*******鎌倉 「山ノ道」(山沿いの道)********* 6.名栗-秩父 地図: 名栗-名郷 名郷-生川 生川-横瀬 横瀬-秩父
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今回の楽しみは、妻坂峠をへて、武甲山を間近にみて、秩父に入ることである。 何年か前に、西武秩父駅に降りたときの、武甲山の威容・異様は忘れられないものであった。 西武 飯能駅からバスで約一時間、名栗車庫で下車して、名栗川沿いの山あいの道を進む。 |
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森河原 医王寺 |
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森河原のバス停を過ぎてしばらくすると、右手に医王寺がある。 参道の入口に、延命地蔵尊の祠が立っている。 七ツ沢バス停を過ぎた先で、道は左へ大きく曲がる。 橋を渡ったすぐ先に、柏林寺の説明板がある。 右側の急な細い坂をのぼり、弁財天と刻まれた石塔などが建っている小道を進む。 下方に空き地の端にたたずむ小さな寺が見える。 |
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柏林寺 |
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市内曹洞宗能仁寺の末寺で、千体観音の安置堂だったのが、寛文検地の時に、一反の土地が除地(租税を免除された)として認められ、寺となったもので、開山は正徳3年(1713)という。 堂内の十一面観音立像は、江戸時代前期の作といわれる。 |
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檜淵諏訪神社 |
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人見地区に入ると、左手に小さな社殿がある。 手前に「檜淵諏訪神社」という説明板が立っている。 それによると「社殿の中央には諏訪神社の神体を祀る祠があり、右側には水天宮、左には稲荷社の祠があり・・・・人見の個人で祀る神社をいつの頃からか地元の鎮守にしたといわれている・・・・嘉永年間(1848~54)に上名栗の星宮神社から伝授されたという獅子舞が奉納されている。」という。 社殿は明治時代の火災で全焼し、そのあと再建されたものという。 入間川の左側の山あいに集落が広がっているが、芳賀氏によると、「ここには暮に餅をつかない風習がある。」という。 ある年、餅つき日に出火があり、村落が全焼したため、それ以後はやめてしまったという。 人見のバス停を過ぎた先の右手に「馬頭観世音」の石塔がある。昭和8年(1933)の建立である。 |
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新井不動尊 |
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右側の、山が入り込んだ場所にお堂がたっている。 右側の崖からの湧水は「不動の名水」として有名らしい。 右側には 小さな石仏がひっそりと立っている。 しばらくして、名郷のバス停のある広い広場がある。 名郷から秩父へ向かう鎌倉街道 上の道は、2本の本道があった。 ひとつは、ここから右へ進み、山伏峠を越えて初花・二子山を越えていくものと、もう一つが、左へ進み、妻坂峠を越えて生川(うぶかわ沿いに行くものである。 前者は古代の郡衙道を利用したもので、後者は武甲山への参道を利用したものという。(芳賀氏) 今回は左へ進み、妻坂峠をめざす。 現地の「名所案内」によると 妻坂峠まで、1時間40分とある。 |
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正覚寺 |
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川沿いの道のすぐ左、橋を渡った奥に正覚寺がある。文明5年(1483)の開山という。 芳賀氏によれば、正覚寺は 慶應2年(1868)の『名栗騒動の発火源』である、という。 「山の道」によれば、「幕末の横浜開港による物価の値上がりで、山間部の農家に経済的不況をきたし、慶応2年の大凶作が追い打ちをかけて、生活苦が増大。正覚寺の檀信徒たちが立ち上がり、桶屋職人豊五郎と大工職人紋次郎が中心となって、上名栗の農民たちが蜂起し、6月13日の名栗騒動となった」という。 集団は250人ほどになり、飯能を襲い 所沢、寄居、秩父・・・、南へは五日市、八王子まで流れ込んだが同月中に鎮圧された。 二人は捕えられ獄中で死亡。打ち壊された穀屋、酒屋、高利貸など300軒、参加人数は10万人以上といわれた。」 武州世直し一揆ともいわれている。 |
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道の景色 |
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名郷からは山中の道となるが、はじめの頃は緩やかな坂道で、左側には大鳩園というキャンプ場がある。 |
