三島-沼津     

       地図→  @塚原新田〜三島   A三島〜沼津  B沼津〜片浜 


 前回、夕暮れで終了した新町橋までバスで行き、そこから沼津宿を目指してスタートした。


新町橋からの富士山
 新町橋は三島宿の入り口であって、橋は長さ15間(約34m)、幅3間(5.4m)の欄干を持つ板橋で、橋の西の位置に見附木戸があったという。
西の見付け木戸はこれから行く千貫樋のある秋葉神社あたりという。
古くから伊豆の国府があったところで、南伊豆から三島明神が移ってから門前町として栄え、江戸時代には箱根の関所をひかえた大きな宿場町として発展した。

鞍掛け石と宝鏡院
 新町橋の東側に、宝鏡院があり、足利二代将軍義詮と、茶々丸(北条早雲)に殺された伊豆堀越公方足利政知の墓があることで知られる。
                            
その山門に行く道の入り口に、左右一対の石があり、鞍掛け石と呼ぶ。神社参詣のひとがここで馬に乗ったとか、源頼朝が鞍を置いたなどと伝えられる。
                  宝鏡院

無縁法界地蔵尊
 新町橋西側の堤防の南に、石地蔵が建つ。無縁法界地蔵尊という説明板がある。重罪で斬罪となったものの首を、見せしめのために新町橋際にある獄門台にのせてさらしたという。
地蔵尊が安置され、土地の人は引取人のないものを供養したという。

+妙行寺
 これより街道の両脇には、寺が多くならんでおり、本陣や脇本陣を使えない場合には、臨時に休泊所になった。
南側に位置する妙行寺の本堂前には大きな獅子像があり、それは総理大臣石橋湛山の縁で中国から贈られたものという。

光安寺  六所神社
 北側には、光安寺がある。説明板によれば、本尊の地蔵菩薩坐像は南北朝時代(1336-1392)頃の作と言われ、時宗寺院では最古に近い像で、鼻取り地蔵とも呼ばれるという。
また延文3年(1358)銘の板碑が残る。これは南北朝時代の板碑で、しかも関東板碑文化の最西端にある点重要なもの、という。
 
次の路地に、六所神社があり、文化3年(1806)の常夜燈の台座が残る。
成真寺(じょうしんじ)
 信号を越えた先、南側にある。
北条時政の家臣、平成真(しげざね)が建てたのが始まりで、もとは真言宗であったが、箱根権現で親鸞に会い真言宗から浄土真宗に改めた。その結果、寺の本尊を薬師三尊と箱根権現の阿弥陀如来像を交換した。
のちの明治の神仏分離令の時に、箱根権現から薬師三尊を返還してもらったという。
阿弥陀如来は鎌倉時代、薬師三尊は室町時代の作とされる。

日隅神社
 成真寺の前の道を西に行くと、すぐ右側にある。由緒によると、古くから三島大社の摂社で、五の宮ともいわれ、明治10年に大社の末社に指定され崇敬されたという。
鳥居の脇に、元文5年(1740)と天保15年(1844)の常夜燈がある。

三嶋大社
 新町橋あたりから三島広小路駅まで、三島宿の中心をまっすぐな道が続く。右手に文久3年(1863)の大鳥居があり、そこから北に三嶋大社の境内が広がる。神池の中の参道を進み、総門があり続いて神門、舞殿、本殿・拝殿と続いている。
 
社伝によれば創建(遷座)は宝亀10年(773)とされるが、伊豆三島の国府がこの地におかれた時には、国分寺より早く神社の方が勧請されたと思われるのでもっと古いはずであるという。(田代道弥氏)
 大社の説明板によれば、火災などで何回か倒壊し、今の社殿は、安政元年(1854)に東海地震で倒壊したが、明治2年(1869)にかけて神主の矢田部式部盛治(銅像がある)によりと再建されたという。本殿の大きさは出雲大社とともに国内最大級で、高さ23m、鬼瓦の高さ4m。

境内には、樹齢1200年という国指定天然記念物の金木犀がある。
       本殿
       頼朝旗揚げの碑
境内入ってすぐ右側には、大きな「旗揚げの碑」がある。
頼朝は源氏再興を祈願して百日の日参をし、治承4年(1180)8月戦勝祈願をしたのち、山木兼隆襲撃に成功する。以後、将軍・執権の参詣がたびたび行われた。
また、神門の手前には、日参の時休憩したという頼朝・政子の腰掛け石がある。

