瀬田-大津 (近江八幡へ立寄り) 

   地図
①瀬田-大津


 

 今回の2日間の旅が旧東海道散策の最終である・
時間的に余裕があるので、以前から楽しみにしていた近江八幡に立寄り、また東海道のルートから少し外れるが、石山寺と三井寺も訪れることにした。
 最後の旧東海道の散策としては、いつもと違い非常にゆったりとした旅であった。

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 前回終了した石山駅の手前 近江八幡駅で降りた。

《近江八幡》

 近江商人で有名な旧市街地までは駅から遠いので、時間節約の為にタクシーで出かけた。
途中、サッカーの乾など近江八幡出身の今の有名人などを説明してくれる運転手に、なぜ東海道線の駅は旧市街からこんなに遠くに造られたのか、を質問した。東海道線の駅の建設の話の出たときに、駅ができると町が乱れ、汽車が通ると火事の恐れがある、ということで、近江商人たちが強く反対したためだ、という

 近江八幡は、秀吉の甥(のち養子になった)の秀次が天正13年(1585)に近江国の太守として八幡山に城を築いた際(18歳)、安土や近隣の住民を集め城下町として整備したことから始まるといわれる。
山麓の低地を掘削して内堀=八幡掘を築き、琵琶湖とつないで運河として利用し、往来する船を寄港させた。 
また、堀の南側に置いた町人町には、安土から多くの商人を移住させ、楽市・楽座の自由商業性を取り入れて大規模な商業都市を作った。    近江商人の始まりという。

  ・・・秀次は、5年後に尾張に転封し、秀吉の嫡男・鶴松が死去ししたのち、秀吉の養子となり、天正19年関白に就任した。・・・が、そののち秀吉に秀頼が生まれると、謀反の疑いをかけられ、切腹することになった(28歳)・・・


朝鮮人街道 石柱

 タクシーで市立資料館まで行ったが、直前に「朝鮮人街道」の大きな石柱を見つけたので、まずそこから散策をスタートした。

 室町時代から始まった「朝鮮通信使」は、江戸時代に復活し、将軍の交替や慶事があると、朝鮮国から国王の新書を持った祝賀使節団として派遣されるようになった。文化18年(1811)の断絶まで、合計12回行なわれた。
一行は 多いときには500人程ともなり、釜山から大阪、京-淀-を経て、中山道を通って江戸まで約1年をかけて往復した。
この道中、草津の先-野洲-から中山道を離れ、近江八幡、彦根を通った先で中山道に合流していったが、この道が「朝鮮人街道」と呼ばれた。京都に通じることから「京街道」とも呼ばれた。関ヶ原の戦いに勝った家康が上洛した際に通った道であり、大名行列の往来は許されなかったという。

旧伴家住宅
 ここから北の八幡堀に向けて進む。
 資料館の前にには、旧伴家住宅がある。「蒲生郡八幡尋常高等小学校」の木札も掛っている。
江戸初期から続く「扇屋」という豪商で、この住宅は文政10年(1827)から10年以上かけて建築されたという。

町の景色



























 資料館の東、「左 京街道」という石柱のある角から北に向けては、古い家並みが続く。 正面に八幡山が見える通りは、商家の近江八幡そのままの町が残っている雰囲気である。

<犬矢来のある屋敷>

<森五郎兵衛邸>  右手
 初代五郎兵衛は 伴家に務め、別家を許され煙草や麻布を商い、のち呉服・太物など取り扱いを増やし、江戸日本橋や大阪本町にも出店した。(現在は近三商事)





<旧西川家住宅> 左手
 西川利右衛門は、初代から昭和5年に11代が没するまで、約300年間に亘って活躍した。
 屋号を「大文字屋」と称し、蚊帳(かや)や畳表などを商い財をなし、近江を代表する豪商としての地位を築いた。