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山中林道となり、道は険しくなる。右手崖上に神社がある。 「入間川起点」の石柱がある。 その先で、左へ入る道が横倉林道。 |
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少し先で、舗装道路はなくなり、本格的な山道に入る。 沢が石ころとなり、峠 直下の道は厳しい上りである。 |
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妻坂峠 |
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妻坂峠の標識が立ち、標高839mとある。 武川岳と大持山を繋ぐ尾根道をこえていく峠である。 小さな地蔵が立っている。以前は祠があったらしい。 妻坂という名称は重忠が鎌倉に行く時に夫人がいつもここまで見送って別れを惜しんだからだという。 北に急斜面を下りていく。 生川(うぶかわ)の源流とも言える沢を下っていく。 林の中の急坂をどんどん下っていく。 |
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武甲山登山口 一ノ鳥居 |
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間もなくガードレールのある舗装道路にであう。 左手奥には、鳥居が見える。ここで、右へくだっていくのであるが、少し立ち寄りで鳥居まで行ってみる。 武甲山への登山口で、御嶽神社の一の鳥居である。 鳥居前の狛犬は、オオカミ である。 武甲山は、秩父最高の山で、日本武尊が東征の時に武運長久を祈って武具を治めたと伝えられ、山頂には日本武尊を祀る御嶽神社がある。 ここからの下りは舗装道路となり快適な歩きとなる。 右手奥の広場に古い社がある。 その先には、延命水という名の湧水が湧き出ている。 |
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秩父石灰工業武甲工場 |
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やがて、中央線のある広い道路が始まる。右側のがけ下には生川が流れ、すぐに大きな石灰工場が現れる。 さらに進むと秩父石灰工業の武甲工場がある。 左写真は、振り返ってみた石灰工場と武甲山である。 右は削られた山肌が現れた武甲山。 工場の建物が続く先で、道は二股に分かれるが、右へ向かう。 一見して工場へ入っていくような道であり、間違えやすい。(左へ進むと、すぐ生川を渡る橋となる) |
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猿田彦神社 |
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山裾を廻るように緩やかな坂道を進むと、右側に2棟の猿田彦神社がある。 古御嶽神社入り口 右、武甲山道 とある標柱が建っている。 左 「札所8番」とある標識もたち、いよいよ秩父に入ったという感じである。 |
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8番札所西善寺 |
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のどかな丘陵地帯を下っていくと、右手奥に、札所 廻り第8番の西善寺が見える。 秩父地方の34ヶ所の観音霊場を巡ることを、「秩父三十四箇所」の札所めぐりという。西国三十三箇所、坂東三十三箇所とあわせて、「日本百観音」と言われ 巡礼廻りとして有名である。 秩父札所の成立は文暦元年(1234)播磨国円教寺(西国札所27番)開山の性空上人らが、秩父を巡歴して観音の地として定めたことに由来、室町時代に成立したという。 西善寺の開創は文暦元年(1234)、札所成立の年であり、開山は寛政3年(1462)という。 観世音菩薩は十一面観世音坐像で恵心僧都の作といわれる。(説明書による) 境内には 幹回り3.8m、樹齢約600年という「こみねもみじ」がある。 <30年前の西善寺の写真> |
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御嶽神社 里宮 |
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街道に戻り北へ進む。城谷沢という小さな川の脇に御嶽神社がある。 鳥居脇の石柱には「御嶽神社里宮」と刻まれている。 武甲山の山頂の御嶽神社まで上れない人のための遥拝所で、山頂に対して里にあるから「里宮」といっている、という。 |
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城谷澤の井 |
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神社の鳥居の脇を山に向かうと、「城谷澤の井」がある。 秩父は江戸時代から絹織物(秩父銘仙)の産地で有名であった。戦国時代の根古屋城主が武甲山の湧水が良質であることから絹織物を奨励したからだという。(芳賀氏) 染色時に使用する水を汲んだのがこの井戸で、この地で生産されたものは「根古屋絹」と呼ばれ全国に広まったという。 |
