桑名-四日市 

   地図①桑名-員弁川 ②員弁川-富田 ③富田-羽津 ④羽津-四日市

         ⑤四日市-日永


 桑名駅を降りたときは、空は明るいが遠くから風に乗って小雪がちらほらと舞っていた。
前回の終了地点の寺町通り南側入り口まで向かう。その先の京町公園の脇の京町見附跡が今日の出発地点である。
 桑名城跡から西に向かってきた東海道はここから南に進む。

石取祭
 東海道を歩く前に、前回立ち寄らなかった石取会館を見学する。
国の重要無形文化財に指定されている「桑名の石取祭」の祭車が展示されている。
南を流れている町屋川(員弁川)の清浄な石を春日神社へ奉納する神事が起源とされ、鉦(かね)、太鼓で「日本一やかましい祭り」といわれているという。
 前回訪れた長島町の秋葉社でも石取祭の説明板があった。長島三町の3台の祭車に対し、春日神社のほうは30数台が練り歩くという。祭車は三輪形式である。

 見附跡の横、矢印のついた東海道の石柱のある角に、毘沙門堂が建っている。

道の景色
 江戸時代から続くという石屋などの店が並んでいる一画に、真新しい石柱がある。
「右 京いせ道 左 江戸道」とある道標で、桑名博物館に移されている道標(旧東海道筋にあったもので、もとの場所は不明)の複製版という。

吉津屋(よつや)見附跡
 信号を渡ってしばらく行くと、駐車場の角(説明プレートがある)を右折する。
ここには吉津屋門と番所があり、吉津屋見附といわれた。
ここから四角形の三辺を回る枡形道路となっており、石取祭車が通る道でもあるという。

鍛治町常夜燈跡
 左折を2回し、東に向かう先で道は少し広くなる。以前は、外部の堀に架かっていた「七ツ屋橋」があったという。
 道路の北側の側溝の蓋の上に、鍛治町常夜燈跡のプレートが置かれている。
天保4年(1833)に江戸・名古屋・桑名の人たち241名が寄進して建立された多度神社常夜燈が建っていたところで、今は七里の渡し跡に移されている。
その先を右折し、寺院が並ぶ寺町通りに入る。

泡洲崎八幡社
 教宗寺、光明寺を過ぎた先,右側に説明板がある。
江戸時代以前、桑名は町屋川の流れにより自凝(おのころ)洲崎、加良(から)洲崎、泡(あわ)洲崎の三洲に分かれてあり、この付近は泡洲崎といわれ、 その鎮守であったという。
 境内には、天保13年(1842)新町北端に建立されていた道標が移されている。→
「右 きゃういせみち 左 ふなばみち」

光徳寺などの寺が並ぶ
 続いて,光徳寺で、説明プレートがある。それによれば、桑名船馬町の町人で、萬古焼の創始者 沼波弄山(ぬなみろうざん)(1718~77)の墓があるという。。

<十念寺 森陳明の墓>
 少し先の十念寺の西の道にある墓地には森陳明(つらあき)の墓がある。桑名藩の藩主 松平定敬(さだあき)は、戊申戦争(1868~69)で上野の政府軍と戦ったあと函館にわたり降伏したが、陳明は藩の全責任を一新に背負い深川の桑名藩邸で切腹した。

         
<壽量寺 狩野光信の五輪塔>

 その先の壽量寺の境内参道の左側に小さな五輪塔があり、説明板が建っている。江戸城で障壁画や天井画の名作を残した狩野光信の墓で慶長13年(1608)江戸からの帰路途中の桑名で病死したという。五輪塔は御影石 一石でつくられている。

<長円寺>  
 第11代住職魯縞庵義道(1834没)の作品が残り、そのうち「桑名の千羽鶴」は1枚の紙から連続して多くの鶴を折る珍しい方法という。

七曲り見附跡
 少し広い道を横切り左にカーブして100m程進むと、広い道路に合流する。道の向こう側に日進小学校の西南端にあたる場所に泡洲橋の親柱が立ち、説明プレートがある。ここは東海道が川口町(七里の渡し)から7度曲がった所で七曲といわれ、桑名城下の南端の見附で、七曲門と番所があったという。
門の南は枡形道路となっていたというが、今は消えている。

