藤沢(戸塚/大坂下〜茅ヶ崎)


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大坂下信号


 上方見附から先に、登り坂がみえる。今はそうでもないが、江戸時代はきつい坂だったようだ。

第六天宮


坂を登る手前、右側に小さな神社があ

馬頭観音


大坂台バス亭の手前に、馬頭観音が1基ひっそりと立っている。・文政元年(1818年)

お軽・勘平戸塚山中道行の場碑


 坂を登りきると、国道1号線にぶつかる。さらに先に行くと、「西横浜国際総合病院前」バス停があり、その前が、きれいに整備されている。

石碑は、戸塚の名前が、仮名手本忠臣蔵」の「道行旅路の花聟(はなむこ)」・・お軽・勘平戸塚山中道行の場で有名となったことを、あらわしている

原宿の一里塚


 中央分離帯がなくなる吹上の交差点からしばらく行くと、左側の石垣の上に草に隠れそうな「原宿の一里塚の説明板」がたっている。

日本橋から11番目で、塚の附近に茶店などがあったことから原宿と呼ばれるようなったという。

浅間神社

その反対側―右側に浅間神社のこんもり茂った木立が見えてくる。

元禄6年(1693年)の庚申塔などが、鳥居の前に立っている。



原宿交差点

その先の原宿交差点の附近に、出羽三山供養塔や、庚申塔など多くの石塔があるはずだったが、交差点の大規模な拡張工事のためか見当たらなかった。工事が完成したら、交通渋滞が完全になくなることを期待したい。

影取町−松のある道路



ようやく、東海道らしく松並木の雰囲気が近ずいてくる

影取町−馬頭観音



影取町の信号の歩道橋の下に、囲いに中で、道祖神や馬頭観音の塔が整理されていた。 

諏訪神社



藤沢バイバス出口」のところで、国道1号線から外れ、藤沢駅方面への左側の道をすすむ。

松並木



 松並木が整備されてある場所がみえる。右側に「旧東海道松並木跡」の石碑と説明板が立っている

一里塚




このあたりから道は、下り坂になり、この先の遊行寺の手前、右側に一里塚跡の標柱がたっている。(工事中)

遊行寺

遊行寺の名前で知れ渡っているが、本来の名前は、清浄光寺という。

藤沢橋


参道を山門から入っていくために、遊行寺の東側からの入口を通り過ぎて、境川を一旦わたり、あらためて藤沢橋の手前を右折して山門の手前の広小路にはいる。

藤沢橋から、遊行寺方面を眺める。

遊行寺−広小路



山門の手前がん広小路である。「日本三大広小路」の説明板によれば、「広小路は、もともと火除地を意味し、類焼を防ぐと共に、被災者の避難所に当てられたという。

三大広小路:上野広小路

      名古屋広小路

      藤沢広小路

遊行寺−黒門といろは坂



 遊行寺の総門の冠木門で、日本三大黒門の一つといわれる。石段は48段あり、「いろは坂」と呼ばれているという。

遊行寺−本堂



開祖は、一遍上人で、時宗の総本山である。

遊行寺−敵味方供養塔



 境内の右手、東海道に面して敵味方供養塔がたっている。説明板によれば、応永23年(1416年)関東管領上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方足利持氏に対し反乱」を起こした時、幕府は持氏を援助したため、氏憲は敗れた。この乱により多くの死傷者が出たが、遊行寺の住職が近在の人と共に敵味方の区別なく治療し、死者を葬り、供養塔を建立したという。

遊行寺−小栗堂

銅鐘



遊行寺−中雀門

 宝物館


 宝物館には、鎌倉時代の「一遍聖絵」などが展示されている。
 
 

遊行寺−宇賀神のほこら



徳川氏の祖先、新田一族の有親が時宗に入門したことで、足利氏の追手から逃れることができたと喜び、この小さな社を寄進したという社。

遊行寺−一遍上人

  大イチョウ


  



 山門をとお手もどり、東海道にでる。

広小路のところから、境川方面を見たところ・・奥が藤沢橋。 

蒔田本陣跡



 藤沢橋をでて、右に曲るとまもなく蒔田本陣の標柱が右側にある。

それによると藤沢宿では大久保町と坂戸町の境付近に蒔田源右衛門が勤める本陣があったという。

ここから先の白旗神社までは、この道の左右にわたって由緒あるお寺がならんでいる。

妙善寺



文永8年(1271年)日蓮宗に改宗したのが開山という(HPより)

常光寺

 元亀3年(1572年)開山という。うっそうとした樹木がしげり、重厚な雰囲気をだしている。

境内には、藤沢市指定重要文化財の、「庚申供養塔塔」(万治2年(1659)、寛文9年(1669年))と、「常光寺の樹林」(薬7,900
u・・・カヤ、タブノキ、クスノキ、イチョウなど)の説明板がたっている。

