石部-瀬田 

   地図
①石部-手原 ②手原-草津 ③草津-瀬田


 

石部宿の西はずれに位置するJR草津線石部駅を出発する。

道の景色




 左側の小さな川に沿って行くと「ゴーシュウ」という工場の敷地が広がる。東海道はここで、左折して左手の丘陵地帯に進んでいく。
 西に直進する道は、天和3年(1683)野洲川の洪水で通行不能になるまでは東海道として使われたいたが、左への道が新しく開かれ本道となり、その後、直進する道も脇道として利用されたという。
(←左に入る道)

 小さな集落を抜けた先は大規模が道路工事が行われている。名神高速の高架下を出て高速沿いの道を北に向かう。
 間もなく正面に三上山が見えてくる。近江富士と呼ばれる円錐形の整った山である。
藤原秀郷(俵藤太)による大ムカデの退治伝説がのこる。
これから先の道でも目立つ存在である。

 しばらくすると、東から高速を抜けてくる道(石部駅の先から直進してきた東海道の脇道)とぶつかる。
ここからJRと並行して進むが、旧東海道そのままの細い道を、通勤する車が数多く往来し注意が必要だ。


徳生寺
 集落が始まり、左手の山門の奥に広い境内が続く浄土真宗徳生寺がある。
境内には五輪塔や石仏があり、本堂の右手奥に非常に保存状態の良い宝篋印塔とその説明板がある。
高さ223cmで、鎌倉時代後期の作という。

道の景色
 道の北側の田畑の先、JR草津線の奥に近江富士がある。
ここからの景色が端正な姿とよく似合う。
 
 その先には近江八景と同様に栗東周辺の栗太郡を範囲として選ばれた栗太八景の一つ伊勢落晴嵐の石碑が立っている。

<弁柄格子のある民家>

新善光寺への道標
弁柄格子のある民家の脇の道に石柱があり、「新善光寺道 従是・・一丁・・(下部が埋もれている)」とある。東海道のこの先300mほどにも、道標があるということで、東海道から離れ、次の道標まで回り道をして、寺を訪れることにした。(→右写真)
 こちらの道標はもっと大きく、「新善光寺道 是より一町餘」とあり、その脇に明治24年((1891)の常夜燈が立つ。

新善光寺
 JR線を越えて近江富士を眺めながら進むと、山門前大きな山門がそびえるように立っている。
その前に「栗東八景-彼岸の繁華・・・木洩れ日の新善光寺」という看板がある。
 新善光寺は、平重盛の一族がこの地に逃れ住み、平家一門の菩提を弔う為に信濃の善光寺へ参詣、発願成就ののち、建長5年(1253)に如来堂を建立したのが、始まりという。

長徳寺
道標から100m程戻り、長徳寺に行く。
門前に「栗太八景」の「上野夜雨漢詩」を記した大きな石碑が立つ。

その脇に建つ薬師如来堂の石柱の横に「従是東膳所領」という傍示石が立つ。

法界寺-六地蔵
 その先で六地蔵という名の集落に入り、正面に「国寶地蔵尊」の大きな石碑とその奥に山門が見える。
平安時代作といわれるヒノキの一木造り地蔵菩薩立像が本尊とされていたが、無住となったため、この先の福生寺にうつされている。(今は国 重文)
ここの地名となった六体の地蔵像のうちの一体と伝わる。

福生寺 多層塔
 六地蔵尊跡で左折し、古い民家の反対側に福生寺がある。

 境内右の松の木の奥に、石造多層塔がある。鎌倉末期の作という。(もとは9層であったという)

寺の敷地は南北朝時代以降信長の時代まで六地蔵城が存在した跡という。

和中散本舗 大角家
 その先で緩やかに右にカーブしているが、その正面に大きな、長い屋敷がそびえるような感じで存在している。
 漢方薬「和中散」の製造・販売をしていた大角弥左右衛門家の店舗、住居、製薬場の建物で、間口67尺(20m)、奥行62尺(16m)という。元禄年間(1688~1703)の築で、東海道筋の民家としては最大級という。
 手前の門のあるところは、同時に増築された茶屋本陣部分である。


