・・・・・・・・・・・・・・ 日本橋から下諏訪宿まで 甲州街道の旅 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2. 仙川-日野 地図: ①仙川-国領 ②国領∸白糸台 ③白糸台-府中 ④府中∸日野
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仙川駅から街道に出てしばらくの所にあるキューピー工場を過ぎて、旧道は右に分岐していく。 |
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薬師如来像 |
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瀧坂旧道である。ほんのしばらくの間、旧道の雰囲気を すぐ左に薬師如来座像がある。 |
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金子のイチョウ |
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ちょうど今が一番の色づき具合の大きないちょうが右側の垣根越しに見える。 稲荷神社の前にあるらしいが、そこには行けずに、説明板のみを見ると、京都伏見稲荷 寛延元年(1748)に勧請したもので、その時に植えられた一対のイチョウで、甲州街道沿い金子村の名をとって「金子のイチョウ」と親しまれてきた、という。 |
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金龍寺 |
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つつじヶ丘駅入口のすぐ先に、金龍寺への参道がある。 山門の前の金色の仁王像と、山門の朱色が、朝の陽光に眩くばかり輝いている。 建永元年(1206)の創建という。 山門は、説明文によれば、三代軍 家光が |
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野川から国領へ |
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馬橋を渡り、野川を過ぎてから国道20号から分岐して 国領へ入って行く。 宿場の布田五ヶ宿の内の一つ「国領宿」へ入って行く。 |
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布田五ヶ宿 |
国領から西に向かって、下布田、上布田、下石原、上石原の五宿からなる宿場で、「間の宿」的な色彩が強く、本陣もなく 旅籠は9軒だけであった。 |
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常性寺・調布不動尊 |
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慶長年間に移転、成田不動尊を勧請し、調布不動尊と称されている。 境内に、「小橋 馬頭観音塔」が建っている。 この塔は、甲州街道の小橋(馬橋の西50m)の「すてば」(馬などの埋葬地)にあったものをここに移してきたという。 文政7年(1824)の造立。 馬頭観音の像を彫った供養塔で、めずらしい、という。 次の角から、下布田宿に入る。 |
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蓮慶寺 |
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左側 参道奥の蓮慶寺がある。 将軍家光から寺領が寄進され、「赤門」の設立と、住職の乗篭が許されたという。その冠木門部分が保存されている。 寺の西から上布田宿に入る。 調布駅北口の手前から、布田天神社の長い参道がのびている。約700mあり、長い寄り道となるが布田五ヶ宿の総鎮守でもあり、訪れる。 |
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布多天神社 |
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創建は不祥、延長5年(927)に編纂された延喜式神明帳に記述のある古社である。 多摩川の氾濫により文明9年(1477)に現在地に移ってきたという。 天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原北条氏を攻略する際人々を安堵させるために出した太閤の「検札」が神社に残る。 本殿は江戸中期の特色を残し、宝永3年(1706)の棟札がのこっている。 また、 寛政8年(1796)建立の狛犬があり、願主は、氏子と共に、商人とあるので、そのころすでに天神の市が境内で開かれていたことを物語っている、という。 |
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小島一里塚 |
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街道の戻り、200mほど先の駐車場の金網の中に、自然石に刻まれた小島一里塚跡の石碑が建っている。 少し先の下石原一丁目交差点を過ぎると、下石原宿に入る。 常演寺の前の地蔵堂堂には、白い衣をまとった地蔵が、その近くには、嘉永3年(1850)の常夜燈が建っている。 |
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源正寺 |
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この辺りは、お寺が一定の間隔に並んでいるようだ。 源正寺の山門の前には、六地蔵と共に、庚申塔が並ぶ。 すぐ先で、右からの国道から分岐した道に合流する。 この辺りから、布田五ヶ宿の最後の上石原宿となる。 |
