水口-石部 

   地図①水口石橋-三雲 ②三雲-石部
 ③石部-手原


 

 7時に横浜の家を出発して、11時30分、ようやく水口石橋駅に到着した。
途中 草津線の手原駅から三雲駅まで、南側の田畑の奥の山裾に瓦屋根の家並みが並んで見え、旧東海道の道筋がはっきりとわかる。貴生川で乗り換え、滋賀県の最古の私鉄という近江鉄道の駅で,降りた人は2名、ゆったりとした時間が流れる町である。




水口石橋 曳山蔵


 踏切の東側の旧東海道の合流地点を背にして、旧街道の町並みのある道を西に進む。すぐ右に、享保20年(1725)から続く「水口曳山祭」の曳山が収納されている山蔵(天王町)がある。説明板によれば「二階露天式人形屋台」という構造で、全長4.1m、高さ5.4m、巾3.1mという。

水口城天王口跡
 100mほど進んだ角に小さな東海道案内図があり、東海道はここを右折する。
もともとは直進していたが、城の北側を迂回し、この先の五十鈴神社の南で当初の道に戻ることになる。
水口城の東端にあたることから木戸が置かれ「天王口御門」と呼ばれた。
 突き当りを左折し西に進むが、途中の広く整備された南北の道を300m程南に行き、水口城跡を訪れる。

水口城跡
 秀吉の時代、古城山に水口岡山城が築かれていたが、3代将軍家光の上洛のおり、寛永11年(1634)新たに将軍家専用の宿館を築かせたのが、水口城の始まりという。作事奉行は小堀遠州。
 天和2年(1682)に加藤明友が入封して水口藩が成立し、その居城として明治維新まで続いた。
出丸の跡に復元された矢倉がある。

水口石
 もとに戻り、、100m西に進み左折する。その先の角を右折するが、そこに、「力石」とも呼ばれる大きな石と説明板がある。江戸時代からここ小坂町の曲がり角にあって知られていたという。
 
その先左側に、「百間長屋跡」の説明板がある。水口城の郭内の武家地にあって、東海道に面して180m続き(明治初期には21軒あった)、北側には出入口がなかったという。
 
 少し先の真徳寺の表門は、もと城の郭内にあった家臣の屋敷の長屋門を移築したものという。

林口の一里塚跡
少し先が五十鈴神社で、突き当りを左に進む。神社の西角に一里塚の石碑がある。
本来はここより南側にあったが、水口城の整備に伴い、東海道が北側に付け替えられ、神社境内の東端に移ったという。
                        <五十鈴神社境内>

道の景色
 すぐ先の信号のある交差点を右折して西に進む。
右側に大きな題目塔が立つ妙沾寺(みょうてんじ)がある。この付近には水口宿の西見附があったという。

 300m程北にある柏木神社の鳥居がある。創建は古く、のちに頼朝が鶴岡八幡宮のの分霊を合祀して以降若宮八幡宮と呼ばれたという。

<弁柄の格子>      <以前は茅葺だった>   

北脇畷と松並木
 住宅街を抜けると、両側に田園風景が広がり、東海道は一直線に延びている。
平安時代からの伊勢大路を東海道に整備した際にまっすぐにし「北脇畷」とよばれ、両側には松並木があって、近隣の村々に掃除が割り当てられ、美しさが保たれていたという。、
次の泉一里塚の手前まで約3km続く。

<道端の石仏>  
  

道の景色
<柏木小学校の前の松> <宝暦12年(1762)の道標>  <町並み>
      

泉福寺
 しばらく行くと 「国寶延命地蔵尊泉福寺」と刻まれた古い石柱がある。
弘仁4年(813)伝教大師最澄の創建で、延命院といった。天正年間(1573~93)の兵火で焼失したが、地蔵菩薩坐像は焼失を免れ、以来本尊として安置されている。(鎌倉時代の作とされ、重要文化財となっている)

境内左には、宝篋印塔(上部のみ)と鬼瓦がある。


 右側には 治安3年(1023)勧請の日吉神社と 高さ30mに及ぶケヤキがある。

         

泉一里塚
 すぐ先に若い松並木があり、東海道は左にカーブし、細い川を渡る。
少し先右側に林があり、復元された泉一里塚がある。
元の一里塚はもう少し先の野洲川に近いところにあったという。 
すぐに野洲川に突き当たる。 

