江尻(清水)- 府中(静岡)    

      地図→  清水~草薙  草薙~静岡  静岡~丸子


 清水駅を降りて、今日の出発点である稚児橋に向かう途中、前回訪れた時に工事中だった江浄寺に立寄る。 本堂が出来上がり、新しくなった銅葺きの屋根が輝いていた。のちには緑青で改めて別の趣になるだろう姿を想像しながら、本陣・脇本陣などが並んでいた江尻宿の中心-今の銀座通り-を通り、高札場があったという稲荷神社の手前の五叉路を南に向かった。

稚児橋(河童橋)
 すぐに巴川である。そこに慶長12年(1607)に橋が架けられたが、橋完成の祝典を行おうとしたところ、川から突然現れた童子が群衆の面前で橋を渡り去ったため、この橋を稚児橋というようになったという。この童子は巴川の河童だったともいわれて河童橋とも呼ばれ、それぞれの橋脚の上に河童の像が置かれている。

船高札場
 橋をわたると、上流側に「船高札」が立てられていたという、説明板がある。正徳元年(1711)から明治の初めまで続き、官船、諸国廻船ともすべて暴風などのときには助舟を出し難破させないようにする事など7条にわたる定めが書かれていたという。
 下流側には、河童のこしかけ石とよばれる石と説明板がある。石は、駿府城を築く際の伊豆から運ばれきて巴川に落ちたもので、伝説にちなみそう名付けたという。

法岸寺
 二つ目の交差点を右折してほぼ真っ直ぐに進む。門の手前に「浄瑠璃『朝顔日記』深雪の墓」の説明板がある。
 日向国(宮崎県)高鍋藩主、秋月長門守種長の娘で、4代目清水船手奉行となった旗本の夫人となり、寛永18年(1642)に葬られたが、その数奇な運命が物語の筋になったという。

東明院
 すぐ先の細い路地を北に入ると、屋根に鯱のついた山門がある東明院がある。慶長6年(1601)江尻城が廃城となる時の裏門を譲り受け、その後焼失したものを天保2年(1831)に原形に復元したという。当時(1600年代)のものとしては、門扉の金具(武田菱)のみという。
 門の裏には、この山門の修復に使用できなかったという小芝神社の裏山門にあった鯱や鬼瓦が修復されて置かれている。

慈雲寺
 旧道に戻りすこし先右奥に慈雲寺がある。
寺の説明板によると、16世紀末開創され、宝暦年間(18世紀中頃) 白隠禅師の弟子 長泉智牛和尚により再興されたという。豊後国(大分県)出身で当時やせ地に悩む三保の農民を救うためサツマイモの栽培を広めたという。
明治に入り、入江小学校の前身の入江学舎が本堂に創立されたという。

江尻宿西木戸跡
 旧道に戻ると、すぐ先 右側に江尻宿西木戸跡と彫られた石柱がある。
江尻宿の京側の入り口があったところである。



 この付近は さくらももこの実家があったところで、ちびまる子ちゃんの舞台になっているという。

題目塔-道標

 しばらく進み、南に入江小学校にはいる信号をすぎて最初の四辻に、題目塔・道標が立っている。
「南無妙法蓮華経」という題目の右面に「是より志三づ道」、他の面に「・・法春・・」と刻まれている。
谷口法春が元禄年間(1688~1703)頃に、全国を行脚して建てた題目塔・供養塔のうちのひとつである。ここは東海道から分かれて清水港に向かう清水道の分岐点で、追分と呼ばれた。
 そこには、元禄8年(1695)創業という追分羊かん本店がある。

都田の吉兵衛 供養塔
 題目塔から200mほど先の民家の前に目新しい供養塔が立っている。遠州都田の吉兵衛(通称都鳥)が、次郎長一家により、森の石松をだまし殺した恨みを晴らすためにここで討ち取られた。説明板は、「吉兵衛の菩提を弔う人も稀なのを憐れみ、里人が最後の地に供養塔を建てた」という。

