*******鎌倉 「山ノ道」(山沿いの道)*********


4.武蔵増戸-軍畑


  地図: ①上川町ー日の出町  ②日の出町-大久野 ③大久野ー和田町 ④和田町―軍畑

 



 山ノ道は、前回通った瑞雲寺付近からまっすぐに北に向かっている。
江戸時代には、すでにこの南側、秋川に沿って五日市街道が出来ていた。 山ノ道と交叉している山田交差点の西側あたりには、伊奈宿が栄えていたという。 (五日市街道は 付近で産出される伊奈石や木炭などを、江戸に運ぶために整備された道であったという。)

 山ノ道を北へ進む前に、寄り道となるが西へ約1kmの所にある名刹 大悲願寺を訪れる。

大悲願寺への道


 増戸駅から、五日市線の線路北側に沿って西に進む道を進む。
大悲願寺近くになると、地蔵の祠や、道標があり古くからの道のようである。
        
 この道の北側に広大な敷地を持っており、右側に沿って通用門、本堂への中門、そして仁王門と続いている。
 大悲願寺への参道は、南100mほどの旧五日市街道から線路を越えて仁王門へと続いている。
東の通用門から、本堂へとお参りする。

大悲願寺  本堂

 
 建久2年(1191) 源頼朝の命で、源平合戦で名を馳せた日野の武将 平山秀重が建立したという。
草木の豊富な広い庭の奥に本堂がある。説明板によれば、「建築年代は元禄8年(1695)、書院造り風に方丈系講堂様式本堂で、屋根は入母屋造り、茅葺型銅板葺きとなっている。」
 
<白萩>
 庭に見事な萩の植え込みがあるが、残念ながら花ではなく、新芽がきれいであった。
萩に関しての話が残る。
江戸初期の第15代住職 秀雄(しゅうゆう)は伊達藩 正宗の末弟(異母)であった。
正宗が伊奈を訪れ立寄った際、見事な萩を気に入って、後日手紙を送って分けてもらったという。(白萩文書として現存)
(この秀雄については、正宗に殺された弟 
小次郎ではなかったか、という説もあるという。)

 境内を西に向かうと、左手に鐘楼がある。
梵鐘は、寛文12年(1672)鋳造で、大戦中の供出を免れた。



観音堂
 奥に見ごたえのある彫刻が軒下にめぐらされている観音堂が建つ。
寛政6年(1794)の建立で、ここには平安末期から鎌倉前期の作という阿弥陀如来三尊像が安置されている。 



仁王門
 南には大杉に囲まれた重厚な仁王門が控えている。
慶長18年(1613)、寛文9年(1669)再建され、現在の建物はは安政6年(1859)に建てられた。
 幕末期の絵師 藤原義信、森田五水により描かれた天井絵が見事である。




 門をでて、白い塀沿いを東に戻る。 本堂につながる中門がある。
境内の中に建っている説明板によると、安永9年(1780)の建立という。

 増戸駅の北の森の下交差点まで戻り、北に進む自動車道との間にある細道を進む。、

西平井交差点
 日の出団地前で、自動車道に合流し、数百m進むと、右手に平井川が現れ、この先に西平井交差点がある。
このあたりは、平井の狩宿といわれ、まっすぐ北に向かう馬引沢峠越えの道と、西に進んでから北に向かう梅ヶ谷峠越えの道の合流点であった。
芳賀氏によると、狩宿とは、仮宿のことで、その由来は畠山重忠が鎌倉への往復の時、従者を投宿させたからとか、重忠が仮の宿をとったからといわれている、という。そして、馬引沢峠越えは短いが山が嶮しいので、新たに梅ヶ谷峠越えの道が開かれて多く利用されるようになったと推測している。


 今回は、左に向かう。
東西に流れる平井川沿いに、西に数百m進み、下諏訪橋で平井川を渡る。
渡ってすぐ緩やかな山道を北に分け入っていく。
     

道景色
 左に緩やかにカーブしていく道をすすむと、地蔵の祠が建っている。右手の奥の先に、西福寺の屋根が見えてくる。

そこから寄り道して、大久野のフジを見に行く。
畑の中の細道を北東にすすみ、蛇野橋を渡って、急な坂道をすすむ。

大久野のフジ
 斜面左に広場があり、説明板が立つ。 
「根もとの周囲が約3m、樹高は27m」におよぶ大木もあるという..
その奥の「アラカシ」や「スギ」の木立の中に数多くの野生の藤が太い幹を木に絡ませて伸びている。
大木らしい藤もあったが、全体的には、結構痛んできている感じである。
 広場にある藤棚で、花をを楽しんだが、野生の藤の花は、木立が深すぎて見えない。


