府中(静岡)- 藤枝 

   地図①静岡~丸子  丸子~岡部  岡部~鬼島
  鬼島~藤枝



 静岡市の安倍川に近い新町通りの秋葉神社の前からスタートする。
もとの予定は府中から岡部宿までの予定であったが、宿泊地からすぐのところからなので朝の移動距離がなく、本日の行程は長い距離を進そうで、できれば藤枝までという期待をもって出発した。

双街の碑
 秋葉神社の次の信号のある交差点を左折し、2本目の角を右にいくと、稲荷神社がある。
その境内に「双街の碑由来」という説明板と明治27年の石碑が立つ。
家康が駿府に入り大御所として余生を送ったが、その頃、7ヶ町に京都、伏見から遊郭を誘致した。その後元和元年(1615)、うち5ヶ町が江戸吉原に移り、この辺りの2町が残り、二丁町、双街と呼ばれた。遊郭は昭和32年まで続いた。

駿府キリシタン聖堂跡
 一ブロック西にある安倍川町公園の南端の緑の中に、「この附近駿府キリシタン聖堂跡」という真新しい石碑がある。慶長17年(1612)キリシタン禁教令により壊された2つの教会のうちの一つがあったという。(この南には殉教碑がある)
 新通りに戻り、南に進む。人通りも少なく朝日の影が伸びて気持ちの良い歩きである。

川合所跡
 次の信号を過ぎた交番の前に、安倍川の両側にあった川会所の説明板がある。安倍川は架橋を禁止され川越人夫による渡しで、川役人が勤務して、人夫の指示や川越え賃銭の扱い、警備などが行われていた。間口六間、奥行四間半という。
 川越え賃(一人)は、脇下から乳通り-64文、へそ上-55文、へそまで-48文、へそ下-46文、股まで-28文、股下-18文、ひざ下-16文であったという。

由比正雪之墓跡碑
 すぐ先の本通りと合流する手前に公園があり、その北側に安倍川架橋の碑がある。弥勒村の村長宮崎総五が明治7年(1874)に私財を投じて架けたもので、その顛末が書かれているという。(右写真)
 公園の南側には、慶安4年(1651)に死んだ正雪の首を晒した跡とも、墓跡ともいわれる墓跡碑がある。

駿府キリシタン殉教之碑
 本通りを挟んで公園の西側に、小さな石碑が立つ。 慶長17年(1612)キリシタン禁教令により、駿府から原主水、おたあジュリアらキリシタン武士や侍女が追放され、二つの教会も破壊された。
その後禁教の強化により慶長19年(1614)、町人キリシタンの中心として再び捕えられ、うち6名が安倍川原で十字の焼印をおされ市中引き廻しの上、安倍川原千日堂に放置され、このうち2名が殉教したという。(主水は再び江戸に出た、という。)

水神社
 その先の細い道を西に行くと、水神社があり、自然石を利用した天明元年(1781)と天保6年(1835)の手水鉢がある。
 神社の前を西にいくと土手沿い道端に、地蔵尊や首のない地蔵が祀られた「首地蔵」と書かれた小さな祠がある。

安倍川餅屋と安倍川
 安倍川を渡る手前左側に安倍川餅屋が並んでいる。
文化元年(1804)創業という。

安倍川右岸-手越(てごし)宿
 約500mの橋をわたる。すぐに手越のバス停がある。
100mほど行くと心光院入口の標識がある。
このあたりを手越というが、平安から鎌倉時代にかけて中世の東海道の手越宿として栄えた宿駅は、ここより少し上流で安倍川に合流する藁科川の右岸に位置していたようである。
治承4年(1180)源氏追討のために平維盛の軍勢数万がここに押し寄せたという。また建武2年(1335)足利直義が北条時行の襲撃を受けるなど、要所であった。

