坂下宿-水口宿 

   地図①坂下-山中 ②山中-土山 ③土山-水口 ④水口-三雲


 

 素晴らしい天気に恵まれ、関駅からコミュニティーバスで坂下集会所まで到着した。
昨日 地蔵院から1時間半かけてのぼったあと関駅までの帰りは2,300円のタクシーで下った道のりであったが、今朝は¥100で15分でついた。土曜日の朝であったが、同乗者は鈴鹿峠から近くの山をハイキングする人、一人だけであった。




坂下の景色(新しく広げられ道)
 法安寺の前を過ぎると、右側畑の前に「小竹屋脇本陣跡」の石柱がある。その先で左に入る細い道が旧東街道の名残という。ほんの少しだけれども、旧道の幅や雰囲気を味わいながら 50m程歩いてすぐ広い車道に出る。

 山側の石垣の前に、祠があり小さな地蔵と石がある。柱に「身代地蔵尊」と書かれている。


その先には 風化した地蔵や五輪塔の一部がある。

岩屋観音入り口
 少し先の国道1号線が左から合流する手前に「岩家十一面観世音菩薩」とある大きな石柱が建っている。
 中には入れないが、高さ18mの巨岩にうがたれた岩窟に、万治年間(1658~60)に法安寺の実参和尚により道中の安全祈願の為に11面観音、阿弥陀如来、延命地蔵の石仏が安置されたという。
堂の隣にある清滝と合わせて「清滝観音」として広く世に知られ、北斎の「諸国滝めぐり」にも取り上げられている

荒井谷一里塚
 すぐ先で国道1号線に合流する。国道は、亀山方面へ向かう車線のみで、甲賀方面への一号線は川の反対側のはるか離れたところを通っている。
500m程先の片山神社への分岐点までは、国道の工事で削られているので、側道を進むことになる。この間に荒井谷一里塚があったという。(坂下宿鈴鹿峠イラスト案内図)
 右側の道への上り口に石碑と五輪塔があり、古道を思わせる場所もある。
 国道から分岐してから片山神社の石柱が見えて、ようやく旧道らしい道となるが、旧坂下宿があったとは思えない山の中へ進む道である。

古町-旧坂下宿の名残
 杉木立の中を進んでいくと、道は平坦になり、左下の小さな地蔵堂のような建物を過ぎると、少し広くなった場所に出る。「坂下宿~鈴鹿峠」という案内板がある。それによると、このあたりは「古町」と呼ばれ、室町時代から宿として機能していた坂下宿であった。慶安3年(1650)の大洪水で壊滅したため、1km東へ移転したが、それ以前の寛永14年(1637)に行われた検地によれば、坂下村全体で寺社の他に111軒の人家があったという。

片山神社 手前
 緩やかな坂を上っていくと突き当りに鳥居と高い石垣見えてくる。道の左右にも古い石垣が残っているが、神社の境内の一部かどうかは定かではないが、うっそうとした木々の中で、厳粛な雰囲気を醸し出している。



鳥居の手前を左側にいくと、大きな石碑が建っている。
「孝子万吉の碑」で、坂下古町に生まれた万吉は、4歳で父を亡くし旅人の荷物を運ぶなどして病弱な母親を助けていた。その孝行話が評判となった万吉を顕彰するもので、大正3年(1914)に建てられた。

片山神社
 木製鳥居の先に急な石段がある。奥にあった本殿等 平成11年に焼失し、今は石段を上ることができない。
片山神社は、延喜式内社で、鎌倉時代には今の場所に鎮座したと伝わる。斎王群行の際に皇女が休泊した「鈴鹿頓宮」の跡ともいわれるという。(前掲イラスト案内図)
また、坂上田村麻呂を助けた鈴鹿御前を権現として祀ったなどの伝えもある。
 東海道はここから石垣の手前を右に登っていく。
すぐ左には「鈴鹿流薙刀術発祥之地」の石柱がある。

