津島 - 桑名 ・・・旧東海道の脇往還=佐屋街道をゆく(その2) 

   地図
①日比野-佐屋  ②佐屋-弥富  ③弥富-長島  ④長島-桑名



 佐屋街道2日目で、前日のペースが予定よりも早く進んだので、桑名での時間を余計とることにして、津島神社への立ち寄りは次回にまわし、名鉄日比野で下車してまず佐屋を目指した。、

道の景色
 日比野駅から昨日終了した地点まで行き、まず南進しその後 東西を走る道路を西に向かう。この当たりは、旧街道の名残は消えて、新たに開発され区画整理された道を進むことになる。  田園風景が広がり、名鉄線の踏切の先の佐屋変電所の交差点で左折し、道は南に向かう。

佐屋街道碑
 50m程先の左からの合流地点に茶色っぽい石碑が建つ。
「佐屋海道址」と刻まれ、「往時の栄華を後世に語り継ぐため」、昭和54年(1979)に建てられたという。

信力寺
 少し先の細道を西に入った所にある小さな寺で、切支丹灯篭を探しにきたが、境内少し荒れた感じである。わからなかった。本堂脇にお墓があるのでその中の一画にあるのか?

道の景色
しばらく進むと佐屋の町並みとなる。

浄法寺境内にある鬼瓦        天神社

佐屋宿
 佐屋街道は次の須衣の交差点で右折する。 古い佇まいの家並みが残る。
佐屋宿の規模は、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠31軒であった。

水鶏塚の道標
 100m程先に左へ入る細道があり、その角に「くひな塚 是より南へ一丁」と刻まれている。
細道を行くと、右側に水鶏塚がある。

水鶏塚
 元禄7年(1694)松尾芭蕉が江戸から故郷伊賀の国へ帰る途中に、佐屋の門人であった山田庄左衛門の亭に泊まった折に詠んだ句 
  「水鶏鳴と 人の云へばや 佐屋泊」
その場に同席した俳人達がその後享保20年(1735)に芭蕉の遺徳をしのんで建てたといわれている。

八幡社
 くいな塚の東に八幡宮がある。
広い境内を持っており、拝殿は板の囲いがされて一つの建物となっている。

道の景色
 細道を元に戻り、佐屋宿の道を200mほど西に向かう。

道標

 信号のある交差点のすぐ手前に左へはいる細道があり、その角に道標が立っている。
「左 さや舟場道」と刻まれている。
横に立つ木製の説明板は古くなり読みづらくなっているが、この道標は「大字佐屋の山田氏の屋敷内にあったものをここにたてたという。

佐屋代官所址
 交差点の右角は広場となっており、そこに「佐屋代官所址」の石柱と石碑が建っている。
寛永11年(1634)には佐屋湊佐屋御殿が設けられ、その後船番所が置かれてから佐屋の名は広く知られるようになったという。元禄8年(1695)に奉行所が置かれ、天明元年(1781)には代官所となった、という。  石碑には 『その後駅路の変革と母なる佐屋川を失った佐屋には盛時を語る物もそれを知る人もいない。・・・その代官所址に在りし日の栄光を偲びつつ・・・後世に語り継ぐ。』 と記されている。

佐屋三里之渡址碑
 交差点を渡ったゲートボール用の広場の隅に、「佐屋三里之渡址」ときざまれた大きな自然石が立っている。
裏に「昭和51年9月建之」とある。ここには、湊高札場や船番所が並んでいた。
ここから、佐屋川を下って桑名まで3里の船旅であった。
 明治30年には砂の堆積が進んで、佐屋川は廃川となり、農地に開墾された。

 この佐屋三里の渡しまでが佐屋街道と呼ばれた道筋であり、ここから桑名までは、佐屋川を船で下る3里の道のりであった。

木曽川を使って尾張から伊勢へ行く航路として古くからは上流にあった津島湊が使われていた。津島湊は佐屋川の上流である天玉川に面していたが、土砂の堆積で浅くなり、使われなくなって、下流にある佐屋湊が使われるようになったという。
 江戸後期になると木曽川の流す土砂の堆積により浅くなり、船の航行に支障をきたすようになる。
そのため、半里ほど下流の五ノ三村(今の弥富市)に川平湊が開かれつ使われるようになった。しかし宿場から離れていたため、佐屋宿にとっては大きな負担となっていたという。

