富士川-由比    

      地図→ @富士川駅蒲原  
A蒲原〜由比



 富士川駅から南に300mほど進んだ交差点から真西に向かう。
約400mほど東名高速の下をくぐって緩やかな坂を上ると、T字路で旧東海道につきあたる。
ここから富士川と並行して、山沿いの道を南に進む。

常夜燈
 旧東海道に出てまもなく、自動車道と別れて東海道新幹線の下をくぐる細い通路を通る。その先、自動車道と合流する地点左側に富士川町小池土地区画整理事業の石碑の立つ広場があり、そこに秋葉山常夜燈が立つ。
嘉永4年(1851)の建立である。
 その先の民家の前に明治天皇の休憩の跡の石碑が立つ。

 さらに南に進み、坂道を上った先は東名高速でさえぎられる。
陸橋をわたって静岡市に入ると今度は、旧東海道は急な下り坂で、先には駿河湾が広がる。
左側に光蓮寺があり、その駐車場に蒲原の広重の絵と「蒲原小町」-浄瑠璃姫/六本松の故事-の絵が掲げられており、蒲原宿への準備となる。
  
新坂                   光蓮寺
 

 坂を下り切ったT字路で、旧東海道は西に向かうが、少し寄り道して義経の故事のある場所を訪れる。

義経硯水の碑
 左折すると自動車道に合流し、100mほど先に蒲原氏の菩提所の跡があり、そこに蒲原氏一族や浄瑠璃姫の五輪塔や供養塔、石碑が立っている。
 承安4年(1174)義経が奥州へ向かう途中風雨で蒲原吹上浜に上陸、蒲原氏の館に宿泊した際、蒲原神社への祈願文奉納のためここの湧水を使ったことから、義経硯水といわれた。
その後、三河国の浄瑠璃姫へも便りを書き、その便りを見て、姫は義経を追って蒲原まで会いに来たが、吹上の浜で倒れたという。「治承3年(1179)に亡くなり菩提所に葬られた」と石碑にある。

浄瑠璃姫の碑・吹上の六本松
 東に行き、信号を南に200mほど進むと蒲原中学校の南側に公園がある。そこにまだ若い松が植えられ、浄瑠璃姫の墓碑や寛文13年(1673)の地蔵、説明板などがある。
吹上の六本松は、ここで亡くなった浄瑠璃姫を葬った塚に目印として植えられ、その後東海道の目印になってきたという。
 浄瑠璃姫の伝説は、のちに小野お通が、義経と浄瑠璃姫の恋物語をとして『浄瑠璃姫十二段草子』を書き、江戸時代に流行した浄瑠璃の起こりとなった、という。

蒲原一里塚跡
 もとの光蓮寺から下りてきたT字路までもどり、西に進む。
100m少し先の民家の間に鳥居があり、その前に一里塚と刻まれた石碑と説明板がある。
最初の一里塚は、元禄12年(1699)の大津波で流出して,この場所に移されたという。

北条新三郎の墓
 すぐ先の、山に入る細い坂に立て札があり、坂を上った先に墓碑と説明板がある。
駿河を支配してきた今川氏が衰退し、北条氏はそれを助けるために駿河に駐屯し、永禄11年(1568)武田軍が薩捶峠に布陣し、北条氏康・氏政と対峙したが勝負はつかず、その後、北条早雲の3男の北条幻庵(長綱)の子、北条新三郎・長順兄弟を蒲原城に派遣した。しかし永禄12年(1569)武田信玄の長男勝頼を総大将とした3度目の攻撃により蒲原城は落城した。城主であった新三郎はこの付近にあった常楽寺まで逃れたが自害したという。

諏訪神社
 しばらく行くと長い石段の続く諏訪神社がある。
由来によると、富士川の水害から逃れようと、保元年間(1156〜59)吹上六本松付近に長野県上諏訪大明神を勧請し水難守護神として祀ったという。
その後元和6年(1620)の水害の折り、現在地に遷座したという。