 もと来た道へ戻る途中の手前の山の斜面に、野生の藤の花が咲き誇っているのが見えた。

西福寺
 元の道から、100m程進むと西福寺があり、横の道を北にまっすぐ進むと、秋川街道と交差する。
坂本の交差点を斜めに横切り、100m程進んで、自動車道から左へ分岐する。東側下方には北大久野川に沿って集落が見える。

山裾の道
 車道を左へ分岐してからは、静かな古道の趣のある道歩きとなる。 

山側の西徳寺をすぎると、先ほど分岐した車道に合流する。 



近くの山では モミの生育に適しており、良質のモミ材が生産されたことから、塔婆造りが盛んであったという。 



<途中の茅葺の家>

日の出町 
 北大久野川に沿って北へ進む。

 日の出山荘入口がある。
1983年中曽根首相とロナルド・レーガンの日米首脳会談が行われた山荘で、今は記念館となっている。

梅ヶ谷峠への道
 奥に進むにしたがって、両側の民家も少なくなってくる。長井公会堂の先、川の反対側に庚申塔を祀った祠が建っている。
 








さらに進んだ右側には、小さな堂が建つ。
寒念仏供養塔が立ち、その左には石憧が立つ。それには文政13寅と刻まれており、天保元年(1830)の建立である。
 








 数百m先、急な坂道が始まる所に、そこに石仏の祠や石塔がある。
    

梅ヶ谷峠
梅ヶ谷峠を越える。
いよいよ青梅市である。

 右側の斜面には、大きな野生の藤の花が存在感をだしている。

坂を下っていくと、左側からの川がせまってくるところで、視界が開け、麓の家並が見え始める。
そこで、車道から分かれ、左へ急坂を下っていく。

八郎治橋
 100mほど下って、八郎治橋をわたり、数十m先で左折して急坂を上り、台地にでる。
左側には、今下ってきた梅ヶ峠の山並みが見える。

竹林寺
 右側に緩やかに傾斜している丘陵
を100m程歩く。
竹林寺があり、石垣の右手に鎌倉街道の標柱が立っている。
竹林寺は、二俣尾にある海禅寺7世の天江東岳(天正18年(1590)寂)の開山で、明治年間に、他の寺と合寺清延山竹林寺としたもので、本堂は慶応元年(1865)の再建という。(外部は改修されている)

道の景色
 竹林寺からは、少し下りとなり、右手には茅葺屋根の家が残る。
さらに200mほど進むと、民家が増え、右からの道と合流する。、
平井交差点ー狩宿のところで分岐した馬引沢峠越えのルートがここで合流していたという。



 吉野川を渡る。
十字路となり、道標が立つ。古いものもあるが判読不能。
「向 左 大久野及五日市方面 向 右 琴平山ヲヘテ御岳山二至ル」
(写真は来た道を振り返ったところ)

梅の公園
 寄り道をして左折、「梅の公園」にいく。
 このあたりから北に約4kmにわたって「吉野梅郷」と呼ばれる梅の名所で、2万本以上の梅が植えられ名所であったが、平成21年(2009)「プラムボックスウィルス」の感染が確認され、感染木が伐採されている。
梅の公園の約1700本の梅も、一部はすでに伐採されている。
(その後、感染が止まらないため、すべて伐採されることになった…2020年までの復興計画あり)
 芳賀氏によると、この地は、梅の生育に適していたこともあるが、江戸時代からの農村振興策が大きく、文政時代(1816~29)には梅の出荷期には、梅干しを満載した馬が江戸に向けて延々と続いたという。また村の伝説では、昔 吉野には梅の長者、二俣尾には桃の長者、吉野の北の 沢井にはユズの長者がそれぞれ住んでいて広めたのだという。

下山八幡神社
 道標まで戻り、北に向かう。観梅通りとして整備されている。。
500mほどさきにある下山八幡神社は、創建は長久2年(1041)と伝えられ、弘安4年(1281)の銘をもつ木彫神鳩を祀る古社という。
本殿は、宝暦5年(1755)に再建されたもので、「三間社流造り」という構造様式である。江戸期の本殿の多くは一間社流造りであるので、貴重な本殿建築である、という。

岩割りの梅
 約200m先の左に、黒地に白の案内標識があり、細道を入っていくと庭園がある。
 説明板とともに、左右の大きな岩の間から生えている梅の木がある。
「この梅は、その昔、若武者とこの地の娘との恋の逢瀬の場所で、若武者が出陣の時突き刺した枝の一枝がこの岩を割り、伸びたのでこの名がつけられた」という。
残念ながら幹から上が伐採されており、隣に平成24年(2012)撮影された伐採以前の満開の写真が掲げられている。
 標識まで戻り、北へ行くとT字路となり、山ノ道は左へ進む。.