鈴鹿峠への道・・燈籠坂
 急な上り坂が始まり、享保2年(1717)の常夜燈などの燈籠が並らぶ。燈籠坂と呼ばれていたという。

一部に石畳の残る所もある。急こう配をカーブしながら登っていく。

馬の水飲み場
 途中、真上を国道1号線が走るため、その下をくぐる新しい石段を上る。小さな広場の先からまた坂道が続く。
最初は石段となっており、左に芭蕉の句碑がある。
  「 ほっしんの初(はじめ)にこゆる鈴鹿山」

また平安時代の歌人西行法師は 「鈴鹿山 浮き世をよそにふり捨てて いかになりゆく わが身なるらむ」と詠んだ。(すぐ先に説明板がある)

その先急な石段の左に 馬の水飲み場跡がある。

鈴鹿峠
 しばらく上った先は平な道となり、標識や鈴鹿峠の説明板がある。
 奈良盆地に都があるときは、伊賀から加太峠を越え伊勢へ入る経路(のちの大和街道)が東海道であったが、仁和2年(886)近江から鈴鹿峠を超えて伊勢へ入る阿須波(あすは)道と称する新道が開かれ、斎王群行がこの新道を通って伊勢神宮へ向かうよう定められたことから、鈴鹿越えが東海道の本筋となったという。
東海道はまっすぐ進むが、このあたりは、6軒の峠の茶屋が並び賑わっていたといい、道の右脇をみると、石垣の跡が残っている。

鏡岩
 寄り道して、鏡岩を見に行く。標識を左に進むとすぐに「田村神社舊跡」の石柱が立ち、更に進むと、山の先端部分に出る。
岩面の一部が青黒色の光沢を帯びている巨岩で(2.3mx2m)、昔、山賊がこの岩を磨きそこに映った旅人を襲ったという伝説から「鬼の姿見」ともいう。


 →亀山方面への国道が見える。今上ってきたところは左下の林の中

伊勢と近江の国境
 もとにもどり、林を抜ける手前に新しい石柱が立ち、「是より京まで十七里」「江戸まで百九里」とある。
 
 これまでとは景色が一変、茶畑が広がり、緩やかな下りとなる。

万人講常夜燈
 道が舗装された先の広場に巨大な常夜燈が建っている。
説明板によれば、江戸中期に金毘羅参りの講中が道中の安全を祈願して建立したもので、重さ38t、高さ5m44cmの自然石の常夜燈で、笠の部分は1枚岩である。
地元の山中村や、坂下宿や甲賀谷の人の奉仕により造られたという。もとは東海道沿いに立っていたが、国道の鈴鹿トンネルの工事の為にこの場所に移設されたという。

国道沿いを進む
 坂を下り、国道1号線と合流し、しばらくの間 左側の歩道を進む。
国道はまっすぐであるが、旧東海道の面影の残る所が左右、所どころにある。
<右歩道側:埋もれた鳥居と常夜燈>  <左歩道側:道祖神?(右)>

熊野神社
 山中交差点を過ぎると、熊野神社の鳥居の前を過ぎる。国道1号線の標識が東京より435kmを示している。


 その先左側の広い畑の前に、山神の石祠がひっそりとある。

十楽寺
 その先には、文明18年(1486)創建という十楽寺があり、山門の前には天保3年(1832)の永代常夜燈がある。

山中城址
 左側を進むとバス停の先に、畑の手前に灌木が植えられている場所があり、窪地の先の木の陰になって見えづらいが「山中城址」の石柱が建っている。
 『近江の城郭』というHPによれば、山中氏は鈴鹿峠に近い山中村の地頭で、鈴鹿山の警備を務める後家人であった。その後居館を水口に移しここは一族が守ってきたが、天正13年(1585)秀吉により改易されたという。

国道から分岐
 国道の「山中西」交差点100m程手前で、東海道は右に分岐していく。馬子唄の石碑などのある小公園が道沿いに整備されている。

 山中川沿いの道を進むと地蔵堂がある。堂の中には、小さな石仏が衣にくるまれて安置されている。前の常夜燈は嘉永6年(1853)「地蔵大菩薩」とある



 すぐ先には、新名神高速の高架が走る。
旧東海道の右側には田圃が広がりその奥には丘陵がつながっているのどかな風景にコンクリートの巨大な建造物は似合わない。
時の流れというよりも一種の恐ろしさを感じる。

