藤枝 - 金谷 

   地図→ 藤枝~六合  
六合~島田  島田~金谷

旧東海道の前半のハイライトの一つである大井川を渡る。

青木交差点から南へ
 藤枝駅北口から、一直線に広く整備されたアーケードのある商店街をとおり、五叉路の青木交差点まで行く。
北からくる旧街道は国道一号線と交差して南に向かっている。
ここからが旧東海道の本日のスタートである。

地蔵尊の祠
 200mほど先に、南新屋会館の広い敷地の隅に、地蔵尊の祠と自然石の文字庚申塔や順礼塔などが立っている。
広場の奥には、石塔がひとまとめに集められている。
少し先の信号を渡ると、松並木の名残が現れる。

田中藩領 傍示石跡
 松の木の途中に、石柱と説明板があり、ここに田中藩領を示す傍示石が建っていたという。「従是東田中領」と書かれた約3mあまりの石柱で、藤枝宿に入る前の法の橋付近に建っていたものと、東西で対をなしていたものという。 ここ瀬戸新屋村は田中藩領と掛川藩領が入り組む特異な村のために、藩境を示すための傍示石が建てられたという。

鏡池堂 六地蔵尊
 しばらく進むと左から広い道路が合流してくる三叉路の手前左に「鏡池堂」という名の地蔵堂がある。
説明板によると、近くの神龍が棲んでいるという鏡ヶ池から出現したという六地蔵尊を祀っており、東海道の名所として知られていたという。
六地蔵の木像は知証大師の作で30cmの金色彩色といい、33年ごとに開帳されるという。

古東海道跡
 信号を越えた先に右側に入る細い道があり、そこに「古東海道蹟」の石柱と説明板がが立ある。ここから西にある瀬戸山を通って内瀬戸(これから向かう上青島・下青島の北側に位置する)に向かうこの道が、中世から「瀬戸の山越え」と言われた古東海道という。旧東海道が整備された後も、大井川の洪水の時にはこの道が使われたという。
島田からこの下の山沿いの道を通るようになったのは、頼朝の上洛の帰路が初めてという。
古代の東海道は、ここから南に位置する大井川南の初倉方面から大井川を渡り、今の藤枝駅の南の前島あたりを通っていたという。

東海道追分
 すぐ先の左側に入る道に「東海道追分」の石柱がある。
旧東海道が先ほどの北六地蔵の所を通るようになる以前の東海道が、前島境で初倉からの道と合流して南新屋(五叉路)へ通っていたところで、追分と呼ばれたという。
 
その先の松並木が旧街道の面影をよく出している。

瀬戸地蔵堂(無縁寺址)
 しばらく行った先右側の石段の上が小公園となっており、小さな地蔵堂が建っている。瀬戸延命地蔵と呼ばれ瀬戸山に安置されていたという。 
 その奥には元禄10年(1697)の石塔やその後の石仏、石碑が集められている。

染飯(そめいい)茶屋跡
 すぐ先右側の店の前に石柱と案内板がある。
「瀬戸の染飯」は東海道が瀬戸山の尾根伝いに通っていた頃から尾根の茶店で売られ、ここの平地を通るようになってからは、江戸時代の終わりごろまで、この茶店跡で売られていたという。
染飯とは、くちなしで強飯(こわめし)を染め薄く小判型にしたものであったという。

千貫堤
 その向かい側の道を少し入った所に、千貫堤の案内板が建つ。
それによれば 寛永12年(1635)田中城主となった水野監物忠善は領内を大井川の洪水から守るため、ここ下青島の無縁寺の山裾から南、350mに.わたり、高さ3.6m、巾29mの大堤防を一千貫もの労銀を投じて増築したという。

育生舎跡と田中藩領傍示石跡
 旧東海道は緩やかなカーブを描いて西に進む。しばらく行くと、右に空き地が残り、明治7年(開校された公立小学校 「育生舎」跡がある。
その後 尋常小学、青島学校と改称したという。
 信号を越えると、左側に再び田中藩領を示す傍示石の跡の説明板が立っている。

松並木と青島酒造
 松並木が再び現れ、右手奥に蔵がある青島酒造がある。江戸中期の創業といい、入口に「喜久酔(きくよい)」という看板が掛かっている。

常夜燈
 その先で東光寺谷川を渡ると、川沿いの道を入った所に小さな祠があり、中に秋葉山常夜燈が置かれている。
天保4年(1833)と刻まれており、元の形がしっかりときれいに残っている。普通の道路わきに立っているものに比べると、やはり、祠に納められてきたからであろう。