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根古屋城跡付近 |
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北に向かい西武秩父線を高架をくぐる手前から東方面の山を見た景色である。 芳賀氏によれば、根古屋城があった場所という。 高架をくぐると、「武甲山御嶽神社入口」と刻まれた細長い石柱がある。 その先の四辻を左に向かい、生川の右岸に沿って進む。 馬頭観世音の石塔が納められた祠がある。 国道299号線のガードをくぐり、生川を渡る。 横瀬の町並みが始まり、国道299号に合流し、横瀬川の橋を越えてすぐの信号で、左へ分岐していく。 |
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7番札所法長寺 |
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再び299号線に合流すると、右側に札所7番の法長寺がある。 本尊は十一面観音で江戸時代の作という。本堂は秩父札所随一の大伽藍である。 説明板には、平賀源内の原図によって建てられたと伝えられ間口10間奥行9軒とある。 寺の南側にある馬頭尊と刻まれた石塔→ |
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交通量の激しい国道を北西-横瀬駅方面に向かう。 400mほど進むと、右側の町民会館の奥に歴史民俗資料館がある。 武甲山信仰や秩父札所の縁起、その他興味深い内容が数多く展示されている。 「武甲山御嶽神社・神輿形宮殿」の模型→ 1kmほど進むと左側に羊山公園という小高い山が見え、その先の信号の右手の奥に、常楽寺がある。 |
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11番札所常楽寺 |
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道の北側に小さな山がありその中腹に建っている。 行基が十一面観音を刻んだと伝わる。 享保4年(1719)に江戸湯島天神へ出開帳した記録があるという。 絵dぉ時代には仁王門、庫裡などを備えた大きな観音堂があったというが、今は、明治13年(1880)再建された観音堂が残る。 300m程先で、国道140号線と交差する。 上の道はここから右折して、北に向かう。 今回の散策はここまでとし、西武秩父駅まで戻る途中に、秩父神社や、札所を訪れることにする。 上野町交差点をそのまま直進する。左手には旧家らしい民家がある。 秩父鉄道の踏切の手前を左折して、少林寺に行く。 |
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15番札所少林寺 | |||||||||||||||||||||||||||||
もともと15番札所は、秩父神社の別当寺であった蔵福寺であったが、明治維新により廃寺となったため、新たに札所とされたお寺である。 境内には、秩父事件で殉職した警官の墓があり、碑文がある。 秩父事件: 明治17年(1884) 松方財政による不況に苦しんだ農民が井上伝蔵らを幹部として困民党を結成し蜂起した事件。10日間にわたる抵抗ののち、鎮圧された。 元に戻り、踏切を渡った先の秩父神社にいく。 |
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秩父神社 |
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<神門> 秩父の夜祭で有名-秩父地方最大の神社で、境内には広い森がある。 神名帳に記載されている式内神社で、武蔵国の四之宮である。(武蔵国総社は大国魂神社) 中世以降は関東武士団の源流である平良文を祖とする秩父平氏の妙見信仰と習合して長い間秩父妙見宮とし繁栄した。(明治以降旧社名の秩父神社となった) 三峰神社、宝登山神社とともに、秩父三社と知られる。 <拝殿> 今の社殿は天正20年(1592)徳川家康により寄進されたもので、江戸初期の様式をよく残しているという。 <左甚五郎作の「子育ての虎」> <左甚五郎作の「つなぎの龍」> |
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13番札所慈眼寺 |
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秩父神社からまっすぐ南に向かうと駅のすぐ手前の、賑やかな町並みの中にある。 土蔵造りの経蔵のみが江戸時代から残っているもので、他は明治の大火以降の建築という。 |
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西武秩父駅から、帰途につく。 帰りの西武線 ゆったりとできた電車旅であった。 |
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