山中一里塚公園
 高架をくぐった先、国道1号線に合流する手前に、山中一里塚公園がある。一里塚はここより少し南にあったという。
中ほどに大きな道標と説明板がある。櫟野(いちの)観音道(大原道)道標といい、東海道と櫟野村をつなぐ道との分岐に建てられていたが、ここに移されたという。(建立年代不明)
 国道の向かい側に東海道の名残の道が見えるが、その先は消滅しているので、国道の右側を進む。




 猪鼻交差点まで進み、右折して道なりに広い道を少し東に歩いた後、北に向かうとすぐに、西に向かって消滅した東海道が始まる。
道路が土色に舗装されている。

火頭古(ひずこ)神社
 寄り道して、直進し山中川を渡ってすぐ北にある火頭古神社を訪れる。
大きな石柱と説明板があり、近隣の黒j川集落に祀られていた八王子明神を勧請したのが始まりとされ(貞享8年(1691)、八王子明神・大宮明神と称し、明治の初め火頭古神社となった、という。
本殿は、17世紀後半の造営で、一間社流造、間口5尺(1.51m)奥行5尺(1.51m)、檜皮葺の本格的な造り、というが、写真のような新しい覆屋の中にあり、残念ながら見ることができなかった。


猪鼻村
 東海道に戻ると、猪鼻村の石碑があり、鈴鹿峠を下ってから初めての集落である。
 坂下宿と土山宿の間の「立場」があり、草餅や強飯が名物であったという。浄福寺の少し先に「旅籠中屋跡」の石柱が立つ民家がある。
明治天皇が訪れたという「明治天皇聖蹟」の石柱もある。



 この先は登り坂となり、国道に合流する。
向かい側には金毘羅神社が見える。

蟹坂への道
 国道の右歩道をそのまま進むと、緩やかな下り道となる。
東海道は、途中で国道から左に分岐し更にその先で国道を横切って、右に分岐するというルートだったようであるが、消滅している。
そのまま右側を進むと、国道から右に分岐する東海道が現れる。右側に「蟹坂」の案内板がある。クリックすると拡大

 案内板の右下に「蟹塚」への行き先(写真をクリック)が書かれているので、少し寄り道する。

蟹塚
 本来は、少し西にある蟹坂交差点を渡らなければならないが、たまたま交通が途切れたので向かい側に行き、細道を探して、東側の山の中に入っていく。林の中の小川の先に石柵で囲まれた五輪塔がある。
 昔鈴鹿峠に巨大な蟹が出て旅人を苦しめていたところ、都の高僧-恵心僧都-が訪れ、「往生要集」を唱えると、蟹は八つに砕けた・・・その蟹を葬ったものといわれる。また、蟹を山賊として、山賊を葬った塚という話もある。

榎島神社
 案内板まで戻りと、すぐ左に、広い境内の奥に小さな祠がある榎島神社がある。白川神社の末社という。
(白川神社御旅所という石柱がある。)

     坂上田村麻呂を祀るという田村社→

蟹坂古戦場跡
 小さな集落を抜け工場の建物の間を過ぎると、広い畑が広がる。
その角に蟹坂古戦場跡の石柱と説明板がある。
天文11年(1542)伊勢の国から攻めて来た北畠の軍勢と当時の山中城主山中秀国のとの間の戦いがあった所で、秀国が勝利を収め、伊勢軍の甲賀への侵入を阻止したという。
 その先 畑の中をまっすぐ西に向かう。
先には、田村神社の森が見える。

海道橋(田村川板橋)
 森に入る手前を横切る田村川に真新しい橋が架けられている。平成17年に、以前あった田村川橋を再現したもので海道橋の名がついている。
 600m程下流に渡し場があったが、大水が出るため東海道の道筋を変えて田村川板橋を架けたという。
安永4年(1775)のことで、『武士や、橋を渡って生活する百姓は無料で、それ以外の住民や一般の旅人は3文の渡り賃をとる』、という高札が再現されている。

土山宿 広重:土山「春の雨」
クリックすると拡大  土山宿は上方へ向かう旅人が鈴鹿峠を超えて最初に入る宿場として発達し、中世には甲賀53家の一つ土山氏が治めていた。
 土山宿はここ田村川板橋から西の松尾川(野洲川)まで 22町55間(約2.5km)の細長い宿場で、田村神社を鎮守とする北土山と白川神社を鎮守とする南土山に分かれていたという。
 天保14年(1,843)のデータ:本陣-2、脇本陣-0、旅籠-44件、家数-351

