中の道 
7高田馬場赤羽  

         地図 @高田馬場-西巣鴨  A西巣鴨-赤羽  B赤羽-十二月田(しわすだ)



 高田馬場から池袋を経由し、岩淵まで 荒川を渡る手前まで進む。
 

「山吹の里」の碑
 高田馬場駅から神田川沿いに面影橋まで歩き、中の道の散策をスタートする。橋を渡ったすぐ右に、石碑と説明板がある。
面影橋
 この辺りは大田道灌の鷹狩の故事にちなんで「山吹の里」といわれ、この石碑は、「山吹之里」と刻まれた周辺に文字があり、貞享3年(1686)建立の供養塔を転用したものであるという。
 「里」の場所は、他にも荒川区町屋、金沢区六浦、埼玉越生(おごせ)町などの説がある。

氷川神社
 左に、武蔵国一宮の氷川神社を平安時代に分霊したとされる氷川神社がある。
江戸時代には「氷川大明神」と呼ばれ、下高田村の総鎮守であった。「男体の宮」といわれ落合村(新宿)の氷川神社の「女体の宮」とあわせて「夫婦の宮」と呼ばれていたという。

南蔵院
 道の向かいに南蔵院がある。開山は室町時代という。クリックすると拡大
三代将軍徳川家光がしばしば訪れたという。説明板にある「江戸名所図会」には寺と付近の道の様子がよく描かれている。
 明治の落語家 三遊亭圓朝の名作「怪談乳房榎」にゆかりのある寺であるという。

金乗院(こんじょういん)
 100mほど行った左手に金乗院がある。創建は天正年間(1573〜92)という。墓地には、槍術の達人丸橋忠弥の墓がある。
 丸橋忠弥は、慶安4年(1651)由比正雪と共に幕府の転覆を計ろうとしたが事前に発覚し、鈴ヶ森刑場で処刑された。

宿坂道
クリックすると拡大 金乗院の前の急な坂は、宿坂といわれ、中世のころ「宿坂の関」がこの辺りにあったという。
説明板によると、高田馬場から雑司ヶ谷鬼子母神へ抜ける鎌倉街道は、今の坂よりやや東寄りに位置していたという。

目白通り
 坂をの登りきったところが目白通りであり、鬼子母神表参道入口という商店街に入る。都電の踏切を越えると、大きいケヤキ並木がある。   説明板によると、天正年間(1573〜91)の頃、雑司ヶ谷の住人が、鬼子母神への奉納のため植え、その後江戸時代には並木の伐採を巡って訴訟がしばしばあったという。その頃のケヤキは今は4本残るのみという。

鬼子母神堂
 鬼子母神堂の建立は天正6年(1578)とされ、本殿は寛文4年(1664)造営されたという。
 鬼子母神は、子授け、安産、子育ての鬼神として知られる。(当初、鬼子母神は他の子をとって食べる邪悪なものであったのを、仏によって教化され、守護神になったとされている。)ここの鬼子母神は菩薩形の姿なので、鬼に「ツノ」のない字を使っているという。

法明寺
 鎌倉街道は鬼子母神の東側を通っていたようであるが、この辺りから先、池袋のサンシャインビルの先まで、消えている。法明寺の参道入り口前までいき、東京音楽大学の脇を通って、北に向かい、サンシャインビルの前を進み、東池袋三丁目の交差点で春日通りを左に曲がる。

子育て地蔵尊
 すぐ右が帝京平成大学池袋キャンパスで、角に小さな地蔵堂ある。
キャンパスの西側に、北に向かう道があり、それが、今まで消えた街道の続きである。
ここから、山手線の陸橋を越え、明治通りに合流するまでは、昔の街道らしい道が続く。


 明治通りに出て、広い交通量の多いバス道路を、北東に約1kmをひたすら歩く。
右にある大正大学を過ぎると、国道17号(中山道)との交差する西巣鴨の交差点となる。
交差点手前を左に入る細い道があり、国道で分断されるがその先につながる道を北に進む。


 旧街道は住宅地により、すぐ先で消えているので、左に入る八幡通り商店街を通って八幡神社に寄ってから、四本木稲荷を経由し次の目的地の滝野川金剛寺に向かうことにした。

八幡神社
 創建は建仁2年(1202)といわれているが詳細は不明という。旧滝野川村の鎮守で、滝野川八幡とも呼ばれる。社殿の裏手から縄文時代後期の住居跡が発見されているという。

 

四本木(よもとぎ)稲荷神社
 神社から東に100mほど進み、やや広い道路を北に向かった先の角にこんもりとした林に囲まれた稲荷神社がある。 もと陸軍用地内にあった古墳上に祀られていたものという。

石神井川と松橋弁財天
 神社から北に向かうと、石神井川に架かる滝野川橋がある。川沿いの遊歩道を東に行くと、「松橋弁財天洞窟跡」という説明板が立っている。この辺りは「江戸名所図会」や広重の「江戸百景」にも描かれており、名所として大いに賑わっていたという。崖の中腹には松橋弁財天洞窟があり、「新編相模風土記稿」によると、この弁財天に頼朝が太刀一振を奉納したとされている。
 この地方一帯は松橋といわれ、治承4年(1180)10月、平塚城を訪ねた頼朝の大軍は、ここ松橋一帯に集結・勢揃いして南の高田馬場に向かって行軍したという。

