*******鎌倉 「山ノ道」(山沿いの道)*********

2.相原-高尾(八王子城)


        地図(クリック): ①相原-大戸  ②大戸-高尾駅  ③高尾駅-川原宿

 

 

 横浜線相原駅で下車、南に向かう。 
駅と町田街道の間を通る「山ノ道」の前回終了地点まで100mほどである。

道の景色
 続きは横浜線の線路で遮られているため、駅から出て町田街道まで進み、踏切を渡ってから、元の道に戻る。
静かな道であり、この先 地図を見るとすぐに町田街道に合流してしまうので、束の間のゆったりとした散策を楽しむ。


地蔵の祠と石塔
  右側に小さな祠が見えてきた。
久しぶりの古道を歩く雰囲気である。



 すぐに町田街道に合流する。
500m程先右側に小高い丘が見えてくる。左側は境川が流れ岸沿いの竹藪が迫っている。右に入ると、大きな山門と本堂の屋根が見え、丘一帯が境内のような長福寺である。

長福寺
 本堂前の石碑によると、「寛政2年(1790)に開山、文化8年(1812)頃 この地に移築。天保6年(1835)から本堂・庫裏の改修工事が行われ、天保13年(1842)完成。
本堂には、杉板35枚に、狩野派長谷川雪堤によって桜、紫陽花、水仙などの草花が描かれた「格天井花丸画」が、残されている。

長福寺山門
 文久2年(1862)の完成で、欅材が使われた彫刻は、見事である。
 下の写真は、唐戸の上部にある彫刻で、「斜めに雨を呼ぶ雲の中に、龍を刻む構図で、雄大な感を出している」

長福寺 文殊堂
 境内左に、山門と同時期に完成した文殊堂が建っている。覆い屋根と鉄柵で保護されている。
 石碑の説明によると、
「設計・監督は、優雅かつ精緻を極めているとして知られる芝増上寺の山門を手がけ当寺の本堂の改築にも携わった下相原村の青木勘次郎易直とされている。」

 「入母屋総欅造り、四方四面の小堂で、軒は唐破風のある一間の向拝をつけ、三尺巾の回廊が四面を廻っている。 前柱には、勢いのある上り龍、下り龍が力強く彫られている」 という。


 

相原十字路
 少し先で南北に通る広い道路と交差する。これも鎌倉街道の一つであったという。
 右側の石垣の上に橙色の掲示板がある。「童謡 夕焼け小焼けの作詞者 中村雨紅(高井宮吉)が、八王子から移り、ここ南多摩郡堺村(相原)の中村家の養子となり移ってきたゆかりの地。」であるという。


円林寺
  しばらく進むと、右側に円林寺がある。天台宗寺院で創建は正長元年(1428)であるが、開山など詳細は不明という。
 境内には、大賀一郎博士の手により発芽した2000年以上前の「大賀蓮」が株分け・移植され育っている。
 

 寺の裏側には低い山並みが迫っている。
芳賀氏によれば、このあたりは、八王子城攻防の跡を示す六本松とか耳塚などがあったが、ゴルフ場の建設でなくなったという。「小田原北条氏が全盛のころ、この道は北条氏の関東経営重要路の一本で、大きな鐘楼があり、八王子城と津久井城などと鐘を打って連絡をとる仕組みになっていた」という。

八雲神社・大戸ばやし
 法政大学入口の信号を過ぎると、右手に地蔵堂がある。江戸時代に祀られていた地蔵菩薩を道路拡張の折、改めて移転、地蔵堂が建てられたという。
 その奥の岡の上に八雲神社が建っている。
天保年間(1830~40)から伝承がある「大戸ばやし」の、記念碑と説明板がある。

<神社前からみる境川と南の景色> 

八木重吉の詩碑
 300m程先右手に、「詩人八木重吉生家」という石碑が建つ家がある。
 昭和2年(1927)29歳の若さで死んだ詩人で、家の前に、詩碑がある。

 「素朴な琴」の一節で、
「このあかるさのなかへ、ひとつの素朴な琴をおけば、秋の美しさに耐えかねて、琴はしづかに鳴りだすであらう 八木重吉」
とある。

大戸(おうど)の観音堂
 すぐ先の大戸の信号で、町田街道から離れ左折する。少し進んだ右手に、大きな鐘楼門が見え、その奥に観音堂がある。

 境内に立つ説明板の「大戸の地名」によると、「ここを通る街道は、『鎌倉街道山之道』と言われ、この場所から山路への入口であり、(地図参照→クリックすると拡大)」また、「横山之庄の相州口として大木戸番所が置かれたと伝えられ、大木戸をいつしか『大戸』と呼ぶようになった。クリックすると拡大
この番所のかたわらに『了心庵』という草庵があり、境内に観音堂が創立されたのが慶長元年(1596)で、当時から大戸の観音様と呼ばれ旅人宿などで、賑わった」という。
 