問屋場跡
 西に進むと右側に中央町郵便局があり、その角に「問屋場跡」の説明板が立っている。
箱根、小田原に比較して当時は交通量が多かった三島宿で、幕府の役人や公用の貨客を運ぶための人馬の調達を、ここ一か所の問屋場ですべてを賄っていた。そのため、役人・人足は相当数いたが、助郷人馬の動員などと併せ人手不足をかこっていたことが資料に残っているという。


鎌倉古道
 郵便局の脇の細道を北に行くと鎌倉古道にぶつかる。左折するとすぐに御殿川にかかる橋=赤橋があり、「鎌倉古道」と書かれた石柱が立っている。
 平安時代の東海道は、三島は通らず足柄峠をこえて東国と結んでいたが、鎌倉時代になって三島を通る箱根路が開発され、鎌倉と京都を結ぶ重要道路として整備され三島は箱根路を控え重要な宿駅となった。その頃の道を、推定平安・鎌倉古道と呼んでいる。(今の旧東海道―箱根路は、さらに南によっている。)

円明寺
 古道をさらに西に行くと円明寺の表門が見える。この門は、街道沿いの樋口本陣の表門を移築したものと伝えられている。説明板があり、「門の形式は、漢医門で切妻屋根(本を開いて伏せたような形の屋根)であるが、この形式は鎌倉時代末期から室町時代初期にできたものといわれており、この様式が江戸時代の本陣の表門として残っていることは、非常に貴重」としている。
また、門の内側に孝行犬の墓がある。

樋口本陣と世古本陣跡
街道に戻り本町交差点の西側に、街道をはさんで、右に世古本陣跡の石碑と、左に、樋口本陣跡の説明板がある。
天保10年(1843)には三島宿には、この2軒の本陣の他に脇本陣が3軒あり旅籠屋が74軒あったという。

三石神社と時の鐘
 200mほど行くと楽寿園の小浜池を源流とする源兵衛川を渡る。
左側に三石神社がある。川辺に三ツ石と称する巨石があり、その上に社殿を建て稲荷の神を祀ったという。
参道の左=川のほとりに、「時の鐘」がコンクリート製の柱で支えられた屋根に下がっている。寛永年間(1624-44)に造られ、宝暦11年(1762)に新たに大鐘に造られ三石神社境内に設置された。
時を知らせ、火災の信号用としても使われた。

蓮馨寺
 神社のとなりに、安政3年(1856)創業という うなぎの「桜家」があり、昼前なのに大変賑わっていた。次回の楽しみにしよう。

 その向かいに蓮馨寺の参道がある。山門を入った右側に安永7年(1778)に建てられた芭蕉の墓(供養碑)があり、側面に「いざともに ほむぎくらわん くさまくら」の句が刻まれている。芭蕉は東海道の旅には住職が弟子だったことから常にここに泊まったという。  

三島広小路駅
 すぐに、踏切と広小路駅となる。
路線名を伊豆箱根鉄道駿豆線(すんずせん)というが、今は伊豆の国だけを走っているが、以前 駿河国に属する沼津市と伊豆の国の三島市の間の路面電車を走らせていた「駿豆電気鉄道」がもとになっている。
伊豆鉄道から、三島-修善寺の路線の譲渡を受け、1934年現在の三島駅が開業するまでは、旧三島駅=御殿場線下土狩駅を国鉄線との接続駅にしていた。
その後、駿豆鉄道は伊豆箱根鉄道株式会社に社名変更となった。

伊豆国分寺 七重の塔跡

 踏切を過ぎると右が新道、左が旧東海道となる。
この二叉路から一つ目の細い道を北に進むと伊豆国分寺があり、門前に国分寺塔跡の説明板がある。今の伊豆国分寺は慶長5年(1600)に三島代官井出正次が蓮行寺として再興したもので、昭和30年に改名したという。

 説明板によれば、「国分寺は聖武天皇の命により、天平13年(741)頃より国ごとに徐々に建てられていった。今の国分寺の本堂裏に塔跡だけが残っている。クリックすると大きくなります
そこに残された礎石から、塔は七重の塔で、高さは約60mに及ぶと推定される。昭和31年調査が行われ寺域は東西80間、南北100間の長方形で、建物配置も東大寺式伽藍配置であったことがわかっている」という。

秋葉神社
 旧街道まで戻り、左にほんのゆるやかなカーブをしなが西に進むが、道幅や町並みなどは、街道の趣を残している。
 数百mすすむと左側の少し高くなった所に大きなムクの木(樹齢250年)があり、脇に秋葉神社がある。境内に寛政5年(1793)銘の常夜燈がある。
この付近に三島宿の京側見附があったという。

