・・・・・・・・・・・・・・ 日本橋から下諏訪宿まで 甲州街道の旅 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1.日本橋-仙川 地図: ①日本橋-四ツ谷 ②四ツ谷-新宿 ③新宿∸明大前 ④明大前∸上高井戸 ⑤上高井戸ー仙川
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甲州街道は 日本橋から八王子・甲符を経て下諏訪宿で中山道に合流する全長約208kmの街道で、44次の宿場が置かれていた。 下諏訪から江戸どまでの距離は短いが、参勤交代で利用する藩は少なく、多くは中山道を利用したという。街道の整備の問題や、物価の高さなどがその理由といわれる。 |
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日本橋 |
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何度も訪れているが、起点である日本橋まで出かけて、甲州街道のスタートすする 最初の橋は、慶長8年(1603)の完成、 橋の中央の日本国道路元標を確認する。 |
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東京駅 |
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銀座通りを少し南に進み、高島屋角を右折。 JR東京駅の中を横切る道が見つからないため迂回して、永代通り経由、丸の内北口に出る。 東京駅はすでにきれいにと整備されているが、まだ周辺は開発中のビルが多くある。真西に進んでお濠端にぶつかる。 和田倉橋で、噴水公園に入る。 |
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和田倉門跡 |
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門は、元和6年(1620)伊達政宗などによって築造された。 <明治4年(1871)撮影された和田倉門> 日比谷通りにもどる。 行事があり、立ち入り制限の東京駅正面 |
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巽櫓・富士見櫓 |
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広大な広場の先に巽櫓、さらに奥の高い位置には富士見櫓が見える。 巽櫓は、本丸から見て東南(辰巳)の濠の角にあることから名付けらたもので、富士見櫓と同じく、関東大震災で損壊し、解体・復元された。 富士見櫓は明暦の大火(1659年)で天守が焼失した後に、天守の代わりとして使用された三重櫓で、標高33mの場所にある。 このまま日比谷通りをお濠端沿いに南に進むと、馬場先門跡がある。 門の名は、寛永期(164~44)に門内の馬場で、朝鮮使節の曲馬を将軍が上覧し、朝鮮馬場と呼ばれたことに由来。 その先左手は、マッカーサーがGHQ庁舎として接収した第一生命ビルである。憲法草案が作成された。 濠の角で右に曲がる。南側に広がる日比谷公園の入り口に、日比谷見付跡に行く。 |
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日比谷見付跡 |
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江戸城の外郭城門の一つ、日比谷御門の一部としての石垣が残っている。石垣の西側は濠となっていた。(今は池が造られている) その北側は、仙台藩の外桜田上屋敷があった所で、「伊達政宗終焉の地」の説明板札が立っている。 旧甲州街道は 江戸城の内堀の南側沿いを半蔵門まで進む。 |
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桜田門 |
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正式には、外桜田門という。、本丸に近い内桜田門(桔梗門)に対して名つけられた。 ←江戸城と桜田門{江戸図屏風」 (クリックすると拡大) <外側-高麗門> <内側-渡櫓門> 寛永年間(1624~44)に建築され、現存の門は寛文3年(1663)の再建された門がもとになって復元された。 石垣→ 万延元年(1860)井伊直弼が暗殺された。 |
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濠の景色 <柳の井> |
<三宅坂> <奥に半蔵門> |
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半蔵門 |
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江戸城の東の大手門と正反対の位置にある。 門内は、吹上御苑と呼ばれ、厳重な警護のもとにある。名前はこの門を警護した服部半蔵に由来する。 明治4年(1871)撮影の半蔵門→ (クリックすると拡大) 甲州街道はここから真西に向かっている。街道沿いは 服部家の部下が組屋敷を構え、四谷へと通じて旗本屋敷で固められていたという。 |
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四谷見付跡 |
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新宿通りを進むが、四谷駅で、旧甲州街道はコの字に曲がっている。 江戸城外堀の内側にあった三十六見付の一つで、駅を右に曲がると、見付跡の石垣がある。 飯田橋から赤坂見附へと続く外堀は、伊達家をはじめとする東国52家の大名により開削され寛永13年(1636)に完成した。 明治30年代の甲武鉄道(四ツ谷∸市ヶ谷間) 外堀土手を削って建設された。 (クリックすると拡大) → ←石垣の上から外堀のあった方向を望む。 |
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長善寺(笹寺) |