 鐘楼は、八王子八景の景勝地として知られ「大戸の晩鐘」と歌われたという。(鐘は戦時中に供出された)


≪ 観音堂境内の石仏、石塔など ≫

   <六地蔵> 
 頭部は後から修復された、と思われる六地蔵

ここから北に向かったの権現谷の千人塚(後述)から移したものという。

  <馬頭観音>  <地蔵庚申塔>  <秋葉大権現>








この馬頭観音は、宝暦2年(1752)建立で町田市内で最古のものといわれる。

  <境内南東角にある道標→>

  南側:「南 相原駅 橋本小山方面」
  東側:「北 浅川駅高尾山方面」
  他の面は 不明
    


 道標の脇を通って、細い道を抜け、町田街道に合流する。

権現谷集落 ・恋路の坂
 法政大多摩キャンパスへの入口を過ぎた先の左手に、上相原病院のサインがあり、その奥の山あいに小さな集落の屋根が見える。権現谷の集落で、その丘陵に「千人塚」という塚があったという。

 そのまま町田街道を北に進むと山に入っていくが、その坂は「恋路の坂」と呼ばれている。
 江戸末期八王子千人頭であった原 某の娘が家来と不義の恋仲となったので密にこの地まで連れ出し首をはねたことから、里人はあわれに思い恋路の坂と呼ぶようになったという。
 権現谷の千人塚は二人の供養塚で、六地蔵が立っていたが、今は観音堂に移されている。

 芳賀氏によると、権現谷集落に西の山あいには、甲州街道沿いの梅ノ木平に続く小道があり、それも旧鎌倉街道といわれ、江戸時代、高尾町の西の駒木野に関所があり、関所破りや取り調べを嫌う人は、旧甲州街道の途中から梅ノ木平に出て権現谷や大戸に抜けたという。

山沿いの道から高尾へ
 町田街道は間もなく峠を越え、八王子市へ入る。拓殖大学南入口の信号機のあるところで、町田街道から分かれ左の道に入っていく。
右を流れる湯殿川が見え隠れするうちに、八王子バイパスの高架下をすぎて、100m程先の左山道に入っていく。
ようやく古道らしさを感ずる道となるが、少し歩くと右下に町田街道を見下ろす眺めとなる。そこから先は、住宅地の中の道となり、道なりに北に進む。




 200m程先の三叉路で西に進み、坂道を下る。
 実践学園のグランドを左手に見ながら進み、100mで右折し、北に向かって高尾駅にむかうのが、「山ノ道」の道筋である。

 その前に 秀吉の本陣となった寺があるということで、寄り道をする。

高乗寺参道入口・初沢城
 北に向かわずさらに西に200m程行くと、初沢川にぶつかる。そこに大きな高乗寺の石柱がある。
川沿いに緩やかな坂をのぼっていくが、川の左手(東側)の山が、すぐに迫ってきている。
 この山に初沢城跡があるという。
ここは、八王子城と小田原城との連絡城であり、城主は大江広元の子孫の片倉城主 長井氏が築き、戦国時代北条氏に属した」という。(芳賀氏)

高乗寺
 初沢川を数百m上っていった先に高乗寺がある。
参道入口の案内石碑および本堂にある説明板によれば、応永元年(1394) 長井大膳太夫高乗の開基で、長禄元年(1457)に現在地に移転、永正2年(1505)に改めて開山されたという。
 天正18年(1590)秀吉が八王子城攻撃時、この寺に本陣をおいたという。


 もとの道までもどり、北に進んで、高尾駅構内を抜けて 本日の目的地である八王子城跡をめざす。

八王子城跡へ
<南浅川>  高尾駅の北口から、駅前を流れる南浅川を越えて、丘陵を上って行く。川の左手遠方に広がる山が高尾山である。
 交差点先の緩やかな坂道から後ろを振り返ると、先ほどの初沢城のあった山が見える。

 坂の右手おくには、大正天皇の「多摩陵」、昭和天皇の「武蔵野陵」のある武蔵陵墓地が広がり、この左手には、多摩森林学園の広大な敷地が広がっている。

 丘陵と南浅川流域の一帯は、永禄12年(1569)に武田信玄の武将・小山田信茂と滝山城主 北条氏照の重臣・横地監物が戦った廿里(とどり)古戦場跡である。

中央道の高架下を過ぎると八王子城跡への道が西に向かっている。

山ノ道の散策はここまでとし、このあとは、八王子城跡を訪れる。

八王子城の歴史

<<概要>
北条氏の本拠 小田原城の支城で、関東の西に位置する拠点であった。
北条氏康の三男 氏照が元亀3年(1571)から築城し、天正15年(1587)に本拠とした城で、中世の典型的な山城である。

