ先左側に東門院の山門がある。 門前の説明文によると、延暦7年(788)最澄が比叡山延暦寺を創建の際、寺の四境(東西南北)のうちの東門の寺院が始まりという。桓武天皇が叡山を守る寺と評したことから、東門院守山寺の寺号を受け、守山の地名の由来となったという。坂上田村麻呂が戦勝祈願での勝利後、七堂伽藍を建立寄進したと伝わる。 ![]() 境内西に、左から石塔、五重塔、宝篋印塔、3基の石造物がある。いずれも鎌倉時代の造立と考えられ、中でも中央の石造五十塔は重要文化財に指定されている。 江戸時代の朝鮮通信使節使の宿舎にもなったという。 |
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道標 |
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すぐ先の三叉路の正面には保存状態のよいきれいな道標が立つ。、高さ約1.55m一辺約30cmで、延享元年(1744)建立である。 「右 中山道 并 美濃路」「左 錦織寺四十五丁、こ乃者満ミち」と彫られている。 ・・・・「こ乃者満ミち(このはまみち)」とは琵琶湖の津として賑わっていた木浜港へ通じる道のこと。 この地点は 掟書などが掲げられていた高札場の一角でもあったという。道標から右に曲がり宿の中心街に入っていく。 |
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本陣跡 |
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次の右角に、本陣跡の石柱と説明板がある。本陣があったと推定される場所という。左には「井戸跡」が残されている。井戸は守山宿は野洲川の旧河道がつくった自然堤防という微高地のため、用水路がなく宿場の防火や生活用水に使用された、という。 |
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天満宮 |
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左手には天満宮がある。 天徳3年(959)の創建という。 鳥居の前に、「稲妻型屋敷割りの道」の説明板がある。このあたりの道は、道幅が広く、また道路に沿った民家の敷地が、一戸ごとに段違いになっているという。その段違いの長さは一定ではないが、およそ2~3尺で間口の幅とは関連ないという。 屋敷割の説明図⇒ 天満宮の向かいには、昔の面影を残した造り酒屋「うの家」がある。元総理の宇野氏の生まれ育ったところ。今は守山市が買い取り、改修し情報発信の場としている。 |
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いしべ道の道標 |
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すぐ先の右へ入る道の角・・西藤小児科の前に道標が立っている。 「すぐいしべ道」 「高野郷新善光寺道」と刻まれている。この道は東海道の石部宿へ入る道として利用され、また途中にある新善光寺への参拝にも多くの人が利用したという。・・・昨年旧東海道歩き(石部~瀬田)の時に参拝した。 吉見西の交差点から300mほど進むと、「帆柱観音 慈恩寺」の 石柱と説明板がある。 最澄が唐から帰国の折、海難に会ったが、観音により無事帰れたことから、折れた帆柱から十一面観音を造りここに安置したという。 |
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高札場跡 |
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すぐ先に、中山道←の矢印ある地点で、左斜めに進む。小さい川が流れているがそこに高札場跡の説明板がある。 ここから東海道に連絡している「石部道」が分岐していたという。 ここから先が、守山宿の「加宿」である「吉見宿」の入り口である。 加宿=江戸時代、五街道などで宿駅の中で、人家が少なく人馬を 出しにくい宿駅で、隣接の村を加えて人馬の用をおこなわせた。 主となる宿駅にたいして隣接する村を加宿といった。 手前の今宿も該当する。中山道では、守山宿としては吉見、今宿 諏訪宿としては友之町 などがある。 |
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野洲川 |
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数百mで、野洲川となる。河川敷は広い。 夏・秋は水量が激減し、水量の少ない時は、仮橋で渡し、多い時は舟渡であったという。 上流-南東方向には、旧東海道からも近くに見えた三上山(近江富士)が美しい姿をみせている。 |
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道の景色 |
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野州川橋を渡ってからまっすぐ進み、新幹線の高架下を過ぎると古いただ住まいの落ち着いた町並みとなる。![]() 民家の民家の角にまつられている地蔵、石塔群は、工事の関係から一か所にまとめられたものと思われ 、これからも各所で見られる。←酒屋(宇野勝酒造) |
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蓮照寺 |
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400m程先の変形4叉路の左側に蓮照寺があり、境内の梵鐘の前に、3基の石標がたっている。そのうちの一つが、大きな道標で、享保4年(1719)建立で、「右 中山道」 「左 はちまん道」と大きな字で刻まれている。この先にある朝鮮人街道との分岐点にあった道標がここに移されたものという。 ![]() 道の向かい側にある唯心寺の茅葺屋根の本堂。 |
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背くらべ地蔵 |
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次の広い交差点からも三上山がきれいに見える。渡った右側の小公園に2体の地蔵が並んでいる。右:背比べ地蔵 左:阿弥陀如来立像 両方とも鎌倉時代のもので、『中山道を行き交う人の道中を護ったといわれる。。また、子を持つ親たちが「我が子もこの背の低い地蔵さんくらいになればあとはよく育つ」と背くらべさせるようになり、いつしか背くらべ地蔵と呼ばれるようになった。」という。(説明文より) |
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朝鮮人街道分岐点 |