少し手前の反対側には、延寿院 不動堂がある。

姥ヶ池
 100mほど先の金谷橋を渡り次の信号をのある交差点を右に少し行くと、鳥居と小さな池があり、奥に弁財天の社がある。
「延暦年間(782~805)、この辺りに住む金谷長者という金持ちにやっと男児がうまれたが、ひどい咳の病にかかり、乳母がこの弁財天に祈願して身代りとなってこの池に入水して死に、男児は回復した。長者は社を建て祀った。姥ヶ池と呼ばれ、咳に病む子がこの社にお祈りすると治ると言い伝えられ、東海道の旅人は立ち寄ってお参りした。」という説明板がある。

久能寺観音道標
 その先で、東海道線と静岡鉄道の踏切をわたり、緩やかな坂を上りきった左側の大きな木の根元に道標が立つ。
久能寺観音道と刻まれ、安永7年(1778)の建立で、願主妙音寺邑とある。ここから東南方面約3kmほど先にある久能寺(今の鉄舟寺)に行く道のことである。久能寺は、推古天皇の時代(592~628)に創建されたという。
 道は右に大きくカーブするが、正面の林の先に上原堤という農業用の溜池であった大きな池がある。

上原子安地蔵
 静岡鉄道の狐ケ崎の駅を過ぎると道は左にカーブし、しばらくすると左手に地蔵堂がある。本尊は行基作との伝説があり、地蔵堂は鎌倉時代建立とされる。永禄11年(1568)武田信玄が駿府の今川氏真を攻める際配下の部隊がこの上原の地に布陣したという記録がある。
天正10年(1582)徳川家康が武田勝頼を攻めるに先立ち、武田側の江尻城主穴山梅雪とこの地蔵堂で会見した。その結果梅雪は家康に降り、武田氏滅亡のきっかけとなった、という。

千手寺
 すぐ先の山側に上る道の奥に千手寺がある。
隠元により宋からもたらされた黄檗宗(おうばくしゅう)のお寺で、小田原の招大寺が同じ宗派であるのを思い起こした。
境内には元文5年(1740)の庚申供養塔の祠があり、また江戸時代より使われていたという井戸が残されている。

草薙一里塚跡
 しばらく進むと交通量の多い県道に合流する。すぐ先の右手駐車場の端に、草薙一里塚の石柱や、一里塚之趾と刻まれた自然石がある。
道路拡張によりここに移設されたという。
一里塚が築かれていたため、この付近は一里山と呼ばれていたという。

「草薙神社への参道」説明板
 しばらく広い県道を進み、左側の清水七中の東側を通る道に入るとすぐに、草薙神社への参道の説明板が立つ。
神社へは、一クリックすると拡大里山新田と草薙村の境であるこの道から入る東側の参道と、草薙村と谷田村の境を通る西側の参道がありそれぞれに鳥居があった、という。 寛政7年(1795)に建てられた石鳥居で、今は神社境内にある。東参道には杉並木があったという。
          東海道分限延絵図

草薙神社


 300mほど先が静岡鉄道草薙駅前交差点であるが、その一つ手前の交差点に大きな鳥居がある。
神社まではここから約1.2kmで寄り道とはなるが、昔に遡る良い機会なので訪れることにした。草薙神社通りという名のついた坂道を草薙川沿いに上っていく。
境内一帯は大きな林に囲まれ、石段左には日本武尊像が立つ。

 神社の由緒によれば、景行天皇第二皇子の日本武尊が東国平定のため吾嬬国に行く途中、この地で逆賊が原野に火を放った。日本武尊は剣を抜いて「遠かたや、しけきかもと、をやい鎌の」と唱え草を薙ぎ払い難を逃れた。その後、景行天皇53年(西暦123)に景行天皇は日本武尊を偲び神社を建立し、剣を草薙の剣と名を変えて奉納したという。
 他にも日本武尊にかかわる伝説は、神社の信仰の広まりと共に草薙の地に多く残っており、神社境内の案内板で紹介されている。
 安政年間(1854~60)から、秋季例大祭日に高度300mまで打ち上げが行われている『龍勢(流星)煙火』の由来や仕組みが、サンプルと共に詳しく説明されている。

