由比-江尻(清水)    

      地図→  ①由比~興津      ②興津~清水  



 今回の旅は、静岡県の東海道のなかでも楽しみにしてきた薩埵((さった)峠であり、「晴れ」だけではなく雲がなくなる事を期待して由比駅に下りた。
 旧東海道は由比駅前の道と並行して山側を通っているが、駅前の右手には大きな「桜えび」が柱のに上で歓迎している。この先は由比宿につながる。
寺尾
 駅前の道を左にすすみ、、山側に行く石段を登るとすぐに、山沿いを通る旧東海道にでる。南に行くと駅から来る道と合流する地点に歩道橋があり、そこから斜め右に進み寺尾の集落に入る。
家並みは昔は海沿いにあったが津波の被害により天和2年(1682)高台に新道を通し東海道としたという。

ここから薩埵峠への上り口(一里塚がある所)までは、急な斜面の間を通る道の両側に昔からの家がところどころに並び、旧東海道の雰囲気を十分に感じることのできる道である。

宗像神社
 十字路を山に登って行くと宗像神社で、途中からの駿河湾の眺めはすばらしい。
雲が薄くかかっているが、冨士市の奥にある愛鷹山から天城山、石廊崎まで一望できる。


 
道の風景:格子戸や蔀戸のある古い家がある。十字路の手前には、江戸時代小池文右衛門を襲名して寺尾村の名主を代々務めていた、という小池邸がある。(建物自体は明治の築という)
小池邸
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題目塔
 大沢川をわたってしばらく進むと海の方に下りる道と別れて、緩やかな坂を上る。右側に法界万霊供養と刻まれた題目塔が立つ。桜並木があり、左手の下には東名高速、国道が見える。

 山側に長い石段のある八阪神社をすぎると古い家並みがあり、またその先の急な斜面に鞍佐里神社が続く。(東征途中の日本武尊が賊の焼き討ちにあった時、鞍の下で神に祈ると その鞍が身代りに焼け落ちたという。そこから鞍去→倉沢という名になったという説明板がある。)

八阪神社       家並み                 鞍佐里神社          宝積寺
     

間の宿  本陣跡
 
                          
 宝積寺を過ぎて古い家並みが続く「西倉沢間の宿」に入る。
薩埵峠の東坂の登り口にあたる「間の宿」で、10軒ばかりの休み茶屋があったという。
 まもなく左側の軒下に説明板がある。
「ここ川島家は、慶長から天保年間まで(1596~1844)代々川島勘兵衛を名乗った西倉沢の名主で、大名も休憩したので、本陣と呼ばれた。」という。
 
                    
茶屋 柏屋

                         茶屋 藤屋 (望嶽亭)
 橋を渡った先の白壁の蔵のとなりには茶屋を営んでいた民家があり、更に先の坂の登り口には、藤屋という茶屋がある。  富士山の眺めがよいので望嶽亭と称したという。
 

薩埵峠の登り口の一里塚跡                    
 ここで道は2つ分かれ、右に登って薩埵峠にいく。
左に下る道は、安政元年(1854)の地震で海岸が隆起して以後、海岸よりの道路として使用されるようになった道である。
それ以前にも崖の岩場を抜ける旅人がいたというが、危険なため『親知らず子知らず」と呼ばれたという。   
                坂の登り口から振り返ったところ。(望嶽亭方向)

展望その1
 いよいよ急な坂道を登るが、海側手前には西倉沢漁港が見える。左側(冨士川の西に位置する山の奥)に見えるはずの富士はまだ見えず、逆に右側の富士市の工場からの煙突と煙が、愛鷹山の手前によく見える。

展望その2
 南側に大きく開けたカーブにでる。写真撮影用の小さなスペースがあり、カメラマンがいる。
東名高速、国道一号線、JR東海道線が見下ろせる絶景である。

薩埵地蔵道標
 その先に道標が二つ立つ地点まで来る。
冨士山はまだ雲に隠れている。

 薩埵峠の名は、文治元年(1185)倉沢の海から引き揚げられた地蔵菩薩(薩埵)を祀ったところからついたといわれる。
大きい道標には「さったぢぞう」、小さい方には 「さったぢぞうミち 延享元年(1744) これより四丁」と刻まれている。