すぐ先の信号のある交差点を右に曲がる。

広瀬鋳物工場跡
 100m程先の右側に民家の白い壁が続くなかほどに、説明プレートがある。桑名城の建設などの為に、城主本多忠勝が鋳物師の広瀬氏を招いてここに工場を与え、この付近を鍋屋町と称するようになったという。
工場では、梵鐘や日用品を造り鋳物製品は桑名の特産品となったという。
シーボルトも訪れたという。

天武天皇社
 すぐ先に天武天皇の名前をつけた神社がある。説明板によると「壬申の乱(672年)の際に大海人皇子(のちの天武天皇)が桑名に駐泊されたことにちなみ建立された神社で、もとは新屋敷にあったが江戸時代に鍋屋町の現在地に移る。・・天武天皇を祭祀する全国唯一に神社」 という。
 文化12年(1815)の銘がある手水石がある。

本願寺跡と「梅花仏鏡塔」
 左手の空き地の入り口に「善光寺一躰分身如来」寛政12年(1800)と刻まれた石柱がたち、その奥に地蔵堂や墓地、駐車場がある。
説明板があり、ここは、「江戸時代本願寺村があり、古くからの古刹であった」という。

 左手には、芭蕉の門人の各務支考(かがみしこう)の分骨供養塔である「梅花仏鏡塔」や、十基ほどの句碑が立っている。
(墓はかがみの名にちなんで、丸い鏡の形をしている)

一目連神社
 十字路に一目連神社がある。
このあたりは鍋屋町とよばれ、鋳物の町であったことから、雨の神様として信仰され、また鋳物や鉄鋼の金属工業の守護神として崇められている「一目連」を多度大社(桑名の北にある)から勧請し創建された。
 


中川梵鐘店
 所どころに、昔の名残を残す家屋が残る。 
桑名の町歩きの写真に、店の前に釣鐘の置かれてある家が出てくるが、すでに撤去されたらしく釣鐘は見えなかった。

 その先には、一階が格子状になっている民家があり、その土台の木に黒い金具がついている。旅人が馬をつないだ名残という。

矢田立場
 200m程西にいったところで突き当りとなり、東海道は左折する。
角には復元された火の見櫓が建ち、説明板がある。この矢田町から左折した福江町にかけては、矢田立場のつづきで、茶店や宿屋が多くあったという。
西国からの大名などが通行する際には、桑名藩から役人が出迎えて、ここから案内をしたという。


江場松原跡
 しばらく進むと左側の了順寺を過ぎた先に日立金属桑名工場のフェンスが続き、途中に説明プレートがある。
 七里の渡しから少し手前まで両側に家が建ち並んでいたが、このあたりから南の安永(やすなが)に.かけての192間(約345m)は両側が松並木となっていた。西には鈴鹿山脈、東は伊勢の海が遠望できたという。
昭和34年(1959)の伊勢湾台風により被害を受け、今は一本も残っていない。

城南神社
 工場の敷地を過ぎると、立派な鳥居の立つ神社がある。
 由緒によると、垂仁天皇の皇女 倭姫命が伊勢神宮が創建される際に、大和から伊勢の国に巡行の折、この地に仮座したいう伝承がある、という。
伊勢神宮との関係が深く、古来より式年遷宮には、内宮一ノ鳥居や古殿舎の一部が下賜されているという。

道の景色
 東海道はまっすぐ南に行き、国道を地下道で横切る。
道の両側には歴史を感じさせる民家が並ぶ。このあたりは安永の立場があったという。道は右へゆるくカーブしていく。その先の十字路がみえ、さらにその先に、町屋川がある空間のある様子がうかがえる。

伊勢神宮常夜燈
 十字路の角に裾の広がった安定感のある常夜燈が建つ。説明板には、「伊勢両宮常夜燈」とされているが、文政元年(1818)に、東海道の灯標として伊勢神宮への祈願をこめて桑名・岐阜の材木商によって寄進されたものという。正面には「大神宮常夜燈」とある。
塔の手前には、鉄枠で補強された石柱ー里程標がたち、「従 町屋川中央 北桑名郡」  などとあり、明治26年(1893)とある。

町屋橋跡町屋川(員弁川いなべがわ) 
 町屋川にぶつかる所は小公園となっており町屋橋跡の説明板がある。
桑名入り口に位置する立場であり、また町屋川の舟運の船着き場であったの大いに賑わったという。寛永12年(1635)から対岸の縄生の間に町屋橋が架けられていた。南側に昭和8年(1933)の国道1号線の橋ができ、廃止となった。

