*******鎌倉 「山ノ道」(山沿いの道)*********


7.秩父-皆野


                 地図: 秩父-大野原  大野原-和銅黒谷  和同黒谷-皆野 

 



 池袋経由で西武秩父駅に降りたので、秩父線の東側を北に進み、前回終了した秩父神社の東、国道146号線と299号線の交わる「上野町」交差点を目指した。

西武秩父駅から

 西武秩父駅では雄大な姿の武甲山が迎えてくれる。
地図をみると、昔から続くいている古い道らしい通りがあるので、そこを行くことにした。

 まず市役所の西側を進むと、その脇の四辻の真ん中に、大きな欅があり、その根元に、小さな石の祠がある。
「山神宮」という標識がたっている。

 そのまま北に向かい、前回訪れた少林寺の裏をぬけて、国道299号線を右説折、、「上野町」交差点」までくる。



 ここから山の道のスタートで、比較的交通量の多い国道146号線に沿って、皆野まで進むことになる。

18番札所 神門寺(ごうどじ)
 しばらく歩いた右側の広場の奥に、第18番札所の神門寺がある。
天保年間(1830~44)に再建された観音堂は、秩父地方の名匠といわれた藤田若狭の手によると伝えられる。 観音堂の正面の大唐破風は立派なものである。
 説明板によると、本尊は聖観世音菩薩立像で、両手に蓮茎を持つ珍しいもので、室町時代の作という。

         本堂屋根の擬宝珠→



 境内右手の塀の前に、庚申塔等の石塔が並んでいるが、そのうちの2基が巳待供養塔である。 今まであまり目にしてこなかった石塔である。(又は気が付かなかったか?)
少し欠けている大きな自然石に「巳待供養塔」と大きく刻まれている。寛保2年(1741)とある。

 巳待塔とは、己巳(キシ、つちのとみ)の日、あるいはその前日の戊辰(ボシン、つちのえたつ)の日 などに講中や個人で夜遅くまで起きていて精進供養をする行事を巳待といい、そのために造立した供養塔をいう。
巳待の本尊は弁財天とされる。


廣見寺
<廣見寺 本堂>
  神門寺から400m程進んだ角から、右手斜めにまっすぐ伸びている廣見寺への参道がある。



 参道の途中に妙見堂という小さな堂が建っている。
その前に「妙見七ツ井戸を訪ねるコース」という大きな説明板がある。
 
 鎌倉時代、秩父神社が落雷で焼失し再建された際、廣見寺の南に祀られていた妙見菩薩(北極星を神格化した菩薩)が合祀された。 その時、菩薩が秩父神社まで渡って行ったとされる七ツ井戸の伝説があるという。

 
 

 その先石橋を渡った右側には、馬頭観世音、馬頭尊、地蔵菩薩などと刻まれた多くの石仏がある。近くから集められたものだろうか。

<廣見寺 惣門>
 
 その先に、 堂々とした四脚門が現れる。 説明板によれば 「桁行2.5m、梁間2.1mの切妻造、茅葺型銅板葺の禅宗様四脚門で、17世紀の造営と考えられる」という。


 新しく再建された三門と その奥の本堂、広々とした境内等々規模の大きさには目を見張るものがある。
 本道の前にある指定文化財の説明板に、寺の歴史が次のように書かれている。

 ・・・ 「 廣見寺は 岩手県奥州市にある正法寺の2世の高弟である天光良産(てんこうりょうさん)禅師が、明徳2年(1391)に開創したと伝えられる古刹である。」


<廣見寺 石経蔵(せききょうぞう)>

 本道の西側、国道140号線の脇にある。
 明和7年(1770)に造られたもので、石蔵の中に大般若経を墨書した大小数千個の川原石が納められているという。

愛宕神社

 国道140号線を北に向かうと大野原駅で、その先に愛宕神社がある。
 広い境内である。
 神社の前、大野原駅からの車道が国道に合流してくる三叉路に、懐かしいタイプのボンネットバスが現れた。 秩父順礼バス 和銅黒谷駅循環という名が付いている。

横瀬川
 1kmほど進んで、横瀬川をわたる。

武甲山の東側を源流として、前回の散策で妻坂峠を越えて秩父に入って来た山を源流としている生川が横瀬町で流れ込んでいる横瀬川である。
 横瀬川はこの先で荒川に合流する。



 国道を数百m進んだ先の五叉路の交差点に、「秩父札所一番四萬部寺」 と 「瑞岩寺入口」の大きな看板が並んでいる。

 四萬部寺(しまぶじ)は、札所一番という事で大いに興味があったが、地図では1.5kmほど南東の距離で遠いのであきらめる。

 瑞岩寺までは300mほどで、長尾城の跡があった所という事で、寄り道することにした。

瑞岩寺と長尾城跡
 左手に崖が迫り、その先に瑞岩寺が見える。
山門から見た 武甲山の眺めは雄大である。

 享禄元年(1528)の開山で、開基は 長尾四郎左衛門昭国とされている。(説明文)



<瑞岩寺 不動尊> 道路側から見た不動尊の崖
 芳賀氏「山の道」では、次のように記されている。
「文明10年(1478)、寄居鉢形城で謀反の挙兵をした長尾影春は、上杉氏の家臣太田道灌により攻め落とされ、その後秩父山中を逃げ回り瑞岩寺裏の洞窟(現不動堂)に潜伏しているところを発見され、生け捕られた。 其の後古川に逃れ古川公方に忠誠を尽くしたという。
裏山の長尾城は、長尾氏の築城したものではないが、寺が長尾氏と関係深いので、結び付けられたものらしい。伝説では、影春の息子 烏坊丸が養女など27人を率いてここに籠り、父影春の為に寺を開祖したことになっている。」
    寺の説明文にある開基の長尾照国と、影春の息子との関係は不明。

