四日市-井田川 地図→①四日市-日永 ②日永-采女 ③采女-加佐登 ④加佐登-井田川 |
|||
---|---|---|---|
|
|||
道景色 |
|||
水沢道標のある角の、大聖院の標識がある地点が今日の出発点である。 |
|||
|
|||
すぐ先に興正寺がある。説明版によると、創建は貞観6年(864)と言われ、天正2年(1574)この地に移ってきたという。織田信長、秀吉、家康に保護された。 |
|||
|
|||
天白川を渡った先に、日永神社がある。創建は鎌倉時代の建仁年間(1201~04)と言われるが詳細は不明。 境内には、細い石柱で囲まれた松の切り株と、その前に先のとがった石柱た立っている。説明板によれば、この先の追分の神宮遥拝鳥居の傍に明暦2年(1656)に建立された道標で、正面に「大神宮 いせおいわけ」 右に「京」左に「山田」裏面に「明暦二・・(略)・・南無阿弥陀仏 専心」と刻まれている。 嘉永2年(1849)現在ある道標がたてられた時に近くに移され、その後ここに移された、という。 |
|||
|
|||
その先の路地を右に入るところに、長命山薬師堂と刻まれた新しい石柱と説明板がある。薬師如来坐像が祀られており、もとは伊勢安国寺にあった像で鎌倉時代中期の製作と言われる。安国寺の火災の時に運びだされ文化13年(1816)この場所に移されたものという。 |
|||
|
|||
少し先の十字路の先、ポストの向かい、両側を民家に挟まれて、「史蹟 日永一里塚趾 三重懸」の石柱が立っている。 その少し先には、松並木の名残の松が一本だけ残っている。説明板によると、次の集落までは東海道の両側に低い土手が築かれ、その上に松並木があり、縄手と呼ばれていたという。 |
|||
日永の追分-1 |
|||
国道と合流し、100mほどで伊勢街道と東海道の分岐点となる。東海道は右に大きくカーブしていくが、この三角地点に神宮遥拝鳥居、常夜灯、道標、水屋がある。 「日永の追分」は四日市宿と石薬師宿の「間の宿」で旅籠や茶店が多かったという。 笹井屋のなが餅や足袋が有名だったという。 |
|||
日永の追分-2 |
|||
鳥居は道路拡張の前は伊勢街道の入口に道を跨いで伊勢神宮の二の鳥居が立っていた。もとは、江戸から京都に行くときにここから伊勢神宮を遥拝できるようにと、久居(ひさい)の商人 渡辺六兵衛が安永3年(1774)に寄進したもので、その後神宮の遷宮に合わせて20年ごとに建て替えられた。 |
|||
道景色 |
|||
右へカーブしていく途中に格子戸のある民家がある。 |
|||
観音寺 |
|||
路地を右に入った所にある観音寺は江戸時代に黄檗宗の寺院になるまでは詳細不明という。 現在の本堂は、文化3年(1806)の再建とされ、四脚門の山門は、寛政12年(1800)の築といい、山門の屋根の両端にはには黄檗宗特有の「魔伽藍(マカラ)」を挙げている。 |
|||
道標 |
|||
100m程先で東海道は右に曲がる。角には、小さな石柱の道標がある。「右 大治田」 「左追分」とあり、これも 服部泰次郎が建立したものという。 100m進んだ後、今度は左折するが、その正面に願誓寺がある。 |
|||
内部川 |
|||
南西に数百m進み、内部川にぶつかる。橋がなく、迂回して並行して走っている国道一号線にかかる内部橋を渡る。 右手に小公園があり、「采女の杖衝坂」案内図がある。国道の下をくぐり国道の脇を少しすすむと、消えていた旧東海道につながる。 |
|||
金刀比羅宮 |
|||
