井田川-坂下宿 

   地図①井田川-亀山 ②亀山-関宿 
③関宿-坂下宿


 

 今回の2日の旅はは鈴鹿峠を超えるので、第一日目にできるだけ鈴鹿峠に近いところまで行くことを目指した。 井田川駅を出発し、いつもより早いペースで進んだ。




井田川小学校跡
 井田川駅のすぐ前が旧東海道で、そこに亀山宿手前までの案内図が立っている。
すぐ先に二宮金次郎の銅像が建ち、前に旧井田川小学校跡の大きな石柱がある。国道一号線を渡った先で左にカーブしていくと、旧街道らしい道幅が続く。
椋川の橋からは鈴鹿山脈が良く見え、梅雨の合間の一日としては最高の散策日和であった。

谷口法悦題目塔
 国道一号線の高架をくぐった先右側の一画に「南無妙法蓮華経」と大きく刻まれた谷口法悦題目塔が建つ。
説明板によると、東海道の川合と和田の境にあって「川合のやけ地蔵」と呼ばれていたという。
造立者の谷口法悦は、17世紀末ごろ-元禄年間-に一族とともに各地の寺院や街道筋や追分などに、こうした題目塔を数多く建立している。
 鈴ヶ森刑場の大経寺にあった大きな題目塔を思い起こした。
 

和田道標
 信号のある交差点を過ぎて100m程進んだところで左手に入る細い道があり、その角に鉄枠で補強された道標が立つ。「従是 神戸白子若松道」と刻まれている。
元禄3年(1690)に、東海道から今の鈴鹿市の神戸・白子・若松 方面への分岐点にたてられた。
亀山城下から亀山藩若松港へ至る重要な分岐点だったという。

 右に大きくカーブして、左からくる道に合流する手前に、鳥居や石塔とともに小さな祠がひっそりと建っている。
井田川駅前の案内図に説明があったが、古くから「シャングリさん」と呼ばれ、東海道を往来する人々がもたらす悪疫から子どもを守っていると伝えられ、東海道分間延絵図には「叉具神」と記されているという。

 その先は緩やかな上り道で、和田公民館の前に、古くから交通の重要拠点であった「和田町」の由来が書かれている案内板がある。

石上寺(せきじょうじ)
 少し先の右側の高台に向かって古い石垣が見えてくる。石山寺の参道である。
 延暦15年(796)に熊野権現社の神宮寺として開創されたという。
鎌倉時代は将軍家祈祷所となるなど手厚い保護を受け、大伽藍を誇っていたが、信長の伊勢進攻による兵火でその後衰退した。鎌倉~室町時代の貴重な古文書が残されているという。

 本堂の左の石段の上に、元治2年(1865)に建てられた「仁王護国般若経石塚」と刻まれた石柱があり、さらに石段を上ると熊野権現社がある。
延暦15年(796)に大和国の住人が、新熊野三社を和田に勧請したのが始まりという。

和田一里塚
 緩やかな上り坂が続くが、石上寺から亀山宿までは、当時は松並木が続いていたという。
坂を上り切った所に一里塚跡がある。慶長9年(1604)亀山城主 関一政が造った。
道路拡張により消滅した塚の東側に復元されている。

道の景色
 比較的新しい住宅地を過ぎてしばらく行くと 「亀山ローソク」のバス停がある。左手に世界的に有名な「カメヤマ(現社名)」の本社工場がある。

能褒野(のぼの)神社鳥居
 100m程先に大きな鳥居がある。
能褒野神社の二之鳥居で、神社はここから北に3.5kmほど先にある。
能褒野(のぼの)は日本武尊の死去した地であると伝わる。
その陵墓と伝わる前方後円墳の側に、明治28年(1895)に創建された神社である。

亀山宿
 鳥居の脇に、「従是西亀山宿」と描かれた木札がたち、説明板には、「亀山宿の佇まいを復活する試みとして、文久3年(1863)の資料を基にした屋号を記入した木札を該当する家にかかげてある」という。
 亀山は関氏の祖である平実忠が元久元年(1204)、関を中心とした地域の地頭職に任じられ、若山に城を築いたことに始まる。
江戸時代 亀山は亀山藩の城下町であると同時に、藩領内に幕府直轄の宿場が置かれるという変則的な形式をとったため、参勤交代で通る大名たちは亀山宿に宿泊するのを遠慮したという。
 天保14年(1843)データ:本陣-1、脇本陣-1、旅籠-21、家数-567)

