戸塚(不動坂−上方見附)          地図→ 戸塚(不動坂−大坂



 不動坂交差点の直ぐ手前を戸塚駅方面へ行く道の、隣の平行する細い道が、旧東海道である。



護良親王の首洗井戸への入り口

 秋元眼科医院の右側のコーナーに『史蹟の小道』という標識がたっている



護良親王の首洗井戸へ二丁と刻まれている。その細い道を置くに入っていくのだが、道なりにいくと、迷ってしまった。以前からある道は、小川沿いにあったが、宅地造成と、蓋がかぶされたことで、昔の道らしくなくなってしまったとのこと。・・・・『史蹟の小道』の標識のある道をはいり、、右に曲ったあと、まっすぐ行かずに、写真のように左にカーブしていくところを進む。

良親王の首洗井戸

建武2年(1335年)足利高氏の家来に殺された護良親王の首を、ゆかりのものが奪い、ここ柏尾の里まできて、清水で清め、四本の杭を打って祭壇として供養した。という。



首洗井戸の石碑と、井戸の跡(?) それに、四つ杭跡の石碑がある。ここから北の不動坂の先に、祭神を護良親王とした王子神社がある。

斉藤家・鎌倉ハム

しばらく進むと、赤レンガの倉庫と風格のある塀と門構えの家が見える。   明治10年代に英国人ウイリアム・カーティスが柏尾村で外国人用にハム作りを始め、その牧場に雇われた斉藤家の祖が、仲間とともにその製法をまなび日本人として始めてハム製造を開始した。当時柏尾村は鎌倉郡だったので「鎌倉ハム」として全国的に知られるようになったという。



赤レンガ倉庫は冷蔵庫として使われたもので、明治20年代の建造という

五太夫橋(ごだゆうばし)



その先の信号を右折し、舞岡川に沿って進むと国道1号線に出る。五太夫橋である。小田原北条氏の家臣であった石巻五太夫が、小田原落城ののち、江戸に帰る徳川家康をこのあたりで出迎えたことから橋の名前になったという。

宝蔵院



ダイエーの手前、左側に戸塚不動尊として知られる宝蔵院がある。門前の戸塚不動尊の説明板によると、「宝蔵院は、天文元年(1547年9に中興され、本尊は寛永9年(1632年)の不動尊である)」という。

江戸見附跡



ダイエーの前の交差点が、「江戸見附前」であり、右側のレストランの前に「江戸見附跡」の石碑と標識がある。慶長9年(1604)年、ここから約3.5km戸塚・吉田・矢部の3町が戸塚宿として整備された。

戸塚一里塚跡



この先左側に戸塚一里塚跡の標識が立っている。国道拡張で、遺跡保存となった

妙秀寺



柏尾川手前2本めの道を左折したところに、妙秀寺がある。橋の近くに建てられていた『道標』が、このお寺に移されているということで、期待していttが、残念ながら門が閉まっていて見ることができず。

柏尾川にかかる吉田大橋



吉田大橋の欄干部分におさめられている浮世絵で、当時の様子が想像できて楽しい。



 

清源院

戸塚駅の踏切を過ぎて右側に清源院がある。

清源院は、徳川家康の側室であったお万の方が、家康の菩提を弔うため、元和6年(1620年)に廃絶していた寺を再興したものという。

境内には、お万の方の供養塔や芭蕉の句碑、遊女と町人の心中の句などがある。



澤邊本陣跡



商店街を通っていくと右側に澤邊本陣跡の標識があり、その奥に「明治天皇戸塚行在所阯」の石碑がある。

羽黒神社

  海蔵院


  

八坂神社



横浜市指定無形文化財に指定されている「お札まき」の行事の説明板がある。それによると「お札まきは、7月14日の八坂神社の夏祭りに行う踊りで、同社の元禄再興に始まったと伝えられる。この踊りは江戸時代中期、江戸、大坂で盛んに行われていたが、やがて消滅し、現在は戸塚宿にだけ伝え残されている」という。

冨塚八幡宮



案内板より・・「平安時代、前九年の役平定のため源頼義・義家が奥州に下る途中、この地にて応神天皇と富属彦命(とつぎひこのみこと)のご神託を蒙り、その加護により戦功を立てることができたのを感謝して、延久4年(1072年)社殿を造り、両御祭神をお祀りしました。

社殿後方の地は富属彦命の古墳であり、これを富塚と称した事により戸塚の地名が発祥したと伝えられています・・以下略」

本殿

奥の古墳にある冨塚の碑   芭蕉の句碑



    
   
        「鎌倉を生きて出けむ初松魚(はつかつお)」

上方見附



少し先の「大坂下」の信号の手前が、「上方見附跡」で、左・右の両方に標識が立っており、特に左側には広重の富士の見える戸塚宿の絵が掲げられている。

散策日 2006年3月29日 不動坂−戸塚(大坂下