<町屋橋跡から 鈴鹿山脈を望む>
鈴鹿山脈を源とする員弁川(いなべ)は、このあたりの下流が町屋川と呼ばれている、町屋川と呼ばれている。







 少し南にある国道1号線にかかる町屋橋をわたるが、鈴鹿おろしの風が強い。

山口誓子句碑
 町屋橋跡の対岸の位置まで行き、旧東海道を進むのであるが、ちょうど道路工事中であったため国道を100mほど進んでから本来の道にはいった。
 旧道らしい町並みがならぶ途中に、山口誓子の句碑がある。 

縄生(なお)一里塚跡
 少し先の右へ入る道の角に小さな石柱が立つ。「縄生(なお)一里塚跡」である。
 安達本家酒造の酒蔵を過ぎると、伊勢朝日の駅前で近鉄名古屋線の踏切を渡る。そこに朝日町の概要が記された説明板が建つ。
 弥生時代以降の遺跡が点在し、白鳳時代創建と考えられる縄生廃寺跡があるという。また、萬古焼を再興した森有節が生まれたところという。
駅のさきには、松並木の中に混じっていたという樹齢300年の榎が一本残されている。

橘守部誕生地
 500m程先の左手の植木のある空き地にのフェンスに説明板がある。
江戸時代後期の国学者 橘守部(1781~1849)の生誕地という。
江戸に出て、本居宣長の門人には入らず、独学で国学を学び、
平田篤胤、香川景樹(けいき)、伴信友とともに天保の国学四大家に数えられえている。

浄泉坊
すぐ先に大きな本堂と広い境内の寺がある。 正治元年(1199)、小向神明宮の別当寺として創建され、その後、慶長8年(1603)浄泉坊として再興された。桑名藩の奥方の菩提寺であったため、山門や瓦に徳川家の三ツ葉葵が入っており、参勤交代の大名は駕籠から一礼したという。

  明治43年(1909)建立の本堂の鬼瓦→

道の景色
 石垣の上に白壁が続く西光寺。

しばらく進むと二叉路となり、東海道は左へ行く。このあたりは「柿」という珍しい地名である。

多賀大社常夜燈と朝明(あさけ)川
 500m程先に伊勢湾岸道の高架の下を通る。
その手前 信号のある交差点の北側少し離れたところに存在感のある常夜燈がある。もとは、朝明川の土手にありここに移された多賀大社の常夜燈で、弘化3年(1846)建立である。(多賀大社=古くから「お多賀さん」の名で親しまれた滋賀県第一の大社)

鈴鹿の山並みがきれいに見える朝明川を渡る。四日市に入る。

松寺の立場
 少しカーブした道を200m程すすむ。左側に酒造メーカーの建物のある小道をすぎると、、小さい空き地の前に「松寺立場跡」の説明板がある。
大きなエノキの木があり、立場茶屋と呼ばれる茶屋などがあったという。
この先も、往時を偲べる町並みや町並みや、寺がある。

長明寺  (蒔田城跡に建つ)
少し先、右へ入る小道の先に風格のある山門のある長明寺がある。
説明板によれば、創立年代は不明、慶安4年(1651)に領主松平隠岐守より寺地を賜り今日に至るという。山門の右側には濠と塀がめぐらされ、山門前には文化3年(1806)築造の参道橋が架かる。(門の前にはその時の親柱が残されている)
      延宝年間(1673~80)建立の鐘楼→


この地は、文治年間(1185~90)の伊勢平氏残党の反乱の時、蒔田相模守宗勝が居住していた蒔田城の跡という。その後永禄年間(1558~69)に春日部家春が城主だった祭、滝川一益により落城した。

聖武天皇遺跡「鐘ヶ池」
 
 県道を横切り、すぐ先左の民家の前に石垣で囲まれたスペースに「鏡ヶ池(笠取り池)」の説明板と石柱がある。
続日本紀によると、聖武天皇は、天平12年(740)に伊勢国を行幸したという。その時に風が吹いて笠を落とした池があった場所という。翌日旅立つ日には風もなく、鏡のような池の水面に美しい光景を映し出したことから「鐘ヶ池」と呼ぶようになったという。