天皇原と古宮
 大鳥居まで戻り、駅前交差点の手前の静清信用金庫のビルの裏側の道の脇に「天皇原と古宮」の説明板が立つ。
この付近は天皇原と呼ばれ、草薙神社が現在の地に移転するまでは、この地にあったので、古宮(ふるみや)という名が残っているという。
神社の記録によると、天正18年(1590)徳川家康が現在の地に造営したという。

旧道の景色
 駅前交差点あたりの旧東海道の道筋ははっきりしないが、つぎの交差点を左に入ると、旧道がはっきりと現れ、県道と並行して南西に進む。
しばらく行き、信号を右折すると鳳林寺があり、門前にはっきりと形の整った正徳3年(1713)の庚申塔などがある。

閻王寺と閻魔坂
 信号から約200m先の駐車場の端に、説明板がある。ここに閻魔大王を本尊とする閻王寺があったという。
江戸時代、門前の東海道を閻魔坂といい、傾斜が急であったため落馬してけがをする人が多く難所と言われ、閻魔大王に対し礼を失する祟りであると考えられて、参勤交代の大名でも馬から下りて通行したという。

旧道の景色:秋葉山常夜燈
 東名高速の高架の下を進むと、右手の民家の塀の間に寛政10年(1798)の常夜燈がある。
 まもなく草薙球場に突当るが、ここから先の旧道は消えている。突当りから駐車場の脇をまわって球場に向かうと、石塔、庚申塔がならんで立っている。

庚申塔群と草薙球場
 周辺から移されてきた文字が刻まれた庚申塔で、享保2年(1717)や延享4年(1747)も庚申塔などである。
 その柵の向こう側が、球場の前の広場で、そこには、1934年草薙球場で行われた日本チームとアメリカ大リーグの選抜チームとの試合の様子が記されたプレートや、沢村栄治とルー・ゲーリックが対決している銅像がある。

旧東海道記念碑
 地下道で県道を渡り、静岡鉄道総合運動場駅から西に来る道に突当り、そのまま100ほど行くと、東海道本線とぶつかり、その脇に石柱と旧東海道の由来が御影石に刻まれた石碑がある。
国鉄の操車場の建設と区画整理事業により、栗原地区の旧東海道もその姿を消すことになったことから、記念碑を建設したという。
記念碑のすぐ右側に東海道本線を渡る地下道があり、渡りきってから左に向かう。100mほど線路沿いをすすみ、右に(真西)にすすむ。大谷川を越えると古庄と示された静岡市の道標がある。

久應院と長沼一里塚
 旧道は長沼交差点で国道一号線を斜めに横断する。200mほど先右に久應院があり、地蔵菩薩の石像と寛政12年(1800)の文字庚申塔がある。
 その先左側の民家の前に「長沼一里塚跡」の石柱が立っているはずであるが、消えていた。
            一里塚の場所→

古代東海道遺構跡 :曲金北(まがりかねきた)遺跡
 静岡鉄道長沼駅を過ぎて、古代東海道遺構跡を見るために、東静岡駅南口に向かう。国道一号を越えて広い北口に出ると、東海道線の向こう側に突然巨大なビルが見える。静岡コンベンションセンター(グランシップ)という。

 線路とビルの間350mにわたり2本の側溝が見つかり、道路幅約9m、側溝間12~13mといい、8世紀初~10世紀初に使われた古代東海道と考えられるという。
遺構は地下1.5mの所で100mにわたり保存されている。
        発見された遺構→ 

護国神社
 もとの旧道に戻り静岡鉄道の線路沿いに進み、明治32年(2899)に創建された護国神社の鳥居が右側に見える。その先国道一号線を渡った先で、東海道線により途切れるため、国道を少し進み、東海道線のガード下をくぐる。階段を上り右折すると「曲金」と示された静岡市の道標が建つ旧道に続く。

