中の道 
6中目黒−高田馬場  地図 @中目黒-千駄ヶ谷  A千駄ヶ谷-高田馬場

 


 中目黒からいよいよ山手線の内側を通り、ほぼ真北に向かう。
都内を通るので消えている道路が多く、またビルの建設、道路の拡張などで、古くからの面影のある道は望めないが、街道沿いの神社や寺の歴史や他の史跡などから、鎌倉の旧街道を辿ることにしたい。


宿山橋と目黒川
 前回の山手通りへの出てきた道まで戻り、信号のある地点を目黒川に向かって進む。
宿山橋で目黒川を渡る。突当りを右折した後、急な坂道を上って丘の上を目指すことになる。

目切坂
 坂の登り口に「目切坂(めぎりざか)と旧鎌倉街道」という説明版と標柱がある。

新編武蔵国風土記稿の上目黒村の項に、「メキリ坂」という坂名がみえ、澁谷との境にあり、石臼の目を切りをする腕の良い職人がが住んでいたため、目切坂となったという。

目黒 元富士跡
 坂の途中-右側のマンションの端に、富士塚があったという、説明板が立っている。
 江戸時代の富士山信仰の「富士講」の人が小型の富士=富士塚を作り山頂に石祠を拝んだという。
ここは、高さ12m、文化9年(1812)に築かれ、山頂からは本物の富士も望めたという。中目黒の他の場所にも築かれたため、元富士と呼ばれた。
昔の坂道は途中で「く」の字型となって、この後に見る猿楽塚に上って行ったという。

地蔵・道しるべ
 坂を上りきった所-交番の手前に、地蔵が立っている。文政元年(1818)の造立で、その台座には、「右大山道 南無阿弥陀仏 左祐天寺道」と刻まれている。
 その向かい側には、旧朝倉家住宅が建つ。

旧山手通り

えんじゅ
 すぐに旧山手通りとなり、左手に進む。 街路樹が珍しく、よく見ると木札がつけられ、「えんじゅ」と記されている。「槐」と書き、大変縁起の良い木という。緑色がはっきりした葉をもった存在感のある木で、豆の形をした実をたくさんつけていた。

猿楽塚
 左側の広い歩道を進むと、デンマーク大使館の手前のビルとビルの間にこんもりとした木に覆われた塚があり、ビルの入口を進んでいくと説明板が立っている。
 6〜7世紀の古墳時代末期の円墳であるが、源頼朝がここで猿楽を催した後、その用具を埋めたので猿楽塚と名付けられたという。2基の古墳があり、その間に目切り坂をくの字に曲がってきた細い鎌倉旧街道があったという。
塚の上にはこの地の旧家である朝倉家が建立した猿楽神社が建っている。

西郷山公園
 旧山手通りは、両側のビルのデザインは洗練されており、代官山への散策に来る人も多く、思わずさらに西に進んで西郷山公園まで行ってしまった。目黒川の北側の丘陵尾根に沿って進んでおり、公園から南西への眺めが素晴らしく、そこからは富士のも見えるという。
 旧街道は、猿楽塚から北に下り、山手線の陸橋手前で、左に向かい渋谷川を越えて、再び台地に上って行ったという。
 そこで、代官山交番前までもどり、代官山駅入口を越えて坂を下って行く。

山手線陸橋・猿楽橋から

 東横線 ガード            渋谷川
 

金王(こんのう)八幡宮
 明治通りを越して坂を上って行くと、左にケヤキ並木があり、奥に金王八幡がある。説明板によると、渋谷氏の祖、河崎基家が寛治6年(1092)に創建したといわれる。社殿は慶長17年(1612)に造営開始され、江戸初期の様式をとどめており、また門は明和6年(1769)または享和元年(1801)の説があるが江戸中期のもので、その後修理はされているという。
この辺り一帯は平安時代末期から渋谷氏一族の居館(城)跡で、大永4年(1524)の北条氏と上杉氏との合戦の時、北条軍に焼き払われたという。
    <本殿  <ビルとの対照 >    <渋谷城の城石
 延宝3年(1675)奉納された「大江山鬼退治之図」や嘉永3年(1850)奉納の「和算」の絵馬が残されているという。