駐車場/展望台への道
 道標のある場所に、薩埵山合戦場の説明板がある。
「 ここでは2度の大合戦があった。
観応2年(1351)足利尊氏と弟直義が不仲になり、山岳戦を展開-直義軍が敗退。
永禄11年(1568)から翌年にかけて、武田信玄が駿河に侵攻、今川氏真が政見寺清見寺に本陣を置きさった峠に先鋒を構えたが敗退・・・そこで小田原の北条氏が今川に加勢して出陣し、武田が敗れ一旦甲州へ引き上げたが、永禄12年(1569)侵攻し、蒲原城を攻略した。」

薩埵峠山之神遺跡碑
 駐車場に石碑がある。この付近の山畑開墾の際に祀られた山神が、昭和7年(1932)鞍去神社へ遷座し、その遺跡地に記念碑が建てられたという。
 石碑の先に見える石廊崎、ようやく顔をだした富士山。
脇には、無人のミカン販売所があり、富士山が見えるまでの待つ間に食べたデコポンは小粒でとても甘くジューシーであった。景色とともに良い思い出でもある。

展望その3・・・展望台
駐車場を南に少しいくと展望台がある。
下に見える国道、東名高速と旧東海道の三つの組み合わせである。

薩埵峠の風景:しばらくの間平らな道が続く。 「東海道薩埵峠」の標柱や、説明板、石碑が並んでいる。
  

中道と下道の分岐
 その先は、急な下り坂となり、林を抜けると墓地があり、その先に二つの道筋の説明板が立つ。   左(海側)に行って海岸寺を通るのが下道で、右手(北側)へいき、瑞泉寺経由が中道という。
 
左へ行き、白髭神社の前までいくと、海の先に三保ノ松原が見えてくる。

海岸寺
 少し先に江戸時代初期の波除観音堂が起こりという海岸寺があり、百体観世音の説明がある。
 本堂の波除如来を中心に左右50体の百体観世音が祀られ、大正4年5年の台風による大波でこの部落は全滅したがひとりの犠牲者も出なかったのは、その御利益と伝えられているという。
かっての寺名の「海岸庵」の額がかかり、境内には小さく浮彫にされた三猿の庚申塔がある。

興津川-浦安橋
 道なりに進むと東海道線に突当り、少し戻って踏切を越えて、国道一号線に出る。すぐに右に分かれて、浦安橋となる。その手前で、上流から来る瑞泉寺経由の中道が合流する。

 ←興津川の渡し場付近(対岸より)---川渡しの制度が、明治8年(1875)橋の完成まで続いた。

興津川渡し場・古戦場跡
 橋を渡った上流200mほど北に石碑が立っているが、その場所に行くのはJR東海道線があるため長い迂回が必要となる。(200mほど西の踏切をわたり、興津川の堤防まで戻る)
堤防の道の少し引っ込んだ所で、目立たない。

さった峠付近を含めて古戦場となったのは、さった峠付近を含んだ、足利尊氏と直義の観応の騒乱と武田軍と、今川、北条軍との戦いである。(薩埵峠にもある)

宗像神社
 旧街道に戻り、その先で国道一号線と合流したあと、北に向かう自動車道と交差するが、今の身延道=富士川街道の起点である。100mほど先を右折すると大きな松林のある宗像神社がある。
創建は、平安中期と伝えられ、海上航海の安全を司る守護神、宗像神が祀られている。境内左には宝暦9年(1759)の銘がある鳥居の残骸が残されている。

身延道道標
 次の信号から北に向かうのが旧身延道で、その起点に道標や常夜燈、題目塔などが立っている。鎌倉時代からすでに開かれており、戦国時代には駿河を目指す武田信玄により重要な軍用道路となった。江戸初期には身延山久遠寺参詣の道となった。
身延山道に道標は、「萬沢三里、南部三里、身延三里」とあるがそれぞれの区間の距離だろう。元禄6年(1693)の建立である。

