熱田(宮宿)- 津島 ・・・旧東海道の脇往還=佐屋街道をゆく(その1) 

   地図
①神宮前-烏森   ②烏森-万場  ③万場-神守  ④神守-日比野


 宮宿から桑名宿の間は、通常は海上七里をを船で渡った。
「七里の渡し」といわれ、満潮時には陸地沿いの七里を渡って約二刻(4時間)の船旅であったが、干潮のときには沖を渡るので、十里位になることもあったという。  船賃は、文化の頃(1800年頃)は54文(約1,620円)であったという。(ちなみに 大井川の渡しは、水深が股までの「股通」で48文であった)

 海路を嫌う旅人は、陸路で佐屋街道を西に向かい、6里をかけて木曽川左岸の佐屋へ出て、そこから川船で3里下って桑名に出た。
 佐屋街道は、寛永3年(1626)と11年(1634)の三代将軍徳川家光の通行を契機に整備が進められ、寛文6年(1666)には幕府の道中奉行が管理する官道に指定された。東海道の脇往還として非常に賑わい、さらに、伊勢参り、津島詣での人々でも賑わった。オランダ商館のシーボルトや14代将軍家茂、明治天皇も、この道を通行している、という。

 宮宿の伝馬町の西にあった三叉の道標の地点から北に向かい、熱田神宮の西側を進むルートである。
今回は、JRの熱田駅で下車し、熱田神宮の西側を通る国道19号線沿いにある誓願寺からスタートる

誓願寺・源頼朝出生地
 熱田神宮の北西にあたる歩道沿いの山門脇に説明板があるが本堂・境内などはよくわからない。
この地は平安時代末期、熱田大宮司藤原氏の別邸があったところで、藤原季範の娘 由良御前は源義朝の正室となり、久安元年(1147)熱田の実家に帰り、この別邸で頼朝を生んだといわれる。
享保2年(1529)その跡地に誓願寺が建てられた。

断夫山古墳
 国道19号線を北に進むと熱田神宮公園内に断夫山(だんぷさん)古墳がある。
「東海地方最大の前方後円墳で、全長151m、前方部の幅116m・高さ16.2m、後円部の直径80m・高さ13mの規模を誇る。
この古墳は6世紀初め、尾張南部に勢力を持った尾張氏の首長の墓と考えられている。」という。

青大慈寺と鉄地蔵
 200m程先に青大慈寺の山門がある。静かな雰囲気の境内で、案内板によれば、宝暦6年(1756)この地で生まれた「きの女」が開いた如来教の本山という。その説法の速記録は「御経様]と呼ばれ、名古屋弁そのままで語られる特異な経典という。
すぐ先に地蔵堂があり、等身大の鉄地蔵菩薩立像が安置されている。室町時代の作といわれる。

佐屋街道道標
 しばらく北進して金山駅前の交差点に行く。
南西角に高さ約160cmの佐屋街道道標が残されており、案内板がある。「文政4年(1821)に佐屋街道の旅籠仲間が、伏見通りから尾頭橋へ抜ける佐屋街道への分岐点にあたるこの地に建てたもの」という。
北-名古屋、西へ-佐屋、南-熱田 への
「三所の境」と呼ばれた。
   「東 右なごや 木曽 海道」
   「西 右 宮海道 左 なこや道」
   「南 左 さや海道 津しま道」
   「北 文政 辛巳年 六月 佐屋旅籠屋中」

ここから、岩塚→万場→神守→佐屋の宿場に向かう。

道景色-堀川と尾頭橋通

 ここから、岩塚→万場→神守→佐屋の宿場に向かう。間もなく堀川に架かる尾頭橋である。

唯念寺   一里塚
 
 新幹線のガードをくぐると、唯念寺がある。
歩道沿いの生垣の内側に「津島街道 一里塚」の石柱が立つ。
熱田からの最初の一里塚で、五女子の一里塚と呼ばれた。

道景色-五女子交差点

               
 すぐに「五女子(ごにょうし)」交差点で、その先には二女子郵便局もある。
かっては一女子村から七女子村まであったという。その由来は、この地の裕福な人が7人の娘を近くの村に嫁がせた、という話がつたわっているが、他に この地の湿地帯の新田の開墾地につけられた番号ではないかという説もある。

佐屋街道石柱と説明板
クリックすると拡大 郵便局のすぐ先に中川福祉会館があり、その前に、新しく建てられた佐屋街道の石柱と、地図のある説明板がある。
ローマ字で書かれた地名が入っている地図で、珍しい。
この先の七宝焼きの道標のローマ字の影響か?