金剛寺
 川沿いに東に向かうと金剛寺がある。山門の前に、「源頼朝の布陣伝承地」という説明板がたっている。
室町時代に豊島一族に滝野川氏と名乗るものがおり、この金剛寺付近に居を構えたという。
滝野川に架かる橋が紅葉橋で、紅葉の名所であったという。
                      紅葉橋

御成道に続く
 紅葉橋を渡りそのまま坂道を上って北に向かい、自衛隊十条駐屯地の正門前に行く。
中山道(17号)の先で消えた旧街道の続きが、ここから始まる。正門前から北に向かい信号を渡ってから200mぐらい進むと岩槻街道=御成道となる。
「中の道」がそのまま利用され、江戸時代には将軍の日光参詣の際利用された道筋である。
 古い石塔が道端に建っている。

地福寺
 すぐ左に地福寺がある。説明板によると、門前の六地蔵の内の一つが、鎌倉街道のお地蔵様ともよばれて、台座に三猿を施した庚申地蔵の形式をとったもので、江戸中期のものという。

十条冨士塚
 東十条駅の西、荒川小学校の向かい側に富士神社がある。
古墳と推定される塚に、富士山を模すように溶岩を配され、中腹に富士山五合目近くの小御岳神社の石祠がある。
富士講の建てた石造物が多数あり、銘文によると遅くとも天保11年(1840)には冨士塚として利用されていたと推定されるという。

八雲神社
 北にしばらく進むと、環七通りを越す歩道橋がある。その角に、小さな八雲神社があり、脇に庚申塔と刻まれ台座に三猿が彫られている立派な庚申塔が建つ。
「是より・・・・・・」とあり、道標を兼ねているようである。天明4年(1784)、十条村講中とある。

若宮八幡神社

                                清水坂
 環七を越えて200mほど先にゆるやかな坂道の手前の左の丘の上に、享保年間(1716〜36)に鎌倉鶴岡八幡宮から分祀して創建されたという小さな社があり、若宮八幡神社という。
 坂道には、清水坂と彫られた柱と、北区の散歩道の説明板が立っている。日光御成道の説明もある。

真正寺坂
        
                                普門院
 その先の埼京線のガードをくぐり、しばらく進むと、西に向かう道があり、その先が緩やかな坂となっている。道に入るとすぐ、「真正寺坂」とその説明が書かれた標柱があり、、その先に庚申塔が立つ。明和6年(1769)造立で、「これより いたはしみち」と刻まれている。ここは、日光御成道と中山道を結ぶ道筋であったという。
 元に戻り、すぐ先には変わった山門のある普門院がある。

稲付城跡/静勝寺
 普門院へはいる道から100mほど進み、左折して西への坂道を100mほど進み、上り切った所を右折すると、約100mで静勝寺に着く。この地は大田道灌の築いた稲付城跡で、道灌の子孫が明暦元年(1655)に静勝寺を建立したという。
道灌が豊島氏を滅亡させてから、江戸城と岩槻城・川越城を中継するために築いた山城という。
←道灌の木造坐像が安置されている道灌堂

山門から旧街道に下りる石段

宝幢院(ほうどういん)
 旧街道を北に行くとすぐ赤羽駅となり道は途切れ、構内を通って東口にでたあと、線路沿いの一方通行の道を北に向かう。板橋方面から来る道に突当り、そこに宝幢院がある。寛正2年(1461)の開山で、慶安2年(1649)もは三代将軍家光から赤羽根村内に十石余の年貢・課役免除の朱印を受けたという。
 門の前に元文5年(1740)造立の道標がある。
「東 川口善光寺道 日光岩付道」
「西 西国冨士道 板橋道」
「南 江戸道」
と刻まれており、ここが交通の要所であったことが分かる。

 境内には、寛永16年(1639)の『阿弥陀如来線刻庚申塔』がある。阿弥陀如来像と二猿が線刻されている。庚申という字はなく、三猿ではないので、「庚申」と呼ぶか議論が分かれるという。

問屋場跡の碑→荒川
 宝幢院前を東に向かい、環八通りを越えて、荒川に向かう。
荒川の手前右側に「岩槻街道岩渕宿問屋場跡」の石碑が立つ。
荒川大橋の下流には、赤水門と呼ばれる旧岩渕水門が見える。 









 旧岩渕水門:現在の荒川と隅田川を仕切る水門で、荒川放水路通水のために大正13年(1924)に完成した。

八雲神社
 赤羽駅に戻る途中に、橋の信号から100mほど東にある八雲神社に立ち寄る。
創建は不詳、江戸時代に日光御成道の第一に宿場である岩渕宿の鎮守であり、また、荒川の舟運業者の信仰を集めた水神社が祀られている。
神社の前の道を通る細い道には、庚申塔や供養塔が立つ。この辺りに旧街道が通っていたかも知れない
 赤羽駅までは、夕暮れで賑わい始めた一番街の通りを戻った。
     
    
 散策日   2009年10月1日            
 参考資料  「旧鎌倉街道探索の旅  中道編」  芳賀善次郎