*******鎌倉 「山ノ道」(山沿いの道)*********


5.軍畑-名栗


  地図: ①軍畑-松ノ木トンネル ②松ノ木-下名栗 ③下名栗-上名栗

 


 2年中断していた「山ノ道」の散策を再開した。
久しぶりの奥多摩の山の景色は懐かしかった。 

                     <軍畑駅前から南を見る→>

 「軍畑」は、永禄6年(1563)に北条氏照軍が、この地方一帯を支配していた三田氏が守っていた辛垣(からかい)城を攻め、ここの東側の谷を流れる平溝川流域が激戦地となったところで、その[戦」に由来している。

鎧塚
 駅前の坂を下り、都道193号線へ。
左へカーブした左手に鎧塚がある。木に覆われた約3m位の塚の上に小さな祠があるが、上りは禁止となっている。
この塚は三田氏の辛垣城が落城の際戦士した武者の兵器を埋め、供養した塚と伝えられている。
塚の前には、宝暦10年(1760)の地蔵が祀られている。

 青梅線の鉄橋の高さが、右下の平溝川が流れる渓谷の深さを物語っている。


 まもなく、平溝川を渡る橋がある。青梅街道(ここまでのぼってから、平溝川を渡ったようだ) と山ノ道と交差している場所という。、
以前道標があったという場所に庚申塔がたっており、高水山入口という自然石の道標が立っている。








 平溝川に沿って坂を上って行く。

石仏祠
 左に大きくカーブした先の右側の端に二つの祠が建っている。
右側は不動明王像で、左は、庚申塔と地蔵像である。
  


平溝橋
 すぐに平溝川に架かる平溝橋の手前から高水左に入る山方面への道が分岐していく。端のたもとに「右ちちぶ道・左****」と刻まれた自然石の道標がある。

数百mで榎峠である。標高331m、多摩川と入間川の分水嶺となっている。

大泉院
 少し下ると、小さな集落があり、左手の山に大泉院がある。
その手前に白岩地蔵尊の祠がある。
白岩は、近くに石灰石が多く分布していることから付いた名前という。





<大泉院からみた白岩の集落>

佐藤塚
 緩やかな沢沿いの坂を500m程下っていくと、都道から分岐して左手に向かう道がある。松ノ木通りと呼ばれ、山ノ道はここから北に向かう。 
 角の檜の大木の根元に五輪塔が2基建っている。
江戸城の増改築に伴い、漆喰壁にするための消石灰の大量生産が、佐藤助十郎など4名が関わってい始まり、以後石灰焼は成木築に繁栄をもたらしたという。その助十郎と妻の墓といわれ、この東がwじからは、窯跡が発見されている。五輪塔の地の部分には正保2年(1645)と彫られている、という。
 芳賀氏の地図によると、佐藤塚の手前から左手の山にのぼり、今の自動車道の東側を上って松ノ木峠を越えていたという。

松ノ木トンネル
 間もなくトンネルがあるが、右側にあったという道は、残念ながらその痕跡も見つからなかった。トンネルを過ぎすぐ先で、成木川をわたり西向かう成木街道にでる。    <成木川下流方面>
 
 400mっ先で、まっすぐに進む自動車道から左へ分岐して、成木川沿いに上流に向かう。

小沢峠(こさわとうげ)への道


 ここから先、への登り口までは、山のふもとに静かにたたずむ集落と、川沿いに進む道、地蔵の祠などなど古道の趣がとてもよく感じられる道である。

 
 集落の奥まったところに、山に入っていく橋がかけられている。




 橋向かい左手には古い石垣の上に寺の境内の跡のような小広場がある。



 角に出羽三山供養塔が立ち、道標を兼ねている。
片面に「西 日原 甲州 道」とあり、もう片面「右 ちヽぶ 子のごんげん 道」とあり、寛政12年(1800)の建立である。



 右側には祠があり、嘉永4年(1841)建立の地蔵像や、石塔石仏などが納められている。


小沢峠への道(2)
 橋を渡ると細い道となり、すぐに草道となる。
祠があり、元禄11年(1698)の庚申塔がある。
すぐ先には、2体の地蔵像の入る祠と、その右には更に古い地蔵がたっている。











 小沢トンネルに向かう自動車道の下(上成木橋)を抜け、小沢峠に向かう。

 杉の伐採のための作業道がいくつかあるが、峠の方向を定めて上って行くと間もなく峠となる。

小沢峠
 峠道は、尾根道をつないでいる棒ノ峰と細田安楽寺のルートと交差している。
そばには、小さな石の祠が立っている。今は、今回通ってきた成木→小沢のルートの方が人気がないようなかんじである。