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100m程先で斜め左に進む道がある。柱に「朝鮮人街道」の矢印がある。 街道はここ小篠原から近江八幡、安土、彦根を経て鳥居本まで続く40kmの道程である。(八幡道、京道、彦根道と呼ばれた)中山道が安土城を経由しないため信長が岐阜から京都に向かう道として整備、家康も上洛の際この道を通り、その後、将軍専用の道となった。 また慶長12年(1607)から始まった朝鮮通信使の一行の通行が認められ「朝鮮人街道」と呼ばれるようになった。 この先の野洲小学校の前に、「中山道・外和木の標(しるべ)」という説明板が掲示されている。・・・朝鮮人街道の分岐点の地名が小篠原字外和木であることから名付けたという。 |
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道の景色 小学校前の交差点(5叉路)を東に向かう道を進む。新幹線の高架下をすぎたあと、道は緩やかなカーブで左に、右に進んでいく。 |
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| 曙酒造 本藍染の森家であった所 今は説明看板なし |
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大岩山古墳群 |
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集落がとぎれ、新幹線の高架が近くになり、右側には田畑がひろがる。その先に小高い丘陵が迫ってくる。このあたり一帯は弥生時代の24口の銅鐸が発見された遺跡や、5世紀~6世紀の多くの古墳が残っているところで、大岩山遺跡と大岩山古墳群とよばれる。、 |
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甲山(かぶとやま)古墳 |
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街道に面した山道を登っていくと、甲山古墳がある。ここは標高110mの丘陵先端に造られた6世紀前半の円墳で、直径約30m、高さ10mで、横穴式石室がある。 石室の手前まで穴を進むと柵があり、その奥には、長さ2.6m、幅1.6m、高さやく2mの石棺が納められている。 |
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子安地蔵堂 |
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街道に戻り300m程進むと、山門を構えた子安地蔵堂がある。 説明板によれば・・「この地方には比叡山三千坊に数えられた数多くの巨刹の一つに安置されていた地蔵菩薩で、元亀2年(1571)の信長による比叡山延暦寺の焼き討ちの際に、兵火を免れたのが、この地蔵菩薩で、平安時代末期の作と考えられ、という。」 子安地蔵として篤く信仰されている。 ![]() その少し先には、長屋門を構えた民家があり、篠原神社の鳥居の前を過ぎるととすぐ家棟(やのむね)川を渡る。 <撤去される前の家棟隧道> その手前に、興味深い説明板がある。・・・天井川であった家棟川に大正6年(1917)トンネルが掘られ、家棟隧道が完成した。・・・その後昭和8年、国道8号線の工事に伴い家棟川の切下げ工事が行われ、トンネルは撤去された。 (天井川の下にできたトンネルは旧東海道の石部の東に二つある) |
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国道に合流 |
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西池 しばらく進むと、国道8号線に合流する。右側に少し高い「篠原堤」という堤防がつづき、向こう側に西池が広がる。数百m進み信号の先を、左に分岐して国道をはなれ、300mほどで、再び合流する。蛙不鳴池 合流地点から500m程先の信号の先右手に、池がある。この池の向こう側に、義経軍に処刑された平宗盛父子の胴塚があり、この池は二人の首を洗った池といわれる。 宗盛父子の首を洗ってからは、蛙も鳴かなくなったことで、「蛙(かわず)なかずの池」とよばれる。 |
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平家終焉の地 |
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池の東側にある作業場の先に 「平家終焉の地」の白い看板が立っている。 細い道を入っていくと、薄暗い林の中に、説明板と、平宗盛卿終焉之地」の石柱、小さな五輪塔、自然石の2基の石碑がある。平宗盛、清宗父子の胴塚という。 元暦2年(1185)平家一門が壇ノ浦の敗戦で入水した時、父子は死にきれず、義経の捕虜となった。義経の鎌倉行きとともに、護送されていったが、義経は頼朝との面会を許されず、京都に戻っていく。 途中 宗盛、清宗父子は近江のこの地で義経軍に処刑される。 首は三条河原でさらし首にされたが、二人の胴は一つの穴に埋められたという。 |
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道の景色 |
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国道に戻るとすぐに、右側を並行して進む細い道がある。右側に中山道らしく 祠の中に2体の地蔵が安置されている。. すぐ先に説明板があり、「このあたりには東山道の篠原駅があり、宿場とともに栄えていた。鎌倉時代頃より、篠原宿は衰え、宿場は鏡のほうに移っていった。」という。 |
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義経 元服池 |
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少し進むと、国道に合流する。すぐ左手に源義経元服池がある。
牛若丸は承安4年(1174)鞍馬寺を脱して金売吉次と東国に下る途中、ここ鏡の宿で元服の儀を行った。その時に使った水の池という. この地の烏帽子屋五郎太夫宅に宿泊し、夜半強盗が侵入したが牛若丸がことごとく退治りしたという伝説がある。 |
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鏡神社 |
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100mほど先に鏡神社の石段がある。創始年代は不詳だが、祭神は天日槍尊(あめのひぼこのにみこと)で、新羅国の王子で多くの技術集団を連れて近江の国に入り、文化を広めたという。 元服した牛若丸は、神社へ参拝、源氏の再興と武運長久を祈願したという。本殿は、蟇股を多用し、屋根はこけら葺きで、室町時代に再建されたものという。 石段左に牛若丸が烏帽子を掛けたという松の切株の一部がある。 |