庚申塔

常光寺の樹林



 

永勝寺

 常光寺の西側に飯盛り女の墓で有名な永勝寺があるが、常光寺から直ぐ隣で脇を通っていけると思ったが、実際には、旧東海道にもどり、西に向かって3本目を左折することになる。

飯盛女の墓





境内の説明板によれば、「墓地の中に飯盛旅籠を営んでいた小松屋源蔵の墓がある。飯盛女の墓はこの源蔵が建てたもので、39基の墓石には48体の法名が刻まれていて5体は、男である。・・・藤沢宿には旅籠が49軒あり、このうち飯盛女を抱えたのは27軒あり、一軒2人ずつ置かれた」という。

個々の墓ではないが、飯盛女の供養塔は、川崎宿の宋三寺にもみられる。

旧東海道に戻り、直ぐ先の白旗の交差点の手前右側の歩道に、「本町白旗商店街振興組合」の「湘南山の手通り」の掲示板があり、付近の詳細な地図がわかる。


義経首洗井戸



手前の細い道を右に入ったところに義経首洗井戸がある。

説明板「文治5年(1189年)藤原泰衡から義経の首が鎌倉に送られてき。首実験の後に片瀬の浜に捨てられ、潮にのって境川をさかのぼりこの辺に漂着したのを里人が義経の首を里人がすくいあげ洗い清めた井戸とつたえられる。」

白旗神社


 白旗交差点から右に曲り、北にはいったところが、白旗神社である。



神社の説明板によれば「奥州から送られてきた義経の首は、腰越で、和田義盛・梶原景時によって首実検が行われ、その夜のうちに弁慶の首と共に、その首がこの神社に飛んできたという。鎌倉(頼朝)に伝えると、白旗神社としてこの神社に祀るようにとのことで、義経公を御祭神とし、のちに白旗神社とよばれるようになった」という。

庚申塔、道標


神社の階段に向かって左側したに、庚申塔や道標が並んでいる。

市指定重要文化財の、寛永5年(1628年)の庚申供養塔がある。ほかに、一番手前に「江の島弁財天道標」があり『ゑのしま道』と刻むまれている。 

 



養命寺


東海道に戻り、小田急江の島線を越えて引地川を渡った右側に養命寺がある



境内とその裏手が工事中であった。また、石段も若干荒れているようであるが、ここには、国の重要文化財に指定されている木造薬師如来座像(像高90.5センチ)があるという。(寅年のみ公開とのこと)

おしゃれ地蔵

先の左側に、小さな地蔵堂がたっている




 藤沢市教育委員会の説明板は次のように解説している。

 

「女性の願い事なら、何でもかなえて下さり、満願のあかつきには、白粉(おしろい)を塗ってお礼をする。」と伝えられており、今でも、お顔から白粉が絶えることがないという。そのような所から、だれからともなく「おしゃれ地蔵」と名づけられたとされる。

 形態的には、「地蔵」ではなく、道祖神(双体道祖神)の表現が妥当であると考えられるが、土地の言い伝えを大切にしたい。」

 

大山不動


先にまっすぐ西に進み、四ッ谷の交差点で国道一号線にぶつかる。 

そこに、大山道の道標があり、上に大山不動が載っている。小さい堂の脇が大山道であり、鳥居がたっている。




大山から江の島へ続く道で、「田村通り」と呼ばれていたという。(吉野氏:新旧・街道図会 ホームページ)

それによれば、大山におまいりしたあと、この田村通りを通って江の島におまいりするのが一般的であって、個々で東海道と合流して、遊行寺の前から江の島道に繋がったという。

一里塚跡と松並木

四ッ谷交差点から国道1号線を西に進む




次の羽鳥交番前の交差点を過ぎると、右側に一里塚跡の標識が立つ。  ここからは、手入れの行き届いた立派な松並木がここから先へと続く

二ツ家稲荷神社と庚申塔




 二ツ谷交差点右側に二ツ家稲荷神社があり、その境内に藤沢市指定重要文化財の寛文10年(1670年)の庚申供養塔がたっている。

東海道松並木の風景


 国道の右側にある「東海道の松並木」の説明板

「茅ヶ崎市内の国道一号線沿いの黒松は幹回り(地上より1,2mの高さで測定) 2,2m(推定樹齢400年)の大きな松が育っている・・・」

 




 茅ヶ崎一里塚の近くの東海道

国土交通省の標識によると、日本橋まで58kmとある。

この先の茅ヶ崎の一里塚が14番目である。

茅ヶ崎一里塚

 茅ヶ崎駅入口の交差点の左側に、立派に整備されたい記念日がたっている。

日本橋から14番目の一里塚。

散策日 2006年7月31日 戸塚-茅ヶ崎