露心庵跡
 すぐ先の空き地に「露心庵跡」の説明立札がある。
 天正12年(1584)神戸正武が亀山城を急襲、城を守る関万鉄斎は13騎で撃退した。
関氏一門の露心が城下東端に塚を築き、仏庵を立てこの合戦の戦死者を供養したという。明治にはいり廃寺となった。

道の景色

 茶屋町-たばこや跡

巡見道分岐                     東新町 まつばや跡 
   

江戸口門跡
 左に大きくカーブして広い道路にぶつかる。そのT字路の所に、土塁と土塀で囲まれた曲輪が築かれた。延宝元年(1673)に城主板倉重常が築いたもので、前年に築かれた城下西端にの京口門とともに、亀山城惣構の城門と位置づけられるという。
西側には番所が置かれた。

ここから、東海道は東町商店街を400mほど 東へまっすぐに進む。

東町の通り
 道路側のアーケードの柱に屋号を示す木札が掛けられている。
 椿屋脇本陣跡や 少し先には樋口本陣跡(→)が連なる。
 アーケードがなくなると広い交差点がある。
高札場跡で、西側角に説明板が立っている。

高札場跡
 江戸時代はここは大手門前にあたり、東海道は直角に左手に折れて緩やかな坂を下っていく。ここからの東海道は、西の野村一里塚手前までベージュに舗装されている。
 この日は亀山で一泊する予定なので,この先にある遍照寺にはあとで訪れることにして、 ここからまっすぐ亀山城の櫓にに向かうことにする。   <南に向かう東海道>  →

亀山城への立ち寄り―大手門跡
クリックすると拡大 交差点の角に説明板があり、北東角の交番奥の駐車場の隅には 「史跡 大手門跡」の柱がたつ。
実際には交差点を渡った少し先の右側が大手門のあった場所らしい。
←明治初期の写真。(クリックすると拡大)

三之丸跡
 少し先の駐車場脇と中にに四角い大きな石が並べられてて一画に三之丸跡の柱が見える。 発掘調査の時に出た石垣のものという。
 その先の、小学校の手前に「姫垣外苑」という石碑のある小公園があり、そこに 「太鼓櫓」があったという説明板が立っている。三之丸からこの先の二の丸への出入り口となる枡形を固める櫓で、三階には時を告げる太鼓が置かれたという。

亀山城  
   
 広く整備された道をまっすぐ進むと亀山城跡で、多門櫓がある。
 亀山城は、文永2年(1265)関実忠が最初に築城、元亀4年(1573)織田信長により追放されるまで、関氏16代の居城であった。天正18年(1590)岡本宗憲が入城後、新たに本丸、二の丸、三の丸、そして現存する石塁上に天守閣も建てられたという。寛永13年(1636)本多俊次が城主となって城郭の体裁が整えられ、城下の総構が完成したとされる。以後城主が入れ替わり、延享元年(1744)石川総慶(ふさよし)が城主となり、11代で明治維新を迎えた。クリックすると拡大
  <二の丸広場から見た北側の堀の一部

亀山神社、大久保神官家棟門
 北側には、二之丸御殿跡の一部が児童公園となっている広場があり、道の反対側には亀山神社がある。境内には別の神社の神官の門として江戸時代に建てられたという切妻屋根の門が移築されており、別の隅には、正慶元年(1332)の銘のある宝篋印塔の基礎部がある。

多門櫓(北側)
 入り口のほうに戻ると多門櫓と石垣の説明がある。ここは、亀山城本丸の東南隅にあたる。前出の写真の南側(外側)石垣は高さ14.5m、この北側(内側)の高さ4.0mという。
 多門櫓は、寛永10年(1633)の絵図には描かれており、その後修復等の手が加えられているが、石垣とともに唯一現存している建造物である、という。
       櫓から南西方向の眺め→

石坂門跡と石井兄弟敵討跡
 多門櫓から広く整備された道を南に進む。左にかっての亀山城の堀であった「池の側(いけのかわ)」と呼ばれる池が広がる。
そこに、西之丸から二之丸に通じる枡形門の「石坂門」の標柱がある。
 その奥には元禄14年(1701)石井兄弟が敵討ちをした後という、大きな石碑がある。歌舞伎や講談などに「元禄曽我兄弟」と称されたという。 
その先の池の側のバス停を過ぎると右側に若い松が植えられており、「池の側の松並木」という標柱がある。.
石坂門からこのあたりは松並木であったという。