長い店先の右側の軒下には「ぜさい」の看板がかかっている。
「江戸名所図会」に『ここに梅の木あり、その木陰にて和中散を製し旅人に商ふ。本家をぜさい(是斎)といふ。初め織田氏と号して、元和元年医師半井卜養が娘を娶って和中散小児薬の奇妙丸などの薬法を授かり、長く商ふ」と記されているという。
このあたりに和中散を扱う店が4~5軒あったが、ぜさいの店舗が本家とされたという。


<大角家住宅>
 道の向かい側は、大角家の住宅隠居所で、向かいの本屋が本陣として使用されている間、家族の住居に充てられた建物で、江戸中期の築という。




六地蔵一里塚 と道の景色
 右にカーブしたところに一里塚の石柱が建ち、脇に大きな石碑がある。石碑には このあたりの六地蔵村の様子を描いている東海道名所図会の「梅の木」が、彫り込まれている。
 連子格子の家などが残る中を進んでいくとちょっと変わった松の木が一本立っている広場があり、奥に小さな堂や石仏のある。
地図には西厳寺とある。

里内家住宅
 名神高速の高架をくぐると、歴史のある建物が並んでいる。
「明治5年(1872)創業 里内呉服店」という大きな暖簾が掛っている。
となりは、「手原醤油 塩屋藤五郎」の屋号札のある蔵と建物。


稲荷神社
 その先の左角には、赤く塗られた囲いと常夜燈などが立つ稲荷神社がある。
由緒によると、「寛元3年(1245)にこの地を馬淵広政がこの地を領し、創建し、以後 子孫は手原氏と称した」という。

道の景色  代官屋敷跡
 少し先の左側、奥まった所に長屋門のある建物がある。
代官屋敷跡といわれる



 道の両側に、近世の地主・農家の屋敷の特徴を残すという建物や、町屋の特徴のある建物が並ぶ。









 100m程先、道が左へカーブしていく手前に、石柱がたち、「すずめ茶屋跡」の標識がある。
石柱には、「石部(伊勢参道)」の文字がある。

足利義尚(よしひさ) 鈎(まがり)の陣
 真西に進んできた旧東海道はここから、南西に延びていく。
左手に上鈎池の土手が続く小公園に、「足利義尚公 鈎の御所ゆかりの地」の大きな石碑がある。
 9代将軍 義尚(のち義煕と改名)は、長享元年(1487)、領地の横領を繰り返し幕府へ反抗していた六角高頼を討伐するために近江に出陣し、鈎に陣を構えた。戦いは膠着状態となり、仮の御所として機能するようになった。義尚は1年半後に25歳で病死した。
陣所あとは、ここから西約200mの永正寺の所という。

金勝(こんぜ)川
 数百m進み左手に小さな山門の善性寺があり、寺の縁起には、「シーボルトが江戸からの帰途に寺を訪ね、スイレン・ウドなどの珍しい植物を見物した」とある。
 その先で、天井川の金勝川の土手に突き当たり、右折する。そこに立つ石柱には、「東海道やせうま坂」「金勝寺こんぜ」とある。(左に行くとやせうま坂)。
       土手に登り、西を望む

地蔵院 
 すぐ先の地蔵院の境内に、皇大神宮の碑と説明板がある。
天照皇大神宮、八幡大菩薩、春日大明神が並んで刻まれた石碑で、元禄年間亥年(1695)の建立で、神仏混交の時代の名残りであろうという。
目川にはいり、金勝川に沿って進む。