祠の左には、明治天皇小休止址の石碑が立っている。

松並木と上青島一里塚
 その先には結構長い松並木が続き、左側は田圃が広がり東海道本線が並行してその奥を走っている。左側に藤枝市の「上青島の一里塚」という道標が立ち、そのすぐ先の駐車場の入口に『一里塚址 南約十米道路東円形にて約百二十平米』と刻まれている石柱が立っている。
 

島田宿へ・・栃山橋を渡る
 まもなく旧東海道は国道一号線と合流し島田市に入る。2kmほど進むと大津谷川に架かる栃山橋を渡ると左に小さな真新しい説明板がある。
昔は島田川とよばれ、江戸時代の栃山橋は土橋で、長さ17間(36.6m)横幅3間(5.4m)という。この橋の東側が、当時の道悦島村と島田宿の境となっていたという。

すご先の小さな用水路の脇に説明板がたち、「田中城主であった水野監物(けんもつ)忠善が、島田宿を支配下にした時に、大井川の水を引いて灌漑用の水路を作り、農民たちはここを監物川・監物橋と呼んだという。」

蓬莱橋
 100mほど行った御仮屋の交差点から旧東海道は左に分岐する。大井神社の御仮屋(旧社)があったことからついた地名という。数百m進んで本通り7丁目交差点を過ぎたあたりから宿の名残が出てくるが、ここから南に寄り道して大井川にかかる蓬莱橋を訪れた。
 約700mほど進むと、大井川の北側土手に突当る。そこから対岸に向かって木橋が架けられている。約900m、幅3m弱という木橋で、真っ直ぐに進む木橋は壮観である。有料:100円で、川の中ほどまで出かけた。
 対岸の丘陵は牧ノ原の茶畑で、島田宿と開墾された茶畑を往来できる橋として明治12年(1879)に造られた。

島田宿-今の街並み
 もとの道まで戻ると、すぐ左側に「江戸時代の島田宿」という立て札状の説明板が立つ。
慶長6年(1601)東海道成立後、慶長9年(1604)頃大井川の大洪水のため北の「元島田」に一時移ったが、元和元年(1615)元の地に戻ったという。宿内(道悦島村境から大井川堤まで)の長さ:34町53間、宿内の東西の長さ:9町40間(約1.1km)、天保14年(1843)のデータ:本陣:3軒、旅籠屋:48軒、総家数:1,461軒、人口:6,727人 という。


島田一里塚
 すぐ先の右側に立て札と島田宿一里塚跡の石柱がある。
それによると、天和年間(1681~84)に描かれた最古の「東海道絵図」の中で、江戸から50里と記され、北側の塚しか描かれていないという。
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島田刀鍛冶の由来 石碑
 本町5丁目交差点の手前左側に大きな石碑が立ち、島田刀鍛冶の由来を説明している。室町時代から江戸時代末期までの400年間、義助・助宗・広助を主流とする島田鍛冶が、今川、武田、徳川氏などから高い評価を得ていたという。
ここは「お手許の槍」で名高い義助の屋敷跡といわれる。室町末期の連歌師宗長は義助の子であったといわれる。

問屋場跡石碑
 すぐ右には、問屋場跡の石碑があり、説明版が立つ。問屋場の敷地は、間口10間(14.5m)、事務所は間口5間半(10m)で奥行き5間(9.1m)の建物で、常備人足は136人、伝馬は100匹であったという。

交差点を渡った角に、日本初の施設天文台の施設が開設されたというモニュメントがある。

おび通りと下本陣跡
 交差点から100mほど先に新しく整備された『おび通り』が南北に通っている。入口にはからくり時計が建ち、そこに「島田宿本陣跡」の詳細な説明板がある。
おび通りがある地点に下本陣があり、西に中本陣、上本陣と3軒の本陣があったという。
(建坪は、上本陣:262坪、中本陣:244坪、下本陣:271坪)
通りを西に向かうと、島田宿本陣跡-中本陣、すぐ先に-上本陣と刻まれた小さな石柱がそれぞれビルの角に立っている。

