*******鎌倉 「山ノ道」(山沿いの道)*********

3.高尾-武蔵増戸駅


    地図: ①高尾―川原宿 ②川原宿ー美山町 ③美山町-上川町 ④上川町ー日の出町

 

 
 前回の八王子城跡への立ち寄りの前にスキップした八幡神社を訪ねてから、山ノ道を歩く。

八幡神社
 高尾駅北口からバスに乗り、「霊園前・八王子城入口」の一つ手前の「宮の前」バス停で降りる。バス通りから細道を東へいくと、朱塗りの鳥居がある。北に向かう参道の途中に、「神木梶原杉」と彫られた石碑と、大きな切株が残っている。治承4年(1180)に梶原景時がこの地方を領した時に、八幡宮を勧請し、その時に植えたものという。昭和47年に伐採したもので、周囲12mという。
 

庚申塔
 バス通りに戻り、八王子城跡入口を過ぎると、丘陵をのぼっていく。両側に広大な霊園がひろがっている。しばらく進み、信号のある交差点を左折する。
小さな川のほとりに、寛政6年(1794)の文字庚申塔が立っている。

 川沿いに西に進む。その先は果樹園や雑木林が続くのどかな山道となる。

石塔
 500m程の古道の趣のある道を楽しみながら、平地にさしかかると、小さな四辻がある。左に入る道に、心源院と刻まれた石柱がたち、右側のコーナーには石仏が刻まれた石塔が立っている。
中央は寛政7年(1795)の念仏請中の石塔で、左右のもの
は風化している。

小谷田小寅の碑
 心源院の本堂の行く途中に、小谷田小寅(こやたしいん)の石碑が建つ。
説明板は・・・・、「小谷田子寅は千人同心で、宝暦11年(1761)4月4日、武州多摩郡川口村(現八王子市川口町)に生まれ名を小谷田権右衛門昌亮という。幼くして父をなくしたが、勉学を好み天文学、洋学に詳しく特に医学に明るく薬を乞う者、診断を求める者があとをたたず民衆に慕われたという。この善徳を称えるため千人同心きっての硯学といわれた塩野適斎が撰文、同植田孟縉が書ならびに模刻したきわめて貴重な碑である。 碑面には三百八十六文字が刻んである。」・・・・という。
 右には、文政元年(1818)の地蔵尊が建つ。

心源院
 広い空き地の奥に、本堂がある。
心源院の開基は、滝山城主の大石定久と伝えられ、北条氏照などの帰依を受けたという。
天正10年(1582)武田氏滅亡の際に、武田信玄の五女松姫は甲斐から逃れ、心源院で保護されここで出家し信松禅尼と称したという。
 
 四辻から北へ進み、北浅川を深沢橋で渡ると、川原宿となる。
橋から100m程で、陣馬街道にぶつかる。

陣馬街道 (案下道)と川原宿
 この道は 川と並行する陣馬街道と呼ばれているが、昭和30年代以降の呼び名で、以前は案下道と呼ばれた。八王子の追分町を起点として、旧甲州街道から分岐し、北浅川に沿って西に進み、相模湖畔の藤野に至る道筋で、江戸時代 監視の厳しい甲州街道を避けてよく利用され、甲州裏街道とも呼ばれた。
 この辺りは鎌倉街道と案下道が交差する場所で、宿場町として川原宿が繁栄した。
 山ノ道を北に進む前に、ここから1kmほど西に位置する浄福寺を訪れる。

川原宿の車人形
 西に向かう途中の恩方一小学校の東側に車人形の一座の稽古場があるということで、立ち寄った。ただし標識もなく、建物が、HPに掲載されている物と同じだったので、この場所だろうと推定した。この奥にあるのだろうか?
(後で通った川原宿の交差点の北にある細道の入口には、電柱にはっきりとサインがでている。→)
 車人形とは もともと2人以上で一体の人形を操っていたものを、3個の車をつけた箱型の車に腰かけて、一人で一体の人形を操れるようにしたもので、江戸末期に考案された。
「西川古柳座」が今も日本、世界各地で上演している。

浄福寺城
 恩方小の北を廻って陣馬街道に出て、圏央道の高架下を過ぎると、右手に浄福寺の境内の森と、その背後の山が見えてくる。
 浄福寺は、文永年間(1264~75)に創建されたと伝わる。境内の石垣の前に「浄福寺城」の説明板がある。
 背後の山は「浄福寺城または新城とも呼ばれ、至徳元年(1384)大石信重開城の案下城とみなされている。」という。
 芳賀氏によれば、大石氏は木曽義仲の子孫で、信重の時、室町幕府から武蔵国目代(国守の補佐役)に任命され、入間・多摩13郷を領地としたという。その後 小田原北条氏の勢力が強大となり、北条氏に下った。
そして北条氏の北進基地として大石定重に、滝山城を築かせ、その子定久にはその支城である松竹城(浄福寺城)を築かせたという。
 その後、定久は滝山城城主となったが、八王子城の北条氏照の項で記したように、戸倉城に移り、そのご衰退していった。