旧東海道に戻る
 南に進むと、カラーに舗装された旧東海道にぶつかる。
高札場跡から下ってきた道で、小さな空き地と階段があるが、、そこを上った先に問屋場跡の説明板がある。
 歩いてきた道をふりかえると、多門櫓と天然の野面石の石垣が往時を偲ばせている。

遍照寺 本堂
 高札場跡からここまで、亀山城を見るために旧東海道はスキップしたので、夕方亀山のホテルで宿泊する前に遍照寺を訪れた。(この場所から200m程東にある)

 由来・開基は不明だが、17世紀初頭にはこの地に所在していたという。
本堂は明治4年(1871)に亀山城二之丸御殿の玄関と式台の一部を移築して再建されたとある。 <藩主石川家の笹竜胆(ささりんどう)の家紋のある鬼瓦>

問屋場跡付近
 亀山宿では、東町と西町からなっており 代々宿役人であった東町の樋口家(本陣)と西町の若林家(米問屋)が定期的に交替して宿継ぎの問屋業務を担当していたという。
 ここからは、西に向かう。
   西町の東海道の景色→

家老 加藤家の長屋門
 
 100m程先の十字路を右折すると青木門跡の標柱がある。
                 青木門跡→

 その枡形を過ぎた十字路の右手に長屋門と土塀がある。延享元年(1744)松山から亀山藩主に転封となった石川総慶に従ってきた家老の加藤家の屋敷跡である。

飯沼慾斎生家跡
 東海道に戻たすぐ先左手空き地の前にに飯沼慾斎(よくさい)生家跡の柱がある。児童公園の手前にも大きな石柱の「飯沼・・生誕の地」が建てられていた。
 慾斎は亀山から美濃国大垣に移り漢方医となり、のち江戸で蘭学を学び藩の蘭方医となった。50歳で家督を譲り 植物学をはじめ多岐にわたる研究をした。
日本で最初のリンネ(スエーデン人ー分類学の父といわれる)の分類法に従った「草木図説」を書いた(1856年)。

道の景色ー旧舘家住宅
 すぐ先に「ますや」という屋号札のかかる家がある。
亀山宿の町屋の特徴がよく出ている。
明治6年(1873)の築という。

西之丸の外堀
クリックすると拡大 東海道は右折して100m弱で左折する。
その突き当りに、西之丸の外堀の一部が復元されている。

京口門跡
  100m程先、緩やかな下り坂となる付近に、京口門跡の説明板がある。
亀山宿の西端で、西町と野村の境を流れる竜川左岸の崖上に築かれた。大正3年京口橋が架けられたことで坂道を上る道は途絶えてしまったが、往時は坂の下から見上げると門・番所がそびえる姿が壮麗であったという。     京口橋から見た竜川→ 

<京クリックすると拡大口門の古写真 >クリックすると拡大       <広重の京口門を描いた「亀山 雪晴」>

森家住宅
 野村集落に入り、往時の面影のある家並みが所どころに続く。左手に「森家住宅」と描かれた立札風の説明板がある。
 少し進むと、奈良時代に行基が開き、忍山神社の神宮寺として創建されたと伝わる慈恩寺がある。
 本尊の木造阿弥陀如来立像は平安初期の作風を持ち、高さ163cmの一木造りで、木屎(こくそ)漆を用いて厚手に塑形し漆箔仕上げとしているという。三重県を代表する優品という。

秀吉伊勢征伐陣地跡
 慈恩寺の向かいの道を北に少し入ると右手に小公園があり、、道の脇の草むらに隠れそうになっているが、白柱が立っている。秀吉配下の亀山城主関盛信が留守中に滝川一益に城を奪われたが、秀吉は一益を討つ好機とみて、天正11年(1583)伊勢に侵攻し、亀山城を攻めるためにここに本陣を置いたという。
盛信は再び城主となり、秀吉は賤ヶ岳の戦いの後、桑名城の一益を降伏させ北伊勢を制圧した。

野村一里塚
 しばらく進むと、遠くからでも存在感がある「野村一里塚」がある。石碑の説明によれば、「街道を挟んで南北にあったが、大正3年((1914)に南側が取り去られ、北側のみとなった。塚の上には目通り幹周り5m、高さ20mの椋(ムク)の木がある。…三重県で現存するのはこの塚だけである」