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西光寺 仁王門 |
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応永年間(1394~1428)創建で、江戸初期から大黒天が祀られている。 仁王門は、宝永年間)1704~10)に建築されたといい、楼上には享保2年(1717)政策の梵鐘が吊るされている。、 門の前に 近藤勇の胸像がある。上上原村(今の調布飛行北)で生まれ、新選組で活躍、甲陽鎮撫隊を結成して甲府に向かう途中、ここ西光寺で休憩した。 中央高速のガード下を進む。 飛田給駅入口を過ぎると左手に薬師堂がある。 |
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行人塚 |
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薬師堂境内街道側に立派な「行人塚」が祀られている。 この塚は、元仙台藩士の松前意仙が諸国遍歴の後、帰依していた薬師如来の石像を彫り上げ、自ら墓を彫って入定したという。(元禄15年(1702)。 死後村人によって塚が築かれ、行人塚と呼ばれている。 石造の如来像は最初は外に置かれたが、弘化4年(1847)仏堂が建てられ、堂内に安置されるようになった。 ここから分岐して街道に沿って真西に進む細道がある。品川街道と呼ばれた。 |
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下染屋観音院 |
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数百m進んだ信号の角に下染屋の地名由来碑が建っている。 下染屋観音院の山門横に、数体の石仏、石塔が並んでいる。 中央に、宝永7年(1710)の舟形地蔵像、その隣に享保3年(1718)の庚申塔など。 道路側には、嘉永6年(1853)の秋葉常夜燈 が建っている。 |
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庚申塔道標 |
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寄り道して、白糸台駅の西にある府中第四小学校の南東角にいく。 正面に 大きく「庚申塔」と刻まれた石塔が建っている。 左側に「 東 品川道 西 府中道 上車返阪村」 とある。 右側には、嘉永6年(1853)とあるが、昭和3年 改造 と刻まれているので、新たに造りなおしたものだろう。 すぐ先に品川道の石柱もある。 街道に戻ると、染屋不動尊がある。 |
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染屋不動尊 |
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境内には上染屋の地名由来碑が建っている。奥の堂に、金銅阿弥陀如来像が安置されている。 弘長元年(1261)上州八幡庄で鋳造されたもので、元弘3年新田義貞の鎌倉攻めの時に進呈されたものという。 |
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常久八幡神社 |
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街道の南側を並行して 品川街道があるが、その近くらしい。 |
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国府八幡宮 |
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東府中駅を過ぎると大國魂神社の末社 国府八幡宮の参道が南に向かっている。 ここに八幡宿の地名由来碑がたっている。 八幡宿は、国府八幡宮の周囲に発達した村落という。 甲州街道が整備されたのに伴って街道筋に移動してきた農業を中心とした村で、宿場町ではない。 500mほど先で、八幡宿交差点を過ぎる。 府中宿はこの辺りから始まり、宿の最初の町-新宿(しんしゅく)に入る。 |
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府中宿 |
府中宿は、国府や大國魂神社のある武蔵国の中心部として発展、古くから鎌倉街道とも交わる交通の要衝でもあった。 「新宿(しんしゅく)」に続いて、「本町」-大國魂神社のある中心地であり、西側に、「番場」の三つの町で構成されていた。 天保14年(1843)の規模は、本陣 1軒、脇本陣 2軒、 旅籠 29軒 、 人口2,762人であった。 |
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大国魂神社 |
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起源は、景行天皇41年(111)とされ、大化の改新(645)の後、武蔵の国府が置かれ、武蔵国の一之宮から六之宮を合わせ祀る「六所宮」」と呼ばれる武蔵総社となった。 <馬場大門のケヤキ並木 神社前から600mに渡りケヤキ並木が続いている。 源頼義と義家が前九年の役(1051~62)の途中戦勝を祈願し、凱旋時にケヤキを植えたのが始まりという。 |
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札の辻 |