 鈴鹿馬子唄に 「坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」と歌われ、広重も雨模様を描いている。
・・・・雨の中、橋を渡る大名行列を描いたもので、田村川板橋を渡り田村神社の社の中を宿場に向かっている風景であるといわれている。

高札場跡
 森の中を進むと、田村神社の参道と交わる十字路となる。
ここに高札場跡の石柱がある。
東海道は、ここで、左折し、参道を通りぬけて行った。

田村神社
 右側の大きな鳥居の奥に田村神社がある。
坂上田村麻呂は延暦16年(796)征夷大将軍になり、大和朝廷の奥州方面への勢力拡大に尽くし、弘仁2年(811)に亡くなったが、翌年、嵯峨天皇の勅命によりこの地に祀られたという。(鈴鹿峠の悪鬼を退治させたとの伝えがある)
鳥居の前の大きな燈籠は安政3年(1867)建立。

上島鬼貫の句碑
 参道から一の鳥居を過ぎ,国道1号線を超えて100m程先の小公園の前をを右折していく。大きな説明板があり、「あいの土山」の宿場の詳細な説明がある。東海道筋の見どころを読んで、土色に舗装された道を進む。
 その先の十字路を過ぎた左側にに緑地帯が続く。最初に地蔵の祠がある。中には風化したと思われる顔が白く描かれた2体の地蔵が安置されている。

続けて、句碑と説明板がある。大阪の伊丹生まれの
俳人-上島鬼貫(おにつら)の句で、貞享3年(1686)に鈴鹿へ向かう途中、土山に寄り 『お六櫛』を買い求めた時に詠んだ句、という。
   「吹けばふけ 櫛を買いたり 秋の風」
上島鬼貫は、東の芭蕉、西の鬼貫とも言われ、独自の俳諧を拓いたという。
『お六櫛』は土山宿の名物で十数軒の櫛屋があったという。(中山道の藪原宿の名産でもある)

道の景色
 東海道の宿場の通りを思い起こす家並みが続く。当時櫛などを打っていた「扇屋」を改修したという店など並ぶ。
 
 右側には、顔が白く塗られた小さな地蔵が安置された堂が雰囲気を出している。

土山一里塚跡

 少し先に土山一里塚跡の石柱がある。

 左側に大きな建物があり、「油屋 権右衛門」の屋号札がある。

来見橋
クリックすると拡大 緩やかな坂を下っていくときれいに整備された来見(くるみ)橋を渡る。

欄干には地元の切り絵家 黒川重一の東海道の絵が掲げられている。次の角を左折して白川神社へ行く

白川神社

 
 広い境内と重厚な本殿がある。
 説明板によると、「創建は不明で、古くは牛頭天王社、祇園社と呼ばれ、寛文5年(1665)の火災で延焼し現在地に移転、本殿は文久3年(1863)に造営された。・・・承応3年(1654)に復興されたと伝わる「土山祇園祭花傘神事」は、滋賀県の無形文化財になっている」という。

千鳥破風とから破風の組み合わせの本殿

油屋 平蔵
  道の両側には、「旅籠 木屋跡」や「旅籠 海老屋跡」の石柱が立ち、少し先には立派な構えの製茶場があるが、そこには「油屋平蔵」の屋号札がかかっている。

少し前にもあり、この先にもあるが、油屋の屋号のある家はいずれも大きく立派である。油屋は利益の出る商売をしていたのか、偲ばせる。

井筒屋跡
 続いて、説明板が立っているのは、森白仙終焉の地という、説明板が立っている。鴎外の祖父で、津和野藩亀井家の典医であったが参勤交代の途中ここで亡くなったという。その先には森鴎外が墓参の時に泊まったという旅籠平野屋跡がある。