東木戸跡
 すぐ西側が、蒲原宿の東木戸跡で、わずかに桝型になっている。蒲原宿の案内板が立っており、旧東海道沿いの西木戸跡までの宿場の様子が分かりやすく解説されている。
東海道開設当初の宿場は、今のJR東海道線の南側にあったが、元禄12年(1699)の大型台風により被害を受け、翌年現在地に移転したという。
天保10年(1839)の規模は、人口2,439人、本陣1、脇本陣3、旅籠45軒という。
宿内安全と刻まれた文政13年(1831)の常夜燈が残る。
西木戸までは約1kmと非常にコンパクトで、しかも旧跡がしっかりと保存されている宿場である。

木屋の土蔵-渡邊家
 渡邊家は江戸末期に問屋職を代々務めた旧家で、材木を商っていたことから「木屋」の屋号で呼ばれていた。
右奥に天保9年(1838)上棟した町内最古の土蔵がある。3階建てで、四隅の柱が上にいくにつれて少しずつ狭まる「四方具」(四方転び)という耐震性に優れた技法で建築されている。

 そこから100mほど行った山側奥に龍雲寺があり、その先の山への上り口に正八幡神社と続き、左手の旧街道脇には「馬頭観音」供養石塔がある。
  ここには昭和の初めごろまで馬小屋があり、馬頭観音が祀られていたという。

道の風景:左右にこうした屋並みが続く
  

東漸寺
 元弘元年(1331)創立で、寛永元年(1624)この地に移ったという。
 境内の鐘楼の前には大きな法界塔が立つ。
「木屋の渡邊利左衛門父子が起立し、信州高遠から招いた石工の手になるもので、文政11年(1828)に竣工」という。

なまこ壁と「塗り家造り」の家
 説明板によると、「もと『佐野屋』という商家で、壁は塗り壁で町家に多く見られる造りで『塗り家造り』という。『土蔵造り』に比べて壁の厚みは少ないが防火効果が大きく、昔から贅沢普請ともいわれている。もとは城郭などに使われ、江戸時代末期以降一般に広まった」という。 
 斜め向かいには同じ造りの「僊菓堂(せんかどう)]という和菓子を作っていた商家がある。

問屋場跡

                          「蒲原夜之雪」記念碑
 すぐ先右側の細い川が流れる手前に問屋場跡の説明板が立つ。

 川沿いに左に入ると小さい広場があり記念碑が立ち、広重の「蒲原夜之雪」の絵が石にはめ込まれている。
広重がこの絵を描いたと思われる場所に近いところといわれるが、いろんな説があるようだ。

旅籠「和泉屋」(鈴木家)
 川を過ぎると、天保年間(1830〜44)に造られた上旅籠「和泉屋」がある。入口にはいると土間が続き当時の様子を想像できる。使われていたものが多く並べられており、「古代塗」の重箱などがある。

 2階の手すりは、上部が湾曲した櫛型になっている。

本陣跡
 
                        手づくりガラスと総欅の家
 和泉屋の向かいに、黒い塀で囲まれた本陣跡-西本陣-がある。
建物は大正になって建てなおされたという。
 信号のある交差点を山に登って行くと蒲原城址があるが今回は見送った。その先に、すべてが欅づくりという明治42年(1909)建築の建物がある。

 次の道を山側に入る角に公民館があり、その手前に高札場跡の説明板がある。その道の奥に若宮神社があり、また海側に入る道の角に御殿道跡の説明板が立っている。
それによると、この辺りには将軍が東海道往来のときに使う宿舎となった「蒲原御殿」があったという。
「始めは武田氏を攻めて帰る織田信長を慰労するために徳川家康が建てた小規模なもので、その後、秀忠・家光が往来するたびに拡張、整備され規模も大きくなった。寛永11年(1634)以降使われなくなった」という。