「目川村 油屋油丑 青木油店」の屋号札と、ひょうたんを展示してある店がある。「目川ひょうたん」として珍重され大いに栄えたという。

目川一里塚跡
 少し先の民家の前に、東海道一里塚の石柱と、一里塚の説明板が立つ。反対側にもある。
江戸中期の漢方医鎌田右内の邸宅「布袋館」跡という。

目川立場 田楽茶屋
 200m程行くと、「田楽発祥の地」という大きな石柱や「目川立場 元伊勢屋跡」という説明板が立つ。
ここで供された食事は地元産の食材の菜飯と田楽 で、独特の風味で東海道の名物になったという。
この先にも「古志″ま屋跡」、「京いせや跡」があり、これら3軒が田楽茶屋でここ岡の地に店を構えていたという。
広重の描いた石部宿は、この目川立場の風景といわれている。

国道を迂回
少し先で右に大きくカーブし、旧草津川の土手に沿って西に進んでいく。
 その先で2叉路となり左に入って堤防の道を進むが、さらにその先の2叉路をまっすぐ進むのが旧東海道であるが、国道1号線で分断されているため、2叉路の左に行って土手道を行く。
草津川橋を通り過ぎて右の土手を降りていくと、旧東海道の続きの道に出る。少しもどり、新屋敷公民館になっている建物が、世続地蔵堂がある。

旧草津川
 土手を上り、通り過ぎた草津川橋を渡る。
江戸時代 元文年間(1736~41)には天井川になっていたといい、河川敷を歩いて渡っていたという。
現在は金勝川合流地点から下流は放水路(新草津川)ができたため廃川となっている。

草津宿へ・・横町道標
 橋を渡ると右に土手を降りていく。右側に地蔵堂があり、左側に大きな屋根付火袋の乗った道標の石柱がある。草津宿の江戸方の入り口にあたり、元は反対側の土手側にあったという。
高さ3.9mで、文化13年(1816)に建てられた。
「右 金勝寺志がらき道」 「左東海道いせ道」と刻まれている。

 ここから草津宿にはいる。
すぐ先に横町地蔵の堂があり、道は緩やかな下りとなる。

草津宿
クリックすると拡大  平安時代から東海道と東山道(後の中山道)の分岐点として発展してきた。宿場として機能し始めるのは織田信長が天下統一の手始めとして領国の近江、尾張、美濃の三国の関所を廃止し、整備を進めてからという。徳川幕府の東海道の整備がされる前からの宿場であったため、宿場の道幅は本来の5間(9m)よりも狭い3間半(6.3m)であったという。
天保14年(1843)のデータ:本陣-2、脇本陣-2、旅籠-72軒、人口-2,351

追分道標
 道の突き当り右角に大きな道標がある。ここから西に向かっているのが中山道で、高さ4.4m(今は3.9m?)、石柱の上に銅製の火袋が乗っており、文化13年(1816)に建てられた。南面に「右 東海道いせみち」 西面に「左 中仙道美のぢ」とある。
  右折する中山道のトンネルの入り口に高札場が復元されているが、もとは道標の前に立っており、草津川の堤防が決壊する恐れのある時は、南にある立木神社に運ぶことになっていたという。
中山道への分岐

 中山道はここで土手をのぼり天井川である草津川をわたっていたが、明治19年(1886)にトンネルが完成、その後 新東海道が整備され、200m先を右折するルートができた。

寄り道して、中山道を少しあるく。
アーケードを通り、200m先右折したところに覚善寺があり、その前に明治19年建立の新しい追分道標が立っている。


宿の通り
 東海道はここから中山道と共通の道-本陣商店街-を左へ進む。
「東海道五十三次を歩く」によれば、「四日市、水口、この草津の商店街が三度目の屋根付きの東海道である」としているが、今回の旅で確認したのは、四日市のみで、この草津と水口はアーケードは取り払われていた。・・・それぞれの時代の移り変わりであろうか。

 (2008年の頃の写真では、この先の太田酒造のあ草津三丁目の商店街にはアーケードが写っている。)