千貫樋
 すぐに境川橋があり伊豆と駿河国の境にあたる境川が流れている。
右側の民家と民家の間の奥にコンクリート製の橋(樋)が見え、[千貫]という文字が大きく彫られているのが見える。(用水路を川の上を通すために造られた)
橋の右側に説明板が立っており、それによると
『創設については諸説があるが、天文二十四年(1555年)今川、武田、北条三家の和睦が成立した時、北条氏康から今川氏真に聟(むこ)引出物として、小浜池から長堤を築き、その水を駿河に疎通させたというのが一般に認められている。
 この疎水により清水町の新宿、玉川、伏見、八幡、長沢、柿田の耕
地約130ha(旧高200石)が多大の恩恵を受けるに至った。樋は、はじめ木樋であったが大正十二年関東大震災の際、崩落したので現在の鉄筋コンクリートに改めた。
千貫樋の樋名については
 1.架設が巧みなため銭千貫に価する。
 2.この用水が高千貫の田地を潤している。
 3.建設費が銭千貫を費した。
等が、命名の由来と伝えられている。』
という。
       西側に続く用水路    

清水町の常夜燈
 境川橋から駿河国に入るが、 信号の先に児童遊園地があり、道路側に保存状態の良い常夜燈が建つ。弘化3年(1846)の銘があり、両側に秋葉大権現と富士浅間宮と刻まれており、村人の防災の願いを込めて建てられたものとされる。



                   道の風景

伏見一里塚 (玉井寺一里塚)
 数百メートル進むと、両側に寺が見え、右側が玉井寺で、その境内道路側に一里塚がある。この塚は昔のままの姿を残している。
玉井寺境内にある明和4年(1767)の三界万霊塔は白隠禅師の書で、「白隠の遺墨」という説明板によれば、「白隠慧鶴(1685〜1768)は、江戸中期に《駿河に過ぎたるものが二つあり、富士のお山と原の白隠》といわれ、わかりやすい禅画や和讃の形式で民衆の教化に努めた臨済宗中興の祖と称えられる高僧である」という。

伏見一里塚 (宝池寺一里塚)
 向かい側の宝池寺境内の中に一里塚があり、両方あわせて一般的に「伏見一里塚」といわれた。こちら側の塚は昭和60年に原寸通りに復元されたもの。
また宝池寺側には立場があり、人夫が駕籠などを停めて休憩できる場であった、という。

八幡神社
 この先の交差点で国道一号線を越え西にすすむが北側には法泉寺・秀源寺、東光寺があり、その隣に八幡宮がつづく。
街道のところに大鳥居と郷社八幡宮の石柱が建ち、そこから100mほど参道が続き、真新しい中鳥居と小さな太鼓橋がありその先に広い境内がある。由緒によれば、創立は未詳、駿河の国の桃沢神社の故地とも、伊豆の国の小川泉水神社(熊野八幡を祀る)のうち八幡を遷し祀ったともつたえられている。
 本殿の左奥に対面石とその説明板がある。
『治承四年(1180年)十月、平家の軍勢が富士川の辺りまで押し寄せてきた時、源頼朝は鎌倉からこの地に出陣し、富士川で平家軍に大勝した。黄瀬川に陣取っていた頼朝は、奥州からかけつけた弟の義経とこの地で初めて対面し、涙の対面をはたしたという。この対面の時、兄弟が腰かけた二つの石を対面石という。・・後略』

長沢松並木
、信号のある交差点を過ぎると左側に松並木が100mほど続く。

智方神社
 その先右側に智方(ちかた)神社がある。
由緒(HP)によれば、「建武2年(1335)護良親王が殺され侍女の南の方(藤原保藤の女)が首を柩に収め、状況を南朝に知らせるためにここまできた(当時は伊豆の国)。黄瀬川の洪水で渡ることが困難なため、やむなく岸近くの小祠に首を葬り、楠を植えて墓印とした。後に北条時行が南朝に属し伊豆の藩主だった延元2年(1337)までの間に、神社とした(要約)」という。
境内には、高さ28mのクスノキがあり、説明板がある。

黄瀬川と石塔群
 すぐ黄瀬川となるが、橋の左手から土手に下りる階段があり、そこに庚申塔や、馬頭観音、地蔵などの石仏・石塔が数基並ぶ。
庚申塔は文字だけで、寛政元年(1789)の銘がある。
黄瀬川はこのすぐ南で狩野川と合流する。

