大津-京都

   地図
①大津-山科   ②山科-三条大橋


 日曜日/紅葉シーズンであったため、三井寺の8:00の開門に間に合うように早めに京阪石山坂本線で三井寺駅到着した。


琵琶湖第一疎水


 三井寺駅を降りるとすぐ脇を琵琶湖第一疎水が流れている。
琵琶湖の湖水を京都まで流すために、このすぐ北にある三保ヶ崎から蹴上・鴨川まで作られた水路で、第一疎水は明治23年(1890)に完成した。水道・工業用水だけでなく、水力発電や水運にも利用された。
 100m程進んで、昨日通った札の辻から分岐してきた北国街道を少しの間歩くことになる。
この部分は道が広く整備されており、次の信号を左折して大門通りを進むと三井寺である。

<三井寺>

 三井寺は、正式には長等山園城寺(おんじょうじ)という。
壬申の乱で敗れた大友皇子の皇子 大友与太王が、父の霊を弔うために寺の建立を発願し、大友皇子と敵対していた天武天皇は、朱鳥元年(686)に許可、「園城寺」の寺号を与えた、という。
 三井寺の呼び名は天智・天武・持統天皇の産湯に、寺に湧く霊泉が使われたことから「御井(みい)の寺」と呼ばれていたことに由来するといわれる。
 9世紀に入ると、唐から帰国した円珍(智証大師)が貞観元年(859)に唐院を設置・整備し、再興した。以後皇室、貴族など幅広い信仰を集めて栄えた。
 境内の中の説明板はすべて園城寺で統一されている。

大門(仁王門)
 参拝客はまだ少なくゆっくりと参拝できた。

入母屋造りの楼門である。もと近江の石部町の常楽寺にあった門で、秀吉によって伏見に移され、慶長6年(1601)に家康の寄進により、ここに建てられたという。
もとの建立は、宝徳4年(1452)。

釈迦堂
 大門から金堂に行く道の右側にある簡素な建物で、中世寺院の食堂(じきどう)の様式を伝える。
秀吉による没収ののち、天正年間(16世紀末)造営の御所清涼殿を移築したという伝えもあるが、説明板では、室町時代初期の建築と推定されるという。

金堂

 石段の先に広い境内がひろがり、大きな威容をほこる金堂がある。
秀吉の北政所が慶長4年(1599)に再建した。
(秀吉により没収された本尊や宝物、堂宇は他に移築されたが、もとの金堂は比叡山延暦寺の釈迦堂として現存しているという。秀吉は死の直前三井寺の再興を許可したという)

<堂前灯籠-無名指灯籠>
 天智天皇が自らの左薬指(無名指)を切り込ん灯籠の下に納めたという。







 金堂の西側に接して「閼伽井屋」(あかいや)という小さな堂がある。その中に三井寺の由来となった霊泉がわいている。


<金堂の境内-全景>  金堂の右側(南東)に鐘楼がある
  



鐘楼+三井の晩鐘
 近江八景の「三井の晩鐘」のある鐘楼で、慶長7年(1602)に再建された。
宇治の平等院、高尾の神護寺と共に、日本三名鐘に数えられる。

一般の鐘楼と違い、周囲には下に腰板を廻らし、上は連子をはめている。


 金堂のある境内を少し上がった所に、弁慶の引き摺り鐘を収めた堂がある。
寺の初代の梵鐘で、奈良時代の作とされる。
田原藤太秀郷の三上山のムカデ退治伝説や弁慶の伝説など言い伝えが多くある。

唐院--灌頂堂と三重塔
 奥に 開祖智証大師円珍和尚の廟所 大師堂がある。
灌頂堂は、伝法灌頂の儀式を行う道場で、蔀戸(しとみど)がしつらえてある。
 三重塔は、室町初期の建築で奈良の比曽寺にあった塔を秀吉が伏見城に移築させ、後に家康が再度移築させたもの。

