*******鎌倉 「山ノ道」(山沿いの道)*********

 1.町田-相原


      地図:  ①町田-木曽東  ②木曽東-矢部  ③矢部-相原  ④相原-大戸

 


 
 今まで、鎌倉古道の「上の道」「中の道」「下の道」を歩いてきた。
鎌倉を起点に、高崎、古河、松戸へと、ひと通り終了したのを機会に、これら3つの主要のルートに派生する多くの脇道の探索をさらに進めることを予定していたが、その前に、芳賀善次郎氏の著書に「山の道の探索」があり、3ルート以外にもう一つ 「山ノ道」がまとめられており、このルートを探索することにした。

芳賀氏によると「山ノ道」は、『関東西部の丘陵地帯に古くから使われていた主要道路で、群馬県では上州道、秩父地方では秩父道、奥武蔵・奥多摩地方では山根道などと呼ばれ、群馬県から先はさらに碓氷峠から信州に続いていた道』 という。
 
芳賀氏「山ノ道」は、群馬県 高崎市/藤岡市をスタートして南下して、町田で「上の道」に合流するルートで書かれているが、横浜を拠点に探索を進めていく関係から、町田から歩を進めることにした。




 鎌倉から町田までは、境川沿いに北に進んでくる道が「上の道」であり、「上の道」は町田からはそのまま北に進み、菅原神社のわきを通り、小野路ー府中方面へと進む。
これから散策する「山ノ道」はここから 北西に八王子方面へと進む道で、近世には絹の道として栄えて、その名残の残る道でもある。

木曽町-矢倉沢往還と交差


<南へ・境川へ方面>
   
<北へ・・・一里塚方面>

       
 小田急町田駅の西口で降りて、駅前ロータリーからバス道路を西に向かう。今の町田街道とJR横浜線/境川との間を進んでいくことになる。
アパートの広がる住宅街となり、左手少し奥には境川が流れる。その先で両側に広がる境川住宅を過ぎると緩やかな上りとなり、左側にTUTAYA がある交差点となる。

 交叉する道は、江戸時代の矢倉沢往還で、北に位置する「上の道」の小野路から分かれてきた道で、このあたり(木曽町)は当時の宿場町であったという。

 矢倉沢の地名は、南足柄市の足柄峠付近に地名が残っている。
矢倉沢往還は、8世紀ごろから近畿と東国を結ぶ官道として「足柄道と呼ばれて使われていた。
 箱根越えの東海道が整備されてからは、矢倉沢往還という名前での街道として東海道の脇往還として使われた。

また江戸初期には家康の遺骸を日光東照宮に移すために整備され、東海道の平塚から、厚木-座間-木曽-小野路-府中へと家康の柩が通ったことから「御尊櫃御成道」と呼ばれている。
江戸時代の半ば以降には大山阿利神社へ参詣する大山講が盛んとなり、「大山道」とも呼ばれた。

木曽町の一里塚
 交差点から矢倉沢往還を北に少し(150m位)入ったところに、一里塚跡がある。左側に小さな塚が残り、上に祠があり、説明板が立っている。
 説明板によると、西側の塚の跡で、塚の上の祠に祀られているのはは、武蔵御嶽山の大口真神という。
 大山道の木曽の北に位置する小野路町にも、一里塚が残っている。
 (小野路宿には「上の道」が通っていた)

道の景色
 交差点から先は、2km以上にわたって住宅地や商業地帯が広がっている広い道路の歩道を歩く。・・・今まで歩いた鎌倉古道の面影が全くない道で、ただひたすら歩くのみである。 
芳賀氏の地図によると途中の町田総合高校を500m程過ぎた先で、古い道が消滅しているようであるが、都道57号線と交差する付近で合流するようである。
 左側に蛇行してきた境川が見え、すぐに左にカーブしているが、新しく造られた広い道路はそこまでとなり、急に細い道となる。
 古道を歩く雰囲気となり、すぐ先で神社の境内に突き当たる。

箭幹(やがら)八幡宮
 細い道は鳥居の先で神社境内の中ほどににぶつかる。
左側には長い参道があり、右手に神社の建物・・・右に鐘楼、左に神楽殿、中央石段上に随神門があり、その奥に拝殿が続く。
 一見して由緒ある神社である事がわかる。
 町田市史などによると、推古24年(816)勅令により勧請されたと、「八幡宮記」にあり、平安時代中頃、源義家が戦勝を祈願し神社を再建したという伝承がある。

 「矢部八幡宮の獅子舞」のが1570年代の戦国時代から始まり、町田市の無形文化財に指定されているという説明板がある。
矢部八幡神社とも呼ばれているようだが、神社の公式HPは箭幹八幡宮と記され、また本殿脇の由緒や、本殿の扁額も「箭幹八幡宮」
である。

<随身門>
 本殿及び随身門は、享保5年(1720)に再建されたものという

  <拝殿


八幡宮の西の石仏
 長い参道と本堂の間を、横切る形となって神社の西に出ると、古道の面影を残している石仏がひっそりと立っている。
 古い住宅地を抜け、道なりにしばらく進むと町田街道に合流する。


 町田街道は交通量が多い道路で、国道16号線が渋滞しているときなどよく迂回したことがある道である。
 合流してから2kmほど、歩道を歩く。
小山郵便局前の信号のある交差点を過ぎたら、町田街道から離れ、右に入り、しばらくの間、静かな住宅地の中の道を歩く。

常夜燈

 500m程先に少し広くなった四辻があり、左側角に常夜燈、反対側に石塔が建っている。
 常夜燈の隣に「献燈修復之記」と彫られた石碑がある。『沼町内会は、歴史あるこの献燈(慶応元年(1865)設立)を町民の総意によって長く後世に保存するため、修復を行う…略…』とある。
 その隣には石仏が張られた石塔がある。