奥には石仏がある。
道の景色

<南側に広がる鈴鹿川流域>

<家並み>             <大庄屋 打田権四郎昌克宅跡(九九五集)>

毘沙門堂
 東海道は 緩やかに左にカーブし、毘沙門堂のある角(T字路)を右に曲がる。
 毘沙門堂の西側にある公民館との間に祠が二つあり、その隣に小さな五輪塔や庚申塔がある。
この一画は、小さな木々に囲まれた別世界のようであった。

祠の中には、自然石に彫られた役行者の石像が建っている。

昼寝観音
 すぐ先で長い参道がある布気皇舘太(ふけこうたつだい)神社の前を通る。200m程で、二叉路となり、東海道は左に下っていくが、その左側に観音堂がある。フェンスに「昼寝観音」の表札がある。
堂の正面にかかる鰐口は、高さ32cm、享保2年(1717) 関宿の鋳物師の作で、「落針村観音堂寄進宗傳」と刻まれているという。

太岡寺(たいこうじ)畷
 坂を下った先には関西本線でで分断されるが、迂回していくと、太岡寺(たいこうじ)畷といわれる約18町(1.9km)の直線の道となる。
今は桜並木であるが、当時は松並木で、東海道随一の長さの畷だったという。
途中にある説明板によると、太岡寺の地名は、かってこの地にあった大寺である「六門山四王院太岡寺」に由来すると伝えられている。
鈴鹿川沿いの道となり、東名阪道の高架をくぐってから更に土手を進む。小野川沿いの土手となりその先で国道一号線に合流する。100mほどで、右に分岐していくと関宿の案内板がある。

関の小萬のもたれ松
 
 集落の始まる手前に、若い松の木、石碑と説明板がある。・・・
江戸中頃、九州久留米藩士牧藤左衛門の妻は良人の仇を討つために旅を続け、関宿山田屋に宿泊、女の子-小萬-を産むが、すぐ亡くなった。小萬は母の遺言により、亀山で武術を修業し、天明3年(1783)仇敵 軍太夫を討った。この場所は亀山通いの小萬が若者のからかいを避けるために身をひそめていた松があった所という。
「関の小萬の亀山通い 月に雪駄が二十五足」
と 鈴鹿馬子唄に歌われる。

東追分と関一里塚
 大きな鳥居の建つところー東の追分ーから古い家並みが数多く残る関宿に入る。
電柱など何もなく、昔ながらの宿の景色をそのままに留めている通りである。
 鳥居は伊勢神宮の一の鳥居で、京方面からの伊勢参りは、ここから伊勢別街道を通り、日永の追分からの伊勢街道と合流して伊勢に向かっていた。


鳥居は式年遷宮の際、古い鳥居を移築するのが習わしとなっていて、今のは、内宮 宇治橋南詰の鳥居が移されたものという。

鳥居の左の小高い丘になっているのが、関一里塚の名残と伝わる。

関宿
 7世紀に古代3関の一つ「鈴鹿の関」が置かれた場所で地名の由来になっている。中世は伊勢平氏の流れをくむ関氏の所領となり、東海道と伊勢別街道(東追分で分岐)、大和街道(西追分で分岐)のとおる交通の要衝であった。天正11年(1583)関氏の家臣岩間氏が中町を造り宿場の形がほぼ整ったという。
宿場は木崎町、中町、新所町で構成され、東西の追分の間、約1.8kmに江戸末期~明治中ごろの古い建物が多く残されている。

天保14年(1843)のデータ: 本陣-2、、脇本陣-2、旅籠-42、家数-632

木崎の町並み
  

江戸屋―町屋の特徴
右側に入る道の角に弘善寺の入り口を示す石柱があり、その向かいに江戸屋の屋号のある家がある。
「関宿 イラスト案内図」に町屋の詳細が紹介されおり、万延年間(1860~61)以前の築という。
街道側の1階は連子格子、2階は塗籠壁で、虫籠(むしこ)窓となっている。
 「ばったり」と呼ばれる店の前に取り付けられたあげ下げできる棚があり、商品を並らべたり、道を通る人が座ったりしたという。(←)