道景色
明治天皇御駐蹕蹕(ちゅうひつ)之所
 
長良橋からの名古屋駅方面

八幡社
 近鉄の烏森駅のガード下を過ぎて
100m程先の北寄りにある八幡社に寄
った。(道標を探しに)
 公園も兼ねている広い境内で、拝殿には囲いがなく、開かれた神社という感じである。
これから先の街道沿いのこのクラスの神社が、みな囲いのない拝殿であるのは興味深い。

柳街道 追分

 八幡社から200m程先に烏森郵便局があり、その角が名古屋中心部と西南部を結んでいた柳街道の追分であった。

ここにあった道標は、先ほど見てきた八幡社の本殿前の常夜灯の台座に利用されている。→
「左 なごや」 と刻まれている。

岩塚宿 景色
 しばらく進むと岩塚町にはいる。 
年代を経た格子造りの家が所どころにあり、その先の光明寺の前に「岩塚宿跡」のサインがある。
西を流れる庄内川を挟んで、対岸が万場宿であった。
佐屋街道が開かれた当時の宿場は、万場と佐屋だけであったが、その後、岩塚宿と万場宿が月の前半と後半を分担してあわせて一宿の役割を果たしてきたという。(本陣1軒、旅籠7軒)
光明寺の向かいあたりに本陣があったらしい。

八幡社  光明寺
 八幡社の囲いのない拝殿の奥にある本殿は以前は茅葺だったようだ。
隣が光明寺である。


岩塚城址(遍慶寺へんきょうじ)
 光明寺の東の細道を南に行くと遍慶寺(へんきょうじ)があり、門前に「岩塚城址」と刻まれた大きな石柱が立っている。
 室町時代、尾張守の斯波氏の家臣であった吉田治郎左衛門重氏が築き、その子 守氏が居城したという。

光明寺前までもどる。
旧東海道は、西に進んで、庄内川を渡し船でわたる。
現在は、万場大橋をわたるが、その前に、北側にある七所社に立ち寄る。
土手まで行かずに少し前の道を右にはいり、高速道の下をくぐる。(要注意→土手沿いの道からは七所社へは行けない)

七所社
 延喜式にのる歴史のある神社で、由緒によれば、神社に祀られている神鏡に元慶8年(884)の銘があることからこの頃には創建されていたという。
熱田の七神をまつることから付いたという。
旧岩塚城主の吉田守重が、応永5年(1425)に社殿を修造したという。

境内には、奈良時代初期の古墳と伝えられる三つの古墳がある。
岩塚の地名の由来ともなっているという。


周囲に濠をめぐらせている古墳。->


本殿の隣には日本武尊が東征のおり,腰かけた石がある。

 鳥居の前には、尾張三大奇祭の一つ、きねこさ祭が陰暦1月17日に行われる、という詳細な説明板がある。

万場大橋
 七所社のまえから、自動車道の南側の歩道まで階段をあがり、高速の高架が上を走る万場大橋を渡る。
渡りきった先、庄内川の土手の斜面に秋葉神社が見える。
 
 そこには、万場宿跡の説明板がある。秋葉神社はもとは、ここから100m程の南にあり、そこが万場宿の東端であり、渡し場があったという。

秋葉神社
 新しく整備された境内であり、囲いのない拝殿と小さな本殿が建つ。土手側には安永6年(1777)の秋葉山常夜灯がたち、となりに明治31年と刻まれた橋柱がある。
天保13年(1842)の常夜燈もある。
 土手沿いの道を南に少し進み、そこからまっすぐ西に向かう広い道が佐屋街道万場宿の道である。

万場宿景色
 宿場の機能をひと月の半分を岩塚宿と分担していた万場宿は、本陣1軒旅籠10軒という規模であった。所どころに当時の面影の残る家並みがある。

国玉神社
 突き当り手前右に国玉神社がある。案内板によれば、『創建は古く「尾張誌」によれば、尾張大国霊神社(現在の稲沢市国府宮)より勧請したという。「延喜式神名帳」に国玉神社、「本国神名帳」には従二位国玉名神と記載されている式内社である。』
 神社の角は、万場宿の高札場となっていたという。

高札場跡
 角には地蔵の祠があり、3体の地蔵が並んでいる。年代は不明であるが、彫の整ったもので、カラフルなよだれかけをしている。今まで見てきたお地蔵さんは赤いよだれかけが一般的だったが、これから先の佐屋街道沿いのお地蔵さんは、ほとんどがこのようなカラフルなものをまとっており、興味深い。

光圓寺
 
 そこから街道は右に曲がる。神社の向かいは、光圓寺で大きな石燈籠の先に立派な山門がる。
この山門は、織田信長と斎藤道三が会見した場所と伝わる名古屋七間町の聖徳寺から移築したといわれる。
 広い境内には真新しい三重塔がそびえている。