明治5年(1872)佐屋街道に代わって新東海道(前ヶ須街道)が定められ、三里の渡しは廃止となった。

ここから桑名へは、巡見街道と呼ばれたルートを辿っていく。
「左 さや舟場道」の道標までもどり、昔ながらの細道を南に進む。


阿弥陀寺
 100m程先、右側に荘厳な雰囲気を漂わせる山門がある。鐘楼門で由緒のありそうな阿弥陀寺である。境内も落ち着いた雰囲気である。
 

さらに進むとに左手に黒塀が続き、黒い門構えを持ち、さらにその先に黒い土蔵のある由緒ある屋敷がある。往時に帰ったような雰囲気の道である。

道の景色-地蔵堂
 地蔵堂がある。花がかかげられており、お地蔵さんもカラフルな衣をまとっている。
細道を300mほどすすむと自動車道にぶつかる。右折してすぐの南北に走る新しい道路を南に進む。

 国道155号を横切り、南へ進み、左手から自動車道が合流して交通量が多くなる。

北川原の地蔵堂
 北川原の集落に入るとまた地蔵堂が祀られている。
祠そのものは豪華に造られている。

道の景色
南にまっすぐに進む道は、左右をみわたすと、ほんの少し高くなっている地点を通ってきたようでだる。特に右側に低地のひろがる。

五ノ三地蔵尊
 右側に住宅が並び始まるところで、少し奥まった道に地蔵堂が見えた。近づくと「五ノ三 新田川平 地蔵尊」との石柱が立っている。他と同様、新しい花が添えられ,衣はカラフルである。
この近くに、川平湊が開かれたのだろうか。
間もなく東名高速の高架が見え、弥富の町中に入る。

證玄寺
 東名の高架下をすぎて100m程先を右に入り、證玄寺を訪れる。
門の前に石柱が立つ。
 「宝暦治水美濃義士 内藤十左衛門自刃之地」とある。。「美濃水行奉行高木新兵衛の家来内藤十左衛門は、美濃国本巣郡十五条村の人、宝暦四年の木曽三川下流改修工事に際し中和泉新田地先の築堤に当ったが工を終った同年4月22日この地に於て自刃す」と刻まれている。
水奉行の高木家から派遣された土木技術者の内藤十左衛門が宝暦治水工事に不備が生じ、主人に責任が及ばないように、自刃した、という。

国道1号線
 広い弥富ショッピングセンターを過ぎて道が右にカーブする地点で、曲がらないで直進すると、関西本線にぶつかって消える。ガードをくぐって迂回して元の道筋に戻る。すぐに国道一号線にぶつかる。
前ヶ須西の交差点から南に入ると、古い佇まいの細道があり、前ヶ須商店会の看板が見える。そのすぐ右側に並行して細道があり、これが巡見街道のようだ。

歴史民族資料館への道
 
 そこを200mほどいくと、弥富市歴史民族資料館がある。そこでは干拓や新田開発の歴史が説明されているのはもちろんであるが、大きなスペースで金魚の水槽がならべられており、江戸時代から金魚の養殖が盛んで中でも高級金魚の産地であることを初めて知った。
開発の始まりは、平安時代の末ごろからで、木曽川の流れの支流が伊勢湾に流れ込むあたりには、木曽川の運んできた土砂があちこちに積もった小島ができており、荘園領主たちは農民を送り込んでつぎつぎと開墾していった。周りを高い堤防で囲み(輪中(わじゅう)堤防とよばれた)、新田が開発されていったという。

ふたつやの渡
 もとの道まで戻り、木曽川方向へ少し行くと、自然石の石碑がある。裏には「永禄年間(1558~69)の渡場跡 昭和26年」と刻まれている。佐屋街道が整備される以前から、ふたつやの渡しは、この近郊の人たちが使っていたという。
その後明治5年(1872)新東海道(前ヶ須街道)が定められ、弥富(前ヶ須)が宿場町に指定されると、ここは水上交通の要衝として桑名や長島への船が行き来し渡しは活気が出てきたという。
 昭和8年に尾張大橋、昭和9年に伊勢大橋が完成し、渡船は廃止となったという。

