吉原-富士川    

      地図→ @吉原〜富士市(本市場  
A富士市(本市場)〜富士川駅   

 
 吉原に泊まり、昨日と同じ場所で富士山を眺める。6時47分朝日をうけた山頂である。

 

河合橋
 吉原駅北口の信号から北に向かうと、河合橋で沼川を渡る。
片浜のあたりから旧東海道に沿ってずっと北側を流れてきた川である。
 その手前に馬頭観音がある。


天明3年(1783)馬頭観音

街道景色
 道の両側を工場が並ぶ中を進むが国道一号線にぶつかる前に、途中の一本の松が旧道らしい面影を残している。クリックすると拡大
吉原宿跡の標柱がたち、地図には吉原宿の場所の変遷が出ている。
 毘沙門天から木之元神社あたりがもとの吉原宿で、津波・季節風の被害が続くため寛永16〜17年(1639〜40)ごろ、この先の左富士神社手前から西に向かう道のある中吉原宿に移転した。
その後の延宝8年(1680)の大津波で流されたため再度移転し、今の吉原本町駅の西の吉原本町通りが、新吉原宿となった。

左富士神社
 国道一号線を渡り、新幹線のガードをくぐってしばらく行くと街道は右寄りにカーブしている。以前は悪王子神社といって別の場所のあったものが移って来て、名前も変ったという。その境内左側に伊豆型道祖神がある。

左富士
 信号のある交差点の手前からいよいよ左側に富士が見えてくる。以前歩いた茅ヶ崎の「南湖の左富士」と、この地の左富士が東海道の名所で、ここは広重の絵でも有名である。
周囲の工場群を視界からはずして、昔の松並木のうちの一本のみ残る松の木と、富士を眺める。

馬頭観音
 すぐに道は左へ曲がり、富士山は正面となる。その先左側に馬頭観世音菩薩と彫られた石碑・・明治39年(1906)とある・・と祠がある。

平家越の碑
 まもなく、和田川にかかる平家越え橋となり、その角に「平家越」と刻まれた大きな石碑が建つ。治承4年(1180)平家軍は、水鳥の一斉に飛び立つ音を源氏の夜襲と思いこみ一戦もせずに逃げたという、富士川の合戦が行われたのがこの辺りという。

 橋を渡ってしばらくの所でたまたま工事中の空き地があり、そこからの富士山と愛鷹山の眺めは雄大である。

山神社
 次の交差点までは、南側には変速機メーカーのジャトコの工場が続く。信号を越えた南側に、依田原 山神社がある。






享保8年(1723)灯籠                       天保5年(1834)常夜燈

東木戸跡
 山神社から東海道に戻ったすぐ先右側に、東木戸跡の標柱が立ち、ここから3度めの移転ののちの新吉原宿に入る。
西木戸までの長さは約11町(1.2km)で、天保14年(1843)のデータは、人口:2,832人、旅籠:60軒、本陣:2軒であった。最盛期には脇本陣4軒を加え、100軒を超す旅籠を抱えたという。
また 駿河半紙の生産地として有名であった。

吉原宿の通りの様子 →

岳南鉄道 吉原本町駅  →   脇本陣跡などがある本町通り
  

陽徳寺
 吉原本町駅の手前奥に陽徳寺がある。
本尊は木造地蔵尊像で、新吉原に移り 寺町(今の東本通り付近)に悪性の眼病が流行った時に、願をかけると治り、地蔵の目に目やにがついていたので「身代り地蔵」と呼ばれるようになったという。
文政6年(1823)の徳本の六字名号碑がある。

天神社 (吉原天満宮)
 岳南鉄道の踏切を越え西北に進んだ道は、次の交差点からは真っ直ぐに西に向かうアーケードの整った本町通りとなる。その北側の通りに、吉原天神社がある。創建は不詳で、もとは、元吉原にあり、建久4年(1193)頼朝が、天正18年(1590)秀吉が参拝したという。宿の移転と共にうつり、本殿は寛政元年(1789)の造営という。

歩道上の脇本陣跡のプレート       高砂館跡−明治天皇御小休所
 通りの歩道には、脇本陣跡、問屋場跡などを示す矢印のあるプレート埋めこまれ、当時の宿の配置が分かるようになっている。 

道標
 しばらく行くと、静岡銀行の手前の交差点となる。
東海道はここで左折し、商店街から離れて通常の旧東海道らしい道筋となる。
角には、木製の道標がたち、「吉原宿 →蒲原宿 3里 京都 90里、 →原宿 3里」とある。