浅間神社
 街道は北西に向かい、高速の高架下を抜けると、小公園があり、奥に浅間神社がある。ここの拝殿も囲いがない。
神社の前を西に進み、、次の角を北に向かって砂子橋で新川を渡る。
100m程過ぎると、十二所神社の鳥居と
大きな常夜燈があり、参道が北に延びている。
 

高札場跡
 鳥居の先を右にカーブしたあと、旧街道らしい静かな道を200m程進むと、変形の四つ角がある。街道はそこから左に曲がる。
 その角の民家のブロック塀の角に「高札場跡(佐屋街道)」という細い標柱が立っている。

地蔵堂
 向かい側の角には、建物には似合わないほど立派な屋根を持つ地蔵堂がある。
カラフルな頭巾とよだれかけである。


 

道の景色
、高札場跡を過ぎてしばらくは落ち着いた家並みをすすむ。右手に小さな地蔵の祠がる。
ここは地蔵坐像で、宝珠を持っている。チェック柄の落ち着いた衣をまとっている。

稲荷社
 すぐ先に、広い境内のある稲荷社がある。
近所の人がぎんなん拾いをしていた。、ここは、囲いのない拝殿と、本殿の間に幣殿が建っている。

従是馬嶋明眼院道 道標跡
 稲荷社の西の角に、佐屋街道の標識の上に「道標跡 『従是馬嶋明眼院道』 大治南小学校200m」 という標識がある。
馬嶋の明眼院は、もともと眼病の治療で名声の高かった寺で、「明眼院」という寺号を与えられ、江戸時代にはかなりの規模を持ち多くの患者が馬嶋に訪れたという。
街道にあった道標がそこに移されたようだ。

七所社神社
しばらく行くと左手に神社の林が見えてくる。
七所社神社と刻まれた大きな石柱が立ち、境内も広く 拝殿―幣殿―本殿の建物が並んでいる。
創建・由緒とも不詳。

一里塚跡
 その神社の西端の道の反対側の民家の前に、「旧一里塚跡(佐屋街道)」という標柱が立っている。
注意しないと見落とす。

八釼社
右に緩やかにカーブする道をしばらく進み、、三叉路で東西に走るバス道路に合流した先に八釼社がある。
熱田神宮の第一摂社の八剣宮を勧請したものという。
 福田川を渡り 七宝町に入る。
            福田川→

七宝焼原産地道標
数百m先の交差点の北西角の広いスペースの中に建てられた石柱には「Shippoyaki Toshima
七寶焼原産地 寶村ノ内 遠島」 「従是六町」 「明治廿八年八月建之」 とある。
 案内板によれば、「七宝焼(尾張七宝)は、江戸時代末に服部村(現名古屋市中川区富田町)の梶常吉により創始され、七宝町の町名の由来ともなっている。七宝町においては、当時の遠島村の林庄五郎が、梶佐太郎より技法を伝授され、その後、遠島村を中心として広まった。・・・明治時代には、七宝焼は輸出の花形であったこと、外国人が直接買いつけに来ていたことなどから、このようなローマ字の道標が建てられたと言える。」という。

義経弓掛けの松
 蟹江川を渡って50mほど、最初の細い道を左手(南)に入る。
道右側の民家の2~3軒先の金網フェンスの上に小さな案内板が掲げられている。(注意して見つけないと見落とす)
「地元の言い伝えでは、義経が兄の命により京都に向かう途中、この地で軍勢を休ませ、側にあった松に弓をかけたことから弓掛けの松と呼ばれ地元で大切にされた。今の松は五代目である」という。

神守一里塚
 約1km先、工業団地を過ぎ、神守町の交差点を超えた先に大きな存在感のある木が見えてくる。
案内板によると、「昔は北側の塚が東西7.3m、南北6.7m、高さ1.5mの小山で、ムクが植えられ、南側の塚は長径5.5m、短径4.0m、高さ、1.4mの山にエノキが植えられていたという。佐屋街道の一里塚の中で最後まで街道の両側の塚が残っていたのはこの一里塚であったが、今は北側が残っているだけである」

神守宿場跡
 200m程先の交差点で右折する。まっすぐ北に向かう道の所どころに昔の面影を残す家並みがある。突き当りのT字路で左折する。そこに宿場跡と書かれた標柱がある。
万場の宿と佐屋の宿の間があまりにも長かったため、正保4年(1647)に「神守の宿」が定められたという。
この角の東側に位置する憶感神社を中心に旅籠や商家が並んでいたという。