草津宿本陣
 すぐ先に江戸期の内部の姿をほぼ完全に残している草津宿本陣がある。
材木業を兼業していた田中七左衛門家が寛永12年(1635)から明治3年(1870)まで本陣を営み、間口-14間半(26m)建坪-468坪、部屋数-39(268畳半)の建物で、現存する本陣のなかでは最大級のものという。

    白砂  玄関と広間→



上段の間まで続く畳廊下

宿の景色-脇本陣
 左側には脇本陣が並び、その先にはもう一軒の本陣跡のプレートがある。

営善寺
 三丁目の通りに入ると右が営善寺である。境内―駐車場ーの奥に本堂があるが、説明板によると、天平7年(735)良弁僧都の創建と伝えられ 草津最古の古刹といい、かっては堂塔伽藍も整っていたが、兵火・水害によって荒廃したという。
室町時代には「草津御所」とよばれて歴代将軍の宿舎ともなったという。

宿の景色-草津政所跡ー太田酒造
 左手に白壁の家並みが続く一画がある。
太田酒造の建物前に「政所」の説明板が立っている。
 大田家は問屋役や隠し目付をつとめるなど宿場の政治的中心になった家で、向かい側には問屋場・費目改所があって、この付近は草津の政所といわれてきたという。

費目改所は、旅人の所持品や蓬莱する荷物の重量を検査する関所的な役割を持っていて、東海道筋では、品川、府中、草津の三か所(中山道で、板橋、洗馬の二か所)しかなかったという。

立木神社
 信号を過ぎると右手に林が広がる。由緒によると、「神社の祭神である武甕槌命(たけみかづちのみこと)が、神護景雲元年(じんごけいうんがんねん)(767)常陸国鹿島を発ってこの地に着き、里人は社殿を創建して命を祀ったのが始まり」で・・・・「そこに手に持つ柿の杖を刺して枝葉が繁茂し、・その木を崇め、立木神社と称した」という。

 境内の中ほどに道標が保存されている。県内で最古の道標という。
 この道標は草津宿の文化13年(1816)の道標の前身のものと考えられ、延宝8年(1680)の銘がある。
「みぎハたうかいとういせミち」「ひだりハ中せんたうをた加みち」とある。

黒門跡
クリックすると拡大 100m程先で新草津川にかかる矢倉橋を渡る。手前に「黒門の由来」の説明板がある。
このあたりに、文化14年(1817)時点、草津宿の西見附である黒門が設置されていたという。
(草津宿の東海道筋の地図が描かれている→写真をクリック)

矢橋(やばせ)追分道標
 川を渡った先は 矢倉の立場があったところで、少し先の瓢箪の製造・販売の瓢泉堂の店の前に、道標が立っている。店の格子には立場、道標の説明板が掛っている。
 矢倉村には草津名物の「うばがもち」を売る店があり、草津の広重の浮世絵には、「うばもちや」の看板が描かれ、その店の軒下には道標が描かれている。

 ここからは、対岸の大津へと琵琶湖をわたる「矢橋の渡し」の渡し場である矢橋湊へ続く道が分岐しており、道標が立っていた。寛政10年(1798)建立で、「右やばせ道 これより廿五丁 大津わたし」とある。
矢橋湊は、近江八景の一つ「矢橋帰帆」として有名。
船で大津へ渡るのは、陸路(3里)よりも短いが、比叡おろしの風で進まないこともあり 旅人はここで 瀬田橋まわりか、矢橋湊かを思案したという。
室町時代の連歌師宗長は「武士(もののふ)の 矢橋の舟は早くとも 急がばまわれ 瀬田の唐橋」 と詠み、「急がば廻れ」の語源になった所である。という。

野路一里塚

 南にすすみ、国道1号線を斜めに横切る。すぐ先の道路に出る前の小公園に「野路一里塚跡」の石柱がある。
 その道路を迂回してすすむと、左手に教善寺があり、その向かいに長屋門のある民家がある。