潮音寺と亀鶴姫の碑
 黄瀬川から300mほど西に潮音寺があり、境内左側に亀鶴姫の碑が建つ。
説明板によれば、建久4年(1193)黄瀬川村に生まれ駿河の三美女と云われた亀鶴姫が、18歳の時、源頼朝の富士の巻狩りの宴に召されたが応ぜず、川に身を投げたという。その石碑が建っていた観音寺が 廃寺となりここに移転されたという。

沼津領傍示杭

 すぐ先の右側の駐車場の角に約2mの石柱がある。その脇の柵の上に「傍示石(杭)」という説明板があり、『従是西沼津領』と刻まれている。
安永6年(1777)に水野出羽守忠友は沼津の所領を将軍から与えられ、それまでの幕府直轄地の代官江川太郎左衛門から城地を正式に請け取った。説明板によれば、翌年韮山代官所から杭が運ばれ、東海道沿いの黄瀬川村と下石田村の境界に建てられ沼津藩領域が確定した。という。


合流地点
 ここで旧国道一号線に合流する。合流地点に新しく道標が立ち「東海道江戸へ29里」とある。左側の歩道を進んでいくと「歴史マップ 沼津市大岡 江戸時代の下石田村要図」として地図とともにサイの神などと説明があり、興味深い。右側に見える西友など大きなビルとともに道路が大きく変わっているが、このあたりが、今まで北側に見えていた富士山が、掘割の急な登り坂のため隠れてしまうことから『富士隠れ坂」と名付けられたという。

             駿府へ15里という道標

平作地蔵尊と狩野川
 狩野川の土手の脇まで進み黒瀬橋の陸橋下の先 左手に説明板,地蔵堂がある。
「日本三大仇討の一つ…平作地蔵尊の由来」という説明板によれば、「この地蔵尊はいつの頃創建されたか明らかでないが、有名な浄瑠璃 『伊賀越え道中双六』 に出てくる沼津の平作にゆかりの深い地蔵尊としてその名を知られている。・・・・平作が自害して仇の行方を聞きだす・・・」

沼津一里塚と玉砥石
 しばらく行くと右側に一里塚が建つ。
一つ前の伏見一里塚から計測すると距離が不足であるが、本来は本町地内に作るものを宿場内であるために東方に寄せて、日枝神社の参道脇に築いたといわれている。
ここには他に、今から1200〜1300年前に玉類を磨くために用いられた砥石と伝えられる玉砥石が置かれている。

日枝神社
 脇の細い道を北にいく。
「沿革」によれば、この地は平安時代には関白藤原師通の領地であったが、嘉保2年(1095)に延暦寺の僧の殺害事件に絡み、訴えを拒絶した師通が呪詛により死亡した。師通の母が謝罪して近江国の日吉大社を分祀したのが始まりという。
境内左に芭蕉の句碑
 「都出でて神も旅寝の日数哉」
川廓通り
 三枚橋のバス停を過ぎ歩道橋のところを左折し川廓通りにはいる。入口や中ほどに「由来」や「川廓通り」についての絵図なクリックすると大きくなりますど詳しい解説がある。
東側が狩野川に接し、背後(北東側)が沼津城(元三枚橋城)の外郭に接した狭い町に作られた通りで、狩野川には船着場があり物資や人の交流の盛んで沼津の中心的な地域であった。


沼津城本丸跡
 狩野川にかかるあゆみ橋の下を右折すると中央公園があり左手に沼津城本丸跡の石碑が建つ。もとは、天正7年(1579)武田勝頼が北条氏の戸倉城に対抗して造った三枚橋城であった。関ヶ原合戦後の慶長6年(1601)に大久保忠佐(ただすけ)が城主となったが、死後廃城となる。その後安永6年(1777)のちの老中水野忠友が城地を与えられ沼津城を築城した。三枚橋城の北半分を利用したという。

            狩野川方面を望む

石垣
 川廓通りは県道(さんさ通り)に突き当たり左折する。
左側のホテル前には、建設中発掘された三枚橋城の外堀石垣が組まれている。
その先には外堀の中心であった位置を示す石が、説明板とともに置かれている。、

通横町
 旧東海道はつぎの交差点を右折する。通横町の説明のある小さい柱がある。この地は、沼津宿の問屋場が置かれ、人馬継立てでにぎわったところで、問屋場の裏には白壁瓦ふきの大きな土蔵が建っていたという。

次の本町交差点を左折する。(右折すると「アーケード商店街」で沼津駅につながる。)

中村脇本陣跡
 南北に約200mつづく本町通りで、沼津宿の中心であった。天保14年(1843)には本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠55軒という。
歩道の植え込みのところに、それぞれの本陣の名前を示す石柱が立っている。 


