赤坂
加納


  
地図→ ①東赤坂-美江寺  ②美江寺-鏡島  ③鏡島-加納


 横浜からの接続がうまくいって、養老鉄道の東赤坂駅着は、午前10時半前であった。
今回は平坦な道を東へ東へと進む。

加納薬師如来道標
 駅から東へ行き、200m先の変則十字路を右折するが、そこに地蔵堂がある。中に道標を兼ねた地蔵が祀られている。
「左 かのふ村 やくし ミち」と刻まれたきれいな道標であり、明治2年(1869)の建立とある。
 堂の手前には「加納薬師如来 是より八丁」と刻まれた石柱がたっている。
 

 すぐ先で左折ししばらくの間 田畑の中の道を進む。
ふりかえると、伊吹山が姿を現している。


 中沢交差点の手前の細い道を右へ入るのが中山道で、突き当りを左折し、道路を横断して東へ、加納排水路をわたる。

中山道七回り半
 道が緩やかにカーブし、そこから先は道に沿って住宅が並ぶ。
民家のブロック塀の手前に、「七回り半」の石柱が立つ。
この先に、「三回り半」という石柱もあるが、
これは、大名行列が少しでも長く見えるように曲がりくねった道をつくったということらしい。

聖観世音菩薩
 信号のない交差点の左角に「道標 聖観世音菩薩」とある真新しい石柱がある。
奥に 小さな祠があり、菩薩像が祀られ、わきに「右ぜんこうじ道 左 谷汲山ごうどいび近道」と刻まれている。(年代不明)


三回り半
 左側の長徳寺を過ぎ数百m進み、岐阜経済大学のグランドを左に見てさらに進むと、正面に平野井川の堤防が見えて來る。曲がったところに「三回り半」の石柱があり、そのまま堤防下の道を進む。
左に大きく カーブした先で堤防上を走る道路にでる。


 左側の川を越えた先に神社の鳥居が見える。少し寄り道となるが、堤防上の道から左に進み、柳瀬橋を渡って一里塚跡に行く。

一里塚跡
 橋を渡った少し先に神明神社があり、その境内の手前端に、「美濃中山道と一里塚」という大きな説明板が立っている。
それによると、一里塚は今の平野井川と柳瀬橋の付近にあったという。


 元の堤防上の道に戻る。
「大島バス停」があり、その先右側、堤防上の道との間に大きな道標が立っている。

墨俣追分道標
 「左 木曽路 右すのまた宿」と大きな文字で刻まれている。
堤防上の道はこの先(下流)で、美濃街道につながっていた。
約数百mを歩いただけだが、この堤防は大垣輪中の一部である。

堤防の下の道を進み新橋で平野井川を渡る。

呂久の渡し 渡船場跡
 300m程先、右側に子簾公園が整備されており、その西端に「揖斐川呂久渡船場跡」の石柱と説明板がある。
それによると、「大正14年(1925)、木曽川上流のクリックすると拡大改修に伴い揖斐川の付替え工事が行われ、揖斐川はこの地から東に移った。ここは川の東側に位置していた。」(地図参照→クリックすると拡大))
 
 「慶長15年(1610)頃、呂久の渡しの船頭屋敷は、13を数え、この先にある船年寄り馬淵家には船頭8人、助務7人が置かれていた。そのころの川幅は通常で90m、多いときには180mに及んだ」という。

家並み-馬淵家の長屋門
 すぐ先に、船年寄り馬淵家の長屋門が残っている。門の前には明治天皇御小休所跡の石柱が建つ。
 
 揖斐川の土手の手前で左折して北に向かうがこのあたりの家の土台は、洪水に備えて石積みで高く保たれている。
 
 街道は良縁寺の脇を北に向かっていたが、揖斐川の土手で中断されている。
そこで土手沿いにすすみ、揖斐川にかかる鷺田橋をわたる。、

揖斐川
 渡ってすぐに左折、土手沿いに進むと、北西にまっすぐ伸びる畑の中の道が見えてくる。街道の続きである。

大月浄水公園
 700m程進むと道は公園に突き当たり、その右手の学校の敷地で消滅している。
公園には街道に模した道が造られ、大きな「中山道跡地」の説明板が立っている。それによると渡しの)あった呂久から、この先の千体寺のある附近(新月橋)まで松並木があったという。
学校の前の道路を北に行き、信号の先を右折、すぐ左折して、豊富な水をたたえる犀川に沿って北上する。

