柏原
赤坂


  
地図→ ①柏原-関ヶ原  ②関ヶ原-垂井  ③垂井-赤坂


 天気予報では関ヶ原近辺が 一時 雪 と言っていたが、雪の美濃路も味わいぶかいだろうと、期待して、早めに大垣駅 を出発し、柏原駅から、7時半のスタートとなった。
前日夕方、1時間ほど余裕があったので、大垣城を見学、杭瀬川の戦いや、家康・三成の戦略などの展示をじっくりと見て、本日の事前勉強をすることができた。


八幡神社
 駅からすぐ中山道で、まっすぐに東に向かう。左にある八幡神社は、本殿の屋根が桧皮で葺かれ、周囲が塀で囲まれており、伊吹山のふもとの神社らしい佇まいをもっている。       <本殿裏から東海道線越しに見る伊吹山の麓>

 その境内に芭蕉の句碑が説明文とともに建っている。
    其のまゝよ  月もたのまし  伊吹山  桃青

 芭蕉が元禄2年(1689)敦賀から大垣へ伊吹山を左手に見ながら北国脇往還を歩いた時に残した句で、「伊吹山は、花や雪や月の借景がなくても、ただ単に聳立する孤山としてだけで、立派に眺め賞し得る山容を備えていると褒めている」という。

東見附跡
 少し先の古い民家の脇に「東見附跡」の説明立札がある。
柏原宿の東の入り口で、「道の両側に喰い違いの形で土手(土塁)が築かれていた。土手は4巾2間半、奥行2間半」という。


照手姫笠掛地蔵
 通りの家並みが途切れるところ、左側の地蔵堂の中の小さい地蔵が笠懸地蔵である。
 もとはここから先のJRを越えた先にあった蘇生寺に本尊として祀られていたもので、中世の仏教説話「小栗判官・照手姫」にまつわる伝承の地蔵で、「常陸の国の城主小栗判官助重が毒を飲まされた時、愛妾照手姫が地蔵に笠をかぶせて祈ったところ全快した」という。

道の景色
 JRの線路が左に見えるところに「柏原宿の歴史」の案内板と中山道分間延絵図がある。
JRの踏切を渡り山裾に沿って進む
昨日歩いた柏原宿手前の北畠具行の墓への入り口で分かれた東山道が、このあたりで合流している
 左には楓並木、右手の先に名神高速のトンネルの見える山あいを進む、長久寺の集落に入る。

近江美濃国境
 集落のはずれあたりに、左側に「寝物語の里」の石碑と、右側には、近江国・長久寺村と美濃国・今須村の柱がたっている。
 この柱の間にある細い溝が国境で、石碑によると「溝を挟んで両国の番所や旅籠があり、壁越しに寝ながら他国の人と話し合えたので、寝物語の名が生まれた」という。
 
 すぐ先には、大きな自然石の芭蕉の句碑がある。
  正月も 美濃と近江や閏月
説明では、「貞享元年(1684)12月の野ざらし紀行の芭蕉が郷里越年のため熱田よりの復路23日ごろ この地寝物語の里 今須を過ぐるとき」の詠んだものという。
 すぐ先に大きな工場の建物群があるが、それを視界から消すと、静かな山あいの道が続く。

車返し地蔵尊
 JRの踏切と国道21号を横切ると、緩い上り坂となる。右側に「舊跡 車返」の石柱がある。
説明板によると「南北朝の頃、公家の二条良基がこの先にある不破の関の 関屋が荒れ果て、板庇から漏れる月の光が面白いと聞き、わざわざ都からやってきた。ところが屋根を直したと聞いて、引き返してしまった、という伝説から「車返しの坂」と呼ばれるようになった」という。
一段高くなったところに、地蔵の祠がある。

今須宿
 しばらくすると、旧街道らしい面影を残す家並みが始まる。
今須宿である。
天保14年(1843)で、総家数 464軒、本陣 1、脇本陣 1、旅籠 13軒であった。
家々の間から右側をみると、田畑が広がっているが、街道の両側に民家が並ぶ、東西約、1キロの宿場である。