横田の渡し跡
 川沿いに走る県道の向こう側に小公園があり、大きな常夜燈がある。説明板によると、このあたりは、横田川とよばれ、室町時代には「横田河橋」があったが、東海道が整備されてから厳重な幕府の管轄下におかれ、通年の架橋は許されず、3~9月船渡し、10~2月は流れの部分に土橋が架けられていたという。
土手側に明治24年(1991)に架けられた板橋の橋台に一部が残されている。
ここに立つ、石燈籠は、文政5年(1822)に、地元や京都、大阪の万人講中の寄進によって建てられた。高さ:10.5m、笠石:2.7m四方の巨大な常夜燈である。










常夜燈の竣工と同時に勧請され建立されたという金毘羅宮が公園の端にある。

 ここでは、野洲川は渡れず、渡し前の道を西に進み、国道に合流した先の横田橋を渡る。
右側を渡った先の石段を降りてから、土手沿いを上流に向かう。しかし横田の渡しの対岸まではいくことができず200m弱進んだあたりで、小川沿いの細道を右に入り、土手と並行して走る車道に出る。
ここで,渡しの対岸から進んできた旧東海道に合流することになる。

横田常夜燈
 すぐ右に比較的大きな常夜燈がある。さっきみてきた石燈籠よりも50年ほど前の安永8年(1774)に建てられたもので、高さは4.8mの火袋付で東講中と刻まれている。
説明板によると、建立された当時はここから200mほど上流に建っていたという。

少し寄り道となるが南の斜面の立っているという「天保義民の碑」を訪れる。常夜燈の反対側の草津線の踏切を渡り少し進むと2叉路があり、大きな「新海道」とある石柱の前を左に上がっていく。
<新海道>
 横田の渡しの対岸から旧東海道と分かれて、甲賀-関 方面に進む道として「杣(そま)街道」があった。(それ以前は古東海道として使われた)。
明治以降整備され「新海道」といわれ、もともと渡しの対岸にあったものが、ここに移されたという。

天保義民の碑
 少し先の右側の石段を登っていくと広場があり、大きな碑と詳細な説明板が建っている。
天保13年(1842)幕府の命によりはじめられた検地が、過酷であったため三上村の庄屋や甲賀郡の庄屋・農民が一揆をおこし、検地を停止させたが、厳しい取り調べの後、11名が江戸送りとなった。
明治に入り関係者の罪は大赦され、明治31年(1898)に義民を弔う石碑が建てられた。

三雲駅前の道標
 旧東海道の常夜燈まで戻り西に進むとすぐ三雲駅前の十字路となり、角に「妙感寺 従是二十二丁」 「萬里小路藤房卿墓所」という石柱(昭和4年(1929)が建っている。
萬里小路(藤原)藤房は後醍醐天皇の側近で、元弘元年(1331)の元弘の乱で鎌倉幕府に捕えられ下総国に流罪となったが、幕府滅亡後出家し、その墓がここから南にある妙感寺にある。

 草津線と並行して進む旧東海道の町並みを500m程行き、小さな川を渡った左側にも道標がある。
石塔が3基建ち、真中の石柱が、「萬里小路藤房卿古跡」「従是十四丁」と刻まれている。寛政9年(1797)建立。

大沙川随道
 緩やかにカーブしながら草津線の踏切を超え、ふるい家並みが続く通りを数百m進むと、トンネルが見えてくる。天井川の大沙(大砂)川隧道である。
右手前に三雲城の案内と大きな史跡めぐりマップ」がある。
説明によると、奈良時代、奈良の仏教寺院や石山寺の造営時、この辺の木々が切り倒され禿山となり大雨で土砂が流れ川底が上がり天井川になったといわれる。
江戸時代には土手を上り下りしていたが、明治17年(1884)県下最初の道路トンネルが築造された。

弘法杉
 隧道の先に、「弘法大師錫杖跡」という石柱と説明板がある。
土手を上ると狭い土手の上にお堂が建ち、後ろに存在感のある大きな杉がある。 樹高26m、周囲6m、樹齢750年という。
弘法大師がこの地を通った時に2本の気を植えたとも、食事のあと杉箸を指しておいたのが芽を出したとの説がある。安永2年(1773)の台風で一本が倒れたという。

土手沿いの道を北に進むと、三雲城址であるが、時間の関係で訪れるのはあきらめた。
安土の観音寺城主・佐々木六角高頼が、長享2年(1488)三雲典膳に築かせた城で、織田信長の京都侵攻に際して最後まで主君の六角に従ったため、織田方の佐久間信盛の攻撃で落城したという。

夏見の里・夏見の一里塚
 しばらく先の広い十字路の左角に、いろいろな案内や標識とともに小さくて目立たないが「夏見の里(藤棚)」という説明板がある。
この辺に何軒かの茶店があり、立場の役割を果たしていたという。
「名物はトコロテンで、広重が描く夏見の里に、いなりやという茶店が広重が描く藤の棚の店として紹介されている」とある。