T字路を右折し100mほどで左折。道は上り坂になる。その突き当りに金刀比羅宮がある。 左に行くと、案内図にあった「うつべ町かど博物館」がここ、左側の民家に移されてあった。内部の歴史、中世の城の配置など、細かい資料が展示されており、次回の展示の為にボランティアの人が働いていた。 急な上り坂が始まる。 |
|||
杖衝坂 |
|||
坂の途中の石垣の上に細長い広場があり、「史蹟 杖衝坂」の大きな石柱がある。 日本武尊が東征の帰途、疲れていたので剣を杖にしてこの坂を使って上ったのことから、呼ばれたという。 そこには、弘法の井戸といわれる井戸と、芭蕉の句碑がある。 歩行ならば 杖つき坂を 落馬かな 『貞享4年(1687)伊賀に帰る途中、馬に乗ってこの坂にさしかかったが急なため馬の鞍とともに落馬下という、そのときに詠んだ句で、季語のない有名な句で、宝暦6年(1756)村田鵤州が建てた』との石碑もある。 |
|||
血塚社 |
|||
坂を上りきった先に、黒い板張りの蔵があり、その隣に「血塚社」の額のある鳥居が建つ。 杖衝坂の説明板に記されているが、日本武尊の足の出血を封じたといういわれの血塚の祠がある。 |
|||
景色 |
|||
小さな集落を抜けると、視界が開ける。 眼下が国道一号線で、はるか右手後方には四日市の工場地帯の煙突が見える。 正面には鈴鹿山脈の雄大な景色が広がる。 近くは快晴で、山のほうは雲が少し覆ってはいたが、幸いにも山並みの雪景色がきれいに見渡せた。 左から 仙ヶ岳、入道ヶ岳、雨乞岳、鎌ヶ岳、御在所岳と並ぶ。 |
|||
采女一里塚跡 |
|||
少し先で国道1号線に合流する。多くの車が行き交うが、途切れるのを待って右側歩道に移る。少し先のガソリンスタンドの脇に「采女一里塚跡」の石碑が建っている。 反対側の木立の前に真っ赤な鳥居が見えるので、再び国道を渡る。 鳥居の前の石柱に「豊冨神社」とある。 社殿が東海道と反対側を向いているのが珍しい。 |
|||
地蔵堂 |
|||
数百mすすんだあと、旧東海道は国道から左へ分岐する。静かな住宅街となる。右側に地蔵堂が二つ並んでいる。 しばらく進み右へカーブして緩い坂道をくだり、国道1号線と合流するが、ここで、地下道で横断し右側歩道を進み、次の「石薬師町北」の交差点から100mほどすぎてから右に分岐していく。 |
|||
石薬師宿 |
|||
分岐した先が、石薬師宿の入り口で、地蔵堂や説明板がある。 石薬師宿は四日市宿と亀山宿との距離が5里半(21.6km)と長かったため元和2年(1616)に設けられた。 天保14年(1843)データ:本陣3、旅籠15軒人口991. もとは、現在地より鈴鹿川近くにあったが水害を避けて移転してきたという。 |
|||
宿の景色 |
|||
緩い坂を上った先に、連子や格子をはめた古い家並みが並び、当時の雰囲気が伝わる。 右側の写真は 小澤本陣跡。 |
|||
佐佐木信綱生家 |
|||
さらに進むと、「石薬師文庫」との説明板のある建物のとなりに佐佐木信綱の生家がある。左には記念館が建っている。信綱は明治5年(1872)ここで生まれ、6歳に松坂に移住するまで過ごした。(父、弘綱は江戸末期の国学者 )25歳の時、庭にあった卯の花を思い出し、「夏は来ぬ」を作詞した。 信綱の姓は、中国旅行の折、「々」の字がなかった為、「佐佐木」と改めたという。 道は少し下り坂となり、交差点を過ぎた左手に佐々木家塁代の菩提寺の浄福寺があり、入り口に佐々木弘綱記念碑が建っている。 |
|||
石薬師寺 |
|||