島田御陣屋(代官所)跡
 おび通りの奥に御陣屋跡がある。島田宿には駿河国-志太郡 や 遠江国-榛原郡 などの幕領(天領)を支配する御陣屋(代官所)が設置されていた。元和2年(1616)駿河城主徳川頼宣の代官であった長谷川藤兵衛長親の屋敷が始まりで、息子の長勝が寛永19年(1642)に幕府の代官職に任命されたという。
 更に奥には、御陣屋稲荷がある。代官長谷川藤兵衛が陣屋内にあった稲荷社を初午の日に町人に参拝できるようにし役人の悪行を申し出るようにしたことから、「悪口稲荷」といわれる。
境内には悪口コンテストが掲示されていた。その一つ:「姿見に 体はみだし 2歩さがる」

芭蕉遺蹟と句碑
 中本陣跡の向かいに、芭蕉翁遺跡-塚本如舟邸跡石碑が建ち、その先本町2丁目交差点の北東の角に大きな句碑が建っている。
塚本如舟(通称:孫兵衛)は元禄の頃川庄屋を勤めた島田の名家でもあり俳人でもあり、芭蕉は元禄4年(1691)、7年と如舟邸を訪れ句を残している。
・・さみだれの 空吹きおとせ 大井川

宗長庵跡
 交差点から外れて島田駅北口広場の西にある宗長庵跡に行く。
宋長の説明板や句碑、芭蕉の古碑などが建っている。
 この場所は、塚本如舟が、庵を営み島田宿の俳人たちと諷詠を楽しんでいたところで、宗長法師を慕い宗長庵と名付けられた、という。
宗長は、鍛冶職人五条義助の次男で、連歌師宗祇に師事し、宗祇没後は連歌師の第一人者となり、晩年は丸子宿吐月峰へ草庵「紫屋(さいおく)」を営み,過ごしたという。

道標
 元の交差点に戻り西に進む。次の信号のある交差点左角に道標が立つ。
石柱の4面に文字が刻まれている。「東 六合村境迄十八町十六間 青島町二至ル」「西 大井川渡船場迄十五町四十間 金谷町二至ル」南、北もあるが、島田駅ができて、大井川の橋の流失後の後、船渡しの間の明治の後半から昭和初期の間の道標という。

大井神社

 

 その先に大井神社の長い参道がある。由緒によれば、貞観7年(865)の大井神との記録があり、大井川鎮護の神として創建され、この地には東海道の宿場として固まった元禄初年(1688)に移転。
3年に一度行われる「帯まつり」は日本の三大奇祭と一つである。
参道の両側には、江戸時代大井川川越稼業の人が川原から持ち帰って築いたという石垣があり、正徳3年(1713)造られたという石の太鼓橋がある。
      

大善寺 梵鐘
 しばらく行くと交差点手前に大善寺がある。境内の奥に鐘楼があり、天明2年(1784) 時の鐘として造られ、昼夜六時(2時間おき)に刻が知らされ、明け六ツ(日の出)と暮れ六ツ(日の入り)の鐘の音は、川越しの始まりと終わりの合図ともなっていたという。(今の鐘は戦時中の供出の後、復元されたもの。)

川越遺跡




 東海パルプの工場を過ぎて二叉路を左に進むと、いよいよ大井川の川越遺跡の町並みが始まる。
 
 大井川は川越人足による川越で、江戸の守りのために架橋しないのは家康の遺志であるとして、元禄9年(1696)の制度が確立して以来、明治3年(1870)まで続いた。

川越は川会所で川札を買い、川越人足に渡して肩車や連台などで越すという方法で、島田・金谷それぞれで、350人の川越人足が定められており、後には650人にまで増えたという。

道の両側に番宿などの建物が復元整備されており、当時の面影を良く残している。一部は民家として使われている。

 川会所: 川庄屋や年行事などの役人がが詰めて、
       川札の発行などの業務を行った
 番宿:  川越人足が待機していた
 立会宿: 人足頭が会合する
 札場:  川札を換金するところ

川留は、水深が4尺5寸(約136cm)を越えると川庄屋が決定、平均して年間50日ほどあったという。
<川会所>
 島田大堤の手前に川会所がある。安政3年(1856)に建てられ、その後数回移転されたが、当初の位置に近い今の所に復元・保存された。川越に関する興味ある展示が多くある。 

川札の額:1枚
肩車:股通-48文(約1,440円)
    脇通-94文(約2,820円)
連台:川札2枚分~32枚分

←大高欄連台    
             平連台→

島田大堤と八重枠神社
 
 川会所の先に堤防がある。大井川は慶長の大洪水(1604~05)で決壊し島田宿はすべて押し流され、その後島田代官長谷川藤兵衛長勝の頃、復興が本格化し、正保元年(1644)頃までに大堤が完成したという。
 その先に、八重枠神社がある。宝暦10年(1760)の創建で、ここに大井川の出し堤防のがあり、増水の時に蛇籠に石を詰めて杭で固定し幾重にも並べて堤防を守ったという由来からきているという。