少将井神社


 心光院から戻る途中に、山裾に向かうと大きなクスノキのある少将井神社がある。建久4年(1193)創建という。石段の上には文化7年(1810)の自然石に金属の火袋を乗せた秋葉山常夜燈がある。
 境内には白拍子姿の千手の石像と謡曲「千手」の説明板がある。
「一の谷の戦いで捕まった平重衡を慰めるように源頼朝は白拍子 千手の前を遣わすが、その重衡と千手の前の物語を主題とした謡曲「千手」の生誕の地と伝えられる」という。
 ここは、手越長者の館跡と推定されている。 長者には少将と千手という2人の娘がいて、姉の少将については、裾野の巻狩りの時の工藤祐経の接待役で愛人となったが、曽我兄弟の仇討のあと、十郎の愛人虎御前が尼になるとともに、出家したという。

高林寺
 旧道に戻ってすぐ先に、高林寺があり、山門前の石柱に、「元祖 手越名灸所・・」と刻まれている。手越の灸は、承応2年(1653)頃、治療のため始められたという。
 バス道で、ほぼ真っ直ぐに進むが、松が残り街道らしさを出している。
国道一号線に合流し、200mほどすすんだあと、左に分岐する。

子授地蔵尊と万葉歌碑

 左手の佐渡公民館の前に、万葉の歌碑が立ち、道を挟んだ向かい側には、子授地蔵尊を祀る地蔵堂がある。

歌碑は、ここ佐渡村の地名が地図上から消え丸子に変わることを惜しみ町民が建てたという。
万葉集に収められたあずま歌が刻まれている。
  「さわたりのてごに い行く逢ひ 赤駒が
          あがぎを速み こと問はず来ぬ」

丸子(まりこ)の一里塚跡
 200mほど行くと小豆川を渡る付近で道の拡張工事が行われており、大きく右にカーブする。左の長田西小学校を過ぎた先に、「一りづかあと」と刻まれた大正14(1925)年の小さな石柱がある。 ここには北側の塚はなかったという。

丸子宿 江戸見付跡
 しばらく進むと、道がせまくなり、古い町並みとなる。
左側に「これから丸子宿 江戸見付跡」と書かれた立て札が立っている。その先の水神社の前にも丸子宿の詳細な説明板がある。
文治5年(1189)、鎌倉御家人の手越平太家綱が奥州攻めの恩賞で丸子一帯を与え宿駅を設けたのが起源という。与えられた麻利子村を宿駅として開いたという。(鞠子とも書いた)
江戸時代の宿としては小さい宿場で、天保14年(1843)の資料では、宿内町並東西:7町(約760m)、本陣:1、脇本陣:2、旅籠屋:24、人口:795 という。

水神社・馬頭観音
 左の小高い所に、水神社がある。その向こう側に丸子川が流れており、社殿の西側には小さな祠があり、馬頭観音が祀られている。

丸子宿本陣跡
 しばらく進むと、左側に「明治天皇御小休所阯」の石碑があり、ここは、脇本陣があった場所という。その少し先、右手には「史跡 丸子宿本陣跡」という大きな石碑がある。
神社前の説明板の地図によると、この本陣の東側に問屋場があった。
 その先の右側には「、お七里役所」の石碑が立ち、紀州徳川家の飛脚専用の役所跡という(由比宿にもあった)。
道はほぼ真っ直ぐに西の山並みの方に向かう。

丁子屋(ちょうじや)
 右側に慶長元年(1596)創業というとろろ汁屋「丁子屋」がある。 趣きのある建物であるが、近くの古民家を移築したものという。( 11時開店で、残念ながら食事できず、かわりに内部の旅道具など展示室を見せて頂いた。)

 入口右側には、文化11年(1814)建立の芭蕉の句碑がある。
 『梅わかな 丸子の宿の とろろ汁』
元禄4年(1691)詠んだという。


東海道案内板
クリックすると拡大  橋を渡る手前、丁子屋の向かい側に案内板や石柱が並ぶ。
そのあたりに丸子宿の西の見付跡があり、高札場があった場所という。
 旧東海道は、左に分かれ丸子川を渡るが、このまま真っ直ぐ北にいくと戦国時代の山城:丸子城跡や、諸大名や文人が東海道の往来の際に立寄った名所で、連歌師 宗長法師ゆかりの吐月峰紫屋寺(とげつほう さいおくじ)がある、と立て札が示している。