<八幡山の似合う景色>

八幡堀
 広いバス通りをこえると、八幡掘があらわる。そこの大きな説明板には40年ぐらい前の堀の写真がある。東に位置する神社入り口にも説明板があり、堀の歴史を描いている。

 八幡城の築城とともに造られた掘割は琵琶湖と結ぶ運河を含め、全長約5kmにおよび、当時はその全体を「八幡浦」と称されたという。
 昭和30年代の高度経済成長期で八幡掘はどぶ川のようになり、埋め立てや改修が計画されたが、市民運動の高まりにより、工事は中止され、市民の手による清掃活動などにより、昔の姿を取り戻してきたという。

 日牟禮神社に向かいながら堀の脇の散歩道を東へ進む。両側には、白壁の土蔵や旧家が並んでいる。

<白雲橋方向に向かう堀>    <橋の東側>

日牟禮八幡宮
 白雲橋で堀を渡るが、すでにそこは日牟禮八幡宮の参道で、その奥に八幡山に上るロープウエーがあり、八幡山城跡まで行くことができるが、次回の楽しみとした。
右手に 歴史を感じさせる大きな楼門がそびえるように立っている。(ただ 周囲に七五三の幟などが多く立っているため荘厳さがなかった)
拝殿の奥に本殿がつづき、天正18年(1590)以来続いている「左義長祭」の詳しい説明板がある。

 八幡宮のHPによれば、131年の草創といい、15代応神天皇が近江に行幸の際、ここに御座所が設けられ、のちにこの場所から日輪の形が二つ見えるとのことから「日群之社(ひむれのやしろ)八幡宮」と名付けられ、そのご「日牟禮」と改められたという。
秀次が八幡山城を築城のおり、上の社と下の社が合祀され以後、近江商人の守護神として崇敬を集めることになった、という。
 

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 近江八幡の駅まではバスで戻り、JR石山駅から京阪石山坂本線で終点までいき、石山寺を訪れた。

《石山寺》

 石山寺は、天平19年(747)に東大寺開山・別当の良弁が如意輪観音をこの地に祀ったのが始まりという。 その後天平宝字5年(761)から、国家的事業として堂宇の拡張・伽藍の整備がおこなわれ、鎌倉時代には現在ある配置が整ったとされ、兵火に合わなかったため、建物、文書など貴重な文化財が多数残っている。
「近江八景」の一つ「石山秋月」で知られる

石山寺 東大門
 参道入り口に左右に仁王像を置く東大門がある。
 建久元年(1190)源頼朝の寄進により建てられたとされ、その後慶長年間(1596~1615)に大規模な修理・改造が加えられている。


日曜日で紅葉のシーズンであり、参道には多くの参拝者がカメラを向けていた。

石段を上っていくと最初の広い境内広場があり、その右手に安永2年(1773)建立の毘沙門堂がある。

石山寺 硅灰石
その奥に雄大な岩がそびえている。硅灰石といい、説明板によると、「石灰岩が地中から突出した花崗岩と接触しその熱作用のため変質したもの」という。
この上にわずかに見える多宝塔と、紅葉と、太陽に映える石の白さが絶妙な景色を生み出している。

石山寺はこの硅灰石の巨大な岩盤の上に立っており、寺名の由来にもなっている。
国の天然記念物となっている。

石山寺 本堂
 硅灰石の左の石段を上ると本堂がある。本堂は、正堂(しょうどう・・内陣)、合の間、礼堂(らいどう-外陣)からなり、そのうち正堂は火災で焼失し、18年後の永長元年(1096)に再建されたもので、滋賀県最古の建築という。他の2つは慶長7年(1602)淀君の寄進によって建て替えられたという。
合の間の端には「紫式部源氏の間」がある。