関川庵(かんせんあん)
 川越遺跡を見たあとで、少し戻り、北側にある関川庵にいく。(街道から200m弱)
入って左に、八百屋お七の恋人である吉三郎の墓がある。お七が鈴が森で処刑された後出家して諸国を遍歴するうちに、島田宿で没し、ここに葬られたという。

朝顔の松公園
 もとの島田大堤まで戻ると、右手に島田市博物館があり、左には朝顔の松公園が広がる。
江戸後期に作られた朝顔日記の物語にちなむ。
・・・盲目になった深雪=朝顔がようやく探し当てた恋人を追いかけたが大井川の川留なり、飛び込もうとして助けられ目が見えるようになった。最初に目にしたのが大きな松であった・・・のちにクリックすると拡大浄瑠璃「生写朝顔話」として上演され、朝顔の松と呼ばれたという。

 近くには川越遺跡の様子が分かりやすく掲示されている→クリックすると拡大

大井川
 大井川の土手を500mほど北上し、大井川橋を渡る。明治9年(1876)に一部、明治16年(1883)に全部を渡る木橋が架けられたが、明治29年(1896)の洪水で流失した。その後、船渡しとなり、昭和3年(1928)に完成した。全長1,026m。

水神公園
 橋を渡って下流にいくと、旧東海道を示す標識があり、土手を下って西に進むと水神公園があり、「金谷宿川越し場跡」の説明板が、西側の川越し様子を解説している。
←クリックすると拡大

東橋(八軒屋橋)
すぐに東橋(八軒屋橋)を渡るが、ここが、金谷宿の入り口でここから川越の施設が並んでいた。  
その先に右側に、「旧加藤家」の跡地という立て札が立っておりこの辺り川会所もあったという。

宅円庵と日本太郎左衛門の首塚
 旧街道からはずれて、すぐ先の道を南に向かい、200mほど先の宅円庵に行く。新金谷駅の裏側に位置しており、慶安4年(1651)宅円上人の創建という。境内左に日本左衛門の首塚がある。京都で自首し、遠州鈴ヶ森で晒し首となっていたが、金谷宿の愛人おまんが持ち帰りここに葬ったという。

新金谷駅
 もとに戻り100mぐらいで大井川鉄道の踏切となる。その手前には秋葉神社があり、踏切を越えて左折するとすぐに新金谷駅がある。昭和2年(1927)開業の趣のある駅舎である。
ちょうどSLが戻ってきたところだった。

西照寺
 大代川を渡ると道は左にカーブして行く。右側奥に西照寺がある。慶長7年(1602)西本願寺と分裂した東本願寺13世宣如上人により、元和3年(1617)この地を東西交流の根拠地として草創された。(石碑より)
 その先には秋葉神社の祠がある。


    通りの景色→

柏屋本陣跡
 しばらく行った右側に佐塚書店があり、その前に佐塚屋本陣跡の木製のサインが立ち、すぐ先のJA金谷支店の前に柏屋本陣跡の説明板がある。
「金谷宿は、東の大井川、西の小箱根と言われた「金谷坂・菊川坂」や「小夜の中山」の難所を控えた東海道の交通の要衝であった。」という。
天保14年(1843)のデータによれば、本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠51軒、人口4,271人という。

定飛脚問屋(三度屋)跡
 その先左側に真新しい立て札が立ち、この辺りを田町とよび、通りの北側と南側に浅倉屋・黒田屋という定飛脚(じょうひきゃく)の問屋があったという。
定飛脚とは「三都定飛脚」といい、江戸と京・大坂を定期的に往復した民間の飛脚で、月3度(2日、12日、22日)出したことから「三度飛脚」、取扱所を「三度屋」と言ったという。普通は昼間のみ往来であるが、昼夜兼行の早便は、江戸・大坂間の到着期限を6日としたことから「定六(じょうろく)」とも呼ばれた、という。

金谷一里塚
 緩やかな坂が続き、JR金谷駅の100mほど手前に 金谷一里塚跡の立て札が立ち、脇に金谷宿の詳細な案内絵図が立っている。


旧東海道は、JRのガードをくぐり坂を上って行くが、本日の散策はここまでとする。
 散策日 2010年10月15日    藤枝駅―金谷駅
 参考
 「東海道五十三次を歩く」3     児玉幸多 監修