<うかい屋>
 斜め向かいには、江戸時代には高利貸の菱屋の建物だったという「うかい屋」がある。江戸中期の築という。

すぐ先に二階屋脇本陣の石柱もある。

問屋宅跡

 次の角には「五十三次 土山宿」という看板が掲げられ、その横には「問屋場跡」の石柱もある。右奥には「東海道伝馬館」があるが、寄らずに先に進む。
すぐ先にある連子格子と2階に白壁の大きな建物が、問屋宅(宿役人の責任者)跡である。
説明板によると、北土山村と南土山村の二つの行政組織があったが、土山宿の問屋はこの両村をまとめて宿駅業務を運営していく重要な役割を果たした、という。

土山本陣跡
 隣は、本陣跡で連子格子と2階が黒の漆喰塗の壁の広い建物である。
 
 寛永11年(1634)、家光の上洛の際設けられ、甲賀武士 土山鹿之助の末裔 土山喜左衛門を初代として、明治まで務めた。
江戸時代、当主は熊本藩(肥後藩)の細川家の御用達人だった、という。

大黒屋本陣跡・高札場跡~陣屋跡
 隣には明治天皇の聖蹟碑が建ち、その先左には 林羅山が元和2年(1616)34歳の時に土山で詠んだ漢詩の碑が建っている。
広い県道を横切った角には、大黒屋本陣跡、問屋場跡がる。
左には、高札場跡の石柱がある。(田村神社前とここの2か所)
 
 更に進むと、左側の民家の前に「土山陣屋跡」がある。寛政12年(1800)の土山宿の大火災で焼けたあとは、陣屋は設楽に移ったという。


御代参街道道標
 300m程先で国道1号線に合流し、少し進んでから右に分岐する。
合流地点の空き地に道標2基が建っている。右側の道標は、文化8年(1807)建立で「右 北国 たが街道 ひの八まんみち」とあり、土山から中山道をー多賀大社へ通じており、御代参街道と呼ばれた。
 左側の道標は、天明8年(1788)建立で、「高埜(たかの)世継観音道」「瑞石山永源寺」とあり、東近江市永源寺への道で、途中から分岐していた。

行き止まりの案内
 200mほど先の十字路に案内板があり、その先の野洲川は渡れない。
南の国道に出て、白川橋を渡った先を北に向かい、元の東海道の道筋にいく。







<白川橋からの野洲川>         <元の東海道筋に戻った地点>

甲可日雲宮(こうがのひくものみや)
 東海道は南西に向かうが、200m程先の右側の丘陵地帯が開けるあたりに西に入る細道があり、すぐに「甲可日雲宮」の石柱がある。
 参道奥の鳥居には「日雲神社」の扁額があり、石段の先に小さな社殿がある。
伊勢神宮創建にあたり、垂仁天皇の皇女の倭姫命(やまどひめのみこと)が訪れたと伝わる地で、近江国の甲可日雲宮に4年間滞在したとされる。
同じ名前の神社は甲賀市内には数社あるという。

垂水(たるみ)斎王頓宮跡
 元に戻り、国道1号線を横切るが、その前に垂水斎王頓宮跡地に行く。国道を西にいき、茶畑の前の石柱のあるところを右折するとある。
平安時代の初期から鎌倉時代の中期までの380年間に38人の斎王が、伊勢参行のおり宿泊した「頓宮」(一時的な宮)が建てられたところとである。 仁和2年(885)に京都から伊勢を結ぶ「阿須波道」ができたあとは、近江の国-勢多・甲賀・垂水、伊勢の国-鈴鹿・壱志の5か所で泊まる「5泊6日の群行(ぐんぎょう)」であったという。
5か所の内明確に検証されているのはこの垂水頓宮だけという。

伊勢大路(別名 阿須波道)
国道を横切り、道を南西に進む。左に「伊勢大路」の石柱がある。
斎王群行の通った以降は、官道となり、伊勢への通行が増えると伊勢大路と呼ばれるようになったという。そして、東海道の前身となった。
すぐ先には地蔵の祠がある。その先で、少し広くなった道に合流し、土色に舗装された道を西に進む。

道の景色
 しばらく行くと左手に瀧樹(たぎ)神社の石柱と説明板があり、100m程奥にうっそうとした森と鳥居が見える。
毎年5月に「ケンケト踊りと花笠奪い神事」が行われるという。