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府中市役所前交差点には、高札場が当時のまま残され、札の辻と呼ばれた。北側には安政年間(1855~60)に建てられた中久本店がある。その隣が問屋場であった。 甲州街道、川越街道および相州街道が交差する府中宿の中心地として栄えた。 その先に番場宿の由来碑があるが、少し北側にある長福寺に足を延ばして、貞治(1362~67)や文安(1444~49)の古碑があったというので、期待して訪れたが・・。 、 |
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高安寺 |
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<本堂> 享和3年(1803)再建、 |
街道の南一帯200mにわたって高安寺の境内が広がる。 もとは平将門を倒した藤原秀郷の館跡と伝えられる。 足利尊氏が、この地にあった見性寺を 高安寺として再興し、開基となっている。 <山門>明治5年(1872) |
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<観音堂>享保年間(1716~36)に再建 <弁慶硯の井>見性寺のころ、鎌倉入りを断られた義経、弁慶一行が一時とどまり、赦免祈願のため大般若経を写した時に使った井戸 |
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弁慶橋跡 |
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高安寺の北側の街道の坂を、その伝説にちなんで、弁慶坂といい、坂を下ったところに弁慶橋があったという。 そこからの上り坂を棒屋の坂という。 京王線の踏切を渡り、しばらくすすうと、左手に大きな冠木門がある。 <冠木門> 本宿村の名主を務めた内藤家の門で、府中宿の矢島本陣から移設したものという。 すぐ先の本宿町の信号で国道20号線と合流する。 |
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熊野神社と古墳 |
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右手に熊野神社とその奥に古墳が整備されている。 江戸時代初期の創建で、旧本宿村の総鎮守であった。本殿は、18世紀前半の建築で、拝殿は19世紀前半と推定されるという。 奥にある古墳は、7世紀中頃の 飛鳥時代に建造された、上が丸く下が四角いの「上円下方墳」という。 |
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道の景色 |
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<漢医門のある旧家> |
<秋葉常夜燈> < 鋳物三家のうちの一つ 関家> |
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谷保(やぼ)天満宮 |
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南武線谷保駅の南 街道の南側に広大な森が広がっている。 谷保天満宮は、東日本最古の天満宮で、亀戸天神、湯島天神と並んで関東三大天神と呼ばれる。 延喜3年(903)の菅原道真の三男・道武が父を祀る廟を建てたことに始まるという。 鳥居から参道の石段を下って本殿に向かっているが、これは「甲州街道は17世紀まで、谷保のあたりでは立川段丘の下を通っていたので、天満宮は街道に面して南向きであったが、街道が段丘の上を通るようになったため」という。(天満宮社叢の説明板による) 、 |
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元上谷保村の常夜燈 |
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矢川駅入口の交差点の手前に常夜燈が建つ。 「秋葉大権現」と刻まれ、寛政6年(1794)の建立。 元々は甲州街道の北側にあったものが、道路改修時に移されたといい、立川市内に残る三つの常夜燈の一つという。 |
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南養寺 |
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常夜燈の建つ参道を南に100mほど進むと、正平2年(1347)に開山された南養寺がある。 本堂は、文化元年(1804)に建築され、奥の大慈悲殿観音堂は、寛政5年(1793)に移築されたものである。(屋根は銅板葺にかわっている)。 総門も安永9年(1780)の建立で、庭園も含め江戸時代の姿をよく残している。 梵鐘は、谷保鋳物三家の関氏によるもの。 |
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五智如来の祠 |
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右から細い川が流れてくる角に、小さな祠がり、五智如来の石像が祀られている。 は、仏教でいう五種類の智を備えた仏のことで、大日如来の別名ともいわれている。 |
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元青柳村の常夜燈 |
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500mほど先の青柳福祉センター前に、常夜燈が建つ。完成1年(1799)の建立である。 脇の鳥居から南に、青柳稲荷神社に続長い参道がある。 ここからは街道を進む代わりに、神社経由で多摩川の川沿いの道を西にすすんでから、街道に合流することにした。 |
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青柳稲荷神社 |