峠からの下りは、
 峠からの下りは、ここからほとんど歩く人がいないせいもあるのだろうが、道が荒れている。急な傾斜地もわずかな道の痕跡しかないし、小さな沢に降りてからは倒れた樹木がそのままという状況である。距離が短い為、OKであったが、結構きつい歩きとなった。
小沢トンネルの出口のところに、たどり着く。

小沢峠への古い登り口
   
 小沢トンネルを後ろに見ながら緩やかな下り坂を進む。左手に「県立奥武蔵自然公園 ようこそ 名栗路へ」というしゃれた看板が掲げられている。ここから埼玉県に入る。
自動車道は左へ大きくカーブし、その後右へ急カーブして、急な斜面を避けて下る。
 ほぼ直角に左へ曲がる地点の右下に、小さな祠の屋根と小さな橋が見える。ちょっと下って様子を見に行くと、橋の先に細い道が続いており、祠には、古い石塔が祀られて居ることから、ここが小沢峠への古い道のようである。
先ほど歩いてきた小沢峠すぐ下の下り道の荒れているところをみると、この道をどこまで上って行けるかわからない。


すぐ先に下名栗の集落が見えてくる。

入間川 秩父との交通路
 X字形の交差点を越えて、先を流れる入間川を渡るり、T字路を左へいく。この上流は名栗川ともいい、奥に秩父の山が見えてくる。
 川と山裾の間を上流に向かって進み、その先で妻坂峠をこえて秩父へ向かう道である。
 もともとは大和朝廷が武蔵に移した渡来人である高麗人が、次第に青梅へも来住し、その居住地が名栗へも伸びてきたという。
中世になると、秩父地方の秩父氏一族、地域血縁で結ばれた武蔵七党の内の一つ 丹党が、武蔵国府や鎌倉幕府との交通に利用したという。
 戦国時代になると、青梅の三田氏が主君寄居の上杉氏との連絡に利用し、その後は北条氏の関東征服の生命線ともなった道である(芳賀氏による)

道の景色-石仏

 道の右側に、ほぼ同じような距離を置いて、地蔵尊、石仏がたっている。 下名栗の内の各地域ごとに祀っているものであろうか?

左欄は、<場所>と、道から見た景色
右欄は、その拡大の写真である。。

<小沢バス停 すぐ先>
←小さい地蔵尊
右は三面六臂の馬頭観音?

<諏訪橋バス停のすぐ先>
左:内側に刻まれた石仏
←中::享和2年(1802)の馬頭観音?
右:7首を補修された地蔵尊

<諏訪橋バス停から100m先>
秩父郡下名栗村 地蔵菩薩の札あり

<峰バス停向かいの広場>
 別の場所に祀られていたものがここに移転されたという。近くの畑から移転された庚申塔と馬頭観音

右側の庚申塔は正徳2年(1712)の銘あり。

左の馬頭観音は変わった形をしている。

<名栗川橋バス停>
文化13年(1816)建立とある。



<名栗郵便局の向かい側>
 

鳥居観音
 名栗郵便局から500mほど先で二叉路となり、右へ進む。 (左に行くと、名栗湖がある。)
間もなく西側の山に大きな観音像が見えてくる。
入間川をはさんで反対側に、昭和15年(1940)の開山の鳥居観音があり、その北側の山に建てられている「救世大観音」で、昭和46年(1966)に建立された。(高さ33m)

星宮神社
 右側に鳥居、その奥に長い石段の続く星宮神社がある。
創建は元暦元年(1184)と伝えられるという。
名前の由来については「往古天より降る星精を祀る」という妙見信仰にか関わるものという。





<星宮神社前から見た秩父の山々>

景色
 小殿バス停の先右側に「竹寺・子の権現」の標識が立ち、林の奥へ石段が続いている。

少し先に右手に梅林がある。
前回歩いた青梅で見られなかった梅である。









 間もなく「名栗車庫」のバス停である。
飯能行の時間まで若干時間があったので、川の上流の景色を見に行った。
次回は、さらに奥まで進み妻坂峠を越える。

飯能駅までは バスで1時間弱であった。
  散策日   2016年3月4日  軍畑駅・・・・西武池袋線 飯能駅
  参考   「旧鎌倉街道 探索の道   山道編」  芳賀善次郎著