常夜燈
 途中右手の民家の塀に囲まれて金毘羅大権現と彫られた常夜燈がある。
「京都の問屋河地屋は、大名の荷物を紛失したが、金毘羅様に願をかけたところ、荷物が出てきた。そのお礼にと建立した。 文化5年(1808)のこと」という。

問屋場跡
 少し先左側に大きな民家がある。問屋場で、今須宿には一時 7軒もあったという問屋場の一つで、この山崎家は縁起物の永楽通宝の軒丸瓦など、当時の威容を今に伝えているという。

本陣・脇本陣跡
 右側に今須小・中学校があり、その校庭が本陣跡で、2軒の脇本陣は駐車場付近にあったという。
 その説明板が学校入り口を少し過ぎたところに立っている。

宿の景色
 宿の東に位置する今須橋の手前に銅板で覆われた常夜燈が建っている。
比較的新しい常夜燈であるが、このあたりが、東入り口となっていたのだろう。

今須一里塚
 中山道は国道21号線で分断されている。
国道にぶつかるとすぐ右に一里塚がある。国道工事で撤去された塚を元の位置より東側に復元したものという。
(写真は国道南側から振り返ったもの)

少し先左手に、山の中に入っていく細い道が見えるので、横断歩道はないが、国道を渡っていく。

今須峠
 山道に入って上っていくと「今須峠」の説明立札がある。
下る途中には、東海道線の下りの踏切を渡る。
    

常盤地蔵と常盤御前の墓
 峠から下ってきて山あいの平坦な道を進んでいく。
 道沿いに小さな地蔵堂がひっそりと建ち、常盤地蔵が安置されている。  
またこの先300m程の左手の細道の奥には、常盤御前の墓がある。それぞれに説明板が立っている。
 伝説では、東国に向かった牛若丸(義経)の行方を案じ、乳母の千種と後を追って来た常盤御前は、土賊に襲われた。
そのうち義経がこの道を通って都に上るはず、その折には道端から見守りたい、と言って形見の品を宿の主人に手渡し、息を引き取った。 山中村の里人は、街道近くに塚を建て、近くのこの場所に序像を安置して供養したという。

 寿永2年(1183) 義経は上洛の近くの若宮八幡宮に到着、戦勝を祈願し、あわせて、この前で常盤御前の冥福を祈ったという。

黒地川と鶯の滝
 街道に戻り 東海道新幹線の高架をくぐる..。
 左手に地蔵の祠が3つならび、右手には鶯の滝と書かれた説明板がある。その位置から見下ろす形で、約5m程の高さの小さな滝がある。
 このあたりは、山中村と呼ばれ中世では宿駅として、その後の江戸期には今須宿と関ヶ原宿の間の宿として栄えた・・・立場や酒屋、古手屋などが軒を並べ活気を帯び、この滝は街道の名所となっていたという。

 左手の地蔵の祠の一つが、黒地川地蔵尊である。
壬申の乱(672)で、大友軍と大海人軍の間で激戦が行われ、大海人軍は、関ヶ原を迂回して側面を衝いてきた大友軍を撃退、その後近江へ出撃していったという。
この激戦で両軍の兵士の流血が川底の岩石を黒く染めたという事で、黒地川と名付けられたという。

<高札場跡>

少し先の左側には、「間の宿山中」の標柱と高札場跡の説明板がある。
ここ山中村はは江戸時代を通し、旗本竹中氏の知行地であったという。

矢尻の池(井)
 間もなく、国道21号線を渡る歩道橋となる。100m程先のY字路を左に進む。下り坂となる右手に、柵で囲まれた凹みがあり、「矢尻の池(井)」の説明板がある。
壬申の乱(672)の時に、大友軍の兵士が水を求めて矢尻で掘ったものと伝えられている。
左隣りには、箭先地蔵堂がある。明治11年((1878)に坂を開削した時に出土した地蔵と、近くの弘文天皇稜候補地の傍にあった地蔵を祀ったものという。