妙祥寺
 100mほど進んで右折するが、その角に富士市の標柱があり、妙祥寺の題目塔が建つ。
そこから南に参道が続き、妙祥寺境内となる。創建は元亨3年(1323)といい、宿の移転と共に元吉原から移転した。

大運寺
 東海道に戻り200mほど西に行くと、右側に大運寺がある。
永徳元年(1381)に元吉原に了善寺として創建されたのが始まりで、その後移転した。
参道入り口に単体道祖神がある。

西木戸跡
 まもなく小潤井川にかかる小さな橋があるが、その手前右側に富士市の標柱が立ち、西木戸跡があったという所である。その先で139号線とぶつかり、その南の広い「青葉通り」を横切るまで富士市役所前の道路改修により東海道は途切れている。
青葉通りの北側に道路改修碑があり、その様子を伝えている。

              道路改修碑→

磔八幡宮 (青嶋八幡宮神社)
 交差点の信号を渡り、富士市の標柱のあるところで、南に進む。
信号を過ぎた先の左側の塀の前に道祖神と刻まれた石塔が建つ。


 その先左側に入った所に、磔八幡宮がある。
「天和元年(1681)綱吉の時代、財政建て直しのため地方検地が行われたが、前年の延宝8年(1680)の大津波で大きな被害を受けていた青嶋村の名主川口市郎兵衛は、村人を救うため検地に反対し、役人の立入りを拒んだ。そのため江戸に送られ磔之刑にされた。
村人は古くからあった八幡宮に市郎兵衛の霊を合祀したという。」

 境内には、石塔がならぶ。

文化9年(1812)文字の庚申塔


   宝永6年(1709)庚申塔
             梵語と三猿→

富安橋
 広い通りが交差する五叉路で、西に向かう。
150mほどいくと、旧東海道順路という矢印があり、その先を左折すると、潤井川にかかる割安橋となる。正徳元年(1711)第8回朝鮮通信使が通る時に仮橋ができ、その後、江戸と京を月に3度往復していた飛脚問屋「三度屋」が資金を出して三度橋として付け替えられたという。
橋の西側には単体道祖神がある。

袂の賽神(たもとのさえのかみ)
 橋をわたると、道はほぼまっすぐ西に進む。右側のブロック塀の間に杓をもち頭巾をかぶった僧行型道祖神があり、袂の賽神と呼ばれているという。 江戸時代後期のものといわれる。
 信号を越えた先には、住宅の間に山神社が建つ。

間宿(あいのじゅく) 本市場
  富士総合庁舎を過ぎた先に、吉原宿と蒲原宿の間宿の説明板と道標が建つ広場がある。間宿には通常旅籠屋はないが、富士川が渡れない時もあったため何軒かあったという。本市場の名物として、白酒、葱雑炊、肥後ずいき などを扱う多くの茶屋が並んでいたという。   

鶴芝の碑
 すぐ先の民家の前に、鶴芝の碑が建っている。
「文政3年(1820)に、本市場の鶴の茶屋に建てられたもので、当時ここから富士を眺めると、中腹に一羽の鶴ヶ舞っているように見えたので、この奇観に、京都の画家蘆洲が鶴を画き、江戸の学者亀田鵬斉が詩文を添えて、碑とした」という。

瘡守(かさもり)稲荷神社
 この先で、中央分離帯のある広い道路にぶつかり、信号のあるところまで迂回することになる。ここを北に向かうと、右側に小さな神社がある。神社の前に置かれている「白石」は江戸時代より熱病を治癒する霊(冷)石とされ、またの名を「疣(いぼ)神様」と呼ばれて親しまれてきたという。祈願の折り、一個を借りてお礼まいり時には2個にして返すという。

法源寺
信号を渡るとすぐ、法源寺がある。
山門脇に天保14年(1843)の六字名号碑がある。


           法源寺前の街道→

本市場一里塚跡
 信号を越えて王子製紙の工場の塀にさしかかる手前の小さい川との間に、一里塚跡がある。石碑と若い榎がある。

街道風景
 この先の信号を渡るが、そこは南北に続く長いアーケード通りである。400mほど南に行くとJR富士駅である。
吉原本通りのアーケードと同じく、長く整った通りは壮観である。
すぐ先の信号の角に道祖神がある。