  左写真の山の崖の中腹にある不動堂→

道の景色① ふるさと歩道
 国道へ戻るすぐ手前に、八坂神社という小さな社があり、その脇に「ふるさと歩道・・瑞岩寺ー和同採掘遺跡・黒谷駅」という標柱がたっている。

国道の五叉路に戻ってに戻って国道の歩道を進むよりは、この山裾の道を進む方が趣がありそすなので、こちらを行くことにした。

道の景色②  廃寺
 静かな山あいの道を進むと、右手山側に廃寺がある。
 入口の石段から続く参道の両脇に、安永3年(1774)の八十八箇所供養塔や、二十二夜塔や、台座に三猿が刻まれている青面金剛の庚申塔などが建ち、奥の方に扉のしまった本堂がある。
廃寺になってそれ程年月が建っていないようであるが。

道の景色③ 
 国道140号線とほぼ平行して、北に向かって進み、この先の法雲寺を目指す。
 法雲寺の南東方面の山中に和銅遺跡の横堀跡や製錬所跡があるといい、その場所はこの左の写真の右側の山の奥に当たる。(この先の聖神社の前にある和銅遺跡の案内図による)
 途中には古い石塔などもあり古くからの歴史のある場所であるらしい。

法雲寺
 人家が少し多くなり、山側に、法雲寺がある。 秩父札所三十番の法雲寺とは別の寺である。
 参道入口に「正永山法雲禅寺」と大きく刻まれた石柱が建っている。
芳賀氏によれば、重さ16kgの自然銅を寺宝として保存しているというが、無住のようである。

 ここからは、西に向かい国道140号線にでる。
そのあと「山の道」はすぐ斜めに入って国道と並行する。
その後、再び国道に合流する。
和銅黒谷駅入口である。

和銅遺跡 聖神社
 駅入口から200m程北に行くと右側に「和銅遺跡入口」の標識があり、右に進むと、聖神社、その先をさらに山に向かって進むと和銅遺跡がある。

 元明天皇の慶雲5年(708)この地から和銅が献上された事を祝い、年号を和銅と改め、わが気に最初の貨幣を鋳造した。 →和同開珎
これは国内に大赦令を出して刑罰の減免などを行なうなどの「大事件」であった。

 和銅献上の際、近くの「祝山」に金山彦命(鉱山の神様)」が祀られ、和銅元年(708)に現在地に遷され聖神社が創建されたと伝えられる。。自然銅の大小2個が神社の神宝として伝えられているという。
 説明板によると、献上の和銅はニキアカガネと呼ばれ、精錬を要しない純粋な銅という。

神社の今の社殿は、江戸時代中期 宝永6~7年(17098~10)の頃に建築された市内の今宮神社の本殿を、昭和に入って移築したものという。

和銅遺跡 露天掘り跡
 神社から坂道を500mほど上り、標識の出ている細道を下ると、沢沿いの道となり「和銅露天掘りの跡」の案内図と大きな和同開珎のモニュメントが建っている。
 「地質学上では『出牛(じゅうし)- 黒谷断層』と言われ、造山活動による基盤の秩父中古成層と堆積による第三紀層の断層の露頭に噴出、凝結した自然銅」 という。

 沢を渡って、右側の急斜面を上って行くと、崖の斜面の小さな沢のような場所で、色が変わったところが見える。
       









 細坂を更に登ると、「和銅開寶乃古跡」と刻まれた石碑が建っている。
埼玉県知事・・書、大正11年(1922)建之 とある。

 帰りは、そのまま和銅沢沿いに下っていき、国道に戻る。

大塚古墳
 1kmほどで国道140号線から分かれ、皆野に入り、秩父鉄道沿いに進む。
その先に大塚古墳がある。
 秩父地方の古墳は、古墳時代後期になってから築造されたもので、大部分は小規模な円墳が集まって一つの群を構成しているが、この大塚古墳は、直径33m、高さ7mという現存する中では大規模なものという。
 円墳の頂上への石段の左に玄室への羨道の入口が見える。

 

散策終了→親鼻駅
  皆野駅前を過ぎて500mほでの三叉路を左(北方向)にむかう。
秩父鉄道の踏切を越えて、つぎの信号のある三叉路で、本日の「山の道」の散策を終える。 
                            <親鼻駅>
 まだ早い時間であるが、この先は深い山を進むのでここまでとして、その代わりに帰る途中の長瀞を訪れることにした。

 このまま歩き続けても長くない距離であったが、長瀞でゆっくりするために、親鼻駅から秩父鉄道に乗り、二つ目の長瀞駅で下車した。

宝登山(ほどさん)神社
 駅から1kmほど西に向かって坂道を上った所に、神社がある。
由緒によれば景行天皇の皇子日本武尊が東国を平定し凱旋の折 宝登山に上る途中、山火事に囲まれた。 その時巨犬が現れて火を記し止めた。 その感謝をこめて頂上に三柱の神を祀ったのが始まりという。(110年頃) 火止山の名が起き、その後宝登山となったという。
 今の社殿は幕末・弘化2年(1845)から明治7年(1874)にかけて完成された。

 秩父神社・三峯神社とともに秩父三社のひとつである。

長瀞
 駅に戻り、東を流れる荒川に向かう。
下流に向けて川下りの船がつながれている。
上流方面には西側に「長瀞岩畳」が広がる。
   

 ちょうど観光の時間帯をすぎていたので、静かな雰囲気の長瀞を楽しめた。
  散策日   2016年10月7日  西武池袋線 西武秩父駅-秩父鉄道親鼻駅
  参考   「旧鎌倉街道 探索の道   山道編」  芳賀善次郎著