 さらに石段を上がると、三十八所権現社本殿がありそのさきの校倉造りの経蔵の裏には、紫式部の供養塔もある。


石山寺 多宝塔
 さらに石段を上がると多宝塔がある。
頼朝寄進による建久5年(1194)建立の二重の塔で、「上下左右の広がりが美しく、均斉のとれた造り」で、日本三大多宝塔の一つという。
 西側には、頼朝と亀ヶ谷禅尼の供養塔といわれる宝篋印塔がある。高さ128cmで南北朝時代のものと推定されるという。



<鐘楼-鎌倉時代後期の造り>









<石山寺からの帰り…瀬田川の景色>

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石山駅までもどり、前回終了した旧東海道の散策を続ける。

今井兼平の墓
 石山駅の北口で降り、東海道を歩く前に、駅の西側=左側200m程行ったところにある今井兼平の墓を訪れる。
 兼平は、木曽義仲の腹心の武将で、寿永3年(1184)源義経・範頼軍と近江の粟津で戦い、討死した義仲の後を追って自害したという。
 膳所藩藩主本田俊次が、死んだ場所に(墨黒谷)に墓碑を作ったが、その後、次の藩主が寛文6年(1666)参拝の便を考えて、粟津の松並木に近いこの場所に墓を移設したという。

石山駅まで戻り、道なりに進んJRで分断された旧東海道の続きに合流する。

粟津の松並木跡
 しばらく行くと、左手の工場と粟津中学校の間の道はきれいに舗装されているが、当時は松並木が続き、近江八景「粟津の晴嵐」として知られた景勝地であった。300m程進み、三叉路を右に少し行くと琵琶湖岸に出る。膳所藩主 本多俊次が瓦ヶ浜御殿を造営し、この付近は御殿浜と呼ばれるようになった。

膳所城 勢多口総門跡
三叉路まで戻り、西に進む。
道が左にカーブする地点に「膳所城勢多口総門跡」という小さな石柱がある。
ここから膳所城の城下であったという。

京阪線の踏切を過ぎると、若宮八幡宮があり、その先のT字路で右折し東海道はまっすぐ北に向かう。再びT字路で左折し、少し先で右折して北に進むが、その先の信号を東に進んだ琵琶湖畔に膳所城跡がある。
そこまでの道筋には神社・お寺が多くならんでいるが、それら一部の神社に膳所城の城門が表門として移築されている。(明治3年(1870)の取り壊しにより移されたもの)

城門-1 若宮八幡神社
 膳所城本丸の犬走り門を移築
大棟の背面に切妻造りの両袖の屋根を突き出した高麗門
大棟の両端は鯱と鬼瓦
江戸時代初期の建築

 神社は白鳳4年(675)の創建という。

城門-2 篠津神社
北大手門を移築
高麗門形式
慶長年間(1596~1615)の建築

 神社の創建は不明だが古くは牛頭天王と称し、康正2年(1456)の棟札があることから室町時代には存在しており、また社殿は万治4年(1661)の築という。

城門-3 膳所神社
 二の丸から本丸への入り口にあった本丸大手門を移築
棟筋と扉筋とが同一の垂直面にない薬医門
明暦元年(1655)の築。

 神社は天智天皇が大津の宮に遷都の際この地を御厨所に定め、天武天皇の代に食物の神-豊受比売命を勧請したという。

膳所城までの道の景色
 途中、連子格子 ばったり 虫籠窓を持つ民家がある。
 また、大養寺の山門は、膳所城城下の由緒ある門の一つとして残っている。

中大手門跡
 信号のある交差点に来ると、左手角の建物の植え込みに「膳所城中大手門跡」の小さな石柱がある。この付近に中大手門があったという。
 この交差点を左に向かうと、前述の膳所神社があり、右に向かうと膳所城跡がある。
約200mで膳所城跡公園で、入り口には復元された城門がと大きな説明板・見取り図がある。