法蔵寺
 小学校の先の小道を左に入ると正面に山門がある。
境内には、延宝4年(1676)の悪病流行の折り、我が身を犠牲にした修験者を祀った「千日地蔵尊」や、狐が崎地蔵尊、元文5年(1740)の庚申塚や馬頭観音などが、それrぞれの説明文とともに置かれている。

馬頭観音
 山門の前を、寺の塀沿いに東に行ったところに、梶原景時を祀ったといわれる馬頭観音の祠がある。正治元年(1199)頼朝の死後、2代頼家と御家人たちの争いの中で、正治2年(1200)幕府に追われ一族を率いて上洛しようとしたが駿河国で追手に攻められて一族は滅亡した。(吾妻鏡は清見ガ関 となっている。)
説明板によると、「梶原主従は、ここ狐が崎まで追いつめられ合戦を展開したが、全員討ち死にした。・・村人は堂塔を建てて供養した」という。
 
法蔵寺の手前左手は、広い境内のある軍神社で、とても大きな楠が印象的であった。    
                         →軍神社
曲金観音堂
 神社の公園の脇から旧道に戻り100m強進んだ左手の植え込みの内側に、小さな観音堂がある。
大きな説明板で、先ほどの見た景時の馬頭観音の祠と同じように、この狐が崎の古戦場での景時と地元武士団の戦の模様が更に詳しく述べられている。戦死者を祀り、本尊の十一面観音菩薩を勧請して観音堂が建てられたとある。


旧道はすぐに東海道線のガード下を通り、国道1号線を斜めに横切る。右側に公民館と一体となった祠に延命地蔵尊が祀ららている。先の交差点を右折して清水寺へ行く。

清水寺
 清水寺は、永正年間(1504~21)に開かれた壇林(学問所)の地に、8代今川氏輝の遺命によって永禄2年(1559)に創建され、眺望が素晴らしく京都の音羽山清水寺と似ていたのでその名がつけられたという。右手の本堂は、壁がレンガ造りで外壁が珍しい様式である。
一番奥の観音堂は、慶長7年(1602)家康が寄進したものという。
境内には、明和7年(1770)に建てられた芭蕉の句碑がある。
 「駿河路や はなたちばなも 茶のにほひ」

猿屋町→久能山道標
 もとに戻って伝馬町通りと呼ばれる道を西に進むが、右側の歩道に「猿屋町」の石柱がたつ。このあたりは、猿引き/猿回し=正月などに家々を回り猿に舞わせて1年の安泰を祈る芸能=の住む町であったという。クリックすると拡大
 
その先、つつじ通りを越えた左側に、「久能山 東照宮道」という石柱がたち、久能山への道が分岐していたことを示している。
久能街道といわれた久能山までの道と共に、駿府城の東側の東海道、北街道の地図が表されている。

華陽院(けよういん)
 旧道を挟んで道標の向かい側の奥、細い道を入った所に、華陽院がある。
 家康が竹千代といったころ、8才から19才まで今川の人質として駿府に住まわされていた時、当時知源院と呼ばれていたこの寺の近所に住む源応尼が世話をし、寺の住職-知短上人に学問を学んだという。

 もとに戻ると歩道わきに、「花陽院門前町」の石柱が立つ。ここから西に進むと、伝馬町となる。

伝馬町:上伝馬、下伝馬本陣脇本陣跡
 歩道わきに、伝馬町界隈の様子や、上伝馬本陣・脇本陣 その先に下伝馬本陣・脇本陣跡をしめす石柱がたつ。
少し離れて由来がかかれた大きな石碑もある。慶長14年(1609)家康が駿府を町割りして宿場を定めたことから始まり、問屋場が設けられていたことから伝馬町となったという。