大谷吉隆(吉継)の墓 道標

  すぐ下には「大谷吉隆墓 七丁」という道標が立つ。ここから北西に約700m行ったところにある大谷吉隆=吉継の墓への矢印が示されている。・・・大谷は、石田光成の盟友で、病身であったが`義`を貫き関ヶ原に参戦した。

ここから先の中山道の道筋に残る遺跡をもとに、慶長5年(1600)9月15日の関ヶ原の合戦の様子を簡単に辿っていきたい。

 山中村の藤川台(この先を流れる藤古川の右岸にある高台)に布陣していた石田三成の盟友-大谷吉継は、不破の関あたりまで進撃してきた藤堂高虎・京極高知と奮戦、南側の松尾山に待機していた小早川秀秋の寝返りと、それに呼応した脇坂安治らの攻撃により壊滅、自害した。墓は敵方の藤堂家が建てたものという。

 急な下り坂の先に、、伊吹山麓から流れる藤古川を流れる。
その先に見えるのが不破の関のある高台である。

関の藤川-藤古川
 
 関所の傍を流れていることから、関の藤川と呼ばれ、古来より歌枕として多くの歌人に知られ、詠まれた。
 壬申の乱(672)では、西側に大友皇子、東側に大海人皇子がこの川を挟んで 開戦した。それぞれの住民は布陣した軍をそれぞれ応援したという。

橋を渡った先には急な上り坂である。
大木戸坂といい、このあたりに不破関の西城門があったという。

不破関跡

 坂を上ったところに「不破関跡」がある。
壬申の乱の翌年、天武天皇が設置し、越前の「愛発関(あらちのせき)」、伊勢の「鈴鹿関」とともに日本三関の一つである。
延暦8年(789)桓武天皇の代に必要性がなくなり廃止され、以後は、代々三輪家が関守をつとめていた。
この不破関を境に関東・関西の呼称が使われるようになったという。

 手前右の関守の屋敷跡には、芭蕉の句碑がある。
  「秋風や 藪も畠も 不破の関」

不破関庁舎跡と兜掛石
 すぐ先 左手に標識があり、民家の間を入っていくと、畠や茶畑が広がる一画がある。
このあたりに不破関の中心建物があったとされ、関内の中央を東西に東山道が通り、北側に塀で囲まれた約1町(108m)四方の関庁が設けられ、庁舎や宿舎が並んでいたという。

小さな祠があり、壬申の乱の時、大海人皇子が兜を掛けたと伝えられる石が祀られている。

不破関 東城門跡
 100m程すすむと左手の民家の垣根の脇に、説明板がある。
不破関の東端にあたり、城門や楼が設けられ、兵士が守りかためていたという。

 ここで、街道からそれて、南へ100mほどの春日神社に向かう。



福島正則 陣跡
 社殿は大きくないが、樹齢800年あまりという巨大な杉が境内にある。春日神社は関ヶ原の南東に位置する南宮山の頂上に上がる月見の名所であり、「月見宮大杉」と呼ばれていた。
 境内には「福島正則 陣所古趾」の石柱が立つ。

 福島正則は、三成と対立して、東軍に加担、この西北に位置する南天満山に布陣した宇喜多秀家と対陣した。
合戦の先鋒は福島隊と決まっていたが、松平・井伊隊が福島隊の脇を通り抜けて宇喜多隊の前へ進出、発砲した。福島隊は、宇喜多隊に対し一斉射撃を仕掛けた、激しい戦いを繰り広げた。

福島正則は、恩賞として安芸広島城主となったが、家康の死去、城の無断修理が武家諸法度違反に問われ、改易となった。


西首塚
 東城門跡に戻り、北東(東へ進む広い道ではなく)に進む。
国道21号線に合流し、ここからは交通量の多い中山道歩きとなる。
約200m先左手にある。
 当時この地の領主であった竹中重門が徳川家康の命により合戦の戦死者を埋葬した塚である。
東海道線工事の際に埋葬されていた白骨が大量に出たところから、大規模なものであったといわれる。