庚申塔 二十三夜塔
 陣馬街道を川原宿まで戻る途中、小学校の南東、右側に庚申塔が二基立っている。
左は安永7年(1778)の「庚申供養」と文刻まれ、右は寛政2年(1790)の青面金剛像が彫られている。
 さらに進んだ右側には、天明8年(1788)の自然石に彫られた二十三夜塔が建つ。
 
 心源院から来た道を通り過ぎて100m程で、川原宿交差点となり、左折してバス道路を北西方面に進む。

道の景色
 約200m歩道を進み、右.に大きくカーブする二叉路がある。ここで左への細道を進んで行く。
 左手の低い丘陵に沿って進む道で、青面金剛の庚申塔の上部だけが置かれていたり、古い地蔵の祠が建っていたりと、ゆったりとした時を感じさせる歩きとなった。

三叉路の庚申塔
 間もなく三叉路となり、その真ん中に小さな盛り土が残り、2本の桜の木の根元に石塔がある。
左側には自然石の石碑があり、芭蕉の句が刻まれているようだ。右側には、小さな石祠と奥に青面金剛の庚申塔が立っている。
笠がのっており、台座をよく見ると、よくある3猿と違い、馬を曳いている猿、馬上の猿、尻を叩く猿が彫られており、珍しいものである。
天明3年(1783)の建立である。

下原刀鍛冶発祥の地

 三叉路を左に進むと家並みが途切れ、右の空き地の隅に小さな祠が立つ。
 すぐ先にカーブミラーがあり、「医王寺入口」の標識が掛っている。
 その先の圏央道の高架の手前左に、大きな石柱があり、「市史跡 下原刀鍛冶発祥の地」と刻まれている。浄福寺城城主だった大石定久が、城下町だったこの地に招いた山本姓刀工一族の住んだところという。
山本氏はその後下原に移り、北条氏の庇護を受けて発展、一門は下原鍛冶と呼ばれ明治まで続いたという。

 芳賀氏「山ノ道」の地図によると、ここ、辺名バス停のあたりから道は北に向かい、なだらかな山道となって峠を越し、、「萩園地蔵堂」がたつバス道路まで続くことになっている。 しかし、圏央道の建設により残念ながら消滅している。
(先ほどの小さな祠とカーブミラーの間に北に向かう細道らしい痕跡が残っている。)
 そこで、三叉路までもどり、「モリアオガエルの道」を東へ進んで先ほど通ってきたバス道路(美山通りという)まで出てから、もう一本東側の美山町を通る道まで進むルートを探すことにした。

             三叉路を過ぎた先の長屋門のある民家→

道の景色
 八王子西ICの出口の交差点を過ぎてから、東の方に抜ける道を探したが、見つからず、そのまま圏央道をまたぐ橋の手前まで来てしまった。
やむを得ず、その圏央道の側道が北東に向かっているので、新しく造られた側道を進むことにした。

萩園地蔵尊
 100m程行ったところに祠が2棟建っており、下記の説明プレートが置かれている。

『圏央道工事のため 美山町4より現在地に移転した。平成13年10月14日 縄切 萩園御屋敷』

 地蔵堂には、萩園地蔵尊と名前の地蔵が2体祀られている。
右側には、自然石に庚申塚と刻まれた石塔が立つ。安永4年(1775年)とある。、
 辺名バス停付近からの道は辿ることができなかったが、萩園地蔵堂を見れたことは幸いであった。

延命地蔵堂
 美山町のバス通りに出てすぐに圏央道の高架下をくぐり北に向かう。松木橋を渡ってすぐの信号の右手に延命地蔵堂がある。堂のなかには、小さな地蔵や仏像、鐘などが並んでいる。

堂の右手には庚申塔や、石塔など多くが並べられているが、おそらく近くの道路工事で見つかったものがここに集められているようである。







 脇には小さな祠があり、中には古く風化している石仏がのこされている。

戸沢峠から秋川街道へ
 200m先で左からくる美山通りと交差する。山ノ道はそこで、右折し、美山通りを北へ向かう。
そこから戸沢峠を越えて1kmほどで、美山通りから左へ分岐していく。ようやく静かな山ノ道らしさが残る歩きとなる。
<分岐点>                  

