沼津(片浜)-吉原     

       地図→  @片浜〜吉原   A吉原〜富士市(本市場   



 沼津の西門間から吉原まで駿河湾の緩やかな海岸線と千本松原に沿ってほぼ一直線に西に進む。
富士山を右に見てすすみ、それが、どのように変化していくかを見るのももうひとつの楽しみである。


片浜の街道風景
 JR.片浜駅から旧東海道にでて一路西に向かう。
東海道線の北側に国道一号線、また千本松原沿いに千本街道がありトラックなど多くはそちらを走るので、自動車の交通はそれほど激しくはなく、比較的ゆったりとした旅を続けることができる。

祥雲寺
 しばらく進むと右側にあり、永禄元年(1558)建立という。
境内の薬師堂には承和8年(836)慈覚大師作という薬師如来が安置されているという。今沢薬師として知られる。

 隣には、三島神社がある。
j樹齢約450年という幹周り約4mのラカンマキがある。

伊勢神明社
 沼津宿の出口にあたるの門間付近から西の原宿あたりまでは、500m前後の間隔で神社が並んでいる。
まず、『三本松新田』の神社で右側脇に鳥居が立ち長い参道の奥に伊勢神明社がある。鳥居の脇に風化した道祖神がある。

 境内左奥には、寛政5年(1793)の三界万霊塔がある。(寛政年間に悪行の結果、廃寺となった清原庵にあったものという説明板あり)) 
その手前には、元禄6年(1693)と享保3年(1803)の庚申塔がある。

<富士の風景>

 しばらく行くと東海道線の踏切を渡る。
愛鷹山の左奥に位置し、雲がかかっているが、雲間から山頂がわずかに顔を出している。
(10:30am)

神明神社
 その先北側に『大塚新田』の神明神社がある。
鳥居の脇には、賽神(さいのかみ)として祀られた道祖神が2体ある。(伊豆型といわれるもの。)
かっては原宿入口にあり、疱瘡の神様として親しまれてきたという。

原宿東木戸跡
 参道の脇が北に向かう道路で、その入口西側に「原宿東木戸(見附)跡」のプレートを付けた石柱がある。東木戸跡がこのあたりにあったと推定している。
ここから原宿に入り、西木戸までの距離は、660間(1.2km)あったという。
沼津宿へ一里半(6km)、吉原宿へ三里六丁(14.4km)の位置で天保14年(1843)の人口は1939人で、宿の規模としては小さい。
幕府韮山の代官江川氏の支配下にあった。

秋葉神社
 その先北側に『大塚本田』の秋葉神社、そのすぐ先に高木神社がある。それぞれ、天明2年(1782)と、宝暦9年(1759)の灯籠が立ち、また、高木神社には、風化した道祖神がある。


高木神社

清梵寺
 高木神社から旧道を越えて、南側に入る細道の正面にある。
安房国に向かう得萬という長者がこの地で亡くなり大きな塚に葬られたことから、この地を大塚と呼ぶようになったという。
本尊の一つ、地蔵菩薩は「原のお地蔵さん」として知られる。

長興寺
 100mほど西に長興寺がある。
康安年間(1361〜62)、建長寺開山の大覚禅師の弟子友嶽が通りがかり、海の響きに感銘して虚空菩薩を安置したのが始まりという。

「駿河のこんぴらさん」として親しまれ、また「赤ちゃん泣き相撲大会」が毎年5月に開かれている

松陰寺




 しばらくして左側に入る広い道があり入口に大本山松陰寺と刻まれた大きな石塔が建つ。
弘安2年(1279)天祥和尚が鎌倉円覚寺の末寺として開山し、その後白隠により再建された。
 境内奥の墓地の中に、白隠禅師の墓があり、説明板がある。
「白隠禅師は、貞享2年(1685)原宿長沢家の三男として生まれ、幼名を岩次郎といった。15才で松陰寺で出家し、慧鶴(えかく)といい19才で諸国行脚し修業を積んだ。500年に一人の名僧といわれ臨済宗中興の祖といわれ、享保2年(1717)松陰寺の住職となり、白隠と号した。
「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」とうたわれた。」
 <松陰寺 擂り鉢松 >
 山門を左に行ったところに高い松の木がある。
備前岡山藩主池田継政が立ち寄った際、白隠禅師の話に感動し、帰国後備前焼のすり鉢を数個寄進した。白隠は台風で折れた松に、雨よけにすり鉢をかぶせたまま忘れていたところ松脂で貼りつきそのまま成長したという。
(今は取替えられ、本物は別に保管されているという。)
樹高21mというが、今は完全に枯れた状態である。