 再び寄り道で、ここから北にある大聖院に行く。

大聖院( だいしょういん)
 右に行き、今まで歩いてきた観梅通りと並行している吉野街道を横切って50mほど先にある。
創建は不明。慶長年間(1648~52)には寺領4石の朱印状を伏せられたという。本堂は天保3年(1832)の再建という。
 本堂裏手に「親木の梅」がある。青梅の名の由来となった金剛寺にある将門誓いの梅から根分けした木といい、吉野梅郷の梅の木はみなこの木を親木にしたといわれている。
現在は倒木した樹齢700年の初代から2代目という。

常夜燈
 岩割梅のT字路までもどり、西の山の方角へ入っていく。
屋根で保護された愛宕山・牛頭天(?)王と刻まれた常夜燈が建っている。
寛政11年(1799)の建立である。
奥の林へ進み、小さな沢に架かる橋を渡って、沢沿いに下る。
石垣の上に鎌倉街道の標識がある。
即清寺の南側にでる。

その先から境内に入る。

即清寺

クリックすると拡大 説明板によると、「平安時代の元慶年間(877~885)の創建といわれ、建久年間(1190~98)に頼朝が畠山重忠に命じて造営したともいい、鎌倉から秩父へのいわゆる鎌倉古道に面する要衝の為、中世にはかなりの興隆を極めたと考えられる」という。

 境内奥には板碑が置かれている。
「十三佛結衆板碑」と呼ばれ、文明3年(1473)の造立である。(クリックすると拡大)
 

草思堂通り
  即清寺から北に進む。
吉川英治にちなんで草思堂通りと名付けられた道である。
吉川英治記念館の脇を通り北へ進む。

 400m程の左手に、稲荷大明神の社がある。








 100m程先の突き当たりは、右に進む。
吉野街道を横切り、そのまま北の多摩川に向かって行く。

200m程進んだところで、多摩川沿いの林の道にぶつかる。
川べりへの最短狭路だと思われたので、「公衆トイレ」「緑地地区}とある標識の細道を、分け入っていく。

多摩川の渡し場付近
  川べりには細い道ができており、多摩川の渡し場地点に思いを巡らせながら、ゆったりと流れる上流にに向かってすすむ。
対岸の青梅街道の陸橋と、軍畑大橋の橋脚が大きく見えてくる。
対岸上流からの平溝川が流れてくるところである。
南橋詰にのぼる。

軍畑大橋
 平成3年(1991)に完成した軍畑大橋の左側には、軍畑の渡しの石碑が建っている。
4月から11月の間は、渡し舟が使われ、少ない期間は丸太を組んだ仮橋が架けられていたという。
 橋を渡った先で青梅街道を横切り、北に向かっている都道193号線を進むのが、山ノ道である。

 左側の坂を上がっていくと青梅線の軍畑駅である。


時間がある為、山ノ道からははずれるが、一駅東の二俣尾駅近くの海禅寺を訪れる。
 この先の山ノ道の北東側の山に辛垣(からかい)城を築き、この地で滅んだ三田氏に関わる寺ということで、帰り道沿いということもあり、寄り道することにした。
交通の激しい青梅街道を隣の駅に向けてひたすら歩く。山が街道際まで迫ってくる所が続く。

海禅寺

<総門>
 
 二俣尾駅を過ぎて最初の信号の左側に、海禅寺総門が建つ。

海禅寺は室町時代の寛正年間(1460~65)に群馬県雙林寺の末寺として開かれた。
 天文の頃(1532~54)、青梅、奥多摩を350年にわたって支配した三田氏の菩提寺となったといわれている。
 天正3年(1575)勅願所に列せられた寺格を持ち、江戸時代中頃には末寺42院を数えたという。
 「 一間一戸の四脚門のこの総門は、寺伝によると、慶長17年(1612)に、山門とともに造立されたとある。平成7年(1995)に解体修理され、この位置に移された。」と説明板。

 JRの踏切を越えて行くと、長く続く白い壁と、高い石垣に囲まれた城のような寺が現れる。石段の先に荘大な山門が建っている。

 <山門>

<本堂>
 
 永禄年(1563)辛垣城落城の際、兵火により全焼、その後も火災に会い、現在の本堂は元禄11年(1698)の再建という。
本堂左手の細い坂道を上ると、三田氏一族の墓がある。宝篋印塔は、城主三田綱秀の夫人と3人の子息の墓といわれているが、墓石の形式が背丈の高い江戸時代のものであるから、その頃建てられた供養塔であろうという。(芳賀氏)
その隣には一族従臣らの小五輪塔が並んでいる。









坂道をそのまま上って行くと、三田綱秀の首塚という五輪塔があるという。


二俣尾駅はすぐ西にある。



  散策日   2013年5月10日   武蔵増戸駅・・・・軍畑駅・・・・二俣尾駅
  参考   「旧鎌倉街道 探索の道   山道編」  芳賀善次郎著