 
正面にある祠には、江戸時代から の十一面千手観世音と馬頭観世音が祀られている。

関ヶ原宿
 すぐ先の梨の木川のを渡ると、右手に明治5年(1872)建立の大神宮常夜燈がる。このあたりが関ヶ原宿の西入口となる。

 関ヶ原宿は、東西約 1.4kmの町並みで、
天保14年(1843)、総家数 269軒、 本陣 1、脇本陣 1、 旅籠 33軒であった。
 北陸方面へ向かう北国街道と伊勢方面に向かう伊勢街道の分岐点になっており、交通の要衝となっていた。

本陣・脇本陣跡
 200m程先の関ヶ原西町交差点を過ぎた先の左手、十六銀行あたりが、本陣の跡というが建物遺構はなく、その奥の八幡神社の建つ場所が本陣の庭であったという。
 すぐ先左手に「脇本陣」の表札のかかる門がある。相川脇本陣跡である。
門の前には、「至道無難禅師誕生地」の石柱がある。
 
関ヶ原駅前の交差点から、寄り道して東首塚と、東海道線の北側の関ヶ原の景色を見に行く。
関ヶ原駅の西の跨線橋を渡る。

松平忠吉・井伊直政陣地跡
 左手一帯が 林の広がる東首塚であるが、線路よりの東の一画に「茨原 松平忠吉・井伊直政 陣所古趾」の石柱が立つ。(もとは、ここより東へ200mの場所にあったが、大正時代にこの場所に移転された という)

 この地には、家康の四男 松平忠吉と 後の彦根城主 井伊直政が約6千の兵で陣を構えた。
直政は、娘婿で初陣でもある松平忠吉の手柄を立てさせたい一念で、午前8時ごろ 宇喜多隊へ発砲し、開戦となった。しかし、福島正則が先鋒であると咎められ、直政と忠吉は島津隊を攻撃し、大きな戦果を挙げた。2人とも傷を負い、直政は2年後に死亡した。


関ヶ原決戦地 方面
 写真は東首塚から関ヶ原町役場方面をみたところで、石田三成はその先にある笹尾山に本陣を置いた。(約1kmほど先)
 先日終了したNHKドラマ 官兵衛の嫡男 黒田長政は、竹中半兵衛の嫡男 竹中重門 らとともここから400mほど北の岡山山頂に布陣しており、午前8時ごろ狼煙をあげ、東軍の攻撃の合図となった。

 西軍有利の内に推移したが、正午ごろ、家康からの催促の鉄砲を撃ち込まれた小早川秀秋が、ついに東軍に寝返ったことで、一挙に東軍が優勢となった。東軍諸隊は三成の首を狙い激戦が繰り広げられた。午後2時には東軍勝利が決着、三成は逃亡したが、数日後に処刑された。
東首塚
 東首塚は大きなスダジイの下にある。
西首塚と同じく、竹中重門が家康の命により埋葬した。脇には首洗いの古井戸が残る。家康の首実検に先立ち、首装束のためこの井戸水を使ってきれいにしたという。

道の景色
 関ヶ原西町の交差点にもどる。左角に平安時代から続くという旅館枡屋があり、その向かい側には、「野上の七つ井戸」の説明板がある。少し先(東門交差点あたり)には、一里塚があったというが標識はない。500m程進むと、関ヶ原東町交差点で、このあたりが宿の東の入り口であった。
 すこし先で、国道から左に分岐する。
左側のJR東海道線、右の国道21号線にはさまれて、新しい松並木がつづく。

関ヶ原の景色
・・歩道橋から西を見る  一ツ軒交差点で国道に接する。
この先、国道の右側(南)にある家康の最初陣跡には、行く時間がないので、すぐ先の歩道橋に上がり、関ヶ原の景色とともに眺めた。
    歩道橋から東、桃配山方面→

i家康から見た関ヶ原はこんなものだったのか?・・・ところが合戦当日の朝は小雨で、濃い霧が立ち込めていたという。

桃配山 家康最初陣跡
 少し先の松並木が始まるあたりから、一段高くなった右側の国道の奥に山の一部が見え、そこに幟がたっており、大きな看板も見える。
 
 家康は9月15日早朝に赤坂から桃配山に兵を移動し、中腹に陣を敷いた。
桃配山(ももくばり)は、壬申の乱の時に大海人皇子がここに陣を構え、兵士に山桃を配り、戦いに勝利したとの故事に由来する。家康は縁起を担いでここに陣を構えたという。