細川幽斎の歌碑
 橋の手前の右側には戦国時代の武将で細川幽斎の歌碑がある。
天正18年(1590) 小田原攻めの先陣として丸子を通った際に詠んだ歌が刻まれている。道の向かい側(丁子屋の先)には、別のとろろ汁屋があり、その前に道標と馬頭観音の祠が立っている。
道標は、明和元年(1764)建立で連歌師・・・と刻まれ、吐月峰紫屋寺への道であるが、もとは別の場所に建てられていたものという。

躄(いざり)地蔵尊
 祠の右手の細い道の入口に看板があり、国道一号線の方向に進むと、公民館の前に「駿河一国百地蔵尊第十三番」と掲げた小さな堂がある。文政2年(1819)脚を痛めた旅人が宇津ノ谷峠をやっとのことで越え丸子宿まできて力つきた。村人が地蔵を建てて供養したという。


高札のレプリカ
 
 丸子川を渡ると右手の広場に高札のレプリカが掲げらている。
丸子の津島神社から発見された高札で、天和2年(1682)五代将軍綱吉が諸国の高札を建て替えた時のものと推定されるという。
  ・忠孝奨励諸法度
  ・宿駅諸法度
  ・毒薬・にせ金禁制 
の3枚のレプリカで、発見されたものは町内会に保存されているという。

丸子川沿いに宇津ノ谷へ道
 しばらくは緩やかな坂を西に行き、丸子川にぶつかってから堤防沿いののどかな道を進む。
国道1号線の手前右に観音堂がある。
 100mほど国道の左の歩道を歩くと、起樹天満宮のサインのある所で、下に降りる。
旧道は国道と平行して静かな山合いの町並みをとおる。 

丸子紅茶発祥の地
 途中左側に「日本の紅茶発祥の地 丸子紅茶」という看板が掲げられた古い建物がある。この先の起樹天満宮の境内には紅茶の先駆者、多田元吉の石碑が立っている。
 徳川慶喜とともに駿府にきた多田元吉は、この地で茶の栽培を始め、明治9年(1876)、政府からインドに派遣されて紅茶の製造技術を学び、紅茶の原木を持ちかえり、栽培・製造技術を全国に広めたという。
              起樹天満宮境内の石碑→

起樹天満宮と長源寺
 国道1号線のからくる道と合流する地点、左側に長源寺・起木神社の案内板があり、奥に大きな銀杏の木の前に起樹天満宮の額が掛かる鳥居がある。
建久年間(1190~99)頼朝が上洛する時に神社前を通ると、梅の大木が倒れ道をふさいでいたが、夜のうちに元通りに起き上っていたため「起き木」と称したという。
となりの長源寺には多田元吉の墓所がある。

道の景色

道は、国道1号線を歩道橋で渡り、国道の右側を西に進む。

国道1号の手前の松の木

歩道橋から 丸子方面            歩道橋から 赤目ヶ谷西・宇津ノ谷方面
   

宇津ノ谷峠
クリックすると拡大 国道のトンネルの手前約300mほどの歩道橋で左側に渡って進むと、道の駅があり、その先に、古代・中世の東海道で、『宇津の山越え』として知られた峠道の入口がある。(今は「つたの細道」として整備)
平安時代の歌人在原業平が「伊勢物語」に書き記してから有名になり、頼朝が建久5年(1194)鎌倉京都を結ぶ為に整備したという。旧東海道は天正8年(1581)豊臣秀吉が小田原攻めの時大軍を通すために開拓されたという。
 今回は道の駅には行かず国道右側をそのまま進んだ。

宇津ノ谷への入口
 国道のトンネルの手前に、右へ入る自動車道があり、右側に宇津ノ谷の古い家が並らび始める。
その先で旧道は左に分岐するが、その正面に宇津ノ谷の詳細な案内板があり、各々の家の屋号が書かれている。