清水本陣跡
   他に高田本陣跡、間宮本陣跡がある。

浅間神社
 次の交差点を右折する。ここから旧東海道は海岸線に沿ってほぼまっすぐに吉原まですすむ。
右側に浅間神社・丸子神社がある。、浅間神社の創立は不祥だが、延暦20年(801)坂上田村麻呂が東征のおり狩野川右岸に創建し、建仁3年(1203)に現在の場所に移転したという。明治になって丸子神社が合祀された。

乗運寺
 浅間神社の南側に道路を挟んで、東方寺と乗運寺がある、西側の常運寺は、境内・山門やその周辺も含めて非常に良く整っており、静岡県都市景観賞優秀賞の碑がある。
境内右手に若山牧水の墓がある。
(35歳:沼津-千本松原に移住、43歳:没)

出口町見付外
 浅間神社前の交差点から200mほど進んだ右側歩道に「出口町見付外」と云う説明碑が立っている。
沼津宿の京側見附があった場所で、「出口町という地名も、見張り番所の見附の西外側の土地ということで付けられたであろう」という。

六代松の道標
 道は東間門にはいる。左側の妙伝寺の手前の左に入る道の角に、「六代松 是南 一町半」と刻まれた大きい自然石の道標がある。
『六代』は平清盛(三代目)、重盛、惟盛と続いく平家の血筋を引く六代目の御曹司の元服前の呼び名で、文治元年(1185)壇ノ浦ののち鎌倉への途中千本松原で斬首されるところを文覚上人に助けられる。その後文覚上人の謀反に連座し斬首され、その首を供のものが千本松原の松の根元に葬ったと伝えられる。その松を六代松といい、その後枯れ,天保12年(1842)石碑が建てられた。という。

間門の由来
この先で旧東海道は右から来る旧国一通り(千本街道となる)と交差する。
その手前の歩道橋の前に「間門」の説明碑がある。由来は、「浜で閻魔大王像の首が網にかかり、後ろに『天竺魔伽陀国』と彫られており、村人は堂を建て胴体手足を造り祀ったという説と、アイヌ語からきたもので、土地の役割をあらわすものという説もある」と記されている。

沼津藩領境傍示
 交差点から300mほど進んだ右側に八幡宮があり、鳥居の右側石垣の上に「従是東・・」と刻まれた石柱がある。

下半分がなくなっているが、沼津に入る前にみた下石田の「従是西沼津領」の傍示杭と石質寸法、字体など同一であり、同時に建てられたものである、という。
               八幡宮鳥居

諏訪神社
 片浜郵便局の前に諏訪神社がある。由緒では天正3年(1575)武田氏家臣市川和泉守の創立という。
この先、街道の南側の奥まった所に、正覚寺、さらに西に清玄寺がある。              






千本松原
 正覚寺から千本松原にでた。
自動車道の千本街道が走り、その南に幅広い松林がつづく。
その先に防波堤があり砂浜となる。
東側から西まで、視野いっぱいに広がる。
雄大な眺めである。

 西間門の千本街道と交差した後の旧東海道は、車の通りも激しくなく、ほぼ真っ直ぐな道で、同じ道幅で、静かな町並みが続き、長い間歩いているとすっかりと落ち着いた歩きができる。夕方近くなったせいもある。
この先も静かかなたたずまいの神社・お寺が同じような間隔でつづく。

大諏訪八幡宮       栄昌寺            吉祥院 天満宮           御会式櫻
     

松長一里塚
 注意していないと見過ごしてしまうが、右側のブロック塀の間に、「松長一里塚跡碑」と刻まれた黒い新しい石碑が建っている。
横に「火之要心 西 松長 東 大諏訪」とある石柱も立つ。

その先左側に蓮窓寺がある。寛文2年(1662)創建という。

神明塚古墳と神明宮
 蓮窓寺の次を右折して突き当たると、小高い丘と神社がある。古墳の上に神明宮を祀ってあることから「神明塚古墳」とよばれる。
前方後円墳で、周囲の掘も大半埋没しているが、長さ54mに及ぶ沼津市内最大の古墳という。

道の風景-松長
 神明塚から街道に戻り、今まで歩いた旧東海道を振り返った景色。

これより西すぐがJR片浜駅入口である。
 散策日 2009年10月30日    三島-沼津(片浜)
 参考
「東海道五十三次を歩く」2     児玉幸多 監修
「あるく・見る 箱根八里」     田代道彌