松並木
 しばらくの間、きれいに整備された松並木が続く。
右側の小公園に六部地蔵がある。六部とは「六十六部」の略で全国の社寺を巡礼している人のことで、宝暦11年(1761)頃この地で亡くなった行者を供養したものという。

 松並木が終わる所に山内一豊の陣跡の説明板がある。
 山内一豊は桃配山から垂井の一里塚の間の中山道 左右に並列に布陣し、徳川勢の南後方に位置する南宮山に布陣した毛利軍の攻撃に備えていた。しかし、毛利内部の争い-吉川広家が反対した-で毛利軍は動かず、攻撃されなかったため、家康の命令を受け、柴井の地(関ヶ原中学校方面)まで前進、西軍と戦ったという。

野上 「七つ井戸」
 松並木が終わると野上の集落に入る。
関ヶ原宿と垂井宿の間の宿であった。また。中世東山道の時代は宿駅だった。
南側を国道が走っているため、交通量も少なく、静かな町並みである。
数百m進んだ左側に屋根に覆われた井戸がある。説明板によると、江戸時代頃から、僅少の地下水を取水して、防火用、生活用、農業用に利用され、街道筋の井戸として、「野上の七つ井戸」として親しまれてきたという。

垂井一里塚 と 日守の茶屋跡
 数百m進み、日守西交差点で国道21号線をわたる。右側に南の塚が完全な形で残っている垂井一里塚がある。
中山道では、国の史跡に指定された一里塚は、東京板橋にある塚と、この2か所だけという。

 この一里塚付近に、浅野幸長(よしなが)が南宮山の毛利軍に備えるため、陣を構えた。
幸長は五奉行の一人浅野長政の嫡男であったが、三成と確執があり、東軍に属した。


日守の茶屋跡
 すぐ左隣りに「日守の茶所」がある。 今須峠を下りて山中村に入ったところに、常盤御前の墓があるが、その傍に江戸末期に建てられていた秋風庵を、明治期になってこの場所に移したものという。
昭和の初めまで中山道を通るひとの休み場として盛んに利用されたという。

少し先、右側に「南宮江近道八町」の道標があり、その先で国道とJR線を渡る。

道の景色
 右側に大きな常夜燈と鳥居の参道が長く続く松島稲荷神社がある。このあたりは松並木沿いの小さな村で、松島と呼ばれた。
 その先の二叉路を右に進む。
左手の民家の前には小さな地蔵堂がひっそりと建っている。

垂井宿西見附
 小さな橋を渡ると、右が垂井宿の西見附跡で、奥に愛宕神社があり、「八尺地蔵尊道 従是 南八丁」と彫られた道標が立っている

 垂井宿は、天保14年で、総家数315軒、 本陣 1、脇本陣 1、旅籠 27軒 であった。
東西の見附の間は、約766mであった。

宿の景色 米屋
 宿の町並みには当時の連子格子の家が残っている。軒下に当時の屋号がかけられている。

左:米屋
右:油屋 伊蔵

本竜寺 高札場跡
 
 左側に町中としては広大な境内を持つ本竜寺がある。
この山門は、脇本陣の門を移築したという。
山門前に、高札場があった。

小林家住宅(旧油屋)
 すぐ右には、趣のある商家がある。説明板によると、油屋を営んでいた宇吉家から小林家が明治14年(1881)に譲り受け、昭和初期まで「亀屋」の屋号で旅籠を営んでいた建物という。
 建築年代不明(1817年頃の説あり)、2階両側面に袖うだつを設け、軒下には濡れむしろ掛けが残っており、代表的な商家の面影を残している、という。