地蔵堂
 細い用水路を渡った先に地蔵堂がある。

尾張大橋
 国道1号線に戻り、木曽川に架かる尾張大橋を渡る。
遠くにナガシマスパーランドのアトラクションの一部が見える。

善明寺
 しばらく国道1号線を西に進む。道路左脇の日本橋からの距離を示す小標識が『377.6km』を示している。左に緩やかにカーブしたのち、信号の手前を斜め右に進み 街中に入る。  JAの先に善明寺がある。浄土真宗大谷派の寺院で、明応6年(1497年)に長島願證寺 蓮淳のもとへ集まった武将のうちの一人の開祖によるもの。一向一揆の際、敗戦で四散したが、後長島に戻ってそれぞれの寺院を創設したという。

蓮生寺山門
 JAを過ぎて次を左折しすぐ右折すると蓮生寺がある。
 この山門は、説明板によると、明治9年(1876)にここから南西にあった長島城の大手門を移築したもので 「旧大手門よりは縮小されているが、瓦には増山家の家紋が見られ、長島城最後の建造物としてその面影を留めている。」

くわな道 道標
  川の手前を左折すると、民家の塀の前に比較的大きな道標が立っている。
 正面に「前ケ須 津島 宮 名古屋 道」 横に「左 くはなミち」 「左 くはなみち」と刻まれている。裏には明治13年(1880)とある。

長島城跡
 橋を渡ってすぐ右に200mいったところの学校の前に「長島城跡」という大きな説明板がある。
 それによると、「長島城は、文明年間(1469~87)に伊勢国安濃郡の長野氏一族と伝えられる伊藤重晴が長島を治め築城してといわれる。その後、、長島北部の杉江にあった願證寺が浄土真宗の一大拠点になると、伊藤氏は滅ぼされ長島城も願證寺の支配下となった。そのため長島一向一揆の時に織田信長の攻撃を受け天正2年(1574)に包囲され敗れた。
江戸時代、菅沼氏・松平氏が藩主となり、その後増山家が藩主となり明治維新まで続いた。」・・・本丸の南西隅にあった樹齢300年というクロマツが小学校の校庭に残っている。

稲荷阿岐波神社
 もとの橋まで戻って南西に進むが、その角に稲荷阿岐波神社がある。 
ここに、長島の三町(萱町・中町・下町)で、稲荷社境内秋葉社の石取神事として行われてきた「石取祭」の説明板が立っている。神社の玉石の敷石を1年に1度新しくするため町屋川*から美しい石を拾い採ってきたもので江戸末期ごろから大祭として行なわれるようになったという。100mほど道標の手前の山車の[城東祭車堂」にも同じ説明板があった。
(*桑名市の員弁(いなべ)川の下流部が町屋川と呼ばれた。..春日神社で盛大な石取祭がおこなわれている。)

道の景色
 道なりに数百m南西に進む。長良川の堤防の手前のT字路で左に曲がるが、少し寄り道になるが芭蕉が立ち寄ったというお寺にいく。
堤防沿いを北西にいくく。高い堤防が築かれいる。
ヒメツルソバがきれいに咲いている。
 その先に、一向一揆で敗れた武将が、その後長島に戻って寺院を創設した「長島六坊」といわれる寺院の一つの光栄寺がある。
 隣が大智院である。

大智院
 大智院は、長島藩主 松平定政の祈願所として建立された寺。
奥の細道に同行した可合曽良の叔父が住職であった。
山門の前の説明板は 「奥の細道の一節に
   『曽良は腹を病みて、伊勢の国長島という所にゆかりあれば、先立ちて行くに、《行き行きて 倒れ伏すとも 萩の原  曽良》 と書きおきたり・・・』
としたためられている。其の長島のゆかりが大智院であった。」 
 さらに「この地で休養をとった曽良は芭蕉を出迎えに大垣へ出掛け、芭蕉とともに大智院に逗留した(元禄2年(1689)・・・・」と述べている。
  <蕉翁信宿処」の石碑>
山門脇に「蕉翁信宿処」と刻まれた石碑がある。これは藩主増山正賢(まさたか)が、芭蕉の大智院訪問100年を記念して寛政元年(1789)に建立したもの。
<芭蕉句碑>
大智院に逗留した時に 芭蕉は挨拶句
   『うき我を さびしがらせよ 秋の寺』
をしたため、その直筆の色紙「真蹟懐紙」が 残されているという。
この句は のち元禄4年(1691) 「秋の寺」を「閑古鳥」と推敲され、嵯峨日記に収められているという。

