散策日 2007年1月5日  茅ヶ崎-大磯
参考 「神奈川県の歴史散歩」  山川出版社
茅ヶ崎−大磯                地図→ @茅ヶ崎−平塚   A平塚−大磯



正月5日だったので、各 神社では初詣の雰囲気がまだ残っており、天候もよく華やいだ気分で散策できた。


円蔵寺

東海道の茅ヶ崎の駅の入り口にある、一里塚からすぐ左側に、円蔵寺がある。
高野山 真言宗
第六天神社

約10分ぐらいあるいた右側に、第六天神社がある。
天地世界創造の神-天神7代の神-のうち、第六代目で、国土生成の神様という。
「創立年月日は不詳ななれども新田義貞の鎌倉攻め(元弘3年-年)の際、火事にあったと伝承されている。」 と、説明板「由緒」に記されている。
南湖の左富士

 道が大きく右にカーブしている先に、千の川のかかる鳥井戸橋がある。渡った左側に石碑が建っている。説明板によれば、『東海道のうち、左手に富士山の見える場所は、ここと静岡県-吉原の二箇所が有名で、南湖の左富士として茅ヶ崎名所のひとつとなっている。』

この日は、午前中で天気もよく、きれいに富士山がみえた。

鶴嶺八幡宮の参道入り口

橋のすぐ右側に大きな鳥居があり、そこから鶴嶺八幡宮の参道が続く。
東海道から外れることになるが、八幡宮に近くのお寺も訪れることから、足を伸ばすことに下。

弁慶塚

参道に入ってすぐ右側に弁慶塚がある。
相模川の橋の落成供養に参列した源頼朝が、その帰途鶴嶺八幡宮卑近にさしかかると義経ら一族の亡霊があらわれ、翌年死去した。里人は、義経一族の霊を慰めるため、弁慶塚を造ったと伝えられている。・・と説明板は記している。
松並木

小田原北条氏が滅ぼされたあと荒廃した神社は、江戸初期 別当寺の僧 朝恵身により再興され、420間(約764メートル)に渡り、待つが植えられた。という。
鶴嶺八幡宮
由緒によれば「、康平年間(1058〜1065年)、源頼義が東征の際、石清水八幡宮にならい本郡懐島郷矢畑村に一社を創立し、のちに 源家が、現地に奉還したと伝う・・・」
「神奈川歴史散歩」では、ほかに、大庭良正が長承2年(1133年)開基したともいわれる、という。
 樹高29mという立派な大イチョウの他、「なぎ」の木 があり、詳しい説明がある。「なぎ」は、竹と同じく葉脈が縦方向にあり、縁起がよいという話を、鎌倉覚園寺の境内で聞いた。
龍前院

境内には、二階堂十人墓といわれる10基の五輪搭があるという。

元禄7年(1694年)の銘がある、市内最古の江戸期の典型的な梵鐘。
入り口脇には、庚申搭群が並んでいる。
北向き地蔵

八幡宮から、北に向かって約500mの室生寺を探して歩きまわったが、まだ住宅が増えつつある段階で、畑が多く残りのどかな雰囲気が漂っている。
室生寺の屋根がみえる直前で、細い道の脇に北向き地蔵が建っていた。
室生寺

説明板によると、鎌倉時代の作で、国重文の「阿弥陀三尊像」が本尊という。(普段は未公開)
東海道へ戻る途中の風景

小出川 
旧相模川橋脚
 東海道のもどり、小出川を渡る橋の手前南側に、旧相模川橋脚がある。
関東大震災により地中から数本の丸柱が出現し、歴史学者沼田頼輔博士が、「建久9年(1198年)に、鎌倉幕府の御家人稲毛重成が亡き妻の供養のため架けた橋の橋脚」であることを考証したという。
今は、その保存整備事業が進められており、工事用の柵が立っていて見学できないが、柵の外に説明板があり、橋杭の本数や位置、整備事業などが細かく図示されている。
道祖神

相模川を越える橋の手前に、道祖神がお堂とともにある。
相模川

馬入の一里塚跡

国道一号線が、旧東海道と分かれる馬入交差点の手前、左側に、一里塚跡の説明板がある。
お菊塚

平塚駅前の紅谷パールロードを長崎屋の前まで進み、路地を入ると、紅谷町公園がある。その一角に「番町皿屋敷』の主人公菊にちなんだお菊塚がある。
説明板によれば、お菊は平塚宿役人真壁源右衛門の娘で、江戸の旗本青山主膳に奉公した際、家宝の皿を紛失したとされ、手打ちにされた、という。
平塚八幡宮
東海道から離れて、北にある平塚八幡宮へお参りした。
「由緒」によると、「創祀は仁徳天皇の68年(4世紀)で、この相武の地に大地震があり。人民が非常に苦しんでいることを聞かれた天皇が詔を出され、国土安穏を祈願して創られた」という。
    