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見付から街道の南側には多くの寺社がある。 服部半蔵の墓のある西念寺、四谷怪談のお岩を祀る於岩稲荷民也神社などなど。 寛永11年(1634)の江戸城西丸が全焼した際、城の北西の拡張計画に従って、麹町の寺社が四谷に集団移転してきたものである。 四谷三丁目交差点を過ぎると、長善寺)がある。天正3年(1575)の開山で、もとからここにあった寺で、境内にあった笹が由来で笹寺ともいわれる。高さ4.9cmの赤めのう観音像がある。(説明板) |
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四ツ谷大木戸跡と多摩川上水水番所跡 |
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次の4丁目交差点を斜め右に進む。 四ツ谷区民ホールの脇に「四ツ谷大木戸跡」の大きな石碑が建っている。 大木戸は寛政4年(1792)には撤去された。 石碑の手前には、玉川上水開削の由来を記した明治28年(1895)建立の「水道碑記(すいどういしぶみのき)」が建っている。 ここに玉川上水水番所が置かれていた。 江戸の人口増加により、新たに開設されたのが玉川上水(承応2年(1653)完成)で、 多摩川の羽村堰で取水し、四谷大木戸までは地上の水路であったが、ここから江戸市中までは、石桶・木桶といった水道管を地下に埋設して通水した。 新宿御苑の入り口手前に、玉川上水の水番屋や水路についての分かりやすい説明巌が立っている 。(クリックすると拡大) |
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内藤新宿 |
四谷大木戸から新宿三丁目交差点までの約1kmにわたり、内藤新宿があった。 慶長7年(1602)甲州街道が設定された当初は、日本橋からの最初の宿場は高井戸宿であったが、約4kmと離れ距離があったので、元禄12年(1699)新たに内藤新宿が開設された。この辺りは、信州高遠藩内藤家の下屋敷で広大な土地を有しており、内藤家が宿場の土地を提供、内藤新宿と呼ばれた、 その後一時廃止されたりしたが、文化8年(1808)には 旅籠屋50軒、引手茶屋80軒と、江戸4宿の中では品川宿に次ぐ賑わいを見せ、明治維新まで続いた。 |
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太宗寺 |
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寛文8年(1668)、安房国勝山藩主の内藤正勝の子から寺地の寄進を受け太宗寺が創建された。その後内藤家は高遠藩に入封されるが、その菩提寺として続いた。 江戸の各街道沿いに置かれた江戸六地蔵の一つがある。正徳2年(1712)造立、267cmの銅の鋳造である。 閻魔堂には、「内藤新宿のお閻魔さん」として信仰を集めた閻魔像がある。文化11年(1814)に安置されたとされるが、頭の部分のみが当初のものという。 墓地の奥に、内藤家の墓所がある。 中央の宝篋印塔が、正勝の墓。 |
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新宿追分 |
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新宿三丁目交差点となる。 ここは青梅街道との追分けであった。 交差点手前左側に {追分だんご」を売っている店があるのが、唯一の痕跡である。 旧甲州街道は左に曲がり、すぐに右折して新宿駅南口を進む。 バスターミナルが出来上がり、大いに変貌した南口である。 次の交差点から200mほどは、今の甲州街道と並行している国際通りを進んでいき、再び街道に出る。 新宿パークタワーの所から先は、甲州街道の上を首都高速が走っている。 下高井戸までは、数か所を除いてビルの合間の歩道をひたすら前に歩くのみである。 |
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旗洗池跡 |
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新国立劇場を過ぎカシオ計算機の一つ先の路地を、右に入ると左手に大きな自然石と説明板が立っている。 すでに埋め立てられているが、小さな池があり、源義家が後三年の役のあと上洛するときに白旗を洗って乾かしたという伝説が残っている。 付近の幡ヶ谷の地名の起源になったという。 |
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幡ヶ谷子育て地蔵 |
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幡ヶ谷駅入口の150mほど手前に子育て地蔵があるので、横断歩道を早めに横断して左側の歩道を進む。 道路の拡張により、歩道橋の上り口の脇のビルの中に納まっている。貞享3年(1686)の造立という。 |
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牛窪地蔵尊 |
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中野通りとの交差点の手前左側に、地蔵堂、その前に石塔が並んでいる。 以前この地は牛ヶ窪と呼ばれ極悪人の刑場であった(牛を使った股裂き)。ある年、悪疫病がはやり、これが罪人の祟りだと伝えられ、これを鎮めるために地蔵尊を祀ったという。 正徳元年(1711)。 庚申塔は享保9年(1724)の建立で、風化せず昔の姿をよく残している。 文化3年(1806)建立の道供養塔(右側)があるが、中野通りの先-駒場道(鎌倉道の一部)に面して建てられていたものという。 |
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玉川上水公園 |
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明大前駅入口をすぎると、右手に玉川上水公園が広がる。 上水の暗渠の上を、東京都が造った公園で、この先には、江戸から移転してきた寺院が並んでいる。 |
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永昌寺 |