<唐院の前:村雲橋>      <観音堂への道>
   

観音堂
 南側にあり、緩やかな坂を上っていくと、元和2年(1616)建立という極彩色を施した毘沙門堂があり、さらにその先に大きな観音堂が建つ。西国霊場第十四番札所で、元禄2年(1689)に再建された。
 境内の端には、寿永3年(1849)建立の「観月舞台」があり、脇に謡曲「三井寺」の説明板がある。 

   <琵琶湖方面を望む>








<帰りの景色>








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 大津京の時代から存在し、、平安時代には比叡山延暦寺と対抗、秀吉に没収され、家康が再建に尽力・・・長い歴史を持つ三井寺を訪れた後の旧東海道の最後の行程である。
京都に近いせいもあり、江戸時代の東海道を歩くというよりは、もっと以前の「古道」をあるく感覚であった。

 三井寺駅から京阪京津線で上栄町駅まで行き、昨日終了した”八丁筋”を 山の方向に進んだ。
交通量の多い国道で、当分の間 歩道を歩くことになる。
 
 
 右側に風呂屋があるなど古くからある町並みで、少し先でJRの線路をわたる。
下を走るJR線は右奥で京阪線の下をくぐっていくが、その橋は大正時代にレンガできたものという。

関蝉丸神社 下社
 
 
 少し先に「音曲藝道祖神」と刻まれた石柱がある関蝉丸神社がある。
平安時代前期の貴族・文人である小野岑守が逢坂の関の鎮守として弘仁13年(822)に創建したのが始まりとされる。
その後平安中期の琵琶の名手であった「蝉丸」が逢坂山に住み、その死後、ここに合祀されたことから、音曲芸道の祖として信仰を集めるようになったという。
 
 境内に「時雨燈籠」と呼ばれる石燈籠が建っている。
説明板によると、「六角形の基礎には短弁の蓮華座が彫られ、六角形の火袋は簡素で火口一か所と小さな丸窓を設け、笠はうすく、わらび手はよく古式を留めている」という。
作成年代はないが、鎌倉時代のものとされる。

安養寺
 少し先で京阪線の踏切を渡ると安養寺がある。貞観4年(862)智証大師が園城寺別院として創建したという。
 山門前には「逢坂」を説明している石柱がある。それによると「日本書紀はによれば、神功皇后の将軍。武内宿禰(すくね)がこの地で忍熊王とぱったりと出会ったことに由来する、と伝えられている」という。

 その先で右に入る道の奥に「逢坂山ずい道東口」がある。明治13年(1880)竣工、大正10年(1921)まで東海道線下りとして使われたという。



 すぐ先で国道1号線が合流してくる。
日本橋からの距離 486kmを示している。

関蝉丸神社 上社
 名神道路高架下をくぐった先の右手の山の斜面に 上社が見える。 下社とともに逢坂の関の鎮守として創建された。
 すぐ先には弘法大師堂と名のついた小さな堂と、左側には「逢坂常夜燈」と刻まれた常夜燈が見える。(寛政6年(1794)建立という)

 



 峠道は右に大きくカーブしていく。下りになった附近の信号で横断し、旧東海道は少しの間1号線から分かれて進む。

逢坂山関址
 小公園と石碑と寛政6年(1794)建立の常夜燈が)がある。
 平安初期に古東海道が逢坂峠を通るようになり、弘仁元年(810)に関所が設置されたという。位置については詳細は明らかではないが、関蝉丸神社上社から関寺(現長安寺)の周辺にあったといわれる。
平安京を守る関所として美濃-不破、伊勢-鈴鹿とともに三関といわれ重要な役割を果たしてきたが、平安後期からは形骸化してきたという。

蝉丸神社と車石
 下り坂となり,道に沿って小さな集落がある。そこに蝉丸を祭神とした天慶9年(946)創建の蝉丸神社がある。上社・下社の分社という。

 石段下が小公園になっており、「車石」が敷かれ、説明板がある。
昨日のJR大津駅前にも詳細な説明板(車石・車道研究会)があった。(下記の絵)
この先の閑栖寺にも説明とサンプルがある。