十七条城跡
 右にゆるくカーブしていく途中に「十七条犀川河川公園」の標識があり、少し立ち寄りで、橋を渡った奥のこんもりした林を目指す。熊野神社である。境内右手に「春日局ゆかりの地」という石碑と説明板がある。
 このあたりは、南北朝の初め、舟木氏が築いた城で、その後城主が代々変わって林氏の居城となった。
ここで生まれた林正成(まさなり)は稲葉と改姓となり、後に家光の乳母となるお福(春日局)と結婚したという。

元に戻り犀川沿いのゆったりとした喉かな道をのんびりと歩く。

千躰寺
 集落が始まり、左手に白く塗られた小さな祠が見える。
千躰寺で、説明板によると、高さ12~23cmの桧材一木造の阿弥陀如来立像、千体が祀られ、千躰仏といわれ、鎌倉時代後期から南北朝時代のものとつたえられる。禅僧自然居士(じねんこじ)の作という。

千手観世音堂
  ここで右に曲がり、犀川に架かる新月橋を渡る。
東側に観音堂が建ち、石造千手観音像がまつられている。天保4年(1833)に寄進されたという。

美江寺宿 西入口
   100m程先で西に曲がる。大正10年(1921)に立てられた道標-右 大垣赤坂二至ル 左 大垣墨俣二至ル  がある。
 美江寺宿の西の入り口となる。
天保14年(1843)、本陣 1、脇本陣 なし、旅籠 11軒、総家数136軒であった。
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広重 美江寺宿
左奥が町並みで屋根のみ、手前が犀川

宿の景色-1
 道は約300m北に向かい、美江神社で右に曲がっていく。
<本陣跡>
 中ほどに、本陣跡の石柱がある。
<和田家>
 神社の手前左には、美江寺(十六条)城主和田氏の末裔と伝えられる和田家がある。

美江神社・高札場跡
 美江神社の鳥居の脇に高札場があっった。
神社の境内には、高札場が復元されている。
奥には美江寺観世音堂がある。
美濃最古の天平仏十一面観音立像があったが、斎藤道三が稲葉山城を築いた際に現在の岐阜美江寺へ移されたという。

宿の景色-2
 街道はここから東へまっすぐ進む。自動車の交通量が比較的多い道となる。
<造り酒屋 布屋>
元禄9年(1696)創業という。
明治24年(1891)の濃尾大地震で宿並みは壊滅したが、この建物は倒壊しなかったという。





<美江寺一里塚跡>
信号の手前左側に、一里塚跡の石柱がある。


東の入り口 道標

 美江神社から350m程で宿の東口となる。
枡形のあとのようで、ここから北に向かう道があり、西口と同様の道標が立っている。
大正10年  「右 岐阜加納二至ル  左北方谷汲二至ル」とある。

 すぐ先で 樽見鉄道の踏切を渡り、畑の中の道を進む。

街道景色-本田村
 <五六川>  間もなく五六川を渡る。江戸方面からきて、56番目の美江寺宿に入る手前の川なので、そう呼ばれた。

<大ケヤキ>
<高札場跡>
 本田村の西の入り口として高札場があった。
 <本田代官所跡>
  少し先の左側の民家の前に代官所跡の説明板がある。このあたりに幕府直轄地の代官所があった。寛文10年(1670)頃から、陣屋が設けられ、明和7年(1770)、大垣藩に預けられるまで続いたという。

<町並み>
美江寺宿と河渡宿との間で、茶屋や旅籠があり、本田立場としてにぎわったという。
 <延命地蔵堂>
 糸貫橋の手前に延命地蔵堂がある。
安置されているのは高さ90cmの石仏座像で優雅な面相で、文化6年(1809)建立である。(説明板)

馬場地蔵堂・道標
 200m程先の三叉路で右に進む。馬場の追分と呼ばれ、地蔵堂と道標が立つ。(写真は振り返ってみたところ)
道標は、昭和8年(1933)建立で、
「右 合渡・加納ヲ経テ名古屋二至ル  左 本田・美江寺ヲ経テ京都二至ル」とあり、もう一面には
「右 高屋・北方ヲ経テ谷汲山二至ル」
とある。

ここから住宅地を南東に向かい600m程進んだところで、左折し、まっすぐ東に向かう。
生津(なまづ)縄手と呼ばれたところで、今は工場群が続いている。

河渡宿
 天王川(柚木川)を渡ると河渡宿の西の入り口であり、枡形の名残がある。
河渡宿は、天保14年(1843)で 本陣 1、 脇本陣 なし、旅籠 24軒、総家数 64軒という規模である。
通りを進むと、道の先に長良川の堤防が見える。
とても規模の小さい宿場である。