宿の中心の景色

宿の中心部で、南宮大社への参道と交差している広い四辻である。

<北へ・・・大きな蔵が並ぶ>       <東・・・中山道 本陣方面>         <南・・・南宮大社への道>
 

南宮大社大鳥居
 鳥居の前に「南宮社江八丁」という道標がある。
南宮大社は、社伝によれば崇神天皇の時代にこの地に移され、古くは仲山金山彦社と称されていたが、国府から南方に位置するため南宮大社といわれるようになったという。
美濃一宮とされる。全国の鉱山金属業の総本社として崇敬を集めている。
 関ヶ原の戦いで、焼失、寛永19年(1642)家光の寄進により再建された。
 その中で、ここに建つ大鳥居・・花崗岩の明神型鳥居・・はおよそ400両の金で石屋権兵衛が建てたという。
常夜燈は天保11年(1840)建立

本陣跡
 100m程先の安田歯科医院の場所が栗田本陣跡である。
右側の電柱の脇に、本陣跡の石柱と説明板が立っている。
寛政12年(1800)の記録によると建坪178坪(587㎡)、玄関や門、上段の間を備える広大なものだったという。

 その先は、道が枡形となっており、左側角に亀丸屋がある。

旅籠 亀丸屋
 説明板:
『丸亀屋西村家は、垂井宿の旅籠屋として、二百年ほど続き、今なお、当時の姿を残し営業している貴重な旅館である。
 安永六年(1777)に建てられた間口五間・奥行き六.五間の母屋と離れに上段の間を含む八畳間が三つあり、浪花講、文明講の指定旅館であった。
 当時は南側に入口があり、二階には鉄砲窓の残る珍しい造りである。』
 

東見附跡と相川

                            
 その先の2叉路を左に進むと相川橋があり、手前に東見附跡の説明板がある。
 橋のたもとには、「相川の人足渡跡」がある。
相川は昔から暴れ川で、洪水がたびたびある為、江戸時代初期は人足渡しが主だったという。ただし、朝鮮通信使など特別の大通行の時には木橋が架けられた。

垂井追分道標
 橋を渡って右に進み、小さな川を越えると、垂井の追分で、ここは、左へすすむ。東海道と中山道を結ぶ美濃路の分岐点である。
 角に約1.2mの高さの自然石にきれいな文字で刻まれた道標がある。
『是より 右東海道大垣みち 左 木曽海道たにぐみみち』 
宝永6年(1709)に、垂井宿の問屋役が建立したもので、中山道にある道標のうちで7番目の古さという。

道の景色

<地蔵堂>

 お参りするスペースが屋根で覆われている。裏には馬頭観音の祠がある。

<喜久一九稲荷神社>

<御坊道の道標> 願證寺へ
 
 住宅地と所どころに工場が並ぶの中を広く整備された道が北東に向かって真っすぐ続く

青野 一里塚跡
  数百m進むと左に「中山道一里塚跡」の石柱があり、すぐ後ろに常夜燈が建つ。大正5年(1916)の建立である。
国分寺道道標
  少し先左手の空き地の角に「国分寺道」と刻まれた常夜灯がたつ。もう一つの面には薬師如来御寶前」とある。

 少し先の開けた地点から見た国分寺と「美濃国分寺跡」方面。
(この写真の左側奥)




 500mほど進み、県道を斜めに横断し小さな大谷川をわたる。青墓町に入る。
 このあたりは、東山道時代 青墓宿として栄えた所で、大きな古墳が多くあったことから、「大墓」→「青墓」こなったという。
(赤坂宿ができるとすたれていった)

圓願寺・芦竹庵
 少し先左手の空き地の前に「圓願寺・芦竹庵(よしたけ)」とある真新しい石柱が立っている。 その奥に廻り込んでいくと、、五輪塔が数基ならんでいる。これは、小篠竹の塚と呼ばれ、青墓にいた照手姫という遊女の墓という。
 その前に大きな説明板があり、伝説を紹介している。
『牛若丸は金売吉次を伴に奥州に落ち延びるときに、青墓の圓願寺で、父の供養・源氏の繁栄を祈願。「持っていた杖代わりの芦を地面に差し「挿しおくも形見となれや 後の世に源氏栄えば 芦竹となれ」と詠んだ。後に芦から見事な竹が育った。それを芦竹と呼び この寺を芦竹庵と呼ぶようになった』