平 清宗 の塚
 道が左にカーブしている右側に長い石塀のある立派な民家があり、その塀の上に「平清宗」「清宗塚」の説明板が立っている。
民家の中に入れせてもらい右奥に進むと、清宗塚がある。
 文治元年(1185)壇ノ浦の戦いで敗れ、捕えられた平家の総大将 平宗盛、長男清宗等は鎌倉に護送された。頼朝により追い返されて京へ戻る途中に、野洲篠原で宗盛が、この地で清宗が首をはねられた。ここに、清宗の供養塔が建てられた。

道の景色-新宮神社
 少し先に「野地町の史跡と遺跡鳥瞰図」という大きな案内図が掲示されており、その向かいに新宮神社の鳥居がたつ。
社殿は150m程先にあるが、奈良時代 行基が野路寺(今の常徳寺)創立の時に鎮護社として天平2年(730)に創建されたという。
鳥居の右に白く塗られた地蔵十数体並んだ祠がある。


すぐ先右の願林寺の山門
膳所城の長屋門を移築したという。

200m程先の道が2叉路となるところに、白塗りの石仏が5体ある。こどもを守ってくれる子守地蔵といわれ、信仰を集めているという。
・・・草津周辺には近隣の子どもたちが地蔵に石膏を塗り顔を描く風習があるといわれる。

野路 萩の玉川
 県道を渡り十禅寺川を過ぎたところに小公園があり、清流と萩が植えられ「萩の玉川」が復元されている。
平安時代から 日本六玉川の一つとして古くから歌枕に詠まれた名勝という。
また野路は平安から鎌倉時代にかけては東海道の宿駅として栄え、頼朝も上洛の際逗留するなど交通の要衝であったが、草津宿がクローズアップされてくるとともにさびれてきた。

日本六玉川
 ・高野の玉川 紀伊-毒水 和歌山県高野山
 ・卯花の玉川 摂津-卯花 高槻市三筒牧
 ・井出の玉川 山城-山吹 京都府井出
 ・野田の玉川 陸奥-千鳥 宮城県塩釜
 ・調布の玉川 武蔵-調布 東京都北多摩郡
 ・野路の玉川 近江-萩   滋賀県草津市

道の景色  弁天池~月輪池
弁財天神社
 道はゆるやかに左、右にカーブして進み弁天池の脇を通る。
昔からある農業用のため池という。
池の道よりに小さな島があり、弁財天神社がある。中には入れない。
江戸時代の盗賊日本左衛門が隠れたと伝わる。



月輪大池道標
 しばらく進むと工場地帯となり、右側に木製常夜燈に「ここから大津」、瀬田唐橋4.6kmとある。その先から比較的大きな屋敷がつづき、十字路に「名勝 月輪大池 南約一粁」という新しい石柱がある。 
 少し先の街道沿いにある下月輪池と隣の山ノ神池の三つの大きなため池が総称して月輪池と呼ばれ、名所図会にも紹介されて有名であったという。  すぐ先には月輪寺がある。

下月輪池-立場跡
 広く拡張された道路をわたると、下月輪池の脇に「東海道 立場跡」の石柱がある。
この付近に立場茶屋があった。

一里塚跡
 緩やかな下りとなり、小さな川を渡ると左側民家の塀に白く塗られた石仏の祠があり、そこからは緩やかな上りとなる。
上り切った広い交差点(瀬田駅に通じる)に大きな自然石の「一里塚趾」がある。

西行屋敷跡
 再び、緩い下り、上りを繰り返し、右に大きくカーブして道は真西に向かい下り坂となる。
はるかに見えるのは瀬田川を挟んだ先の山並みであろう。
瀬田小学校のグランドの南側土手の上のフェンスの内側に細い石柱がある。(小さくてよく見えない。土手には石仏もある)
坂を下りたところが十字路に、「西行屋敷跡」の説明板が立っており、地図がある。
諸国行脚の途中、この大江の地に住んでいたという伝承があるという。
 十字路を左折してまっすぐ南に向かい、400m程進んだところで、東海道→右折の標識が出ている。
そこに同じく「近江国庁跡 直進100m」の矢印があったので、立ち寄った。