町並み
 戦災のため、昔の面影はない。通りの左手、家と家の間の狭い空間に、「中山道河渡宿」と刻まれた大きな標柱が建ち、木製常夜燈や石碑など、宿の説明が収まっている。
①標柱には一里塚跡と刻まれている。
②松下神社の由来がある。
文化12年(1815)未曾有の洪水に見舞われ、その時の代官松下内匠が、宿中を5尺余り土盛しそのうえに家屋を改築し3年後に工事を完成させた。その功績に村人は松下神社を建立したといい、その顕彰碑の一部が残っている。

馬頭観音堂
  
 すぐに長良川の土手にぶつかり、100m程先で、左斜めにすすむと、比較的新しい、観音堂と地蔵堂が建っている。
 もとは、荷駄役人足たちが、天保13年(1842)に、銭100文ずつだしあい、道中の家内安全、五穀豊穣を祈願し愛染明王を祀る御堂を建てたもので、渡し場の脇に建てられていた。 
その後の洪水などで失われ、昭和59年(1964)に現在の場所に再建されたという。
  観音堂から土手の下の道を渡り、堤防の上の道路までのぼると、小さな祠がある。このあたりが河渡の渡しの跡という。

 すぐ上流にかかる河渡橋を渡るが、加納宿方面の景色を見るために橋の下をくぐってから橋の左側の歩道に上がる。


長良川と岐阜城
 左手先の加納宿のあたりに高層ビルが見える(岐阜駅前)。
そこから左に低い山が続きひときわ高い山が、金華山(稲葉山)である。頂上の岐阜城がハッキリと確認できる。

 永禄10年(1567)織田信長は稲葉山城の戦いに勝ち、本拠地を稲葉山に移転し、城と町の名を岐阜と改め、本格的に「天下布武」による天下統一を目指すようになった。その歴史にふさわしい眺めである。

鏡島(かがしま)湊
 河渡橋を渡り、土手を100m程進むと、加納に向かう街道が見える。土手を下った三角地点に鏡島湊の大きな説明板が立っている。
 それによると、天正20年(1592)岐阜城主織田秀信は ここに新町を造り、他の場所での舟荷の陸揚げを禁止し、岐阜城下町の外港として整備した。
その後、ここ鏡島の地は、中山道として整備された陸上交通と河川交通の要として、町並みが形成された。

道の景色
 少し先左奥にに北野神社があり、一部 連子格子の民家も残るが、広い道が整備されており、南側を並行して県道が走っているので、ゆったりした歩きができる。
約1kmほど、東に進むと、左側に乙津寺(おっしんじ)の案内が出てくる。

乙津寺
 100mほど入ると、稲荷神社、墓地、大師堂と続く。
開基は行基と伝わり、鏡島の弘法さんとして親しまれてきたという。
 墓地の隣に「朝日縮緬碑」とある大きな記念碑が立つ。西濃から尾張西部にかけては、江戸時代から織物が盛んで、特にこのあたり鏡島は岐阜縮緬の産地であったという。
 また稲荷神社あたりは鏡島城の跡という説明がある。

追分橋
 もとに戻り、数十m行くと、ガードレールに名前の付いた追分橋を渡って右斜めに川沿いに進む。ガードレールの外側には論田川改修記念碑が建っている。
まっすぐ進む道は岐阜道である。
住宅街をすすみ、環状線の広い道路を横切る。
100m先県道を斜めに横切る手の角に、鳥居があり、奥に小さな社が三つ-天満神社、八幡神社、秋葉神社と並ぶ。
 

多羅野(だらり)八幡神社
 歩道脇に道標が立つ。「→本庄村ヲ経テ加納ニ至ル」「←鏡島村ヲ経テ美江寺ニ至ル」「←市橋村ヲ経墨俣ニ至ル」とある。
 
大きな地図の入った案内板があり、この付近には茶店があり、名物の「だらり餅」が旅人達に売られていたという。

三里一里塚跡
 県道を越えて、数百m南西にすすむ。六叉路の交叉する清水町交差点をすぎて、東海道本線のガードをくぐり左へ進む。100m程先の分岐点では左に向かわず、まっすぐに進む。
 300m先の四辻で、右に少し入った所の民家の庭の前に一里塚跡の石柱と案内板が立っている。
説明では「三里一里塚跡」と呼ばれている。