← 境内には最初のままの芭蕉句碑が建てられている。 
  山門前には 先ほどの曽良の句が刻まれた石碑も建っている。→

長良川の景色
 大智院の前の堤防からの長良川の眺め。

←南 伊勢大橋   
        北 JR・名鉄陸橋→

伊勢大橋
 伊勢大橋東詰まで行き、国道1号線で伊勢大橋を渡る。南側に長良川河口堰が存在感をしめしている。
橋の中ほどの北側にスペースが開けられ、交通信号があって、中州の道路から車が橋に乗り入れてくる。
 ここから西側が揖斐川である。
   

揖斐川 桑名方面
 揖斐川の堤防上の幅広い道路を七里の渡を目指して歩く。
クリックすると拡大勢湾台風で被災した堤防とその後大幅に拡張された堤防への変遷の過程が描かれているパネルがある。
 


 はるか前方の 復元された幡龍(ばんりゅう)櫓が、徐々に大きくなってくる。

住吉神社
 新しく建立された住吉神社がある。「住吉浦」の説明板がある。
桑名は伊勢湾、木曽三川を利用した舟運の拠点として栄えてきて、江戸時代には、このあたり-住吉浦には全国の廻船業者が、その舟溜まりの場所として集まってきた。その人たちにより正徳15年(1715)海上安全の神である摂津の住吉神社が勧請され、建立された。天明8年(1788)の石燈籠がある。
 もともと神社は堤防外の水面に近いところにあったが、防潮堤整備のためにこの堤防上に移設されたという。

七里の渡跡
 その先に七里の渡跡がある。渡し跡と川との間に堤防ができている。
 ここは伊勢国の東の入り口にあたるため、天明年間(1781~89)に伊勢神宮の「一の鳥居」が建てられ、以後伊勢神宮の遷宮ごとに建て替えられている。常夜燈は、鍛治町の東海道筋にあったものがここに移築されたという。安政3年(1856)名がある。

幡龍(ばんりゅう)櫓
 桑名城には51の櫓があったといわれ、中でも七里の渡に面して建てられた幡龍櫓は桑名のシンボルであった。すでに正保年間(1644~48)作成の絵図にはすでにこ櫓の絵が描かれていたという。
「幡龍」とは、天に登る前のうずくまった状態の龍のこと。
ここは水門統合管理所になっている。
 
ここから南が桑名城あとで、三之丸趾に九華公園ができている。
桑名城の一端を知るために少し中を歩くことにする。

桑名城
桑名城絵図クリックすると拡大         桑名には、戦国時代にはこの付近に伊藤氏が支配する東城と呼ばれる城があり、その後、織田信長時代には、滝川一益、豊臣の時代には一柳右近や氏家行広が治めたという。関ヶ原の戦いの後、慶長6年(1601)徳川家康は四天王の一人 本多忠勝を桑名に配置し、忠勝は本格的な城郭を築いた。
 四重六層の天守閣は元禄14年(1701)の大火で焼失した。

本陣跡
 七里の渡の西には大塚本陣があり、裏庭から直接乗船できた、という。建物は変わっているが、明治時代から料理旅館「船津屋」として営業している。道路に面した塀の一部がくり抜かれ、久保田万太郎の歌行燈の句碑がある。

その隣が、4軒あった脇本陣の一つ駿河屋であり、今は料理旅館「山月」の一部となっている。
 桑名宿は、江戸から約96里(約384km)。京都から約30里(120km)である。
天保14年(1843)のデータ:本陣2軒、脇本陣4軒、旅籠120軒

舟会所跡、問屋場跡
渡から東海道はまっすぐ南に進む。すぐ左側のあたりに、舟会所があり、宮、または佐屋へ渡る旅人のために渡船を手配していた。
実際の跡地は定かではないという。
 この先に「通り井跡」の小さな説明プレートがある。
「桑名では、地下水に海水が混じるため、寛永3年(1626)に町屋川から水を引いた水道をつくり町内の主要道路に筒を埋め、所どころの道路中央に正方形の升を開けて一般の人々が利用した。これを「通り井」という。」