膳所城跡
 琵琶湖に突き出た部分が本丸/天守閣、その東側に二の丸、三の丸があった。
慶長6年(1601) 徳川家康が東海道と、琵琶湖での船運を抑える目的で、藤堂高虎に計画させ、諸大名に築城させたもので、の第一号の白で、別名石鹿城。
膳所藩主初代は戸田一西で、何代か経て本多俊次となり、以後本田氏が幕末まで続いた。

 公園の西側に石鹿地蔵尊がある。
元亀2年(1571)比叡山延暦寺を焼き討ちにした際、そこにあった石地蔵(現在約60体)をおろし、明智光秀に命じ坂本城を築かせ城の礎石にした。
その後大津城に使われ、のちに膳所城に移されたという

<西側から見た琵琶湖畔>

道の景色
 もとの交差点に戻り、北に進む。
すぐ先 左側に連子格子、虫籠窓の民家ある。
ばったり、犬矢来がある。


 しばらく先に、和田神社がある。
鳥居の奥に表門があるが、膳所藩校遵義堂の門を移築したという。

和田神社 本殿
 
白鳳4年(675)の創建で、時代とともに呼び名が替わってきたが、明治元年(1868)に和田神社の名前が付けられた。
拝殿の奥に、透かし塀に囲まれた本殿がある。
 説明板によると、「本殿は一間社流造の小さな社殿で、正面に軒唐破風をつけ、屋根は檜皮葺(ひわだぶき)で、棟から前後の軒先へ流れるような線をだし」 「側面のすっきりした美しい蟇股(蟇股)などの細部は鎌倉時代の様式をよく残している」という。
<正面側の蟇股>     <裏側の側面にある蟇股>
      

石坐(いわい)神社
 すぐ先で左にカーブして響忍寺の山門となっている長屋門に突き当たり、右折、相模川という小さい川を渡るとある。

 天智天皇の頃から始まるといい、延喜式に近江国滋賀郡八社のひとつに数えぞえられていた。
本殿は平唐門と塀で囲まれた「三間社流造」で屋根は檜皮葺、、建築年代は文永3年(1266)という。

膳所城 北総門跡
 200m程先で道がゆるやかな鉤形になっているところに「北総門跡」の石柱がある。
大津口総門ともよばれて、膳所城下の京都側からの入り口であった。(江戸側は勢多口総門)



 その先に連子格子の民家があり、鉄柵で保護されているが、道路との境をみると、旧東海道の道路面が結構かさ上げされた様子がわかる

義仲寺(ぎちゅうじ)
 この名は木曽義仲を葬った塚のあるところからきており、
室町時代末に佐々木六角氏(高頼?)が建立したと伝えられる。(義仲はこのあたり-粟津ヶ原で範頼・義経と戦い31歳で討死した。)

 境内中央に木曽義仲の供養塔-宝篋印塔が建ち、その横には、妾であった巴御前の供養塔が説明板とともにある。
巴御前は、石山駅近くに墓があった今井兼平の妹で、義仲の死後鎌倉幕府に捕えられ、和田義盛の妻となった。その死後、尼僧となり各地をまわり木曽に帰る前にここに草庵を結び供養したと伝わる。、

 芭蕉がたびたび訪れたといい、弟子が建てた墓-芭蕉翁と刻まれている自然石がその脇にある。

石場の渡し場跡
 200m程先に大津警察署の建物-裏側-付近に左から拡張された道路が合流してくるが、その角に「石場の常夜燈」説明板があったというが、見つからなかった。
 この付近は、石場の渡し場があったところで、草津の南の矢橋追分を経由して矢橋湊から来る琵琶湖の渡しが到着していた。
 