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青柳は、その昔多摩川南岸の青柳島にあったが、寛文11年(1671)の大洪水により流失したため、この地に移住し、青柳村を開拓したという。 『くにたちNAVI』 のHPによると、「青柳稲荷神社は宝暦5年(1755)の創建で、明治22年(1889)の町村合併前は、青柳村の村社であった。天満宮に次ぐ古い神社」という。 本殿は東にむいている。 |
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貝殻坂 |
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青柳稲荷神社の前は、サイクリングコースとして整備されている。 府中用水取入口の説明板があり、さらに進むと右へ大きくカーブする手前に、貝殻坂の標柱が建っている。(今来た道を振り返ったもの) 多摩川川を渡る「渡し」は何度か移動したが、ここは、慶安年間(1648~51)から貞享元年(1684)まで使われていた「万願寺の渡し」に通じる坂であった。。 後で訪れる万願寺の一里塚を通って日野宿に向かっていた 。右奥に見えるのは、根川に架かる橋→ |
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渡しへの道 |
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元の街道に戻り、日野橋交差点から、奥多摩街道に入る。 200mほど進んで、三叉路を左に入る。 柴崎市民体育館の脇を通り多摩川まで進むことになる。 <歴史と文化の散歩道 案内板 |
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日野の渡し跡 |
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下水処理場の脇を通った先の左側に渡し船かたどった石碑がある。 土手に上ったところから見た 多摩川の景色。→ 奥に見えるのが、日野橋。 |
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立日橋橋から日野へ |
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原罪の甲州街道のルートは、多摩モノレールが走る立日橋をわたり、まっすぐ南に進んで川崎街道入口で、右折して日野宿に入っていくいく。 今回は寄り道をして、万願寺一里塚を訪れる。 片道約1kmの道のりであるが、、モノレールに沿って甲州街道駅を過ぎ、中央道のガード下を通る。 、 |
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万願寺一里塚 |
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一里塚の南塚のみが、昔からの状態で残されている。 当初の甲州街道の一里塚で、先ほど青柳稲荷神社の先で訪れた貝殻阪から多摩川に下りて万願寺渡船場を経由してくるものであった。 甲州街道の変遷(クリックと拡大)や、塚の断面図断面図などが、説明板で詳しく紹介されている。 |
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日野宿 |
甲州街道の新奥多摩街道入口のの三叉路まで戻る。 ここ辺りから日野宿となる |
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<川崎街道入口> <本陣手前から西の方向> 高幡不動への道標がある 宿の規模は、東西約1km, 本陣 1、脇本陣 1、旅籠 20、 家数423軒 |
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日野宿本陣 |
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江戸時代の本陣の敷地と屋敷が そのまま残されている。 元々宿場では、上、下 2軒の佐藤家が本陣、脇本陣を勤めていた(幕末には、脇本陣も本陣と同様の機能を持っていた)が、 大火で焼失後の元治元年(1864) 下佐藤家の住宅として建てられたもの。 建坪は112坪といい、他に100坪を超えるのは、犬目宿の本陣のみという。 |
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八坂神社 |
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創立は不祥。 本殿は 寛政12年(1800)再建されたものというが、覆屋で保護されている。 神社のすぐ先を左に入っていく。 右手の日野駅を過ぎて左手に宝泉寺前の坂を上っていく。 |
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坂下地蔵 |
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坂の先がJR中央線でさえぎられている。 ここが、日野宿の西はずれにあたり、西の地蔵ともいわれているという。 地蔵堂の前に、地蔵の石像が並んでいる。元文2年(1737)の建立という。 堂の中には 延命地蔵尊が納められている。 正徳3年(1713)に造られたもので、高さ120cmの青銅の座像。 格子窓からとった撮ったもので、すでに周囲が薄暗くなっていたこともあり、黒く輝いている立派な仏像に見えた。 |
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