しばらく進むと、国道1号線に架かる橋を渡ると、右手に石薬師寺がある。長い参道の奥に本堂が建つ。 説明板によると、「神亀3年(726)高僧泰澄が森の中の巨石が霊光を放つのを認め草庵を設けて供養したのが始まりで、その後弘法3年(812)弘法大師が薬師如来像を彫刻し開眼供養し・・・その後西福寺と称せられた。 元和2年(1616)に五十三次の宿場が、石薬師と呼ばれたので石薬師寺と改称した。」という。 本堂は、天正年間に焼失後、寛永6年(1629)に当時の神戸城城主 一柳監物が再建したものが残る。 |
|||
蒲冠者範頼之社 |
|||
東海道からそれて、石薬師寺の山門の前の道を東に少し行ったところに、「蒲冠者範頼之社」と大きな石柱のある神社がある。説明板には、御曹司社とかかれ、源範頼を祀った神社とある。 その南には「石薬師の蒲ザクラ」がある。寿永3年(1184)平家追討のため西に向かう途中、石薬師寺に戦勝を祈り、鞭のしていた桜の枝を地面に逆さに挿したのが由来という。 |
|||
石薬師一里塚跡 |
|||
もとに戻り、古い民家の残る道を南に進むと二叉路となり、東海道は蒲川につきあたるので、右側の広い道を行き橋を渡る。左手に「石薬師の一里塚」がある. この先はJRや国道でさえぎられているので迂回する。標識があるので比較的わかりやすいが、国道のガードをくぐり、鈴鹿川の支流を超えた先からは、もとの東海道の道が現れ、その先で、再び国道1号線に合流する。 歩道を数百m歩く。加佐登駅入り口を過ぎ、日本コンクリート工業を過ぎた信号で右折する。 |
|||
庄野宿 |
|||
100m程先の信号で左折する。 庄野宿の石柱と説明板がある。 石薬師宿からやく3kmと東海道でも2番目に短く、宿の成立も最も遅い寛永元年(1624)であった。 広重の傑作「庄野の白雨」のイメージを期待していたが、坂道はなかった.。 往時の面影の残る民家もあり、静かな通りである。 天保14年のデータ:本陣1、脇本陣1、旅籠15. |
|||
旧小林家住宅 |
|||
中ほどに江戸期に油問屋だった小林家の住宅が、庄野宿資料館として公開されている。嘉永7年(1854)の建築で、多くの資料が展示されている。 中でもほぼ完全な形で残されている、天和2年(1682)の高札は、見ごたえがあるものだった。、 |
|||
宿の景色 |
|||
その先には、問屋場跡、本陣跡、高札場跡、脇本陣跡などが説明立札とともに、続く。 | |||
川俣神社 |
|||
古い家並みか少なくなってきたあたりで、「延喜式内川俣神社」と刻まれた大きな石柱がある。 境内には幹周り約5mという大きなスダジイがある。 |
|||
ここから先の東海道沿いには 同名の川俣神社が他にも2社あるが、いずれも神社の由緒などの説明板が掲示されていなかったので、阜嵐健氏のホームページ「延喜式神社の調査」で調べた。 それによると、鈴鹿市内には、川俣神社が5か所あるが、鈴鹿川と安楽側の合流する付近の庄野町、中富田町、西富田町、平田本町、和泉町にあり、いずれも由緒詳細は不明。 江戸時代には、庄野の神社が貴船神社として、中富田と西富田の神社が八王子社として称されていたという。明治にはいり、合祀などの変遷をしたが昭和に入り、それぞれ元の場所に移ったという。 |
|||
石碑と傍示石 |
|||
この先で国道1号線を渡る。小さな案内図があるが分かりずらい。 民家のはずれるあたりまで進むと右側に自然石に「山神」と刻まれた小さな石碑や手水石がある。 そのすぐわきに「従是東 神戸領」と刻まれた茶色く変色した石柱がある。 |
|||
女人堤防碑と傍示石 |
|||