<歴史-築城>
①天文15年(1546) 北条氏康は河越合戦で扇谷上杉氏を滅ぼし、山内上杉氏の勢力を上野に後退させて武蔵国をほぼ手中に収め、武蔵の領主たちは北条に下りその傘下となった。
②高尾(八王子城跡)の約10kmから北東に位置する滝山城の大石定久も、その一人で、氏康の三男 氏照ははその養子となり、滝山城に入った。
③永禄12年(1569)武田軍は関東に侵入、滝山城の対岸の拝島付近に布陣し三ノ丸まで攻められ、また滝山城の外では、前述の廿里の戦いでも苦戦、
④氏照は滝山城の限界を感じ、そこを撤退し一層堅固な山城を築城し、八王子城に本拠を移したのであった。

<落城>
①天正18年(1590)小田原攻めの一環として、前田利家、上杉影勝、真田昌幸ら15,000の軍勢に攻められた。
②守る北条軍は16才から60才までの男子を招集し、神官や僧侶までも動員したが、5,000~10,000位だったようである。
③城主の氏照は手勢4,000人を率いて小田原城に駆けつけており、八王子城内には、城代の横地監物が最高指揮者として本丸を守り、二の丸は中山家範羅、三の丸は狩野一庵、他に金子家重などが守りを固めた。
④6月23日の前夜から大手口、北側の絡め手から侵攻、その日のうちに落城した。
⑤小田原城ではその後、7月11日には、氏政・氏照は切腹した。
⑥八王子城は廃城となり、家康は武田氏の旧家臣を八王子に移して国境守備と治安を図る為の組織、千人同心をおいた。

宋閑寺
 約300mほどで、右手に宋閑寺がある。
延喜16年(916)京都・奈良で有名だった名僧華厳菩薩がこの地に巡行、この先、右手の北条氏照の墓のあるあたりに庵を造り住み、城山に牛頭天王の五男三女の八王を祀ってこの地方一帯の鎮守とした。これが八王子地名の起こりという。
北条氏照は、永禄7年(1564)に寺を再興したが、八王子城落城の時に全焼、その後文禄元年(1592)に氏照の法名宋閑をとりこの地に再興された。
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北条氏照と家臣の墓
 300m先から右奥への山道をすすむと、説明板が立つ。
墓は元禄2年(1689)に八王子城落城時に自害した武将中山家範の曾孫中山信治が建てた供養塔で、中央が氏照、両脇が中山家範と、信治の祖父の墓という。
小田原駅前に氏照の墓が残っている。
その奥にも多くの墓や五輪塔などが建てられている。

道の景色
 ←西の方角に見える八王子城のある城山。標高は445m。

途中の民家のちょっとしゃれた竹の塀と石垣→ 

城山山頂までの景色
 間もなく麓に到着、そこには八王子跡管理棟が建てられている。
左側の城山川に沿って進むと居館区域で、右側の山に入っていくと城の中心で本丸のあった城山の山頂となる。
まず、山頂目指す。

 <金子曲輪
 金子三郎右衛門家重が守備していたという金子丸・・・尾根をひな壇状に造成して敵の侵入を防ぐ工夫がされている。
<八合目付近>
<山頂手前からの眺望> <八王子神社>


<松本曲輪>
中山勘解由(かげゆ)家範が守っていた





<本丸跡>
横地監物吉信が守っていた










御主殿への道
 管理棟まで戻ってから、今度は城山川に沿って緩やかな坂を上って行く。
川を渡ると左側一帯がきれいに整備されいる。すぐに「大手の門跡」の説明板。礎石や敷石が発掘されたという。

 続いて御主殿へ入る道として使われていたという「古道」を進むと、城山川に架かる「曳橋」がある。城山川の両岸の斜面に、橋を架けるための橋台石垣が発見されたことから、曳橋を想定し、復元したもの。 

御主殿の虎口
 木橋を渡った位置から御主殿内部まで高低差約9mを「コ」の字形に折れ曲がった階段通路-25段となっている。

<築城当時の石垣>
 城山の山中から産出する砂岩を利用している

御主殿跡
 北条氏照の館跡。
落城後は徳川の直轄領、明治以降は国有林であった為、落城当時のままの、礎石、建物や水路の跡が見つかっているという。

御主殿の滝
 天正18年(1590)、落城時に御主殿にいた北条方の婦女子や武将が滝の上流で自刃し、次々と身を投げたといわれている。



  散策日   2012年6月15日   相原駅・・・・高尾駅
  参考   「旧鎌倉街道 探索の道   山道編」  芳賀善次郎著