春日神社の銅鳥居
 寛文7年(1667)に七台藩主松平定重によって建てられた。 
 「勢州桑名に過ぎたるものは銅の鳥居と二朱の女郎」と歌われた。

 鳥居の前に「しるべいし」が建っている。傷
みが激しく鉄枠で囲われている。「迷い児石」とも言われ、『人の大勢集まる所に立てられ、、自分の子どもが迷子になると、左側面「たずぬるかた」に特徴・服装などを書いた紙を貼り、心当たりのある人が右側面「おしゆるかた」へこどもがいた場所などを書いて貼る』という。

春日神社      <楼門

<本殿>
 一般には春日神社と呼ばれるが、正式には、桑名神社と中臣神社を合わせて「桑名宗社」という。.
 本殿は左が中臣、右が桑名 と二つの神社を分けて祀ってある。
中臣神社は応仁2年(1289)桑名神社の境内に勧請され、永仁4年(1296)、奈良春日大社から春日四柱神を勧請合祀されたという。(HPより)

本殿の手前には、「御膳水井」が復元されている。神供用として使われていた井戸が、明治以降、市民に飲料水として提供された、という。


桑名城城壁
 鳥居に戻り南に行き、三之丸堀の脇を通る。約500mにわたって城壁が現存している。
小公園が整備されている。
先のT字路で京町に入り、右に進む。1

京町見附跡
 100m程先に東海道の石柱があり東海道は左に曲がる。石柱の隣に京町公園があり、手前に「京町見附跡」のプレートがある。
京町門があり、南側に番所、北側には郷方役所があった、という。(公園内に市役所跡の石碑がある。)



 東海道はここから南に向かうが、桑名駅が遠くなるので、本日の旅はここまでとし、駅へ行く途中に桑名の街中を散策することにした。

寺町商店街
 すぐ先に「寺町通り」の南の入り口があり、迷わず中に入る。
七里の渡・住吉神社の手前に観光案内所があり、そこで「焼き蛤」を手軽に食べられる店を教えてもらったからである。

商店街中ほどにある「貝新」という店である。

その手は くわなの 焼はまぐり
 さっそく2皿(6ヶ)を焼いてもらい、特別頼んで缶ビールを奥から出してもらい、片隅の休み所で、おいしく頂いた。
焼いたそのままを食べる。程よく塩味が効き、やわらかい身で、つるりとしたのどごしである。店の主人の話では川の栄養分が凝縮されているから、という。

駅へ行く前に、遠回りになるがぜひ見ておいた方が良いとすすめられて、諸戸氏庭園に行くことにした。

本統寺
 商店街の途中にある。
慶長元年(1596)創立の浄土真宗の寺  一般に「ご坊さん」と呼ばれているという。

「通り井」の説明板
 東海道沿いにもあったが、この説明板によると、「町屋川からの水路は『町屋御用水」とやばれ、井戸の数は寛永3年(1626)にできた当初は、6ヶ所だったが、江戸中期には27ヶ所になったという。

三崎見附跡
 商店街を抜けて、バス通りを超えた先の角の民家の脇に、小さな説明板が立つ。
多度や美濃国への出入り口として「番所」と「三崎門」が設置されていたという。
 右側に散策路が整備されており、堀沿いを進む。

諸戸庭園    <本邸・大門>
 もとこの地には室町時代「江の奥殿」とよばれた矢部氏の屋敷があった。その後貞享6年(1686)山田彦左衛門が購入し、庭園を整備した。明治に入り、諸戸清六が明治17年(1884)ごろ屋敷を買い取り、御殿がたてられ、その後もさらに手を加えられたという。
 諸戸清六(1846~1906)は、米の仲買を行いながら商売の基礎を固め、財を成したのちは、公共事業にも意欲的に取り組んだ。(パンフより)

入り口の建物は、明治17年(1884)から数年かけて建てられ、「諸戸店」の開業時に店舗として使用された。、という。
<庭園内>
    


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 散策日 2012年11月3日    名鉄日比野駅 - JR桑名駅
 参考
 「東海道五十三次を歩く」 4    児玉幸多 監修