江戸見附跡

再び、東海道(旧道)に戻り、西にすすむ。市民センターの手前、右側に江戸見附跡の柱と石垣がある。
ここから、西の上方見附までが平塚宿内で、約1.5kmにわたり200軒をこえる町並みが続いた。(説明板より)

西に向かって宿場での各機能を果たしていた施設の跡が、説明板の跡が、説明板とともに続いている。
脇本陣跡 高札場の跡          問屋場の跡

  
本陣 旧跡 西組 問屋場

平塚市消防団の建物

西組問屋場のあとがある場所にあり、宿場の様子に合わせて立てられた消防分団の建物。
この脇の道路を北に向かうと、要法寺がある。
要法寺

「縁起」によると、『日蓮上人が、平塚の立ち寄られたとき、この地の地頭をしていた平塚左衛門尉泰知(北条泰時の次男)の屋敷に宿泊し、日蓮に帰依していた泰知は、自らの館を献上して、「要法寺」の寺号をいただいた・・・』という。
平塚の塚

要法寺の西となりにある。
説明板によると
「江戸時代の「新編相模国風土記稿」の中に、昔桓武天皇の孫、高見王の娘政子が東国へ旅をした折、天安元年(857年)にこの地で逝去した。ここで埋葬され、墓として塚が築かれたが、その塚の上が平らになったので、里人は『ひらつか』と呼んできたという。」
京方見附跡

旧道に戻るとすぐに、新東海道と合流する。
京方見附の跡と説明板がある。
京方見附跡からみた高麗山
高麗山

花水川にかかる花水橋と、高麗山
この高麗山の奥に連なって湘南平がある。
善福寺

 花水川を渡ったすぐ左側に『親鸞聖人御旧跡』と刻まれた善福寺がある。
国重文の「木造伝了源坐像」と、本尊『木造阿弥陀如来立像」(県重文)がある。
民家

日本橋から66kmという標識があり、右側には藁葺きの民家がある。
高来神社(たかく)

「神功皇后が三韓を征伐したときに神霊が現れて勝利に導いたので、武内宿禰は、東国の平定のために三韓の神を移したのが始まり」という。
(由来の一部)
神奈川の景勝50選の碑

神社の脇から、ハイキングコースが続く
         シンニッケイの説明
 
虚空蔵尊

先,右側に小さいお堂がある。虚空蔵と熊野権現を合祀したお堂、ここに下馬標が立っていた。という。
 説明板
化粧坂

ここから、旧道は右に進む。化粧坂となる。
化粧井戸

説明板:「鎌倉時代の大磯の中心は化粧坂のこの付近にあった。当時の大磯の代表的女性「虎御前」もこの近くに住み、この井戸水を汲んで化粧をしたのでこの名がついたという」
一里塚跡 広重の大磯を描いた浮世絵をある。

旧道の松並木の風景

 化粧坂から、先の新東海道に合流するまでは、昔の東海道が思い出される景色が続く。
  
大磯宿江戸見附 跡

『此辺大磯宿の史跡』が、絵とともに説明している。
神明神社

新東海道と合流した先にあり、この説明板には、明治天皇の明治元年-江戸への旅のときに大磯宿で起こった事が詳細に描かれている。
秋葉神社


宝暦12年(1762年)大磯宿に大火があり宿場の殆どを焼失したため当時の町役が願主となり、遠州秋葉山より秋葉大権現を勧請し、13年大運寺境内に秋葉社を建立、宿場の安全を祈願したという。(縁起より)
虎御石 と、大磯宿の説明図



延台寺への入り口にある。

曽我十郎の恋人虎御前が生まれた時、両親が祈った小石が虎御前の成長とともに大きくなり、十郎が仇の工藤祐経の刺客におそわれたときに身代わりとなったという、虎御石が延台寺にある。
延台寺

虎御前が曽我兄弟を偲んで庵を結んだ跡とも伝えられ、慶弔4年(1599年)身延山第19代法主日道上人によって開かれたという。
大磯宿遊女之墓などもある。
北組問屋場跡


大運寺
、東海道をはさんで延台寺の反対側の大磯駅に行く途中にある。
大磯駅
夕暮れ時となり、今日の散策はここで終了。