道標から100m強先の右側に一里塚跡の石柱が立つ。次の信号の右奥がJR興津駅であるが、その先に龍興寺の境内には、天明3年(1783)の三界万霊塔がある。その先の理源寺境内には延享元年(1744)の題目塔がある。

一里塚

龍興寺 三界万霊塔          理源寺 題目塔
   

興津宿説明板
 まもなく右側に興津公園があり、宿の由来や詳しい案内板がある。
平安時代より興津氏の知行地で、鎌倉幕府からもその知行を安堵されている。興津氏はその後今川氏に仕え、関所をもうけていたという。
興津宿は天保14年(1843)で、 東本陣、西本陣の本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠34軒、人口1,668人であった。

茶店/旅籠 岡屋

東本陣跡(市川家 )       脇本陣 水口屋跡(水口屋ギャラリー)
  

清見関(きよみぜき)跡・傍示杭礎石
 しばらくして道は右に緩くカーブし、清見寺の前に来る。広場の右端に東海道の案内板があり、奥に関所跡の石と礎石がある。
白鳳年間(880年ごろ)設置された清見関は永禄年間(1158~80)に廃止された。頼朝死後正治2年(1200)梶原景時一族が京都に向かう途中、幕府側の地元信氏に襲われたという。
 礎石は、江戸時代清見寺領と幕府代官領の境を示す傍示杭が立てられていた礎石で、穴の跡がある。
 
 

清見寺(せいけんじ)
 総門の先にJR東海道線があり、陸橋を通って山門に行く。
清見寺は、ここに関所が設けられその守護として仏堂が建立されたのが始まりと伝えられる。その後足利尊氏が康永年間(1342~45)に荒廃していた清見寺の伽藍を造営、再興した。
今川氏の人質時代、家康はここで学んだ。今川氏滅亡後武田軍の陣とされるのを恐れた家康はここを焼いたという。江戸時代再建され、徳川一問の帰依を受けた。
←方丈と家康の接木によるとされる「臥龍梅」
             
            鐘楼
                   
                   五百羅漢像
 文久2年(1862)建立の鐘楼。
梵鐘は、正和3年(1314)鋳造されたもので、謡曲「三井寺」に出てくる。また天正18年(1590)秀吉の韮山城攻めの際、陣鐘として使われたという。
仏殿の左奥には、天明年間(1781~89)彫造の五百羅漢像がある。
島崎藤村の「桜の実の熟する時」の最後の場面になっている。

瑞雲院
 清見寺の山門前を左にいく。 
延文元年(1356)足利尊氏の建立という。
「性海庵(しょうかいや)」の湧水の話が書かれている。

興津坐漁荘(ざぎょそう)
 西園寺公望の晩年の別荘の跡に、忠実に復元された坐漁荘。
大正8年(1919)に建てられ、歴代の総理や重臣が「西園寺詣で」『興津詣で」をした。
主要部分は明治村に移された。

波多打川
 しばらく進むとバイパスの高架の下を流れる川があり、川沿いに進む。観応2年(1651)足利尊氏が直義討伐の際に、河原に旗をたて、軍の目印にしたため旗打川と呼ばれ、そのご波多打川になったという。

 
海岸方向に進むと左側の公園に石碑と井上馨の坐像がある。

延命地蔵堂
 波多打川を渡り、今までの道から別れ、そのまま南へ進む。100mほど進みT字路を右折してJR東海道線の踏切をこえて国道に出ると、正面に地蔵堂がある。8体の小さな地蔵像が祀られており、「横砂のお地蔵さん」と呼ばれている。

東光寺
 横砂自治会館を過ぎて過ぎてしばらく行くと、右側に山門の塀が途中までとなっている東光寺がある。天文年間(1532~54)の建立であるが、山門が格子造りになっている。江戸時代、勅使が江戸に行く途中、興津川の氾濫で足止めとなり東光寺に泊まることになって、急遽この門を造ったといい、格子門と呼ばれている。
境内には古い石仏がある。