雲見浅間神社
 すぐ先の右側に、ガラス張りの白い枠におおわれた小さな石造りの社がある。祭神は、磐長姫之尊といい、昭和50年に雲見から勧請し雲見浅間神社となったという。

西念寺
 松陰寺から100mほど西に位置して西念寺がある。弘安年間(1278〜88)に一遍上人の弟子素現が創建したという。境内には北野天満宮がある。

白隠誕生の地
 その先が興国寺城通りとの交差点であるが、角に白隠誕生の地の石柱が建つ。
その奥には、「白隠禅師産湯井」という石碑と井戸が残る。
(西念寺への参道の西から見ることができた))

興国寺城通り
 交差点を北に2kmほど行くと、北条早雲が出世の足掛かりとした興国寺城址がある。
南に行くと、当時街道一の庭園・植物園といわれた植松家の「帯笑園」があったところで、今は非公開。

浅間神社
 交差点を過ぎた右側に広場があり、その奥に浅間神社がある。
由緒によると、甲斐武田氏の家臣植松平次右衛門季重が、勝頼の死後、原に移り住み、慶長14年(1609)創建したという。


 浅間神社の広場の左側に、高札場跡の説明板がある。 すぐ先の左側には、問屋場跡の説明板があり、東側にあった問屋場と交替で業務をしていたが、火災焼失のあとはここの西問屋場だけとなった、という。
またその先左側に渡邊平左衛門本陣跡がある。

高札場跡

問屋場跡                 本陣跡
  

 浅間神社向かいの南側への道をすすむと、昌原寺がある。
徳川家康の側室養珠院(お万の方)が開基となり、元和8年(1622)に日蓮宗、大仙院日耀により開山された。
その西側先に、頼朝の富士の巻狩りの際、陣屋が置かれ、その後弘安元年(1278)に創建された徳源寺がある。境内には頼朝の植えた松−三代目-とされる松がある。
更に旧街道との間の道を西にいくと。寛政10年(1798)建立の明徳稲荷がある。

昌原寺

徳源寺                  明徳稲荷
   

高嶋酒造
 原駅入口の交差点を過ぎて左側に入る道沿いに、高嶋酒造がある。文化元年(1804)創業という。明治17年に山岡鉄舟が命名した「白隠正宗」を醸造している。
今晩の宿で是非飲もうと思いながら、高い煙突を見上げた。

 しばらく行くと「六軒町」という集落があって手前には西木戸があったという。
その先道幅が広くなっている。松並木があった名残だという。

<富士の風景>

 
 まもなく新田大橋となる。東海道と並行して田子の浦湾までながれている沼川の第二放水路である。
(12:15pm)

原一里塚(一本松一里塚)
 新田大橋から300mほど先、沼津自動車検査事務所の看板のある交差点の手前左側に、一里塚跡の石柱が立つ。
向かい側の民家の塀の間に道祖神がある。
 江戸初期、原と吉原宿の間に人家が少なかったため、幕府は街道の整備と農民の定着のため新田開発を奨励し、「一本松新田」「助兵衛新田」「植田新田」の原の三新田が開発されたという。

道の景色

愛鷹山の峰               ロウバイ
    

<富士の風景>
 
 愛鷹山の裾野の奥に大きく見えるようになった。
(12:30pm)


浅間神社
 一本松バス停を過ぎるとすぐ右側に浅間神社(三社宮)がある。
慶安3年(1650)の創建という。説明板には、「境内西側の末社には、三扉の神があり、櫛摩知命(くしまちのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、少名彦名命(すくなびこなのみこと)が祀られ、・・・・当地の鎮守の神様で、三社宮とも呼ばれている」という。
鳥居の前に舟型道祖神がある。

大通寺
 300mほど先にある。江戸初期に開山。幕末に徳川の藩士が寺子屋を開き、明治6年(1873)初学舎となり原小学校のもととなったという、

浅間神社

 300mほど先の山側に鳥居があり、参道が長く続く。
「延享2年(1745)の創建で、元和元年(1615)に鈴木助兵衛父子により当地の開拓が始まってから130年後である。」との説明板あり。
助兵衛新田と呼ばれたここの地名は、明治41年(1908)桃里に改称された。
鳥居の近くに、道祖神がある。