宇津ノ谷の集落
 丸子川を渡った地点から、右側の「車屋」から始まり、奥の階段までの集落である。ここは丸子宿と岡部宿の間に位置する間の宿であった。
途中には、旧家の「御羽織屋」がある。
秀吉が小田原攻めの帰りに与えたという陣羽織や家康からの茶碗が保存されている。
宇津ノ谷の全景
 階段を上りきるとその先に東海道を示す表示がある。反対側は明治トンネルである。
山道を上り始めると、すぐ左に嘉永5年(1852)の馬頭観音と大正のものがある。
その先には、視界が開け、宇津ノ谷集落を見渡せるスペースがある。
峠ノ道をのぼる手前の、山間にできた集落で、往時を偲ぶにはぴったりの風景である。

俳人 雁山の墓
 この辺りの道は、幅2間(約3.6m)で、今より山側にあったが明治後半の豪雨による山崩れのため変わっており、階段はなかったという。手前には、山口素堂に俳諧を学び甲府と駿河に庵を結んだ雁山の墓がある。享保12年(1727)頃旅に出て音信不通となったため、駿河の文人が建てた墓という。
少し先には、その上にある地蔵堂を傾斜地に構えるために積まれた石垣がある。
峠の地蔵堂跡
 石垣の左を上がると、もと延命地蔵堂があったという空き地がある。石垣の上に位置する場所に「宇津ノ谷峠の地蔵堂」の絵入りの説明板がある、左隅に寛政10年(1798)の供養塔が立っている。
発掘調査により、石垣が築かれる前と後の2か所の痕跡があるという。(江戸時代初期にはすでに信仰されていたという。)
 空き地への入り口にある説明板によると、江戸末期の河竹黙阿弥の芝居「蔦紅葉宇都谷峠」の舞台になった所という。
百両を持った盲目の文弥を、借金の工面に失敗した伊丹屋十兵衛が丸子宿で出会い、この峠で殺害してしまうという芝居である。
髭題目碑
 この先すぐに凹道の峠となる。
下り坂を少し行くと舗装された道となり、その後また山道に入る。
左側に天保6年(1835)建立の「南無法蓮華経」の題目が筆端を髭のように跳ねて書く書体で刻まれている碑が建つ。
静岡県の中部地方では珍しいという。
 

蘿径記碑跡
 その先の斜面には、蘿径記碑跡の立て札と石柱がある。
文政13年(1830)儒学者で駿府の代官であった羽倉外記(簡堂)が、平安時代からの由緒ある蔦の細道の消滅を恐れて建てた石碑があった場所である。
(「蘿」はつたを「径」は小路を意味する)

    坂下地蔵堂の境内に保存されている蘿径記碑→

坂下地蔵堂(延命地蔵尊)
 山道を下りると車道と合流する。左に行くと蔦の細道の入口があり、右に坂道を下ると、地蔵堂がある。創建は不明だが、元禄13年(1700)、岡部宿の住民3人の発願で地蔵堂を再建したという。


合流地点

道の景色

 坂下地蔵堂から南へ行くが、西側にはトンネルから出た国道1号線が走る。途中ガード下をくぐり駐車場を通りすぎて、廻沢口の信号のある所から県道に入る。(国道の東側をそのまま進んで廻沢口の信号で国道をくぐる方ががわかりやすい)

県道への合流点

 山側の茶畑                  岡部川沿いを西へ
 

十石坂観音堂
 岡部川と一時離れて道は進むが、再び川沿いに進む所に、岡部宿の案内板がある。
その先の右側の斜面に階段があり、十石坂観音堂がある。奥に、石塔や石仏が並び、河野蓀園の墓碑がある。
河野蓀園は、駿府町奉行が駿府地誌の編纂を漢学者の山梨稲川(とうせん)に依頼した時に、岡部宿の属する益頭郡を担当した人という。

岡部宿桝形跡
 その先、左からの道が突当るところ(横断歩道あり)右側に、低い石柱が立ち、「桝形跡」の説明板がある。(他の看板などもあり分かりづらい)
ここに、岡部宿の木戸と番小屋が設けられていた。岡部宿には、本陣-2、脇本陣-2、旅籠-27があり、人口は2,322 であったという。(天保14年(1843))
 右側の山が道側に迫ってくる手前に、常夜燈と祠があう。