その反対側には、新しい傍示石があり、その奥に昭和33年建立の大きな石碑が建っている。鈴鹿川と安楽川の合流地点のため水害で苦しめられていた村人は、神戸藩に堤防を造るように誓願したが、対岸の城下が浸水することを恐れた領主は許可しなかった。そこに文政2年(1829)ごろ菊女という女が先頭に立ち堤防の築造をはじめ、6年後に完成した。禁制を破った女たちが処刑される寸前に家老が死をもって領主をいさめ、処刑を免れたという。 右に鈴鹿の山並みを眺めながめ、左の奥に鈴鹿川の堤防がみえる道を進む。 亀山方面から来る20人位のある旅行社の東海道歩きのグループとすれ違い、このあとにも3グループと会う。東海道歩きで初めての光景であった。 |
|||
中富田一里塚 |
|||
中富田町にはいると、左奥に神社の木立が見えてくる。 中富田一里塚の大きな石柱と説明板がある。享和3年(1803)の「東海道亀山宿文間絵図」川俣神社の東隣に描かれており、近くに「御馳走場」と描かれた家があり、当時大名行列を接待する場所という。 今も、「東百里屋(ともりや)」という屋号で呼ばれている家があり、この地から江戸までおよそ百里であったのでつけられた屋号であると伝えられるという。、 |
|||
川俣神社 |
|||
神社の境内にはいっていくと、すぐ右に本殿がありその先に拝殿がある。神社は東海道と反対側の、この場所の南にあたる鈴鹿川と安楽川の合流地点を向いている。 この神社は明治になり、和泉町の「川俣神社」に合祀されたが、のちここに移されたという。 西の端には、「従是西亀山領」の傍示石が建っている。 |
|||
道景色 |
|
||
落ち着いた家並みを500m程進むと右側の角に道標が立っている。 「ひろせ道」とあり、大正時代のものという。 北にある広瀬町には奈良時代の伊勢国府の跡が発掘されている。 長者屋敷跡と呼ばれる場所で、鈴鹿関との関係で軍団機能を備えた政庁跡や役所関係の遺構が多くあるという。 |
|||
川俣神社 |
|||
安楽川の堤防の手前左側に川俣神社がある。 本殿は川の合流地点を向いている。 境内には、信長の三男織田信孝が神戸城主の頃使ったとされる「無上冷水井跡」の石柱が建っている。 安楽川でつきあたり、東側100mほどにある和泉橋に迂回する。 <安楽側上流> |
|||
道景色・道標 |
|||
和泉橋の南200mほどの鈴鹿川のすぐわきに和泉町の川俣神社があるが、ここはスキップして西に進む。 堤防から離れて200m程先の北側へ入る細道に道標がある。 石柱と自然石のもので、「右 のゝぼり道」とある。 | |||
観音堂跡と地福寺 |
|||
少し先で二叉路となり、東海道は左へカーブしていく。右側に地福寺がある。 説明板によれば、その昔 七堂伽藍を備え、多くの道心(仏門に入った人)が修行したところという。信長の戦火で焼失後、延宝5年(1677)に観音堂が常念仏堂として建立され、歴代亀山藩主が帰依した阿弥陀如来が祀られたという。 地福寺のすぐ手前には、コンクリートの壁の上にフェンスがある空地があり、奥に「極楽山 観音堂跡」という鬼瓦の一部を利用した台が建っている。 |
|||
道景色 |
|||
地福寺の先で県道を横切り、左側に田んぼも広がる昔ながらの道を進む。 JR関西本線で途切れるが、すぐ北の踏切を超えて西に進むと、先ほど横切った県道に合流する。 |
|||
地蔵祠と海善寺 |
|||
すぐ先の右に入る路地の角に地蔵の祠があるが、石があるのみで姿形はない。 その奥には海善寺があるが、由緒不明。 |
|||
すぐ先がJR井田川駅である。 |
|||
散策日 | 2013年1月26日 | 近鉄 日永駅 - JR井田川駅 |
参考 | 「東海道五十三次を歩く」 5 児玉幸多 監修 |