車石について、
クリックすると拡大  大津と京都の間(=京津街道ともいう)には、この逢坂峠越えと山科の先の日岡(ひのおか)峠越えの二大難所があり、そこには、米穀など多くの重量物資を運ぶために18世紀初めには人馬道とは別に牛車専用の車道(くるまみち)が設けられていた。
 雨天時にはぬかるんで立ち往生することが多かったことから、18世紀半ば以降に車石が考え出され、車道の一部に敷かれたという。
           <閑栖寺に 轍が見えるように縦におかれてある車石>
 逢坂峠の車道には、文化元年~2年(1805~6)にかけて 横60cm、幅0cm、厚さ20~30cmの敷石が横並びに敷かれた。
 嘉永6年(1853)には一日に60~70輌の牛車(9俵積み)が米を積んで京都に向かい、深くえぐられた轍は自然にできたものという。
(車道は一つしかないので午前と午後で一方通行であった)
竹田街道、鳥羽街道などにも車石は使われていたという。

走井餅本家の石柱
 左側の民家の前の植え込みに「左 伏見奈良海道」「右 京三條みち」とある石柱があり、その先には「元祖走井餅本家」の石柱がある。両方とも新しい石柱である。

 間もなく旧東海道は大谷駅を過ぎて先で、京阪京津線で途切れ、歩道橋を渡って国道1号の左歩道を進む。

大津算盤の始祖の家
 しばらく行くと民家前に新しい石柱が立ち、「大津算盤の始祖・片岡庄兵衛」の家という。 明国から長崎に渡来した算盤を参考にしてその製造を始めたという。(慶長17年(1612))
 この先(西)で店を構え、幕府御用達の算盤師になったという。
石柱のある所には、車石が置かれている。

走井の茶店
 すぐ先に軒下に「走井 月心寺」とある建物がある。
前庭に井戸があるが、走井のの名水と伝わる。
 大谷駅からこのあたりにかけて大谷の立場があり、走井の餅を売る茶屋があり 東海道の名物になったという。月心寺の建物も茶屋跡に建てられたという。
クリックすると拡大
 広重の大津の絵は、「走井茶屋」を描いているが、湧水は坂を下る左手にとなっている。米俵をのせた牛車がイキイキと画かれている。

道標  大谷一里塚
 少し先の小さな川の端に、年代不明の自然石の道標がある。
「右 一里丁」「左 大谷町」ときざまれている。
位置はハッキリしていないがこのあたりに 大谷(走井)の一里塚があったという。

しばらく進むと両側の山が開けてくる。名神高速の高架下を過ぎた先で国道1号線から分かれて左へはいり、ようやく旧東海道らしくなった道を西へ進む。

伏見道追分
 間もなく道は緩やかな上り坂となり、それが終わる所が2叉路となっている。
左へ行くのが宇治に向かう伏見道で、その先で、伏見、淀、牧方、守口を通って大阪京橋へ向かった。
角に真新しい道標があり 「みきハ京みち」「ひだりはふしミみち」と刻まれている。これは新しく複製されたものという。



閑栖寺
 間もなく閑栖寺があり、山門前と、境内に車石・車道の説明とその復元されたものがある。(前述)
山門はで元文3年(1738)に修復された、「太鼓櫓楼門」という珍しいものである。

道の景色

国道がある為、厳重に守られた上横木町地蔵尊

  連子格子の民家             国道の歩道橋から見た逢坂山方面
   

小関越・三井寺観音道分岐
 歩道橋から降りて少し先(100m弱)の右手に大きな石柱と常夜燈が建つ。 ここから北に分岐している道を示す高さ2mを超える道標で、正面に「三井寺観音道」左面に「小関越」と大きく刻まれている。