平垣公園
 道祖神のある角を200mほど南に行き、右折した所に平垣(へいがき)公園があり、芭蕉の句碑や、「野ざらし紀行」の一節が刻まれた新しい石碑がある。
もとに戻り、緩やかにカーブした道を進むと、右側に栄立寺、金正寺がある。 

旧松永邸跡
 金正寺の隣にフジホワイトホテルがあり、説明板がある。県内有数の大地主松永家の邸宅跡に建てられたという。
 松永家は江戸時代、甲斐の国から平垣村に移住して土地集積により財力を蓄えたという。
江戸末期には平垣村ほか六ヶ村を領地とする旗本日向小伝太から領地取締役を命じられ、邸内のその陣屋を構え、領主に代わって年貢の取りまとめを行う業務を担っていたという。

札の辻跡
 その先の小さい川を渡った左に富士市の「札の辻跡」の標柱が立つ。
この辺りには、平垣村の高札場があったという。
猿田彦大神などの石塔が建つ

道の風景-稲荷神社
 富士早川を渡った先に小さな稲荷神社があり、脇に双体道祖神がある。

その先右側には、寛政6年(1794)の秋葉山常夜燈が建つ。

天白神社
 緩やかに曲がる道を進むとまもなく旧国道1号線に合流する。
北側に天白神社がある。創建は不明で、由緒によれば、棟札の写しで、天正13年(1585) 本社造営、慶長18年(1613)、寛永19年(1642)、寛文10年(1670)修復 の記録があるという。
日照りが続き米がとれない年に天から長さ一寸八分(5.5cm)の米三粒が降って来た。村人は神社に祀り、天白と名付けたという。



道標と常夜燈
 すぐ先でJR身延線のガードをくぐり、橋下交差点を過ぎた次の信号で、右に分岐する道がある。
その角に慶応元年(1865)の秋葉山常夜燈と、、その脇に「左 東海道」と刻まれた道標が建つ。
道票は道路整備でここに移されたため、ここでは「右」が正しいという注釈がある。

護所神社
 東海道は水路を横切って西に向かうが、その前に雁堤に行く。,水路沿いに右に100mほど進むど、左に堤に登って行く階段があり、そこに護所神社がある。
寛文年間(1661〜72)古郡父子が築いていた雁堤は富士川の洪水でしばしば流されていたため、住民は千人目の旅人を人柱にして神仏に願うことにした。富士川を渡ってきた旅僧は快諾し人柱となった。その霊を神として祀っている。

雁堤(かりがねづつみ)
 雁堤は、岩本山の裾から水神社に至る2.7kmに及ぶ大堤防で、その形が雁が群れで空を飛んでいる姿に似ていることから名付けられたという。
古郡重高は、新田開発のために元和年間(1615〜23)に富士川の堤防の築造に着手し、その子、重政、更に重年の三代にわたって引き継がれ、延宝2年(1674)に完成した。
その結果加島平野は「加島五千石」といわれる肥沃な土地に発展したという。

街道風景
 旧街道に戻り西に行き、旧国道一号線に合流する。まっすぐに富士川に向かうが、古い石塔がたち、橋の近くには明治天皇小休所の石碑が立つ。

水神ノ森と富士川渡船場

              富士川
 富士川を渡る手前に水神社がある。正保3年(1646)古郡重政が堤防築造の成功を祈願して創建したという。
その境内には、文化元年(1804)の秋葉山常夜燈や文政元年(1818)の常夜燈がある。






 参道右側には「富士川渡船場跡」と刻まれた石碑が立つ。
 富士川を渡るには、渡船が利用され、その業務は当初は対岸の岩渕村で担当していたが、交通量の増大により、寛永10年(1633)以後、舟役の1/3を東側の岩本村が分担したという。
その右には、宝暦8年(1758)の「富士山道」の道標がある。

角倉了以の碑
 富士川を渡ると、岩淵 渡船場跡の標柱があり、そこから自動車道のガードレールの脇を100mほど川上に行くと、常夜燈や石碑などが建つ一角となる。
説明文によると、「京都の豪商 角倉了以・素庵の父子は、慶長12年(1607)、19年(1614)に幕府から富士川の開削を命ぜられた。その水路は岩淵河岸(現在地)から鰍沢河岸(山梨県鰍沢町)の間約18里(71km)で、難工事の末完成、以後富士川水運は明治44年(1911)
中央線が開通するまでの約300年間、甲信と東海道を結ぶ交通の大動脈としての役割を果たし、岩淵河岸は『下り米、上り塩』の中継地として繁栄した」という。