 1ブロック先に本庄郵便局があり、さらに1ブロック先に阿賀多神社がある。
次の広い県道の交差点を過ぎて200mほど進むと、秋葉神社と愛宕神社が祀られている角がある。
隅に加納宿西番所跡の石柱がある。

加納宿西番所跡
 ここから加納宿が始まる。東番所跡まで、約1.2km、その先の枡形まで約2.0kmと、美濃18宿中最大の宿場であった。 
 天保14年(1843)、本陣 1、脇本陣 1、旅籠 31軒、総家数 805軒であった。また中山道で唯一の城下町である。
家康は慶長5年(1600)加納城を築かせ、大手門を北に置いて中山道に接続させ、西の町並みはまっすぐ伸び、大手門から東には複雑な枡形を造り、要所に寺社を配置して非常時に備えたという。、

町並み
 戦災で古い建物はほとんどなくなっているが、メインの道路の間を通っているため静かな佇まいである。
秋葉神社が数多くある。

加納天満宮
 岐阜駅に通じる加納栄町通りを過ぎて200m程先で左へ入る。
文化2年(1445)斎藤利長が加納の東南に沓井城を築いた時に天満宮を勧請した。その後加納城が築城された時、慶長6年(1601)加納城鎮護の神として現在の地に移されたという。
 境内には大きな拝殿がある。文化7年(1810)の創建という。

宿 中心部

建物は残っておらず、石柱が立っているのみである。

<脇本陣跡> 天満宮へ入口   <西問屋場跡>          <本陣跡>       
    
<当分本陣跡>
 幕末になり、参勤交代制度が大幅に緩和され、江戸にいる大名の妻子が一斉に国元に帰りだしたため、本陣が不足し、宿場の有力者宅が当分の間本陣となり、対応したという。

二文字屋
 
 元和6年(1620)旅籠屋として創業。
建物の前に「左甚五郎とウサギの欄間」という立札が立っている。

<旧加納町役場>  →
大正15年(1923)竣工で、当時の最先端技術を駆使した鉄筋コンクリートの耐震耐火構造。
「岐阜市が誇る歴史的建造物」との説明板が立つ。

加納城 大手門跡
 旧町役場の少し先が、宿の東の最初の枡形である。右手 南に向かう広い道路の歩道橋下に「加納城大手門跡」の石柱が立っている。
 この交叉点から400m南が加納城跡で、建物は残されていないが、立寄ることにする。

 歩道橋からは、4km北の金華山(稲葉山)山頂の岐阜城の天守閣がよく見える。昭和31年(1956)に再建された。
加納城の図面が参考にされたという。

加納城跡


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 <本丸跡>                 <南側 掘跡>









 加納城は、文安2年(1445)美濃の守護代であった斎藤利長が守護土岐氏への押えとして沓井城として築いたのが始まりで、後、斎藤氏の名跡を奪った長井規秀(のちの斎藤利政<道三>)が稲葉山城に移ったので、廃城となっていた。
 慶長6年(1601)それまで岐阜城を本拠にしていた織田秀信が追放され、廃城となり、家康は 娘婿の奥平信昌に加納城主として十万石を与え、岐阜城の天守・矢倉などを移築させ、本格的な城郭となった。
 また地名も「岐阜」から「加納」に改名された。

<本丸北面の石垣>
説明板によると、石は、角以外の部分には加工の跡が認められない「自然石」が用いられ、石と石の間には川原石がつめられている。角の部分は「算木積み」という、横長の石を交互に組み合わせた積み方で、石垣は、「野面積み」という、近世初め頃まで多く用いられた積み方であるという。

高札場跡
 
 大手門跡まで戻り、そのまま街道を北に向かう。
清水川橋の手前に「加納宿高札場跡」がある。加納藩の中で最も大きいもので、石積みの上に高さ約3.5m、幅6.5m、横2.2mであったという。

道標
 次の四辻で、街道は右へすすむ。
 ここは、中山道と岐阜道の分岐点で、左側の隅に道標と、立札の説明板がある。
江戸中期(1750年ごろ)建てられたもので、標識が4面に刻まれている。
最初は「左 中山道 右 ぎふ道」とあったが、明治初年に「左 西京道」「右 東京堂」の標識が追加されたという。

今回は名鉄岐阜駅近くのホテル宿泊の為、ここで終了とする。
  散策日   2015年3月20日   養老鉄道 東赤坂―岐阜駅
  参考   「中山道を歩く」       横山正治・安斎達雄