逢坂峠を通る道が大関越えと呼ばれたのに対し、この道は北陸道の道筋で小関越えと呼ばれた。 古くは、東海道、東山道、北陸道とも小関越えであり、小関峠に関所があった。
京都からの三井寺参詣の道としても利用された。

道の景色
 

徳林庵地蔵堂
 京阪四宮駅入り口を過ぎると六角堂がある。
山科地蔵と呼ばれ、京都六地蔵のうちのひとつで東海道の守護仏として祀られている。
 平安初期の公家・文人の小野篁.(たかむら)(802~853)(嵯峨天皇に仕える)が、桜の大木から6体の地蔵を造り、伏見六地蔵の地にあったが、後白河天皇は清盛・西光法師に命じて京都の街道の出入り口6ヶ所に1体ずつ分置させたという。
 
 地蔵堂の裏に人康(さねやす)親王(831~872)の供養塔がある。
第54代仁明天皇の第4皇子で、両目を失明・出家し、山科に隠棲した。
周辺にゆかりの地があり[四宮」の地名の由来となる。江戸時代には座頭・琵琶法師の祖とされたという。

五条別れの道標
 京阪山科駅入り口から400m程進んだ左折地点に、保存状態の良い大きな道標がある。宝永4年(1707)建立で、史跡「五条別れ道標」と名付けられている。
 「右ハ 三条通」 「左ハ 五条橋 ひがしにし六条 大佛 今ぐま きよ水 道」 と刻まれている。

ひがしにし六条=東本願寺、西本願寺
今ぐま=今熊野観音寺
大佛=方広寺の大仏
きよ水=清水寺

天智天皇綾
 西にまっすぐ進んで今の三条通に合流しJR線をくぐり、200m程進んで細い道を西に進む。
時間があるので、その前に右手の森に長い参道が続く天智天皇陵を訪れた。300m程続いた先の広場には玉砂利がしかれ、奥に白塗りの鳥居がある。
 参道から出た脇に時計のモニュメントがある。タテ型の日時計である。
京都時計商組合が、天皇が日本で初めて漏刻(水時計)をつくり時刻制度を定めたことにちなんで建立したという。


日ノ岡へ

 三条通りから離れ、住宅街の中を日ノ岡峠方面へ進む。左側にはまだ田畑が残り、道は上り坂となるがその先は急に狭くなる。
案内書にあった「亀の水不動尊」を探したが見つからないまま通り過ぎてしまった。

荒れたままの亀の水不動尊
 戻ってよく探すと雑草が生え放題の空き地があり、奥にわずかにそれらしいものが見つかった。中に入れず望遠で撮影できたが石組みが見える。
元文3年(1738)、日ノ岡峠の改修に尽力し、休憩所を設け、人馬の渇きを癒したという。
 先ほど通ってきた 国道脇で大事にされている上横木町地蔵尊とは天と地の差である。
道の景色
 すぐ先で大乗寺の入り口があり 酔芙蓉の寺という。夏の季節ではないので先に進んだが、地蔵の祠もある昔ながらの道である。

車が通ると、横になって避けなければならないほど狭い道で、旧東海道のなかでは、山道を除けば他にないほどであった。
すぐに下りとなりバス道路の三条通りに合流する。

蹴上から三条大橋へ
 蹴上浄水場の脇を下り、蹴上の交差点・地下鉄の駅までくると、日曜日で南禅寺と紅葉の観光客を数多くみかけるようになった。
ここからまっすぐ西に進み三条大橋に至る。
 この付近の町の名前には粟田口・・・という地名がついており、近世以前には三条大橋との間に関所が設けられていたという。
三条大橋からこのあたりにかけては、東海道・中山道へ出入口・・・「粟田口・または三条口」として、京都七口のひとつに数えられていた。