高札場跡

若宮神社               御殿道跡
  

志田家住宅-蔀戸(しとみど)のある家
 志田家はヤマロクという屋号で味噌や醤油の醸造をいとなむ商家で、東側2階部分が安政元年(1854)の大地震の直後に再建されたという。
「蔀戸は、日光や風雨などを遮る戸のことで、上下2枚に分かれていて上半分を長押(なげし)から吊り、下半分は懸金で柱に打った寄せにとめ、全部開放する時には取り外すというもので、昼は上に吊り上げて目隠しに用い、夜は下ろして戸締りの役を果たした。」(説明文)
 
 すぐ先右側に格子戸の説明板の立つ家(増田家)がある。格子戸は平安時代から現れた建築工法という。 山側には元文元年(1532)建立という妙隆寺があり、その隣に慶安3年(1650)の長栄寺がならぶ。

格子戸の家

妙隆寺                  長栄寺
    

和歌宮神社
 道はほぼ直角に左にまがり、すぐ先を右折して和歌宮神社に行く。
神社由来によると、「祭神は山部赤人で、和歌の宮と称し、富士を歌題にした縁で富士浅間神社の木花開耶姫命を合祀した」という。
 境内屋には貞享3年(1686)の笠付庚申塔がある。

西木戸跡
 もとに戻り、南に行くと自動車道に合流する。角に、蒲原宿の西の入り口である西木戸跡がある。
この近くに青木の茶屋(茄子屋)があり、承応2年(1653、)『茄子屋の辻』で、高松藩の槍の名人大久保甚太夫らが薩摩藩の大名行列と出会い、槍の穂先が触れたことで口論となり・大乱闘になったという。
 
 ここからは広い自動車道をひたすら西に向けて歩く。 途中 北向不動尊 一乗院を過ぎ、蒲原駅を過ぎて東名高速の下をくぐると旧東海道は左手にわかれる。
    

 まもなく左手に「由比宿」の標柱が立つ。 その先の町内会倉庫の脇に「水神」と刻まれた石塔が立つ。さらに進むと右側に小さな堂があり、地蔵が2体祀られている。
   

一里塚
 地蔵の祠の先に一里塚の石柱が立ち、向かい側に案内板がたっている。江戸から39番目、寛文年間(1661〜71)山側の松が枯れたので、ここに十王堂を建立したという。その後廃寺となり、祀られていた閻魔像は延命寺本堂に移されたという。

由比宿東桝型跡
 しばらく進むと道は左に折れすぐ右にまがる桝型となっており、ここに由比宿の東木戸があった。その角には昔の商家の建物(志田家)がある。1、2階とも格子戸があり、昔の商家の面影を残している。
 天保14年(1843)の記録では、由比宿は本陣1、脇本陣1、旅籠32軒、人口713という。東西8町56間(974m)、町並み5町半(600m)の宿場である。

御七里役所之跡
 その先右側の白い塀に説明板がはめ込まれており、紀州徳川家の七里飛脚の役所跡という。
江戸-和歌山間146里(586km)に約7里(28km)ごとの宿場に役所を置き5人1組の飛脚を配置し、普通便は道中8日を要し、特急便は4日足らずで到着したという。

飯田八幡宮
 しばらく行き右に入って正面に長い石段がある。
天正13年(1585)に由比氏により創建されたという。
 境内に上がる途中から見た由比の宿場・駿河湾・伊豆半島の眺めはすばらしい。

大法寺
 八幡宮の石段の下から西に向かうと大法寺の石段がある。
天正13年(1585)開創という。
境内には、天保6年(1835)由比本陣の岩邊郷衛門光端が先祖、両親のために建立した宝篋印塔がある。

由比本陣跡
 旧道に戻ると本陣公園があり、本陣跡が整備され、広場、広重美術館、物見塔、馬の水呑場、御幸亭などがある。
由比助四郎光教の子-光廣がこの地に移り代々岩邊郷衛門と名乗り本陣職・問屋職を務めたという。屋敷の広さは約1、300坪(4,300u)という。
 
本陣公園の周りには多く建物が残っている。
 慶安事件を起こした由比正雪が生まれたといわれる紺屋(染物屋)が、本陣の間向かいにある。江戸時代初期より400年近く続くという。その先には脇本陣の温飩屋があり、向かいの正法寺に入る道の角には、加宿問屋場跡(由比の本宿の問屋場と、1か月交替で加宿11カ村が共同で設営した問屋場)があったという説明板がある。