笠懸の松
 県道は左にカーブするが、旧道はまっすぐに進む。すぐに「笠懸の松」のサインがあり、奥に大きな説明板がある。階段を上がった先の頂上に
西住の墓とされる古い石塔があるという。西行が弟子の西住とともに東下りの途中、西住が揉め事から乱暴者を殴ってしまい、西行は破門にしてしまった。西住は密かに西行を慕って後を追うが、岡部まで来て病に倒れ、辞世の句を書いて亡くなった。
東国からの帰途、この地で戸に懸けられた笠から西住の死を知り、追悼の句を詠んだという。
   笠はあり その身はいかになりならむ あわれはかなき 天の下かな
専称寺
 元に戻り、右奥に三星寺がある十字路を左折し、岡部川を渡る。
右奥に専称寺がある。
門前の説明板によると、江戸時代後期の作という西行座像と、鎌倉前期の作といわれる不動尊立像が保管されているという。
 すぐ先で、県道に合流する。

大旅籠 柏屋(かしばや)跡

                        本陣跡
 合流してすぐ向かい側が大旅籠で天保7年(1836)に再建された建物で、今は岡部町の歴史資料館となっている。
 
 すぐ先の信号の脇に標柱が立ち、岡部宿の本陣跡がある。
今川家臣の内野家が元禄3年(1690)からつとめていたという。

問屋場跡

                        小野小町の姿見の橋 
 先の左側の民家の前に石柱があり、問屋場跡の説明板がある。
岡部宿にはもう一か所問屋場があったという。
旧道は、この先の火の見櫓の手前で左に分岐する。
 すこし先に小さな橋があり、右に石柱がある。小野小町が晩年に東国へ下る途中、岡部宿に泊まり、この橋の上で夕日に映える西山の景色に見とれていたが、橋の下の水面に目を移すと、長旅の疲れた姿が映っており、老いの身を悲しんだという。

格子戸の家

                        高札場跡
 旧道に入ってからは、アスファルトではない舗装がされ、古い町並みも家並みも残されて昔の面影が良く出ている。
 左奥の佐護神社を過ぎてから、右側の駐車場の隅にに高札場跡の石柱がある。

正應院

                        道の景色
 高札場の向かいにあり、境内のきれいな寺院である。宝暦11年(1761)の石塔などが立つ。

道の景色

                        桝形跡
 しばらくして旧道は常夜燈が立っている所で、直角に曲がってから県道に合流する。はっきりと道筋が残されている桝形跡である。

五智如来石像
 県道に出たすぐ先右側に五智如来公園があり、柱と大きな常夜燈と木の門が立っている。奥には、祠があり、新旧五体ずつの五智如来石像が安置されている。 そのうちのひと組は廃寺となった誓願寺のもので、宝永2年(1705)に田中藩の家老が寄進したものという。
 五智如来:大日如来を中心とする東西南北に4如来を配置したもの

岩村藩傍示杭

 ここからは広い県道で、歩道をひたすら南に向けて歩く。
途中松並木が続くが、古い松は所々である。国道一号線の藤枝バイパスの下をくぐると、「東海道横内」の案内表示がある。
 その先に『従是西巌村領 』と書かれた傍示杭を復元したものが立っている。
岩村藩は、松平能登守が美濃国岩村城を居城として3万石の領地を持つており、駿河国の15ヶ村に飛び領地があったという。

横内の風景
 横内村は農村で多くの職人が住んでいたといい、多くの家の前に「松の茶屋」などの職名が書かれた屋号風のものが懸けられて東海道の風情を出している。
左側に慈眼寺があり、塀の角には、「小字名 油街途(あぶらがいと)」と書かれた標柱が立っている。
慶長4年(1599)の開創といい、門前には石塔や石仏が並んでいる。