「京の七口」について

御土居の場所=橙色線

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  旧東海道や古い鎌倉街道の散策を始めるにあたって、最初に訪れ、調べたのが「鎌倉七口」であった。その関係で、この機会に「京の七口」についても調べた。 七口としての呼び名は京都のほうが最初可と思っていたが、実際には鎌倉の方が先であったようである。
 室町時代となり、京の出入り口などに、幕府や朝廷、寺社が関をもうけて、通行料を徴収するようになったという。そのうち有名なものが足利義政の妻、日野冨子が幕府の資金を集めるために京の出入り口七か所に関所を設け、税を徴収したという。七口の関と称されたが、応仁の乱以降はさらにその数は増加していった。

 その後秀吉は、戦乱により荒れた京都の境を明確にし、さらに京都の防衛、堤防の為などの目的の為(詳細は定かではない)、大規模な土塁を造った。
「御土居(おどい)」と呼ばれるもので、土塁は基底部約20m、頂部約5m、高さ約5mの台形で、総延長は23kmにおよび、その範囲は東西8.5km、南北3.5kmという。(御土居の内部を洛中、外部を洛外と呼んだ)
そして諸国と結ぶ街道が土塁を横切る場所を「口」と呼びその数は建造当時は10ヶ所あったという。

 江戸時代に入ると、京の出入り口を表す言葉として「七口」が一般化してきたといわれる。

<今の京の七口として挙げられるもの>
  鞍馬口-鞍馬街道
  大原口-若桜街道
  荒神口-山中越えに通じる
  粟田口・三条口-東海道・中山道
  伏見口・五条口-伏見街道
  竹田口-竹田街道
  東寺口・鳥羽口-鳥羽街道
  丹波口-山陰街道に続く
  長坂口・清蔵口-周山街道


 

粟田神社
 蹴上の交差点から西に300m程進み左側に少し奥へ入った所に鳥居があり、長い石段を上っていく。
粟田神社は社伝によると貞観18年(876)創建といい、今の本殿は文政6年(1823)に再建されたという。
 粟田口の近くで、「旅立ちの神」として信仰されていたという。

明智光秀の塚
 三条通りをすすむと白川橋がある。左折して2本目の角に「東梅宮並 明智光秀墳」と刻まれた石柱がある。左側には「あけちミつひて」とあり、弘化2年(1842)建立の道標である。(東梅宮はここの地名?)
 天正10年(1582)本能寺のあと山崎の戦いで敗れ近江坂本城へ逃れる途中農民に襲われ自刃、家来が光秀の首を落とし知恩院の近くまで来たが夜が明けたためこの地に首を埋めたと伝えられている。
                  白川→

白川橋の京都最古の道標
 白川橋東詰に京都に現存する最古の道標がある。
正面 「是よりひだり ち於んゐん ぎおん
         きよ水 みち」
右面 「三条通り 白川橋」
裏面 「京都無案内旅人立之 施主為二世安楽」 
とあり、 延宝6年(1678)の建立である。

 はじめてきた旅人に、ここを左折していくと 知恩院 祇園・・・とわかりやすく書いてある道標である。

高山彦九郎銅像
 三条大橋の手前に高山彦九郎(1747~1793)の銅像がある。上野国出身で江戸後期の尊皇思想家で、林子平、蒲生君平とならんで寛政の三奇人といわれた。三条大橋で京都御所を望拝している姿で今の銅像は2代目。
幕府の監視を受け、最後は久留米で自刃した。

三条大橋
 いよいよ三条大橋である。
本格的な橋となったのは、天正18年(1590)で、秀吉が奉行の増田長盛に命じて大改造を行ったという。。今でもその時の擬宝珠が木造欄干の一部に残されている。

 西詰の北側には高札場跡がある。そこには天正17年と刻まれた石柱が残されている。

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 歩き終わった旧東海道を背に、記念撮影をした。






 散策日 2013年11月24日    JR大津駅 - JR京都駅
 参考
 「東海道五十三次を歩く」 5        児玉幸多 監修