・・・・・・・・・・・・・・   日本橋から下諏訪宿まで    甲州街道の旅   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・


3.日野-小仏


          地図: 日野ー八王子  ②八王子ー高尾  ③高尾ー小仏

 

 日野駅 西口におりて、前回のJR中央線で分断された坂下地蔵の先まで進み、そこから甲州街道歩きを再開する。


大坂上通り
 
 西口から中央線に沿って急坂をのぼり、坂下地蔵で途絶えた道を左に見て、大阪上通りを進む。
中央高速の高架下を通過した先が、日野台地で、国道20号線に合流する。
 右側には、日野自動車の広大な敷地が続く。
 
日野台一里塚跡
 
    500m程続く工場のフェンスの角に日野台一里塚の説明板が、掲げられている。
 実際の一里塚は、この説明板からから西へ90mほどの地点にあったという。

道の景色
 
 その先左側には、コニカミノルタの「東京サイト日野」のビルが並び、この街道の北側奥には、「東京サイト八王子」がある。

 <広い敷地の民家↠>

八高線を越えて、緩やかな坂を下っていく。

 国道16号線の高架をすぎた先100mほど先で、旧甲州街道は 左に分岐する。
  「富士見橋」という小さな橋を渡る。 この辺りからこの先の多摩川の支流である横川の奥に、富士山が見えたのだろう。、

大和田橋
 
    横川に架かる大和田橋を渡る。                                       <大和田橋から上流を見る>
 かっては「大和田の渡し」があったという。
ここに、太平洋戦争終結13日前に、B29爆撃機により空襲を受けた焼夷弾の跡が 保存されている。


横山宿
 
大和田橋を渡って直ぐにに国道を右折する。
ここが、横山宿の入口である。
 八王子宿は、横山宿などの15の宿場から成り立っており、そのうち横山宿が一番大きかったので、「横山宿」と呼ばれ、ここ新町から西に2.5km位まで続いていた。

 八王子五中の西端にある五差路を真西に向かうのが甲州街道である。

竹の鼻一里塚
    100mほど先右側に「竹の鼻公園」があり、その一角に竹の鼻一里塚の石碑が建つ。
 公園の隣に永福稲荷神社がある。神社は八王子市新町の鎮守で、宝暦6年(1756)、八王子出身の力士八光山権五郎が再建し相撲を奉納したという。社殿の前には、八光山権五郎の大きな石像が立っている。

 市守神社・大鳥神社
 
   永福稲荷 神社の先を左折した先で、、街道は国道20号線にでる。ここを鉤型に右に曲がって行く。
 街道沿いに大きな鳥居が立つ市守神社・大鳥神社がある。
ここから西に向かって真っすぐの道沿いに、横山宿の本陣などがあったというが、今はその面影は全くない。
   
  南方面にはJR八王子駅がある。

 街道を真西に向かって歩くが、横山町、八日町、八幡町と旧宿名に由来する町名が続いている。
 
八幡・八雲神社
 
    横山町郵便局の交差点で 街道から離れて、北に100mほど進んでいくと八幡・八雲神社がある。
 説明板によると、「八王子ともっとも古い関係を有する神社という。  八幡神社は延長2年(924)小野隆泰が武蔵の国司の時、石清水八幡宮をまつったのが起源という。
 八雲神社は延喜16年(916)の起源として、天正年間、北条氏が城山に城を築いて以来、氏神として崇敬されてきたという。」
 
興林寺 弘安の板碑
 
 郵便局前の交差点までもどり、街道を横断して、鎌倉時代の「板碑」をみにいく。
JRの跨線橋を渡って最初の変則十字路を左に行くと、右側に興林寺がある。
 弘安6年(1283)年の銘がある板碑で、高さ111cm、幅36cm、 厚さ6cm。八王子では2番目に古いという。

街道に戻り、西に進むと、国道16号線との交差点となる。
 
八日町交差点-絹の道
 
   街道に戻り、西に進むと、国道16号線との交差点・・八日町交差点・・となる。
  八王子道路元標がある。・・・2016年に横浜から「絹の道」をあるき、ここがその時の八王子の終着点である。

 
 

 
 100m程先の八王子夢美術館の前には八王子宿跡と刻まれた大きな石碑が立っている。
 
禅東院とうがらし地蔵
 美術館の東側の道を北にむかうと、禅東院があり、 とうがらし地蔵がまつられている。










<街道の景色>
   
加島屋(本郷横丁東交差点北側)