朝比奈川
 
 横内橋を渡ると、朝比奈川の土手の西側に橋向地蔵尊があり、東側には馬頭観音がそれぞれ小さな祠に納まっている。

田中藩傍示石
 まもなく国道1号線を横切る「仮宿」の六叉路となるが、手前に松並木の名残があり、また岩村藩の傍示杭がある。
(←六叉路手前の風景)
 歩道橋を渡った先には、「従是西田中領」と刻まれた大きな石柱が立つ。もとは、岩村藩と田中藩との境界である法の橋 付近にあった傍示石の複製という。
(田中城は、藩主が要職に登用されることが多く、浜松城などと共に出世城と呼ばれたという。)

鬼島一里塚跡
 旧道は、この先で国道1号線と合流してすぐ左に分岐し、松並木の名残が残る道をすすむ。
しばらく行くと、アパートの壁の前に白い杭が立ち、「史跡 鬼島一里塚跡」と書かれている。

東海道・御成街道道標
 この先で葉梨川を八幡橋で渡って、右に進むが、土手との境に道標と地蔵の祠がある。道標には、東海道と御成街道と刻まれており、橋を渡って真っ直ぐ進む道が、田中城に通じる道で駿府にいた家康が田中城に行く際に使ったため御成道と呼ばれたという。
 天和2年(1616)家康は鷹狩で田中城を訪れた後、体調を崩して没したという。

鬼島の建場
 しばらくいくと左側に新しくできた木製の常夜燈とその前に石碑が立っている。石碑には「旧東海道 鬼島の建場 」とあり、東海道中膝栗毛の一節が刻まれている。
その先の右手に大きな青山八幡神社の鳥居がある。300mほど西に離れているのでスキップしたが、前9年の役で、源頼義・義家が立ち寄り石清水八幡宮の分霊を勧請したという。

須賀神社

                         鐙ヶ淵観音堂
 大きなクスノキが見え、その下に須賀神社がある。となりには全居寺があり、その左手に観音堂が見えた。
一帯が工事中であり、南側の広場から観音堂に上る。
手前に説明板があり、広場は、もと葉梨川の渕で、形が馬具の鐙に似ていたので古来から鐙ヶ淵と呼ばれたという。
観音堂は山之堂(やまんど)と言われ親しまれ、本尊は蛇柳如意輪観音菩薩で、その胎内仏は平安中期の恵心僧都の作と伝えられるという。

東木戸跡
 広場の前から左にカーブしてから県道を横切り、松並木の名残のあるしずてつストアの端をすすんで、国道1号線を斜めに横切る
300mほど進んで天理教会の塀が続く道路側に『藤枝宿東木戸跡 領主番所跡』と書かれた標柱が立っている。
 藤枝は奈良・平安時代から交通の要所として政治・経済の中心として栄え、江戸時代は田中城の城下町であった。
天保14年(1843)本陣-2、脇本陣-0、旅籠37、人口-4,225の規模であった。

成田山新護寺と左車神社
 すぐ先に成田山と横に書かれた門のある新護寺がある。建長4年(1252)後嵯峨上皇の皇子宗尊親王が鎌倉6代将軍となり京都から鎌倉に行く途中、御所車の左輪が折れて修理する間休息したことから,それまで照光院という名を
左車山休息寺と改めたという。明治になり成田山と改名。
 破損した左輪などを埋めた跡に神社を建立したのが、この西にある左車神社の起こりという。

大黒天と常夜燈
クリックすると拡大 次の信号のある交差点を左に行くと田中城の大手門口に向かうという。
すぐ先の右手に下伝馬会館と広場があり、奥に大黒天、手前に文化3年(1806)の大きな秋葉山常夜燈がある。歩道沿いに藤枝宿の案内板がある。

問屋場跡
 道を挟んだ向かい側の歩道に問屋場跡の絵のタイルが埋めてある。当初は上伝馬町の問屋場しかなかったが、田中城に近いということで、この下伝馬町にも置かれたという。上り(京方向への輸送)と下り(江戸方向)とを分担して、下伝馬問屋場は上りを担当したという。
 この先を左に入ると、養命寺で、、山門の右手には延命地蔵を安置する地蔵堂がある。
                       養命寺→