吉祥寺(きっしょうじ)
角から右に入ると六角の形をした地蔵堂がある。
石碑の縁起によると、この延命地蔵は宝暦8年(1758)に吉祥寺に祀られたあと、文政3年(1820)にこの六角堂が建立されたという。その先に吉祥寺境内がつづく。 
その南が神社である。

憶感(おっかん)神社
 大きな石柱には「郷社式内憶感神社」と刻まれているように、「延喜式神名帳」に記載されている古社である。鳥居の脇の常夜燈には文政6年(1823)とある。
正保4年(1647)に「神守の宿」の開設に伴う集落移転によって、北神守村内から慶安元年(1648)に今の地に移ったという。 「おかみのじんじゃ」とも言われている。

宿の景色
 もとの角に戻り、宿の道を西に進む。神守宿には 本陣2軒、旅篭12軒、人口812人、家数184という。

このあたりに本陣や問屋場があったという。
往時の姿が残る家並みが続く。

穂歳(ほうとし)神社
 少し先の穂歳神社には、拝殿と幣殿の間に、永代常燈明 宝暦8年(1758)寅六月造之 ときざまれた常夜燈がある。

道の景色
 西に進むと北側にはと田園風景が広がる。数百メートルでバス道に合流し、その先の日光川にかかる日光橋を渡る。
真新しい秋葉神社が右側にある。

道の景色
 にぎやかな町並みとなる。500m程先の交差点角に「式内 諸鍬神社」の石標が建ち、横に獅子舞開祖 市川柳助碑がなあらんでいる一画がある。

しばらくすすんで、埋田町の交差点を過ぎ最初の道を左折し、すぐ先の細道を西に進む。(バス通りに並行する。)

神社と石碑いろいろ
 すぐ右側に小さな神社があり(名前不明)、境内一番憶に小さな社が建つ。

右には「明治天皇御小休記念  椿 」の石碑がある。


左には「旧東海道追分 津島神社一ノ鳥居趾」の石碑が建つ。

埋田追分道標
 間もなく道幅が広くなるところに、道標-常夜燈-鳥居(根元部分)の順に史跡が並んでいる
ここは左へ向かう佐屋街道と右に津島神社への道と分かれるところで、江戸時代に末期には茶店などもあり大いににぎわったという。
 道路脇(道が広くなるので中央に近い部分に位置する)に比較的大きな道標が立つ。
  
正面の東面には『右 つしま天王みち』
  道路側北面には『左 さやみち』
  反対側南面には『東 あつた なごや道』

津島神社鳥居と常夜燈
 津島神社の一の鳥居があったが、昭和34年の伊勢湾台風で倒れ、今は台石のみが残っている。
常夜燈は天保5年(1834)とある。

道景色
追分から左へと進む佐屋街道は開発によってはっきりしないようであるが、この先の愛宕神社付近まで近いルートを辿る。
200m程先を左折し、まっすぐ南下して津島市民病院から500mほど進んでから西に向いている細道に入る。
左側に愛宕神社の茂みが見えてくる。

愛宕神社
 天照皇大神宮と愛宕大権現の二柱を祀る愛宕神社で、コンクリート製の拝殿である。

佐屋街道はここから南西に進み、新しくできた道路を超えてさらに名鉄線日比野駅方向に向かう。

本日の散策も終りに近く、最後に寄り道して100mほど東にある八幡社を訪れる。

日置(へき)八幡宮
 由緒によれば、「養和元年(1181)に創建された古社。源頼朝がここ日置庄園を京都六条左女牛八幡宮(現在の若宮八幡宮)に寄進し、その縁でこの日置の里に若宮八幡宮を勧請した」という。  案内板によると、ここの「木像獅子頭は建長4年(1252)の銘が確認されており、年記銘のあるものとしては国内最古の獅子頭」という。

蕃塀(ばんべい)について
←日置神社:門と本殿の間にある蕃塀
本日の探索で気が付いたことがある。・・・・七所社をはじめとして、街道沿いの比較的大きな神社には鳥居と拝殿の間に衝立上の塀のようなものが建てられている。
ネットで調査して、『蕃塀(ばんべい)』であることが分かった。
 <七所社>           <憶感神社>
  

これは参道上で拝殿の前にある短い塀で、「不浄除け」「透垣」などとも呼ばれて、外からくる不浄なものを防ぐためのものといわれる。
尾張地方でよく見かけられ、伊勢神宮の蕃垣の影響を受けている可能性もあるといわれる。
道の景色
 もとの佐屋街道に戻り、一番近い名鉄尾西線日比野駅に向かった。
 散策日 2012年11月2日    JR熱田駅-名鉄日比野駅
 参考
 「東海道五十三次を歩く」 4    児玉幸多 監修