富田一里塚
 
 その先で関西本線の高架をくぐり、道なりに左へ曲がって300mほど進んだ先で近鉄名古屋線の高架をくぐって右へカーブする。
その右手の倉庫前に細長い石柱が立っている。「史蹟 冨田の一里塚趾」とある。焼はまぐりが名物の富田は間の宿であった。東海道名所図会には 蛤を店先に山と積み 焼いて売る店が描かれている。

写真は一里塚趾を過ぎたところから振り返って撮った。(左側に石柱)

八幡神社
 関西本線と近鉄名古屋線の300m程離れたそれぞれの富田駅の中間を進んでいく。左側の小川の脇に民家風の建物があり、その前に説明板がなければ通り過ぎてしまう感じであるが、「八幡神社址」とある。
弘安2年(1279)に八幡大菩薩が富田西町に勧請されたのが起こりという。富田立場の西端で、八幡の森といわれた名残はもうなくなっている。

道標
 左へゆるくカーブする手前右に石柱と説明板が建ち、皇太子時代の大正天皇が通ったという記念碑である。
その先で直角に右折して50mほど右側角に自動車の排気ガスで黒くなった道標がある。「左 大矢知中学校」と刻まれている。
米問屋で成功した四日市生まれの服部泰次郎が明治から大正にかけて近隣の町各所に多数建立したという。

連光寺跡
 次の角(三重県のたてた「里程標」をがある)を右折した先に公園があり、入り口に「冨松山連光寺跡」の説明板が立っている。
 平成10年茂福の地に移築されるまであった連光寺は、富田城主 南部家のゆかりの寺で、もとは南部堂といわれた。

道景色
 100mほどさきの富田小学校の門の前に「明治天皇御駐輦跡」ときざまれた大きな石碑が建っている。その先住宅地の中を流れる十四川を過ぎて右側に常夜燈がある。天保10年(1839)の建立である。
 さらに薬師寺や常照寺の前を過ぎた先のT字路で左折する。
T字路の正面には力石とその説明板が立っている。

園寺の先には、小さな道標がある。
[右 いあかるが」 「左 四日市」と刻まれ、前に見た道標と同じ服部泰次郎が建立したという。



その向かいには格子戸の民家がたっている。

八田の常夜燈
 県道64号線の高架を過ぎると、自動車関連の事業所が建ちならび道幅もその区間だけ広くなっている。
米洗川の手前に非常に大きな常夜燈が存在感を示して建っている。
 200mほど進むと小公園の広場の脇に小さな地蔵堂がある。
しばらく古い町並みを歩いていくと、松並木の名残が一本残っている

志氐(しで)神社
 右に入る道に、大きな鳥居と常夜燈が2基あり、ここから西に300m程の志氐(しで)神社の参道入り口である。鳥居は享保18年(1733)、左側の常夜燈は、天保11年(1840)、右側は文政元年(1818)の建立である。
 
 すぐ先には大きな本堂の光明寺があり、文久3年(1863)に造られた旧本堂の鬼瓦が置かれている。

国道一号線と合流
 この先で左に曲がり、国道一号線に合流する。国道の道路標識は日本橋からの距離が393kmを示している。国道1号線と旧東海道のどちらの距離が長いかわからないが、ようやく400km近くを歩いたことになる。

交通量の多い道路の反対側に延命地蔵堂が見えあたりに、斜め右から合流してくる細道がある。その角に小さな道標がある。「右 桑名 左 四日市 道」とあり、右からくる方向は「 左 大矢知道」とある。
 国道を約300m進んだ先で、左に分岐して行くと小さな境内の多度神社がある。

三ツ谷一里塚
 すぐ先に海蔵川がある。
土手の手前に「一里塚」と刻まれた大きな石がある。説明板によると、「三ツ谷の一里塚」は、海蔵川に突き当たった場所にあったが、川の拡張工事の際に川の中に取り込まれてしまったという。
 国道へ迂回してからもとの道筋に戻る。

海蔵橋からみえる鈴鹿山脈の景色→
三滝橋・四日市宿
 しばらく先の三滝川にかかる三滝橋を渡る。橋の中ほどにあるプレートによると、江戸時代は土橋であったという。

 ここから四日市宿となる。天保14年(1843)のデータによると、本陣2、脇本陣1、旅籠98軒、家数1811県という。

下流の先には四日市コンビナートが広がっている。

道の景色-笹井屋
 すぐ左に、東海道の案内によく出てくる「なが餅」で有名な笹井屋がある。天文19年(1550)創業という。
持ち運びできる手軽な大きさだったので、土産に買った。餡入りの細長い香ばしい餅であった。