白子町由来記の碑
 200mほど先左に小川眼科医院があり、入口左手の植え込みに小さな石碑が立ち、他に説明板がある。
天正10年(1582)本能寺の変の折り、家康が伊賀路を越えて伊勢国を通る時に、伊勢白子の小川孫三という農民が、船を出し三河国 大崎まで送り届けたという。
家康は、当地に住むことを許可し、白子町と名付け、諸役免除の朱印状を与えたという。
この医院は小川孫三の子孫が経営し、由来記碑を立てた。

蓮生寺(れんしょうじ)
 次の本町交差点から先、瀬戸川まで両側に多くの寺や神社が並ぶ。
右側二つ目の角を入ると蓮生寺がある。
 建久6年(1195)源氏の武将熊谷直実 が出家して蓮生(れんせい)と号し開山となって創建したと伝えられる。
熊谷直実は当初平家に仕えていたが石橋山の戦いのあと、頼朝の御家人となった。一ノ谷の戦いでの平敦盛との一騎打ちの話は、平家物語などに取り上げられている。

若一王子(やくいちおうじ)神社
 蓮生寺から戻り約200mすすんだ右手奥に若一王子神社がある。
由緒によると、天平2年(730)創建という。永保3年(1083)源義家が後3年の役で奥州に向かう途中参拝し、松の枝に藤の花が映えているのを見て『松に花 咲く藤枝の一王子 宮居ゆたかに幾千代を経ん』と詠み、これが藤枝の起源となったという。
 旧道から入る細道の脇に、文化12年(1815)の秋葉山常夜燈がある。

大慶寺 「久遠の松」
 信号のある交差点でアーケードのある上伝馬町商店街に入る。100mほどの左に大慶寺がある。日蓮上人が比叡山に行く時に立寄り、12年後の建長5年(1253)帰郷する際にも訪れた。この地の老夫婦は法華経に感化され日蓮が記念に一本の松を植えたという。「久遠の松」と命名されたという。後年法華堂を建立し、当寺の基になったという。
樹齢約750年のクロマツである。

 大慶寺の向かいには、神明神社がありその先の右側には、下本陣跡、上本陣跡が続き、上伝馬交番前には、上伝馬問屋場跡がある。 それぞれ歩道上にタイルが貼られている。

神明神社

本陣跡付近               上伝馬問屋場跡
    

正定寺 「本願の松」

 次の信号の100m先には、寛正3年(1462)鎌倉光明寺の僧 貞誉の開創したという正定寺がある。境内には傘型に枝張りした(東西11.5m、南北14m)美しい形をしたクロマツがある。
享保15年(1730)に田中藩主であった土岐丹後頼稔が大阪城代になった時に寄進したものといい、「本願の松」(別名「延命の松」)という。

この先、瀬戸川の手前に西木戸があった。

勝草橋
 まもなく瀬戸川が流れ、勝草橋を渡る。
普段は水が少なく出水時のみの川越であったという。
 橋柱に説明板があり、明治8年(1875)に懸けられた初代勝草橋の由来がある。名付けたのは、旧幕臣の伊佐新次郎岑満で、幕府時代下田奉行所支配組頭として外国との交渉に活躍、維新後徳川家に従って駿府入りし、牧ノ原の茶園開墾や、近代教育の振興にあたったという。

志太一里塚跡
 橋を渡ると、すぐフェンスに囲まれた東海道一里塚跡の石柱と秋葉山常夜燈がある。
志太一里塚跡はもとは、川堤から西へ約50mの所にあったという。
 すこし先右側に、為善館跡の石柱と説明板がある。
明治6年(1873)近くの村が連合して寺子屋を学校化した「為善館」を創設した跡という。

青木交差点
 これから先は時々松並木の名残が現れるが、まっすぐに南に進み、国道1号線と合流する青木交差点に到着した。
 
旧東海道はそのまま南に進むが、今回の散策はここまでで南東に向かう広く、新しく開かれた道を藤枝駅に向かった。
 散策日 2010年6月5日    静岡市 駒形通ー藤枝駅
 参考
 「東海道五十三次を歩く」2     児玉幸多 監修