道の景色

鈴木和太郎銅像
 この先の桃里中町のバス停の所にも、形の崩れた道祖神がある。その先に胸像があり、明治27年(1894)生まれで、第一次大戦後茄子、西瓜、白桃などの野菜や果樹の栽培をこの地で始めた人物。ここの農産物は後に全国的に有名になったという。

桜地蔵尊
 左側をしばらく進むと、「桜地蔵尊」の矢印があり、東海道線の踏切を渡って線路沿いを西に行くと、畑の中の木立のなかにある。
地蔵堂の前に、石塔や石仏群が並んでいる。

植田三十郎墓所
 しばらく進むと東海道線の踏切を渡る。大乗妙典石経塔-村中安全ーと刻まれた嘉永3年(1850)の石塔や、植田三十郎の墓所とともに、道祖神や他の石塔群がならぶ。
植田新田は、一本松新田・助兵衛新田と同じ頃開拓された新田で、植田三十郎を中心に干拓が図られ、その名前を付けたものである。

<富士の風景>
 
 東海道線を右に見て進む。
愛鷹山の裾野が低くなり、富士のほぼ全容が現れ始めた。
(1:40pm)

八幡神社
 左手に松の木立ちのなかに、植田新田の鎮守である八幡神社がある。
いよいよその先は富士市に入る。
富士市境界の標識がある。

山の神古墳
 旧東海道は東柏原交差点で、南側を走ってきた千本街道と合流する。合流地点の手前を北にすすみ、東海道線の踏切まですすむ。
 右側の畑の中(東海道線の北側)に山の神古墳がある。説明板によると、「6世紀〜7世紀初に造られたもので、当時のスルガのクニの王墓と考えられる。」という。前方後円墳であるが、鉄道と畑のため原型は定かではないという。小さな階段があり、山の神神社がある。

庚申塚古墳
 踏切から西側には、庚申塚古墳がある。説明板によると、「この古墳は浮島沼に接する砂丘上の海抜5Mに位置し、およそ1500年前に造られ、当時の豪族の墳墓と推定される。形状は『双方中方墳』といい、全国的にも非常に珍しい例である」という。
頂上には、青面金剛と刻まれた石塔と祠および庚申塔が立っている。

<富士の風景>
 
 古墳からの帰りの東海道線の踏切で。
東側の裾野まで見えてくる
(2:10pm


六王子神社

 しばらく進むと、右側に「富士市の東海道」の標柱があり、これから行く間宿柏原の簡単な案内図がある。分かりやすい標識になっている。東田子の浦駅にはいる手前右側に六王子神社がある。
天正15年(1587) 三股と呼ばれた沼川・和田川・潤井川の合流する深い淵に住む龍の生贄にされた「おあじ」の身の上を悲しんで身を投げた6人の巫女を祀ったのが神社の始まりという。
「おあじ」は、今の吉原駅南の「阿字神社」に祀られているという。

延命地蔵尊
 神社の向かいの細い道を入ると、駐車場の端に建つ。
明治までの延命寺が廃寺となり、木造地蔵尊を祀るために堂が建てられたという。

信号の北側が東田子の浦駅で、富士山のタイル画がある。

間宿・柏原本陣跡
 しばらく行くと左に富士市の標柱があり、原宿と吉原宿の中間で、茶屋本陣だった柏屋があった所である。
柏原は平安時代の東海道の柏原宿があったことから名づけられたという。他に9件の茶屋があり、浮島沼のうなぎのかば焼きが有名だったという。、

立円寺
 すぐ先に大きな山門があり、広い境内を持つ立円寺がある。
寛文3年(1663)開山。
 境内には富士を模した三角形の「望嶽碑」があり、文化5年(1808)尾張藩の侍医柴田景浩が建立したもので、富士を称賛した漢文が刻まれている。