<←反対角の石塔>

200m程進むと、町田街道に合流する。500m先の小山市民センターを過ぎて再び右への細い道を進む。
京王相模原線の高架下をくぐり、新しくできた多摩ニュウ―タウン通りという自動車道を横切ってから、また町田街道に合流する。
 
 芳賀氏の「山ノ道」に、この付近に北側に「環状積石遺構」があるということで、捜し歩いたが、見付けることができなかった。
 

 ここから、広い道が北の丘陵に向かっているが、この道は幕末から明治にかけて「絹の道」として使われていたという。 
鎌倉古道「山ノ道」のルートからははずれるが、旧東海道の保土ヶ谷浅間町の追分から「八王子
道」が分岐しており、「絹の道」は当初より関心のある道であった。

この北、鑓水(やりみず)方面に、「絹の道資料館」があるということで、歩いていくには約2kmの距離があるので、後日、車で訪問した。

《絹の道資料館へ》
クリックして拡大  左の写真は、絹の道資料館の先にある峠の入り口に建てられた案内板である。(クリックすると拡大)

 町田街道を西に行き、「多摩ニュータウン入口」交差点の次の信号(町田西郵便局の手前)を右折して、北に向かう。
坂道を上った先には、大規模な住宅ができあがっている。
車でいくと、昔の絹の道を辿るが難しいので、鑓水中学校の西側を目指して進む。
 広い四辻を横切って大栗川の谷間に緩やかに下っていく。

小泉家屋敷
 左手に茅葺の家がある。
小泉家の主屋で、建築面積112平方mで、明治11年(1878)に再建されたものである。
説明板によれば、木造平屋建入母屋造、茅葺、田の字形四間取りで、この地方に旧来から見られる典型的な民家建築、という。

 右側には新しい住宅が並ぶ。
その先に柚木街道の「谷戸入口」交差点を過ぎて、大栗川沿いの道をすすむと、橋を渡ってくる道と交わる。左から来る道と交わる地点に橋が架かる。左側に道標がたっている。

八王子道標
 御殿橋といい、片方の欄干には「絹の道」とある。
その角に古い道標が建っている。

一面には「慶応元年 武州多摩郡鑓水村」とある。 (1865年)
右面: 「此方 はし本 津久井 大山」
左面: 「此方 はら町田 神奈川 ふじさわ」
一面: 「此方 八王子・・・・」

と刻まれている。

絹の道と資料館
 右の丘陵地帯にのぼっていくと、資料館がある。
パンフによると、この場所は鑓水の生糸商の八木下要右衛門の屋敷跡という。
 生糸は横浜開国後輸出の中心となっていった。 八王子近郊や、群馬、山梨、長野等の養蚕農家で生産された生糸は、八王子宿に集められ、この道を通って横浜に運ばれたが、その取引で活躍したのが鑓水の商人であった。
 この鑓水商人の歴史や幕末から明治にかけての生糸貿易にに関して、詳細に展示されている。

峠への道
 資料館から更に坂を上っていくと右に入る山道との分岐点にさしかかる。庚申塚や、石塔や石碑が残されおり、地図と説明板が建っている。
山道へは車が入れない。
この先の道了堂が建っていたという大塚山公園までは、約1kmの山道で昔の面影をよく残しているというが、その散策は次の機会にとっておく。、

*****「山ノ道」を続ける******

 町田街道は相変わらず交通量が多く、歩道をひたすら歩く。右側はなだらかな丘陵で、左側の(住宅が並び見えないが、)境川に沿って進んで行く。

 国道16号線を相原交差点で横切って進むとすぐ左手に果樹園がひろがる。
反対側 斜め前の細い道を進むと長い石垣と白壁が続く清水寺がある。

清水寺(せいすいじ)
 外回り、境内の規模などから随分歴史のある寺かと思ったが、創建は寛永元年(1624)という。
境内入口左には池があり、階段を上がると鐘楼、急な石段の奥に、水屋、観音堂と続いている。
いずれにも、精緻な彫刻が飾られており、非常に見ごたえのあるものである。
 

観音堂
 観音堂は、幕末に当時の名主であった青木勘次郎易道ら村民を中心に整備されたという。
 説明板によると、嘉永3年(1850)再建。

<軒唐破風(のきからはふう)の向拝>










<向拝 正面 龍の彫刻>















<向拝と堂本体とのつなぎ・・・雲龍の丸彫り>


<尾垂木つき三手先斗栱(ときょう)・・・・龍および獏形の彫刻>









<鳳凰>

水屋
 水屋は天保8年(1837)ごろの再建という。







鐘楼
 鐘楼は天保13年(1842)の再建。





観音堂から見た景色
 観音堂から南に景色は、相模線、横浜線の橋本駅方面のビル群が見渡せる。

青木家屋敷
 少し先で八王子バイパスの高架下をくぐって200m程進んで、町田街道から離れ右に入ると、旧道が続いている。
すぐに黒塀の屋敷がある。
 説明板によると、「青木家は江戸時代後半から大きく屋を伸ばし幕末から明治期にかけての歴代当主は、豪農として地域社会の教育振興、勧農などに貢献した。」という。

 「南にの表門を構える主屋は、文久2年(1862)の建立で、書院座敷を有する地方豪農の大型民家の特色を持っている」 という。


 旧道の趣のある道を200m進むと、横浜線にぶつかり、北に向かうと相原駅がある。



  散策日   2012年4月13日   町田駅・・・・相原駅
  参考   「旧鎌倉街道 探索の道   山道編」  芳賀善次郎著