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鏡の景色 |
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道は緩やかな下りとなる。 鏡は、平安時代から室町時代にかけて栄え た宿場で、中山道が整備されたあとは、宿場の指定からはずれ、守山宿と武佐宿の間の「間の宿」となった。左側には、江戸時代の旅籠加賀屋の跡や、江戸時代の本陣跡の立札がある。 江戸時代、宿駅制度上 間の宿には、宿泊施設は禁じられていたが、ここの場合、紀州侯の宿として、また将軍家の名代などが宿泊することが例外として認められていたようだ。 |
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義経宿泊の館跡 |
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少し先には、「平安時代-東山道 源義経宿泊の館跡」の立札と、奥に大きな石碑が立っている。 |
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道の景色 |
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次の交差点で国道から分かれれ右斜めにの細い道を進む。その交差点の角に愛宕山の常夜燈がある。 細い道のすぐ左手には道祖神がまとまっ て祀られている。双体道祖神も多くある。![]() 集落のはずれには江戸時代の旅籠亀谷跡の立札。 国道に合流し、すぐに新善光寺川を渡る。信号のある交差点から、 今度は左に分岐し、田園地帯と住宅地を進む。その先で日野川に突き当たり道は消えているので、迂回する。堤防沿いに国道まで行き、横関橋を渡り、元の道筋までもどることになる。 ここは舟渡で水量が少ない時は二艘の舟をつないで橋として渡っていたという。 (広重の絵-参照) |
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八幡神社 |
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田畑の広がる中をまっすぐ北東に進み、住宅地に入ってから右にゆるくカーブして、国道に合流する。(約1kmの道のりである。) 左側に八幡神社がある。 社伝によれば、源義家が奥州遠征の途中、応神天皇の霊を勧請し、武運長久を祈願して、八幡神社を造営したという。 今の本殿は文禄5年(1596)に再建され、昭和に入って解体修理されたものという。 国道を約500m進み、左へカーブする地点で国道と分岐する。 |
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住蓮坊首洗い池 |
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少し先の左側に小公園があり、柵で囲まれた古い池がある。 浄土宗の法然上人の弟子の住蓮坊と安楽坊が、承元元年(1207)死刑を宣告された。後鳥羽上皇の后妃2人を弟子とし、尼にした罪である。安楽坊は六条河原で処刑、住蓮坊は故郷の近江馬淵町で打ち首となった、という。 その首を洗ったのがこの池でと伝わる。 この時、法然は土佐へ、親鸞は越後へ流罪とされた。(⇒承元の法難という。)東へ少し進んだ先のT字路を右に数百m行った先に二人の墓があるという。 |
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道の景色 |
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T字路を左折し、六枚橋交差点を右折して国道にでる。右の工場群を見ながら進み次の信号で国道から分岐するが、右に曲がってからすぐに左へ進む。 しばらく行くと、大きな広い公園がある。大きな木の下に「伊庭貞剛翁生誕の地」という手書きの看板がある。伊庭は、明治中ごろ煙害問題解決の為、別子銅山の支配人となり、精錬所を沖合の島に移す計画を進め、周辺の山々の植林計画を実行に移したという。 静かな住宅地の中を、武佐駅に向かってすすむ。 武佐駅を右に見て近江鉄道八日市線の 踏切を渡る。右に曲がりすぐ左に曲がる桝形の道となっている。(武佐宿の西見附か)。この先まっすぐに北東に進んでいる。 |
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武佐宿 |
武佐宿は、天保14年(1843)のデータでは、総家数 183軒、本陣 1、脇本陣 1、旅籠 23軒であった。 木曽海道六十九次之内 武佐 広重 横関川(日野川)の舟橋の様子 |
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高札場跡 |
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すぐ先の左に入る道の両角に高札場跡の説明板と、愛宕山常夜燈と石碑がある。(説明板は1989年度武佐小学校卒 業生とあり、この先にも多く設置されている。) |
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松平周防守陣屋 |
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少しすすむと、右側に愛宕山常夜燈がたち、その左が松平周防守陣屋跡である。 武佐は松平周防家が藩主であった武蔵国 川越藩のとび領地であった為、ここで領地の管理をしていた。 |
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八風街道道標 |
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本陣の先の十字路の右角に道標が立つ。![]() 文政4年(1821)建立で 「いせ ミな口 ひの 八日市 道」 とある。 右に行く道は、日野を経て水口から伊勢へ抜ける道と、八日市を経て八風街道に出る道へ通じじている。 |
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下川本陣跡 |
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左手先に武佐郵便局がある。下川本陣があった場所で、道路側に本陣の門だけが残されている。![]() 横には往時の書状集箱を模したものが置かれ、実際に使われている。 |
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| このあたりで、夕闇が迫ってきており午後5時を過ぎていたので、本日はここで終了とした。 | ||||||||||||||||||||||||||||
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