西郷・山岡会見之史跡
 静岡駅前からの道と合流する五叉路の交差点の手前、右側に「西郷・山岡会見の地」の説明板と大きな石碑が立つ。
 「慶応4年(1868)江戸に向けて駿府に進軍した有栖川親王を大総督とする東征軍の参謀-西郷隆盛と、徳川幕府の軍事責任者勝海舟の命をうけた山岡鉄太郎(のち鉄舟)の会見がこの地で行われた。江戸城の明け渡し、慶喜の処遇などが合意され、5日後の江戸・三田の薩摩藩邸で行われた勝海舟と西郷の会談で最終的に決定され、無血開城が実現した。」

呉服町通り
 交差点で左折して江川町通りにはいり、100mほど先を右折して呉服町通りに入る。
ここは、今川時代から駿府の本町と言われ、城下の主要地であったという。
 200mほど先の伊勢丹のある十字路に「札の辻址」の石柱がある。
                      街灯→

札の辻址
 200mほど先の伊勢丹のある十字路に「札の辻址」の石柱がある。
駿府城の大手門の正面で、ここに高札場があった。
 東海道はここを左折するが、駿府城に行くために右の県庁方面へ向かう。

町奉行所址
 県庁の手前、静岡市役所の角に、駿府町奉行所址の石柱があり、ここに、寛永9年(1632)から明治元年(1868)まで設置されていた。
となりには、「静岡の由来」を刻んだ石碑がある。明治2年(1869)の廃版置県の前に、それまでの駿府または府中の地名が協議され、賤機山にちなみ賤ヶ丘と決まったが、藩学校の頭取の提案で「静岡」となったという。  静岡県庁→                     

駿府j城
 県庁の脇を抜けると、二之丸橋の先にほぼ正方形の堀(中堀)に囲まれた広大な城跡がある。

二ノ丸橋から見た中堀                内堀から東御門方面を見る
<駿府城の歴史>
 室町時代初期、今川範国が駿河の守護職に任じられて以後、今川氏が駿河国を支配していた。桶狭間の戦いの後、武田信玄が駿河に進出。その後、天正10年(1582)織田・徳川勢力が武田氏を滅ぼし、三河の徳川家康が領有した。クリックすると拡大
家康は駿府城の築城を開始し、天正14年(1589)に浜松城からここに居城を移した。
小田原北条氏滅亡に伴い、家康は関八州に移封、駿府城には中村氏が入った。慶長8年(1603)家康は征夷大将軍になったが、息子の秀忠に将軍職を譲り、慶長12年(1607)大御所として駿府城に移り、隠居城として大幅に拡張し、ほぼ正方形の堀がめぐらされた壮大な城となった。
家康の死後、一時徳川家が城主になったがその後は、幕府の直轄地となり、明治維新まで城代が置かれた。

道の景色 

 札の辻の所まで戻り、そのまま真っ直ぐに七間町通りを進む。
約300mほどすぎて右折し、人宿通リに入る。
 七間町通りから 人形町通りへ
  郷土玩具の紹介が石柱の上にある
 新通り   
   200mほどすすんで梅屋町の十字路を左折して、ここからは真っ直ぐに安倍川方面まで進むことになる。
広い ときわ通りを横切ると,右側に宝暦3年(1753)創業というわさび漬けの老舗がある。
その先の交差点角には、防災倉庫の上に秋葉神社がある。
 

府中一里塚
 この新通りが東海道になったのは慶長14年(1609)以降といわれ、それ以前は、この新通りと並行して西側を通る「本通り」であったという。 
そこで秋葉神社のある交差点を西に本通りに行く。、本通り交差点を左折すると、すぐ右側の歩道の端に一里塚の石碑がある。
大正14年(1925)建立の小さな石柱もある。
一里塚は新通りには立てられなかったという。
 

 この近くに宿を予約してあり、本日の散策はここまでとし、少し離れてはいるが青葉通りの常盤公園の北にある青葉おでん街に出かけた。
 散策日 2010年6月4日    清水駅ー静岡市 駒形通
 参考
 「東海道五十三次を歩く」2     児玉幸多 監修