  また庇の下に取り付けられた幕板は、風雨から店先を守る雨除け、霜よけの役割で、座敷の前の出格子窓は明治になって取り付けられたという。(→)

御馳走場跡 と 開雲楼
 次の角右側に小さな広場があり、「御馳走場」と刻まれた石柱がある。関宿に出入りする大名や高僧を、宿役人が出迎えたり見送ったりした場所、他にも3か所あったという。
 
 道を挟んで向かい側に並んでいるのが、開運楼(中)と松鶴楼(右)という2軒の関を代表する芸妓置屋の建物である。特に開運楼は、表の堅繋格子や弁柄塗りの鴨居や柱、2階の手摺りや格子窓にその面影を残している。

百五銀行 と 関町並み資料館
 ←100m先右側に百五銀行の建物がある。古くはないが、町並みに配慮した意匠である。
更に100mほど先の左側に関町並み資料館がある。文政8年(1863)ごろには建てられていたという。連子格子は築当初のものという。

明治10年代の自転車

鶴屋 と 問屋場跡
 資料館の斜め向かいにある旅籠-鶴屋。  玉屋、会津屋とともに関を代表する旅籠の一つ。江戸末期には脇本陣を務めた。
座敷の前の千鳥破風がその格式を示している・
 
 空き地を挟んだ左に問屋場跡の石柱があり、奥に山車倉がある。
「関の山」という言葉の語源にもなったという関宿の山車は最盛期には16基あった(関宿イラスト案内図)
現在は4基が残るという。

橋爪家
 問屋場跡の隣の空き地が川北本陣跡で、少し先の左側に伊藤本陣跡の石柱がある。斜め向かいには、街道に面して三角形の屋根を見せる珍しい建物の橋爪家がある。
寛文年間(1661~72)から両替商を営み、代々 市郎兵衛を名乗った。
江戸にも出店を持つ豪商で、亀山藩には江戸時代を通じて金を貸し財政難を支えたという。

旅籠玉屋 歴史資料館
 橋爪家の並びに、辰巳屋(現石垣屋)があり、その隣が旅館玉屋だった建物で、今は歴史資料館である。(左写真の左端)
 街道に面した主屋は慶応元年(1865)の木造2階建て。2階が一般の客室で、当時の風景を再現している。
 主屋の奥は離れ-6部屋があり、床や棚がある上等な座敷で、、武士が泊まったとされる。




その奥には土蔵がある。
元文4年(1739)の建築という。

高札場跡
 玉屋の隣に町屋風に建築された関郵便局がある。この場所は江戸初期には仮本陣や代官陣屋が置かれ、のち亀山藩の番所、町役場などと変遷した。

その前には、明治4年(1871)郵便創業に当たり東京12か所、京都5か所、大阪8か所と東海道各宿駅に設置された郵便ポストを模して置かれているポストがある。
また、 その左前に復元された高札場がある。

地蔵院
 100m程先で少し右にカーブするところに「関の地蔵」として親しまれてきた地蔵院がある。
 (「関の地蔵に振袖着せて、奈良の大仏婿に取ろ」)
 天平13年(741)に行基が地蔵を安置したのが起こりといい、本尊の地蔵菩薩は日本最古といわれる。
享徳元年(1452)本堂左にある愛染堂の大修理に際し、開眼供養したのが一休禅師という。(一休については、地蔵の首に自分の褌をかけ、ついでに小便もかけて供養したという話も伝わる)
 本堂は元禄13年(1700)建立、愛染堂(→)は文永4年(1267)建立。

会津屋
 地蔵院前にある旅籠で、もとは山田屋といって、小萬が育ったところという。
「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだ泊まるなら会津屋か」と謡われた。

新所の町並み
  関宿の西に位置する新所の町に入っていく。ここまでの木崎、中町の通りに比べると、静かなたたずまいである。
江戸時代には、関宿の特産物として火縄があり、このあたりを中心にして数十軒の火縄屋があったという。火縄は鉄砲に用いたため大名の需要が高く、また道中の旅人が煙草などに使うため、大いに繁盛したといわれる。
西追分近くにある観音院→

西の追分
 町並みがなくなり、西の追分となる。
関宿の西の入り口で、左に行くと大和街道(現在の国道25号線)へ入る分岐点である。古くは加太(かぶと)超道とも呼ばれ、加太、柘植、伊賀上野から大和に抜ける道であった。
元禄14年(1691)建立の谷口法悦の題目塔があり、下に 「ひだりハいかやまとみち」とある。