照手姫の水汲み井戸

 すぐ先の右に入る細道を進むと井戸がある。 説明板によると、
『昔、武蔵相模の郡代の娘で、照手姫という絶世の美人がいた。
この姫と相思相愛の小栗判官正清は郡代の家来に毒酒を飲まされ殺された。照手姫は悲しみから旅に出て放浪、青墓の長者の所に売られ、無理難題な仕事をさせられていた。
一方 正清は霊泉で蘇り、美濃国の役人に任命され、青墓で再会、妻に迎えた。この井戸は、照手姫が籠で水を汲んだと伝えられている。』という。

如来寺-昼飯(ひるい)町
 JR東海道線をくぐって昼飯(ひるい)町に入る。左手奥に如来寺があり、町の名前の由来がかかれている。
 善光寺如来という仏像が大阪の海で拾い上げられ長野善光寺に運ぶ途中、このあたりで昼飯をとったことから昼飯とよばれ、「ひりめし」は下品だという事で「ひるい」と呼ばれるようになった、という。
 如来寺は、善光寺如来の昼の供養をした関係から、建久6年(1195)に東の花岡山に三尊仏を安置したのがはじまりという。

昼飯大塚古墳

 2~300mほど先に右へ入る細道に標識が立っている。
県下最大の前方後円墳で、当時の姿に復元されている。
長さ150m、後円部直径約96m、前方部の長さ約150mで、4世紀後半から5世紀初めころ築造されたという。



金生山
その先3~400mにわたって、左手に石灰関連の工場が続いている。その先には廃線(2007年)となった西濃昼飯線の線路が道路で分断されている。
線路の奥に見える金生山は、良質な石灰岩・大理石があることから、江戸時代から採掘が行なわれており、東海道の大垣からの支線や西濃鉄道が開業された。この先の赤坂の北方にはさらに多くの石灰関連の事業所がある

兜塚、赤坂宿「御使者場跡
 すぐ右側の小さな古墳上に、「兜塚」がある。
関ヶ原合戦の前日の、杭瀬川の戦いで、笠木村で戦死した東軍中村隊の武将・野一色頼母を葬り、鎧兜を埋葬した所と伝えられている。
又、ここは赤坂宿の「御使者場跡」でもあり、西の入り口であった。

 赤坂宿は東西約800mの町並みで、天保14年(1840)、総家数 292軒、 本陣 1、脇本陣 1、旅籠17件である。

宿の景色
 少し先からは、宿の町並みらしくなる。
文久元年(1861) 皇女和宮が赤坂宿に宿泊する際、街道沿いにあった古い建物 50数軒が急きょ 表側が2階建てにに見える造りに建て直されたという。
「お嫁入り普請」といわれる。

<所郁太郎生誕地>
 子安神社入り口の標識のあるところに、「憂国の青年志士」と刻まれた石柱が立っている。
 所育太郎は幕末の勤皇の蘭医学志士として、高杉晋作らと行動を共にし、刺客に襲われ重傷を負った井上聞多(馨)を、畳針で縫合手術し一命を救ったことが知られている



その右には、古くなった家がのこる。
こうした建物の維持管理・町並みの景観保存等には 多くの労力は払われていると思われる。歴史のある町にとっては大きな課題であろう。

脇本陣
 少し先右側に「五七」という大きな看板のついた休み所があり、その隣が脇本陣跡である。
説明板によると、「宝暦年間(1751~84)以降、飯沼家が代々脇本陣役を勤め、また問屋・年寄役を兼務した。明治維新後は榎屋の家号を用いて旅館を営み今日にいたっている」という