馬頭観音堂
 すぐに戸沢の集落となり、緩やかな狭い下り坂となる。左へ入る道の角に、2体の地蔵が立ち、左の道の奥に、観音堂が建っている。




 観音堂の中には、馬頭観音が祀られていると思われるが、厨子の扉は閉まっていた。

 地蔵の右に小さな道標がある。
嘉永3年(1851)の建立で、一面には
「右 青梅 左 高尾 道」とあり、もう一面には
「右 今熊山 五日市 道  左 八王子道」とある。



道路側の石垣の先に、「鎌倉古道」という真新しい石柱が立っているが、その脇に「蚕神」と刻まれた少し大きめの石碑がある。
蚕神は、余り見ない石碑である。

重忠橋
  少し先で秋川街道にでるが、芳賀氏によると、山ノ道は川口川に沿ってあったが、新道やと住宅ができて、この先の重忠橋まで、消滅している。
秋川街道を北西に進み、次の信号のあるT字路を右折して山に向かう。左折後すぐに、川口川に沿って進むが、川の向こう側に田丸神社が見える。、少し先で川口川を渡るが、その橋は重忠橋と名付けられている。
重忠が鎌倉に向かう途中、兜に納めていた守り本尊を亡くした。その後このあたりで見つかったものを祀ったのが神社の起こりと伝えられている。

道の景色
 橋から100m程先に、老人ホーム入り口があり、その手前の道に「鎌倉古道」と刻まれた石柱がある。
 さらに坂道を進むと、東側に上川霊園がある。
『君の名は』の原作者 菊田一夫の墓があるという。

峠の.道へ
 トンネルの手前から、左の山道を上って行く。
上りl切るとT字路となっており、そこは駒繋石峠または御前石峠ともよばれている。、標識が立ち、「左 網代弁天山 右 二条城」 という標識が立ち、尾根道が左右に通っている。
山ノ道は左に進む。

 

駒繋石
 右側にフェンスで仕切られた上り道を進むと、右側斜面の少し高い位置に三角錐の石がある。
駒繋石とよばれ、この道を時々通っていた畠山重忠が、馬をつないだ石という伝説がある。






尾根道を数百m歩くが、所どころにゴルフ場越しに東西の展望が開けている。
気持ちの良い尾根歩きであった。

山を下り、トンネルの出口の左側を下っていく。秋川の南岸の網代の集落に入る。

道の景色ー網代 その1
 山田大橋キャンプ場の看板を見て下り、細い道を進む。
昔の山ノ道は、秋川に向かって真っすぐに伸びており、東側の自動車道の先にある山田大橋の下にある山田堰のあるところを、歩いて渡っていたという。 
 そこで、ここから先は、芳賀氏が記しているように、西に迂回するルートをとって秋川を渡っていく。
 少し先で、弁天橋を渡る。ここは秋川に流れ込む支流が深い渓谷となっている。






 すぐ右に禅昌寺がある。大永7年(1527)の創立という。
本堂の屋根には、北条氏の「三つ鱗」の紋がある。

道の景色ー網代 その2
 西に向かうと、右手の畑の奥に、広い屋敷を奥にもった大きな長屋門が見える。 この土地の旧家、網代家という。
 緩やかな坂を下っていき、右へ急カーブして、秋川に向かう。
 秋川に架かる網代橋をわたる。
橋に手前左には、石造りの地蔵座像がある。

 東側には、山田大橋が見える。



道標
 橋を渡った右手に、足利氏ゆかりの瑞雲寺があるが、林に囲まれており、すぐには降りれない。そのまま山田大橋の北詰まで進むと、右角に自然石の道標がある。
  「右 あじろ道  左 川ぐち 高尾山 ミち」
とある。

 自動車道を横断した後に、東側の脇道を秋川方向に下りて瑞雲寺までいく.。これが、山ノ道が通っていた道という。

瑞雲寺
 右手にうっそうと茂る竹藪を背に瑞雲寺がある。
関東管領足利基氏の母 瑞雲尼を開基として、南北朝の文和年間(1352~56)に創立されたという。
説明板によると、江戸時代の制作といわれる足利尊氏座像が残されているという。
 また「波阿弥陀仏」と彫られ、「建武二年乙亥」(1335)と刻まれた板碑が残されている。(右-説明板から))

山田大橋北詰までもどり、まっすぐ北に向かう。
間もなく武蔵増戸駅である。



  散策日   2012年7月11日   高尾駅・・・・・武蔵増戸駅
  参考   「旧鎌倉街道 探索の道   山道編」  芳賀善次郎著