 少し先の京阪線の踏切を過ぎた先に「呼次松の由来」・・・渡し場には一株の松があり、船頭が根元で呼んでいた・・・の説明板がある。

大津宿へ
 左に分岐して緩やかな上りとなり、歴史のある家が少し続く。
この付近には「石場一里塚」があったという。-標識はない。
ここから大津宿に入る。
 大津は奈良時代から「古津」と呼ばれ交通の重要な拠点であった。 667年には中大兄皇子(天智天皇)が遷都して大津京を開き、壬申の乱の舞台となった。
 天正14年(1586)には秀吉が大津城を築き城下町となり、また、江戸時代は天領として大津代官が支配、琵琶湖の水運を利用した近江商人の町としても栄えた。東海道/中山道のほか北國街道の宿場でもあり、東海道最大規模の宿場となった。
 天保14年(1843)データ:
本陣-2、脇本陣-2、旅籠-71軒、家数-3650、人口-14892

平野神社
 左に入る坂道があり、上っていくと平野神社がある。
由緒によると天智天皇が遷都した後の668年頃、藤原鎌足が大津京の近くに創建したとある。平安中期の村上天皇(946~967)の頃、蹴鞠の技芸が盛んに行われたという。
手前の坂の左側には、文久元年(1861)建立の「蹴鞠之神社」と刻まれた石柱と、宝暦4年(1754)の灯籠がある。



東海道の名残を示す石仏
    

道の景色
 旧東海道は優雅な滋賀県庁を左に見て京町に入る。
このあたりは京都への道筋ということで京町通りとよばれ、道の両側には、昔から続いてきたと思われる商店が続いている。
   

大津事件
 左手の角に、小さな石柱に「此附近露國皇太子遭難之地」の石柱がある。
 明治24年(1891)来日していたロシアの皇太子が琵琶湖から京都への帰途、警備にあたっていた巡査切り付けられた大津事件の現場である。




<家並み>
    

札の辻跡
 京町一丁目交差点にでる。 
 札の辻で、ここで東海道は左折する。北国街道は直進していく。
ここには高札場や、宿場の人足や伝馬を調達する人馬会所が置かれた。

    <路面を走る京阪京津線>

大塚本陣跡
  緩やかな坂を上っていき、路面の線路が右へ分岐している先の左側に「大津宿本陣跡」の説明板や石碑などがある。
この道は「八丁筋と呼ばれ、本陣2軒、脇本陣1軒が置かれ、また旅籠などが多数軒を連ねていた」という。
 「札の辻からこの先の上関寺町(京阪線を越えた先の安養寺のあたり)までが八町(870m)あったから、または八か町あった」 ことから八丁筋と呼ばれたという。
ここには大塚本陣があった。

長安寺
 200m程先を右手に入り、京阪京津線の踏切を過ぎて、石段を上り、長安寺を訪ねる。
長安寺の前身の関寺は創建不明だが、逢坂の関の近くにあり、平安時代の日本三大仏のひとつ関寺大仏が特に有名であったという。慶長の兵火で焼失、寺の名称を長安寺と改めた。
今は小さい本堂が立つのみである。

<石造宝塔>
 境内へ石段の途中に巨大な石塔がある。
高さ3.3mで、鎌倉時代の初期に造られた石造宝塔で、「関寺の牛塔」と呼ばれる。
夕方 あたりが薄暗くなっころで、斜面にある狭い境内で、宝塔の巨大なつぼ型の塔身が白っぽく輝き、圧倒的な存在感であった。
 説明板によると、天延4年(976)の大地震で破損した関寺を復興する時に資材を運搬した1頭の牛が仏の化身であるという噂がたち、死後供養し祀ったのがこの牛塔であるといわれている。
 
<百体地蔵>
 本堂の脇に「百体地蔵」と刻まれた石柱がたち、多くの石仏が置かれている。元亀2年の比叡山焼き討ちで比叡山麓に埋もれていた地蔵が百体集められたものという。 



その奥には小野小町供養塔もある。

旧東海道の八丁筋に戻り、今通ってきた琵琶湖方面を眺めながら、JR大津駅へ向かった。






 散策日 2013年11月23日    JR石山駅 - JR大津駅
 参考
 「東海道五十三次を歩く」 5        児玉幸多 監修