転石
 追分から先は国道横を進み、途中から国道に合流して右側歩道を進む。市瀬交差点を過ぎると駐車場内の道路側に大きな石がある。江戸時代の名所図会にも出てくる石で、昔 山の頂上にあったが転がり落ちてきていつしか夜になると不気味な音を立て人々を恐れさせていた。そこを通りかかった弘法大師が石の供養をしたところ静かになったと伝えられる。(坂下宿イラストマップより)
 
この先で矢印の表示通りに、右に分岐する。
鈴鹿川をわたると市瀬集落に入る。国道を横切ると西願寺がある。

市瀬集落の景色   
大正9年(1920)の自然石の常夜燈        西願寺 前の常夜燈

筆捨山
 再び国道に合流して数百mすすむと、右に入る細道があり、すぐ先に筆捨山の説明板が立っている。
ここから鈴鹿川を挟んだ対岸の山で、室町期の画家 狩野元信がこの山を描こうと筆をとり翌日描き残した分を続けようとしたところ山の風景が刻々と変わってしまうため、あきらめて筆を投げ捨ててしまったことから、名前が付いたという。
江戸時代から名称として知られ、浮世絵での坂下宿のほとんどが筆捨山を描いているという。クリックすると拡大
 残念ながら対岸を見たかぎりは、どれがその山か特定できなかった。

弁天一里塚跡
 すぐ先で国道に合流し、鈴鹿川の景色を楽し見ながら右側の歩道を進む。

 弁天橋をすぎたところで、国道の左側に民家が見えてくるが、その手前に「一里塚跡」という石柱がある。

沓掛集落
 すぐ先で国道から右に分岐する。鈴鹿川の右側の山沿いの緩やかな上りの道を進む。以前は立場だったという町並みが現れる。

道の景色

鈴鹿馬子唄会館
 国道一号線が鈴鹿川の西側を並行しているため、車はほとんど通らず、急な上りでもなく気持ちよく歩ける道である。しばらくして、鈴鹿馬子唄会館がある。
全国の馬子唄発祥地と馬子唄が掲げてあった。・・・・秋田馬子唄・上州馬子唄・小諸馬子唄・箱根馬子唄・鈴鹿馬子唄・・・鈴鹿のそれは、「他と比べて艶を含んだ異色のもの」という。
「坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山雨がふる 
   馬がものいうた鈴鹿の坂で おさん女郎なら来しよというた・・・」

坂下宿
  少し先で河原谷橋を渡ると坂下宿に入る。
道は整備拡張されているので、関宿の印象が強すぎて、宿があったという雰囲気はほとんど感じられない。橋の先の右側の民家前の地蔵の祠が旧東海道の名残を留めているのみである。

 「坂下宿」としては室町時代から宿駅があったとされるが、慶安3年(1650)までは、鈴鹿峠のすぐ下の片山神社の手前にあったが、洪水により消滅し、10町(1.1km)ほど東の今の場所に移された。鈴鹿峠を控えて参勤交代の大名などの宿泊も多く、大いに賑わったという。明治23年(1890)関西本線の開通により通行者は激減し、現在は数十軒の民家があるだけである。
天保14年(1843)のデータ:本陣-3、脇本陣-1、旅籠-48、家数-153

宿の景色-本陣跡
 しばらくして、コミュニティバスのバス停と坂下集会所前の広場となる。
松屋本陣跡の石柱があり、その先の茶畑前に大竹屋本陣跡、さらにその先に、梅屋本陣跡の石柱が立っている。




梅屋本陣跡の石柱から振り返って坂下集会所方面を見たところ→

法安寺
 道を挟んでその向かい奥に法安寺がある。永生2年(1505)創建され、洪水で流出したのち、承応2年(1653)に現在地に再建されたという。
 本堂右にある庫裏の玄関は、もとは松屋本陣の門で、現在坂下に残る唯一の本陣建物の遺構という。

 ここから先は鈴鹿峠が控えているので、本日の散策はここまでとした。
松屋本陣跡の坂下集会所まで戻り、夕方のバスがないので、タクシーを呼んで関駅まで戻った。
 散策日 2013年6月7日    JR井田川駅 - JR関駅
 参考
 「東海道五十三次を歩く」 5        児玉幸多 監修