近江国衙跡
 住宅地の中の坂道を上っていくと、広大な広場がひろがる近江国庁跡がある。
 奈良時代から平安時代後半まで全国68ヶ国に設置された役所で、ここは日本で初めて国衙としての建物跡などの全容が確認されたところである。前殿・後殿と東西の脇殿という建物を中心に東西2町(216m)南北3町(324m)からなっている。

 もとの東海道の道筋にもどり、西に向かう。坂道を下っていくと広い車道にぶつかり左折する。
 しばらくして県道に合流し、右折するといよいよ瀬田の唐橋のである。そこで左折して近江国の一之宮である建部大社を訪れる。

建部神社
 一ノ鳥居から続く長い参道の先、左手に広い境内が広がる。
日本武尊を祭神としてもとは神崎郡建部の郷にあり、その後天武天皇白鳳4年(675)瀬田に移転してきた。
 源頼朝が永暦元年(1160)伊豆配流の途中(14歳)に前途を祈願、建久元年(1190)上洛の際には宝物を寄進したという。


 本殿の右前にある石灯籠は、近江最古のもので、文永7年(1270)の建立。

昭和20年(17年?)発行の初の千円札には日本武尊と建部大社の社殿が描かれているが、発行枚数がすくなく幻の紙幣とされている、 という

唐橋手前周辺 
 元に戻り、唐橋に向かう。橋に近くなると、建物は新しいが昔からの由緒ある店が残っている。地蔵の祠や石仏のある祠、、「田上太神山不動寺」と刻まれた大きな道標などが立つ。


東詰交差点の信号を右に行くと、妙心寺の山門前に、谷口法悦の題目塔が立つ。

瀬田城址
 交差点を左折してしばらく進むと「勢田古城址碑」がある。
 永享年間(1429~41)山岡氏が築城、織田信長の入京後は城主の山岡景隆は織田方に属し、天正10年(1582)本能寺の変の後、安土城に向かおうとした光秀の誘いを断り瀬田の唐橋を焼き落としたという。
その後、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで、柴田勝家に組し、秀吉と敵対して所領を失い、廃城になったという。


橋守地蔵
 橋の手前は小公園となって、常夜燈、地蔵の祠、文化14年(1545)の道標「俵藤太秀郷社 川ばた半丁」 や、石柱などが立っている。



 少し離れて、橋守地蔵の祠が整備されている。
 室町末期の作とされる薬師如来が安置されている祠で、天文14年(1545)の唐橋の架け替えの際に橋の下に安置されていたものといわれる。

瀬田の唐橋
 いよいよ瀬田の唐橋を渡る。
京都を東をつなぐ要衝として、壬申の乱をはじめ多くの戦乱の舞台であり、また洪水などもあり、橋の架け替えが数多く行なわれ、現在の位置になった(中之島があり、大橋・小橋の二つがある)のは、信長の架橋の時といわれている。
近江八景の「瀬田の夕照(せきしょう)」で知られ、また吉田大橋・矢作橋とともに東海道3大橋のひとつである。

道の景色
 中之島には大きな俵藤太秀郷のムカデ退治の伝説の説明板があり、南側には信楽焼の像が立っている。
 
 橋を渡ると、橋姫龍神を祀った祠がある。






西詰交差点を南に向かうと石山寺である。
明日、訪れることにして、今回は、このまま東海道を進む。


 京阪電鉄唐橋駅前を過ぎ,その先の交差点を北に向かい、JR石山駅まで行った。



 散策日 2013年10月4日    JR石部駅 - JR石山駅
 参考
 「東海道五十三次を歩く」 5        児玉幸多 監修