 ここから先の「四ツ辻」まで、右側に一連の家屋が続いている。
これは国の有形文化財に指定されている矢橋家の住宅である。

矢橋家住宅 主屋
 東よりの2階建ての建物が主屋(母屋である)
大垣市のHPは、次のように述べている。
『矢橋家住宅は、中山道に北面する平入の大型町屋で、往時の赤坂宿の中心部の雰囲気をよく伝えています。天保4年(1833年)の建築とされる母屋は、長大な梁間に架けられた大屋根の瓦が威容を誇る一方で、2階の軒高が低い途子二階の技法が採られるなど、江戸時代末期の地方都市における大型町屋の特徴がよく表れています。正面外観は2階の軒裏や袖壁を黒漆喰塗りとし、窓は千本格子をはめる瀟洒な意匠となっています。』

四ツ辻 道標
 矢橋家の住宅の脇を南北の道が交叉している。
北に向かう谷汲巡礼街道と、南へは伊勢に通ずる養老街道の起点となっている。

 天和2年(1682)建立の「たにくみ道道標」がある。  
右側には「禅蔵寺道」と刻まれた道標も建つ。(天保4年(1833)建立

四ツ辻の景色

<北へ:たにくみ街道>

<西:矢橋家>          <南へ:養老街道>
  
 
<西へ:枡形→本陣方面>

本陣跡
 枡形の先が本陣跡で、「赤坂本陣公園」になっている。
本陣の敷地は、820坪、 建坪239坪の、玄関、門構えを備えた豪勢なものだったという。寛永以降 馬淵家、平田家、谷家と続き、以降は矢橋家が明治維新まで務めた。
 皇女和宮が宿泊したのは、文久元年(1861)10月25日であった。

公園の一角には、先ほど見た「所郁太郎」の銅像が建っている。

西濃鉄道の踏切を渡ると、その先に浅間神社があり、大きな常夜燈が目につく。その下には、旧杭瀬川が流れ、港が復元されている。


 

旧杭瀬川 赤坂港跡
 常夜燈の下には、旧杭瀬川が流れ、港が復元されている。
 旧杭瀬川は、昔は揖斐川の本流であり、赤坂港は舟運の港として養老町の烏江などを経由して下流の桑名方面と結ばれていた。
ところが享禄3年(1530)の洪水で流路が変わってしまったが、上流の水や湧水で水量は維持され、港として繁栄していた。明治にはいってからは、金生山で採掘された石灰の積み出しで賑わったが、大正時代にはいり、鉄道が施設されるとともに、港も衰えてしまった。
        旧赤坂港→

杭瀬川の戦い
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津軽屏風 (大垣城より)
・・関ヶ原の戦いの前日に、この川を挟んで杭瀬川合戦があった。・・・・
 慶長5年(1600)8月10日 石田三成は大垣城へ入城し西軍の本拠地とし、東軍は8月24日赤坂を占領して岡山(のちの御勝山)を本陣とし、大垣城と岡山の間で戦いが始まろうとしていた。
9月14日家康が大軍を率いて岡山に到着すると、西軍は動揺した。
事態を憂慮した三成の家老・島左近(清興)は西軍の士気を高めるために大垣城と赤坂の中間の杭瀬川に攻撃を仕掛けた。東軍の中村・有馬の両軍は壊滅状態となり、西軍の大勝となった。
 次の日、家康は大垣城を攻めず 「三成の佐和山城を攻め大阪へ向かう」としたため、西軍は関ヶ原で家康を迎え撃つことになった。

赤坂宿御使者場跡
 橋を渡った先には、赤坂宿の東の入り口である御使者場跡がある。
 <常夜燈の向かいに建っている火の見櫓> →

 200m程進むと、杭瀬川にかかる赤坂大橋であるる。


渡ってすぐに、左へ分岐していく。

一里塚跡
 静かな住宅街を進んでいくが、南北に走る道を斜めに横切った少し先に石柱がある。
民家の前にあり、気づきにくいが、「史跡 中山道一里塚跡」とある。
池尻 または 青木の一里塚といわれている。

ここから500mほどで、養老鉄道の踏切となる。

すぐ北側に東赤坂駅があり、若干時間が早かったが、今回の旅はここまでとした。
  散策日   2014年12月13日   JR柏原-養老鉄道 東赤坂
  参考   「中山道を歩く」       横山正治・安斎達雄