 すぐ先には牛頭天王社があり、その先に
弁柄塗りの格子のある民家がある。
その先にも 瀧樹神社入り口を示す石柱や鳥居がある。


 右側にはひときわ大きな目立つ民家があり、屋号札には「東海道前野村 油屋佐右衛門」と書かれている。
土山宿に入って屋号「油屋」の民家-いずれも大きな民家で 3軒目である。

地安寺
 右に鐘楼門のある地安寺がある。
境内の左手に 御水尾法王の位牌が安置されているという「御影堂」があり、ある。宝永5年(1708)の建立という。 慶長6年(1611)に16才で即位、その後法皇となり、延宝8年(1680)逝去。(後で調べたら、昭和天皇より前では歴代最長寿の天皇という。)
 鐘楼門のて前に、御影堂建立の時期に、天皇の皇女の林丘寺宮が稙栽したとされる茶の木が残されている。
少し先の北側はと土山町 頓宮 の地名となっている。

大野市場一里塚跡
 数百m先、遊園地の奥に長泉寺の山門が見え、その先の民家の前に「一里塚跡」の石柱がある。
土山町内の一里塚は、山中、土山とここの3箇所であるが、いずれも塚のあとは残っていない。

 右側のの民家が途切れた先に一軒の茅葺屋根の家がある。側面が弁柄塗りで、なかなか良い景色であった。

大日川掘割
 大日川の橋の手前に「掘割」の説明板が立つ。江戸初期より水害に悩まされていた市場村は、頓宮村境から延長504間(916m)の排水路を完成させた-元禄16年(1703)―今の大日川の元になったという。

松並木跡
 説明板の前に「東海道反野畷」という石柱もたっており、橋を渡った先に松並木の跡の残り、まっすぐな道が続く。
 松が途切れるあたりの左側の林の茂みに隠されて、頭の部分しか見えないが「従是東 淀領」という石柱が立っている。
 淀藩は元和9年(1623)に山城国(京都市伏見区)に伏見藩に代わってできた藩で、その飛び地があったことから建てられたという。

道の景色
野洲川の堤防にさしかかり、東海道はすぐに離れていくが、この先ずっと
川の流れに沿って石部まで進むことになる。
鴨長明の歌碑や明治天皇聖蹟碑など見ながらしばらく進み、国道1号線を斜めに横切る。その手前に大日如来を祀る小祠や若王寺の道標がある。
そのあとは、国道の北側の道を進むが、途中には茅葺の民家があり、前に「旅籠 東屋跡」という石柱のが立つ。更に1km以上進んで国道に合流する手前の田圃の前に、自然石を彫った石仏があり、東海道らしさを出している。

 更に1km以上進んで国道に合流する手前の田圃の前に、自然石を彫った石仏があり、東海道らしさを出している。
左側(国道側)には、新たに設置された「今宿」の石碑や真新しい常夜燈が置かれている。

大野西交差点

クリックすると拡大 三叉路の「大野西交差点」で、東海道は消滅している。
 南側の道路脇の広場には大きな水口宿の看板が建ち、大きな「甲賀市観光絵図」が掲げられている。(写真をクリック)
甲賀市を初めて訪れて、滋賀県の南に位置し、信楽焼や甲賀流の忍術屋敷の場所など、興味深く見ることができた。

稲川碑
 ここからは、東海道は国道1号線と南側の道路の中間を進んでいる。
(交差点から南側道路を少し進んで右に入った所が、東海道の続きとなる。)
 すぐ右側に新しく作られた「稲川碑」の説明板がある。すぐ東を流れる稲川沿いに正保4年(1647)掘られた井戸が東海道の旅人の喉を潤してきたといい、石碑が建っているが、工場の敷地内にあるため見えないという。
その先には、経塚の説明板もある。

今在家一里塚
左側に小公園があり、榎が植えられた復元された一里塚がある。
江戸から112里目にあたり、かっては桜が植えられていたという。(説明板による)
次の角を左折し、浄土寺を過ぎて広い道路にでて右折、野洲川沿いの道となる。
 200m程先の右後方の道との合流地点に、今在家村の高札場があったという。角には「今郷歴史街道マップ」がある。