正雪紺屋

 脇本陣                 加宿問屋場跡
   

正法寺
 問屋場跡から細い道を入ると参道が続き、正面にある。
文保元年(1317)の草創といわれる。
参道左には貞治元年(1362)建立のの題目塔があり、町内最古という。

延命寺
 天正7年(1579)由比本陣職岩邊郷右衛門と加宿問屋職由比太郎左衛門の開基という。
正保元年(1644)の三界万霊塔や、天保4年(1834)の宝篋印塔などがある。

西木戸跡
 しばらく進むと道は二又に分かれ、左に入るのが旧東海道で、桝型が残り西木戸跡である。「由比宿案内板」が立ち、由比宿の詳しい解説がある。
 
由比川につきあたると入上(いりあげ)地蔵堂がある。由比川の水難者を祀ったという。

由比川
 川には仮の板橋が架けられていて、それを渡り、水量が増すと取り外され、徒歩渡りといわれた。

広重の狂歌入り東海道には、結城亭雛機(すうき)という人が
 『 ふみ込めば 草臥(くたびれ)足も 直るかや
     三里たけなる 由井川の水 』
という狂歌を残している。・・・・・・西木戸の説明板から
 
 由比川をこえたあとも、由緒あふれる街並みが続く。右奥には、天正12年(1584)建立の妙栄寺があり、そこへ行く道の角に、由比名物さとう餅(その後名前をたまご餅に変えた)の製法を引き継いでいる春埜製菓がある。
 

せがい造りの家
 100mほど先の民家に説明板があり、由比町の街並みに多くみられる「せがい造り」の家という。
せがい造りとは、軒先を長く出した屋根を支えるために、平軒桁(ひらのきけた)へ腕木を付け足して出桁とし、垂木としたもの。
 
 小さい川をわたると、山側に神社と寺が並んでいる。
道の奥にあるのが豊積(とよつみ)神社で、天武天皇の白鳳年間に創建され、延暦16年(797)坂上田村麿が東征の途上戦勝を祈願して立ち寄った、という。それが起源で「お太鼓祭り」が始まったといわれる。

豊積神社
 
地持院                 桃源寺
   

由比漁港
 しばらく進むと由比漁港のサインがあり、東海道線と一号線のガードをくぐると、漁船がずらりとならぶ。
明治27年(1894)、今宿の鯵船が富士川沖に出漁中たまたま網にカンタ(浮樽)をつけずに下ろしたところ大量の桜えびが引き揚げられたことから桜えび漁が始まり、今は水揚げ日本一で由比の名産となっている。

旧東海道
漁港入口から約100mほど進んだところで右折する。最初の角を左折するのが旧東海道の名残である。
 左折せずにまっすぐ進むと自動車道に出るが、その正面に天満大自在天神があり、石段前に嘉永6年(1853)の秋葉山常夜燈がある。
もとに戻り、細い道をすすむとT字路となり右に上がる。

今宿の六地蔵
 自動車道に出るが、ここが旧東海道である。
少し進むと山側に堂があり、石段を上ると、六地蔵と三界万霊塔が立つ。
今までは赤い涎掛けばかり見てきたが、ここのお地蔵さんは白い涎掛けである。         
 更に進むと、バス停脇に小さな堂があり、馬頭観音や稲荷社が祀られている。
  
 
 やがて、由比駅側から来る道と合流する。そこに歩道橋が架かっているが、旧東海道はそこから斜め右に入って行く。ここからは再び、旧東海道らしい道幅で落ち着いた町並みとなる。

 今日の旅はここまでで、由比駅まで戻った。(清水駅までJRで行き、一泊した。)
 散策日 2010年3月26日    富士川駅-由比駅
 参考
 「東海道五十三次を歩く」2     児玉幸多 監修


  「東海道 安藤広重の『五十三次』と古道と宿駅の変遷」   八幡義生 著