増田平四郎碑
 300mほど先の昭和放水路にかかる平沼橋の先左手に増田平四郎の像と石碑がある。
原宿の増田平四郎は天保7年(1836)の大飢饉や水害で苦しむ農民を救済するため、浮島沼の大干拓を計画し、当時の韮山代官所に願い出て26年後に認められ、明治2年(1869年)今の放水路と同じ場所に大排水路を完成させた。その年に高潮で崩壊、その後昭和18年んその跡地が再掘削された。
              昭和放水路→

沼田新田一里塚
 すぐ隣の広場の先に、最近整備された一里塚の石碑がある。

 しばらく行った右側の生け垣の前に道標がある。指の矢印と 須津(すと)村役場一里 吉永村役場三十一町 その他の文字がきざまれている。
旧吉永村農民の仁藤春耕が明治39年(1906)から5年かけて120基の道しるべを建てたものという。 春耕道しるべ第一号→

<富士の風景>
 
 道しるべからの富士。
西に来るに従って雲がどんどん晴れていき、吉原からの眺めに期待ができそうであった。
(2.55pm)
 
 この先300mぐらいの距離をおいて、米之宮神社と愛鷹神社が右側にある。米之宮神社は、延宝6年(1678)武蔵国の田中権左衛門が開拓した「田中新田」の鎮守で、愛鷹神社は江戸初期に船津新田を開発した三井氏の一族が移住してきた「槍新田」の鎮守である。境内にはそれぞれ単体浮彫道祖神がある。

米之宮神社

             愛鷹神社
   

高橋勇吉と天文掘の石碑

 その先のひのき交差点で旧街道は左に向かう。
300mほど先の右側に庚申堂が建ち、隣に石塔が並んでいる。更に進むと、民家の並びに、石碑と説明板が立つ。
それによれば、愛鷹神社付近から、檜新田・田中新田・大野新田とつづいている約80ヘクタールの水田を幾多の水害から守った排水用の掘割が、天文掘と呼ばれ、高橋勇吉が天保7年(1836)から14年かかって完成させたものである。・・・勇吉が天文や土木技術に優れていたことからそう呼ばれたという。
今は、土地改良など開発が進み天文掘は見ることができない。

元吉原
 まもなく、道の前方に吉原の製紙工場の大きな煙突が見えてくる。
元吉原といい、慶長6年(1601)の東海道整備には、吉原宿はこの辺りにあった。
寛永16年(1639)の高潮で流されて、2km先の中吉原に移り、その後天和2年(1682)にさらに西北の新吉原に移った。

妙法寺
  しばらく行った先の左側の木の茂った丘の上にある。田子の浦に流れ着いた毘沙門天像を本尊とし、富士修験者道場だった堂がはじまりで、寛永4年(1627)に日深が寺を創建したという。
地元では、毘沙門天と呼ばれ、2月の「鈴川のだるま市」は、高崎の少林寺、調布の深大寺と並んで日本三大だるま市の一つ。
境内には極彩色の中国様式香炉場がある。

<富士の風景>

 妙法寺境内から見た富士
(3:40pm)

木之元神社
 旧街道を進み、東海道線にぶつかる手前左の階段を上る。
もとは霊亀元年(715)に開山された行往寺の護り神として奈良より勧請されたという。
 鳥居の脇に市の天然記念物であるムクロジの巨木がある。

<富士の風景>
 
 木之元神社のベンチからの富士
(4:05pm)
 

 旧東海道は、東海道線で遮られている。そこで、木之元神社への入口から、もと来た道を少し戻り、北へ向かって踏切を越えるてから、線路沿いを西に向かい、途中で木之元神社で消えた旧道となる。
吉原駅北口入口の交差点まで来て、本日の行程は終了とした。

いままでは横浜まで電車でもどっていたが、本日から一泊どまりで東海道の散策をすることとなる。
今日は吉原駅近くでホテルを確保した。

そこで、チェックインしたあと夕方の富士の景色を眺めに、駅の南西方向にある「富士と港の見える公園」まで出かけた。
頂上付近にあった雲も晴れ、富士の裾野が東西にすっかりと広がり、今日一番の姿を見ることができた。

田子の浦港と富士  (4:55pm)     夕日と富士山頂 (4:55pm)        田子の浦港の夕焼け(5:00pm)
   
 散策日 2010年1月15日    沼津(片浜)-吉原
 参考
「東海道五十三次を歩く」2     児玉幸多 監修

 「東海道 安藤広重の『東海道五十三次』と古道と宿駅の変遷」  八幡義生 著