道の風景:庵原川を渡った先左側に、一本の松が街道らしさを出している。その先右側には小さな祠に馬頭観世音が祀られ、辻町交差点の手前右奥には松原観音堂・津嶋神社がある。

    

細井の松原跡
 辻町交差点の2叉路のところに一本の松と石碑がある。
元禄16年(1703)の駿府代官守屋助四郎の検地によると、辻村の戸数110戸、松原の全長119間2尺(約360m)、松の本数206本という。
 松は第二次大戦で松根油の原料として伐採された。

旧東海道はここから右に分岐して、辻町商店街に進んで行く。

秋葉道入口
 200mほど進み最初の信号のある交差点を過ぎた次の角に「秋葉道入口」の立て札がたつ。
ここから秋葉山(寺)に通ずる参道があり、秋葉道と呼ばれていた。(秋葉山は、ここから約1kmほど西北に位置している)
 この道は、矢倉の辻で北街道(中世東海道)に接続し、辻村の主要な道路であったという。

一里塚跡と高札場跡跡
そこから200mほど先の十字路の左に一里塚跡の立て札があり、
その先右側に高札場跡の立て札がある。

江尻宿 東木戸跡
次の信号のついた交差点の角に東木戸跡の立て札がある。
江尻宿への東の出入り口である。通常は桝形であるが、ここは「く」の字形に曲がり、外から宿内を見通すことができないようになっている。

 江尻宿は天保14年(1843)時点、本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠50軒、人口6,498人であった。

 道の風景:東木戸を過ぎると旧東海道はまっすぐ南に進む。左側には白壁の大きな蔵のある格子戸のある間口の長い民家がある。その先で国道一号線を横切る。(東側にJR清水駅が見える)
過ぎた先の左側に「鍛冶町」の説明板が架かる。 江尻宿には27戸の鍛冶職があり、大部分が鍛冶町にあったという。旧東海道はまっすぐ南に進み、銀座の交差点前の町名は、伝馬町といった。

江浄寺
 一号線の交差点から300mほど南に進み西にいくと、江浄寺がある。永正9年(1512)創建で江尻宿開設時にここに移転。天正3年(1579)21歳で自害した嫡男岡崎三郎信康の遺髪を埋葬供養したといわれる宝塔がある。
家光より寺紋に葵の紋が許可された。工事中のため本堂は覆われていたが、葵の寺紋の瓦が置かれていた。

銀座通り(江尻宿宿場通り)
 郵便局の先の交差点(銀座)で直角に西にむかう。
銀座東リでよばれる商店街で、通りの中ほどに本陣や脇本陣が並んでいた。
東海道は設置当初は江尻城址(魚町稲荷神社の奥)の北を通っていたが、今の銀座通りを通る道が東海道となり、この辺りが江尻宿となった。
 この南の清水湊は、戦国時代から物資輸送・軍事の要衝で、江戸時代には大坂-江戸航路の寄港地として栄えた。大正13年(1924)江尻、清水、他の町村が合併して清水市となった。

商店街の中ほどの信号のある交差点の先に、大きな「江尻宿案内板」が立つ。
クリックして拡大クリックすると拡大 町名は、伝馬町からこの通りに入り、下町-中町-上町(魚町)と続く。江尻城はその先にあった。
旧東海道は、魚町から先、直角に巴川の稚児橋に向かう。
「こうした鈎の手に曲がり見通しが悪く町の一部が袋小路になっているのは、万一の場合の警備にためであった」(説明板)

魚町稲荷神社(江尻城跡)
 その先の信号から右側に入った所に問屋場、高札場があったという。直進して稲荷神社にいく。その奥の江尻小学校のあるところが、江尻城跡という。
江尻城は武田信玄が、今川義元の死後、駿河に侵攻し、物資補給路確保のため巴川北岸に築城したもので、その後穴山氏が入り本格的な城となるが、関ヶ原の後、廃城となる。
 境内に「日本少年サッカー発祥の碑」がある。

 稚児橋から先は、次回の散策とし、JR清水駅に戻った。
 散策日 2010年3月27日    由比駅ー清水駅
 参考
 「東海道五十三次を歩く」2     児玉幸多 監修