この先には、本陣や脇本陣があったという道が続く。

四日市代官所跡
 100m程先の左の中部西小学校に入る道を左折して校門前まで行くと、四日市陣屋の説明板がある。四日市町は享保9年(1724)~享和元年(1801)の大和郡山藩領の時代を除いて、天領(幕府領)であり、 後半の天領時代は、信楽代官 多良氏の支配を受けて、出張陣屋が置かれていたという。

札の辻
 もとの東海道に戻り、次の十字路は札の辻と呼ばれた。左手角には高札場、右手には本陣、その先には問屋場があったという。

少し先は黒川本陣があった場所である。

江戸の辻道標
 次の広い道路を横切った先に変形十字路がある。その角に大きな道標が立つ。
比較的新しい道標であるが、文化7年(1810)建立の道標を昭和28年(1953)に複製されたものという。「すぐ江戸道」「すぐ京いせ道」とおおきく刻まれ、上部に指さしで方向を示した指の彫り物がある。すぐ・・は まっすぐという意味という。

そこから先の東海道は消滅している。
そのまま進み次の角を右折して国道を超えた先が、東海道の続きであるが、少し先の信号で国道を渡る。
国道から分岐してそのまま並行して進む。

諏訪神社
 右手に諏訪神社がある。
境内にある広重の絵の下に、「建仁年(1202)信州諏訪神社の分霊を勧請したといい、四日市開拓以来の氏神」と記されている。

                    <スワマエライオン通り>
 神社前からアーケードのある商店街が約200m程続く。
旧東海道でアーケードのある商店街となっているのは珍しい、というか、唯一ではないか?
 商店街を出ると、近鉄四日市駅に通じる広い分離帯のある道路となり、
西側の信号の横断歩道を迂回して進む。



 少し進んだ左手、浜田郵便局の手前に、「崇顕寺」と刻まれた大きな石柱があり、その左に「丹羽文雄生誕之地」とある。
丹羽文雄はこの寺で生まれ、少年期を過ごした。

浜田城跡(鵜森神社)
 寄り道になるが、少し先を右折、西に200m程行って近鉄線を超えた先にある鵜森神社・浜田城跡に行く。一帯は公園となっている。
浜田城は室町時代 文明2年(1470)に田原孫太郎景信の三男田原美作秀忠が築いたという。その後、天正3年(1575)に織田信長の家臣 滝川一益に攻められ落城したという。

鈴木薬局
 もとに戻り、緩やかに西にカーブしたあと、、近鉄内陸線と並行して、南西にすすむ。
赤堀の駅の手前右側に、連格子の古い建物があり、鈴木薬局(旧鈴木製薬所)の説明板がある。
鈴木家は300年以上も製薬業を営む旧家で、代々勘三郎の名を受け継ぎ現在は十一代を数えるという。現在の家は第六代勘三郎高光が嘉永5年(1852)に建てたものという。

鹿化(かばけ)川 からの鈴鹿山脈
 間もなく右手に大宮神明社の大きな森が見えてくる。
昔は、ここから南西方向の現在の四日市南高校がある岡山の麓まで海があって、舟付明神があったが、焼けたため、永禄5年(1562)に当時できつつあった東海道沿いに遷ってきたという。

水沢道標
 神社から200m程で、近鉄内部線の日永駅に近い十字路がある。すぐ先の右へ入る細道の角に小さな自然石と説明板がある。水沢(すいさわ)道標と呼ばれ、この横の道が水沢方面に通じる道路であったため200年ほど前に建てられたという。裏面に「猿丸太夫名歌古跡すい澤へ是ヨリ三里」とある。

 

日永駅への道の途中に大聖院という寺に寄った。その本尊として祀られている不動明王は源頼義の念持仏で、前九年の役(1051)に際して、仏師定朝に刻ませたものと伝えられているという。
日永の駅からは、近鉄内部線から分かれて西日野まで行く近鉄八王子線が出ている。(ただし一駅のみ)


桑名宿のはずれからここまでに、比較的大きな寺院の山門に扉がついており、各々彫刻がされている。

善西



浄泉



  

西光寺




光明寺



 散策日 2013年1月25日    JR桑名駅 - 近鉄 日永駅
 参考
 「東海道五十三次を歩く」 4    児玉幸多 監修