<しばらく進んだ三雲小学校入り口の十字路の先の民家>ーもとは茅葺屋根だった









<すぐ先右側の路地にある常夜燈や石柱型灯籠>>

このあたりに夏見一里塚があったらしい。






<一里塚・立場の説明板>

少し先の夏見診療所前の広場に「石部宿一里塚」の説明板がある。
ここから70mほど手前(東)にあったという。
このあたりが夏見の立場といわれたという。



その先で再び由良谷川の下を通るトンネルを進み、文化2年(1805)の創業という北島酒造の歴史のある建物を過ぎて、家棟川を渡る。

     

橋の手前に「うつくし松」の説明板がある。脇に建つ「史跡めぐりマップ」では、東海道からは相当の寄り道となる事がわかったが、せっかくここまで来たからには 訪れない訳にはいかない と決心した。

南照寺 松尾神社
 100mほど先を左折、緩やかな坂をのぼり、南照寺に突き当たる。
石段の先の山門を入ると、境内正面に「松尾宮」の拝殿、奥に本殿がある。神社略記によると、仁寿3年(853)当時の領主藤原頼平が山城国松尾大明神を美松山に勧請した。社殿は文政4年(1821)の再建」 という。
境内右手に南照寺本堂がある。本堂に掲げられた「平松城祉の研究」に、ここの西側一帯の平松城の縄張り図、想像図が掲げられており興味深い。
    

うつくし松
 石段の下から右に向かう道が途中までありその先は工事中であったが、しばらく進むと、右から上ってくる舗装道路に出る。
緩やかな坂道を上り住宅地を右に抜けると広場があり、奥に雄大な松がそびえている。
その奥には遊歩道が整備されており、山の斜面に自生している松を見ることができる。大きいものは、周囲2.1m、高さ12.7mで、地上から60cm位のところから、幹が多数分かれており、アカマツの変種という。
 国内唯一の自生地で約200株群生しているという。



道の景色
    題目塔            上葦穂(かしほ)神社石柱

石部宿東見附跡
 少し先で細い川を渡る所に「これより石部宿」とある木製の立札があり、さらに300m程先の「目川屋」の駐車場の角に「見付」という立札がある。この付近が東見附跡という。

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 石部宿の規模:天保14年-本陣2、旅籠32軒、人口1606


石部宿は『京たち石部泊まり』といわれ、京都から江戸へ下る旅人の多くが最初に宿泊する宿場であったという。
東西45町(約4.9km)の宿場の規模にしては、旅籠の数が多く、宿泊客が多かったという。

高札場跡と問屋場跡
 歴史のある町並みをしばらく歩くと、湖南市の西庁舎に通じる県道113号線と交差する。
交差点手前左角に高札場跡の説明板があり、道を渡った先には、問屋場跡の説明板が立つ。 

 問屋場は、もとはここから100m程北にあったが、のちこの付近に移り、その横に高札場があったという。

小物問屋の建物
 少し先尾左側に「木八金物店」のサインのある建物がある。店の右前に「小物問屋木や八郎左衛門」の木札と説明板がある。
「京まちや」つくりの面影の残っている 幅7m、奥行き50mの建物で、途中に、二か所の中庭を備えており、築150年以上という。
右側が空地となっており、ウナギの寝床の様子がよくわかる。

石部本陣跡
 すぐ先には、民家の庭先に明治天皇聖蹟という大きな石柱があり、その前に、石部本陣跡の石柱と説明板がある。
幕府直轄と膳所(ぜぜ)藩直轄の二つの本陣の内の、小島本陣の跡である。

<町並み>

石部一里塚跡
 西に進むと、T字路角に目川立場の田楽茶屋を模して建てられた建物があり、そこを右折する。その先の突き当りを左折して、西に進んでいく。
すぐ先右側の民家の生垣の中に建つ支柱に「一里塚」と書かれた木札がある。

西見附跡
 100m程先の石部西交差点をわたると右角の小公園の内側に「西見附跡」の説明板が立つ。

<西縄手跡>
 そこから300m程先の小公園には、木の立札があり、「江戸時代には、西縄手と呼ばれる松並木が続き、宿内に入る前に整列した場所」という。


本日の旅はここで、終了し、右折してJR草津線石部駅に向かった。
 散策日 2013年10月3日    近江鉄道水口石橋 - JR石部駅
 参考
 「東海道五十三次を歩く」 5        児玉幸多 監修