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寛永元年(1624) 四ッ谷にあり、明治43年(1910)下高井戸にあった永泉寺を合併し、ここに移転してきたという。 延宝5年(167)建立の地蔵尊や庚申塔が門前に並ぶ。 |
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覚蔵寺 |
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桜上水駅入り口の商店街の信号を過ぎて100m右側に覚蔵寺がある。 創建は不明だが、慶長年間(1596~1614)に、真言宗から日蓮宗に改め、中興されたという。 「安置されている鬼子母神像は、日蓮上人の直刻と伝えられている。鎌倉の妙法寺から当時に安置された。」 と説明板にある。 100mほど先に宗源寺がある。 |
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宗源寺 |
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慶長年間(1596~1614)に創建されたという。南北朝時代の板碑があるという。 境内にある不動堂は、もともと通称高井堂と呼ばれ、宿の入り口にあった高井山本覚院のものっだったが、、明治に入り宗源寺に合併されここに移されてきたという。 この「高井堂」が、高井戸宿の名の由来という説がある。 宗源寺の隣に、下高井戸宿の本陣「富よし」が置かれていたが、今は跡形もない。 |
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高井戸宿 |
甲州街道が整備された1602年1602年の2年後に、下高井戸宿と上高井戸宿の二つに分かれ、合宿となった. 月初から15日までを下高井戸宿、16日から月末まで上高井戸宿が勤めるというものである。 上高井戸宿は、上記宗源寺の隣に本陣、その前に高札場があり、向かいが問屋であった。 下高井戸宿ではは、今の環八通りと交差する上高井戸交差点一丁目の北東角に本陣があった。 天保14年(1843)ごろ、旅籠は、下高井戸 3軒、上高井戸 2軒 であった。 |
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一里塚跡の説明板 |
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400mほど先左側、「鎌倉街道入口」の信号の所に、一里塚跡の説明板がたっている。 一里塚は、この先の高速道路下に塚があったという。 ここから高速道路から開放される。 環八との交差点の少し先で、旧甲州街道は、国道20号線から左に分岐していく。 交通量が少なくなりようやく快適な街道歩きができるようになった。 |
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長泉寺 |
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しばらく進むと左手の参道の奥に長泉寺がある。慶安元年(1648)世田谷の烏山に開創、明暦元年(1655)に移転してきたという。 境内をすすむと正面にきれいなもみじを従えた観音堂がある。 享保13年(1728)に建立され、西国三十三か所の観音像を安置している。 境内の古い松の下には、徳本行者真筆による石塔・・文化14年(1817)があり、その前に天保11年(1840)の釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩の三尊仏が、並んでいる。 徳本上人の痕跡を見るのは久しぶりだ。 |
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大橋場の跡 碑 |
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400mほど先、信号のある路地の入口に、石塔や地蔵尊が並んでいる場所に、黒く輝いている橋の欄干をかたどった碑が建っている。 「武州烏山村 大橋場の跡 と刻まれている。 もとは、この南に烏山神社があり、烏山川が流れていたところで、今は暗渠となっているが石の橋があった場所である。 大正12年(1923)の関東大震災の後の朝鮮人虐殺の一つ、烏山事件が起きたことを示している。 |
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下山地蔵尊 |
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この地蔵は、江戸時代後期の地頭名主であった下山家が正徳2年(1712)に建立したもので、身代り地蔵尊・出世地蔵尊とも呼ばれている。 一番右にある大きな庚申塔は、青面金剛像で正面と左右にそれぞれ一匹ずつ猿が彫られており、珍しい形である。元禄13年(1700)の造立である。(クリックすると拡大) 左側にある2期の庚申塔は、宝永元年(1704)と、享保3年(1733)の造立である。 千歳烏山の駅入口を過ぎ、仙川を渡るとすぐに国道20号線に合流する。 |
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昌翁寺 |
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右側にある昌翁寺は、仙川領主の飯高主水貞政が慶長年間 (1596~1615)に建立し、菩提寺とした。 門前には元禄時代の庚申塔と宝暦の廻国塔が並んでいる。 |
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仙川一里塚跡 |
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仙川駅入口交差点の北東の角(コンビニ前)に、仙川一里塚跡の石碑がある。 | |||||||||||||||||||||||||||||
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