光栄寺
 旧東海道は、富士川鉄橋を渡った先の信号の50mほど北側にある細い坂道の登り口から入る。
 坂道を上りきった所に、東海自然歩道バイパスコースという一里塚への道順を示す道標が立つ。
そこを右にいくと、光栄寺の境内となる。参道の階段を下に降りると、享保16年(1731)の題目碑があり、側面に「身延山道 小松野江一里半 万澤江三里半・・・」と刻まれた道標となっている。 

常夜燈と清源院
 もとの道標の場所に戻り、南に進む。間宿 岩淵となる。
右側に秋葉山常夜燈がある。岩淵には、こうした自然石を利用したきのこ型の常夜燈が多い。
 すぐ先には清源院があり、境内に登ると富士市内への見晴らしがすばらしい。

小休(こやすみ)本陣 常盤家住宅
 しばらく行くと、長い塀の続く「常盤家住宅主屋」がある。
常盤弥兵衛家は、渡船名主として移住、寛永年間(1624〜44)には小休本陣を勤めていたという。 現存の邸宅は安政の大地震後の安政3年(1856)以後に建造されたという。総建坪75坪で、居室の奥には「ジョウダンノ間」と呼ばれる賓客が座った部屋がある。(説明板より)
 門には、「西條少将小休」の札が掛かっている。(紀州徳川家の分家である愛媛西條藩の藩主松平類学(西條少将)が、身延山参詣時に休憩したという。)
(土曜日なので、公開中であった)

八坂神社
 その先の四辻を過ぎると、右に八坂神社の参道がつづき、東名高速の下をくぐった先の山の中腹に社殿がある。

新豊院
 右側に槇の大木が並ぶ長い参道の新豊院がある。正治元年(1199)真言宗の寺として創建、のち曹洞宗に改宗。
大布に描かれた「大観音様」のある寺として親しまれているという。


         参道前にある享和.3年(1803)の常夜燈

岩淵一里塚
 南に進んできた街道が真西に向かう角に、37番目一里塚がある。岩渕村と中之郷村の境で、付近には岩渕名産「栗ノ粉餅」を売る茶店が並んでいたという。東側の塚(写真-右)は枯れたため2代目の榎であるが、西側の榎は高さ10m余りで、二つの塚が当時のままの姿で残っている。

富士川民族資料館
 東海道は右に曲がるが、すぐ南にある民族資料館に立ち寄った。
桑木野の旧家・稲葉家を移築復元したもので、富士川流域の農家の典型的な姿という。
民具など多数展示されている。
そこで、説明を受けた人から、富士市発行の「富士市の東海道とウォーキングコース」という非常に分かりやすく書かれているパンフレットを頂き、その裏に達筆で次の一言を書いてくれた。
・・・歩みよる人にはやすらぎを すぎゆく人にはしあわせを・・・

街道風景-岩渕
一里塚まで戻り富士川一小の前を左に曲がり、100mほど先の右角に道標が立つ。南無大悲観世音菩薩と刻まれた側面に「是より川・・・・」とある。
またその先左側に文政6年(1823)の秋葉山常夜燈が立つ。
100mほど先の四辻を右に曲がる。

街道風景
 防災倉庫前にもきのこ型の常夜燈がある。緩やかな坂を上り、東名高速道路の手前に、「中之郷」と記された富士市の標柱がある。
 
 高速道路をくぐると正面に石碑が立ち、東海道は左へ下って行く。

街道風景-中之郷
 小池川を渡ってさらに下ると集落となる。
左側に「ツル家菓子店」がある。
その先右側には秋葉山常夜燈が立つ。安政3年(1853)とある。

宇多利神社
 すぐ先を右折し山の中に入る。100mほど先に長い階段がある。
 由緒によれば、創立は平安時代末期(1145年頃)で、延暦寺の鎮守神山王七社権現(現在の日吉神社)を勧請し七社権現社と称していたが、戦火で焼失、天正年間(1573〜92)に現在地に再建されたという。


 この先、蒲原宿に入るにはまだ先があるため、今回の旅はここまでとし、左に坂を下ってJR富士川駅に行った。
 散策日 2010年1月16日    吉原-富士川駅
 参考
 「東海道五十三次を歩く」2     児玉幸多 監修


  「東海道 安藤広重の『五十三次』と古道と宿駅の変遷」   八幡義生 著