北側に司馬遼太郎「街道をゆく」の碑がある。→

岩神社
 広いバス道路から右に分岐し、宝善寺前を過ぎて再びバス道路に合流する。
道沿いに岩神社・岩上不動尊参道という新しい石柱が建ち、その奥に「岩神のいわれ」の石碑がある。
かってこの地は野洲川に面して巨岩・奇岩が多く、景勝の地として知られ、寛政9年(1797)の「伊勢参宮名所図会」には絵入りで紹介されているという。
すぐ先でバス道路から右に分岐して数百m進み、2叉路を右に進む。

古城山(こじょうさん)
 緩やかな坂を行くと、若い松が植えられ、右側に「東海道の松並木」とあるプレートをつけた石が置かれている。
このあたりは両側に松並木が整備されており、松並木の合間から古城山が望まれ景色が良かったという。

古城山
 天正13年(1585)に秀吉の家臣中村一氏が岡山城(水口古城)を築いた。後の城主が増田長盛、長束正家と替り、関ヶ原の戦いで西軍についたため廃城となった。
江戸時代は水口藩の御用林であったという。

東見附(江戸口)跡
 
 国道を横切って山川を渡ったあと、緩やかな坂を上がっていく。 右からの細道の合流地点に[東海道水口宿]の看板のある冠木門がある。
東見附(江戸口)跡で、桝形土居がめぐらされ、木戸や番所が置かれていたという。
 

水口宿
クリックすると拡大  水口が宿場として成立し始めたのは室町期で、伊勢参宮の宿村として設けられたのが始まりという。古城山に水口岡山城が築かれると宿場としての町割りも整備されていったという。
天和2年(1682)水口藩成立後、水口城(家光の為に築かれた御茶屋が前身)とともに城下町としての町並みと東海道が整備された。水口藩の城下町であり、宿場は道中奉行の支配下であった。

 当時からの特産品は籐細工や干瓢で、広重の五十三次には「名物干瓢」として、細く切った夕顔の果肉をひもの上にかけていく姿が描かれている。
天保14年(1843)のデータ : 本陣-1、脇本陣-1、旅籠-41、戸数-692、人口-2692

本陣跡
 国道を横断して100程先の左、両側が柵の細道の先に水口宿本陣跡の石碑がある。代々鵜飼伝左衛門が営み、間口も一般の3軒分に相当するという広大なものであったという。
脇本陣は左側にあった。

 少し先には、弁柄格子の民家があり 「桔梗屋文七」の看板がかかっている。

高札場跡
クリックすると拡大   すぐ先が2叉路となっており、正面に高札場が復元されている。正徳元年(1711)宿東部の作坂町に、道中奉行の高札場が設けられ、「札の辻」と呼ばれていたという。
『水口より・・石部迄 荷物壱駄 百四拾六文…』など書かれた高札の写しがある。ここから宿の通りが2つに分かれ、すぐ先からもう一つ分かれて、3つの道が並行して通っている。

道の景色
 高札場から通りが2つに分かれ、すぐ先からもう一つ分かれて、3つの道が並行して通っている。
 所どころに歴史を感じさせ民家が残る。

問屋場跡
 十字路の左角には、問屋場跡の説明碑がある。
江戸中期以降、この場所に定まったという。
 次の交差点には、大きなからくり時計が建っている(振り返った所)。
水口の曳山祭りで町内を巡行する曳山をデザインしたもので、「当地の曳山は、『二層露天式人形屋台』という構造で、屋上に『ダシ』と呼ばれる作り物をのせて町内を巡行し、毎回趣向を変えて出来栄えを競う」という。


3つの通りの合流点と石橋
 商店街を数百m進んだ先で、分かれていた3つの通りが合流する。ここにもからくり時計が置かれ、また小さな祠や常夜燈がある。
(←石橋から振り返ったところ)



すぐ先で、目立たないが小さな橋を渡る。橋柱に「いしばし」とある。
江戸時代からここに石橋がかかっていたという。

左に近江鉄道の水口石橋駅があり、今回の旅はここで終了とした。
 散策日 2013年6月8日    JR関駅 ・・・・・・近江鉄道 水口石橋駅
 参考
 「東海道五十三次を歩く」 5        児玉幸多 監修