 
追分 道標
 
  しばらく進むと、追分町となり、甲州街道は、陣馬街道と分岐する。 陣場街道は案下川、案下峠を経由して相模国の津久井郡佐野川に至る古道であった。

 追分町交差点に架かる長い歩道橋を、高尾方面に向かって下りた少し先に、復元された大きな道標が建っている。

 説明板によれば「文化8年(1811)江戸の清八という足袋職人が、高尾山に銅製五重塔を奉納した記念に、江戸から高尾山までの間に建てた3つの道標の一つという。」
「右あんげ道 左 甲州街道高尾山道」 と刻まれている。

 千人同心碑
 
    追分町交の西側に追分郵便局があり、その前の小公園に「八王子千人同心屋敷跡記念碑」と刻まれた石碑がある。
そのわきの大きな説明板には、その由来、組織、歴史等細かく記されている。
 「もともと甲斐の武田に仕えていた半士・半農の武士集団で、慶長4年(1599)の関ケ原の戦いを前に1000人に増員され、「八王子千人同心」が成立した。当初は軍事的な役割をになっていたが、戦乱がおさまるとともに、「日光火の番」の任務が与えられるようになった。」という。
このあたりに、千人頭・原家の屋敷があったという。
 
街道景色
 
    追分から、街道は南西に向かって真っすぐに伸びていく。
両側のイチョウ並木がすばらしい。
千人町の地名が続く。
西八王液近くの交差点に「馬場横丁」の石柱が建っている。  この辺りに、千人同心の馬場訓練場があった場所という。

 高尾山道標  
   
その先 長房団地入口交差点を右折し、すぐ先を左折すると、そこは甲州街道の枡形となっている場所である。
、「右 高尾山 左 真覺寺」と刻まれた高い道標が建ち、その脇には、芭蕉の句と共に、昭和2年の新道建設時の枡形の絵図が、彫りこまれている石碑が建つ。

 また この辺りに「散田一里塚」(日本橋より13番目)があったといわれ、または、この少し先の市役所横山事務所前にある大きな木のある場所が一里塚跡という説もある。
 
多摩御陵入口から旧道へ
   多摩御陵入口交差点から斜め右に分岐していくのがが旧道である。
 右写真はまっすぐに多摩御陵方面に延びているケヤキ並木の参道である。

 旧道には、旧道の面影を残している屋敷が残っている。

 熊野神社
 
   国道に合流するとその向かいに熊野神社がある
応安(1368)の頃 片倉城主が創建したといわれ、天正元年(1573)北条氏照が再建。
 境内には 樫と欅が根本が一緒になって相生の木があり、「縁結びの木」と呼ばれている。
 
高尾駅
 
   高尾駅前を通過した先で、国道20号線は、日本橋より51kmの地点となる。
 
南浅川両界橋
 
   JR中央本線の高架下をくぐるが、下を流れる南浅川に架かる両界橋の脇に 地蔵尊が建っている。
この付近の南浅川は、深い渓谷のようで眺めがよい。



 
駒木野宿
 
  その先で、国道20号線から右に分かれ、小仏に向かう。

駒木野宿に入る。

 
小仏関跡
 
   広い公園の手前に、柵に囲まれた 「史跡小佛関跡 」という大きな石柱が建ち、、その手前に、平らな石が置かれている。
小仏関所は、戦国時代には小仏峠に設けられ富士見関とも呼ばれていたという。
旅人は手形石(奥)に手形を置き、手付石(手前)に手をついて通行の許しを待ったそうだ。


駒木野宿跡  
 公園の西側には駒木野宿と書かれた大きな標識が建っている。
説明板によると、関所の東側が、駒木野宿、西が小仏宿と呼ばれていたという。

       <街道景色>




 
念珠坂
 
     道は下り坂となり、左手にいろいろな石仏などの石碑が並んでいる。その右端に甲州街道念珠坂と刻まれた大きな石碑がある

 
小仏川
 
 小仏川沿って緩やかな坂道を進む。
 右手には、中央高速道が見えるようになる。



 
蛇滝口 バス停
 
 蛇滝口バス停前に、古い建物が残っているが、この先の蛇滝で水行をする人のための旅館だったという。




 その向かい側に「いのはなトンネル列車銃撃慰霊碑と石碑」と説明板がたっている。  1945年8月5日、中央本線湯の花トンネル付近で、列車がアメリカ軍の戦闘機P51ムスタングのの銃撃を受け、52名が死亡、133名が重軽傷を負ったという。
矢印の方向に進んでいくと、JR中央線の踏切がある。

 街道景色
 
<圏央道>  <中央道と小仏峠方面>    <マス釣り場>
    
<日影沢 高尾山への分岐>  <中央線ガードをくぐる>   <小仏バス停>
  

小仏バス停 (今回の旅は終了)
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  散策日     2020年1月31日 JR 日野駅―高尾駅
  参考