青山通り

こどもの城前
 六本木通りを越し、青山学院大学の脇を通って青山通りに突当る。
こどもの城の建物の前にある岡本太郎の「こどもの樹」を左にみて、青山通りを北に進む。

次の信号の手前の細い道を左に入り、3本先を北に行き、表参道に出る。

表参道
 表参道を横切り、向かい側の原宿二丁目商店街に入る。
旧街道は、ここに進んできたという。
すぐ先を左折し、その後右折して青山通りと並行する形で北へすすむ。
信号のある広い通りを横切ってさらに進むと、右手に熊野神社がある。
        

勢揃い坂
 その先、左手に龍厳寺があり、その前が緩い下りの坂道である。
勢揃い坂といわれ、源義家が奥州に向かう時に、軍の勢揃いをしたという。


 <龍厳寺>

鳩森八幡神社
 下った先で、旧道は消える。そこで、突当りを左折し、信号を右折して、北に向かい、観音橋交差点で西に向かって、先の鳩森八幡神社へ行く。
 神亀年間(724〜729)または貞観年間(859〜877)の創建と伝えられ、千駄ヶ谷一帯の総鎮守として崇められていたという。
境内には「千駄ヶ谷の富士塚」といわれる都内では最古の富士塚がある。 寛政元年(1789)の築造といわれ、「円墳状の盛り土」と、塚築造のために土を採掘した後を利用して作った「前方にある池」という形は、江戸時代の富士信仰における基本様式であるという。

 鳩森八幡神社から、旧街道は真北に向かっていたと思われるが、JR線千駄ヶ谷駅と新宿御苑が広がっており、太宗寺までは消えている。
そこで、千駄ヶ谷駅の西側ガード下を抜けて千駄ヶ谷門から新宿御苑にはいる。 しばらくの間、広々とした苑内をゆったりと歩く。木々や草花に名前がつけられ、見所も数多くあるがそれらは次回の楽しみにして、北側の新宿門から外に出る。

<御苑の風景>
                   
                     <うめもどき>
 

太宗寺
 新宿門を出てすぐ右に進み2つ目の信号の地点から真北に向かう道がある。旧街道の続きで、その先左手の奥に太宗寺がある。
境内に「内藤新宿太宗寺の文化財」という大きな説明板がある。・・・・慶長元年(1596)頃、太宗という僧侶が建てた「太宗庵」が前身で、寛文8年(1629)内藤家から寺地の寄進を受け創建された、という。
 また「内藤新宿の閻魔」「しょうづかのばあさん」として江戸庶民に親しまれた閻魔大王と奪衣婆像(毎年 7月15・6日に御開扉)など多くの文化財がある。
境内の右手には、江戸出入り口に安置された「江戸六地蔵」のひとつである銅造地蔵菩坐薩がある。(高さ267cm、正徳2年(1712)造立)
内藤氏について

 徳川家康は江戸入城前に、内藤清成と青山忠成に対し北条氏残党の動きを監視させた。
内藤清成は、江戸城と八王子城を結ぶ国府道(のちの甲州街道)とこの旧街道を、一方青山忠成は、江戸城と世田谷城を結ぶ旧街道を押さえるためにそれぞれ進出し、北条氏残党の活動を封じた。
その功績により、内藤氏は千駄ヶ谷から大久保、代々木、四谷までの広大な土地を、青山氏は原宿〜上渋谷にかけての土地を各々拝領した。
内藤氏は今の新宿御苑の北付近に「遠見櫓」=関所を設け、また のちには下屋敷を作った。
その後、信州高頭藩主になったが、ここは、高頭藩の飛び地として明治維新まで続いた。

新宿について

 甲州街道は、慶長9年(1604)頃整備が行われ、江戸から甲府をへて下諏訪で中仙道に合流するが、最初の宿場が下高井戸(今の杉並区)であり、4里8丁(16.6km)もあったため人馬とも不便であった。関所も元和2年(1615)ごろにはすでに四谷大木戸に移されて、このあたりには町屋もでき、賑わっていた。 その後浅草に住む名主-喜兵衛(のちの高松喜六)らが、太宗寺の南東に宿場を開設するように願い出て、元禄11年(1699)に「内藤新宿」が許可された。
 

西向天神社
 そのまま北に進み、新宿中学校を過ぎた先の、右側高台に西向天神社がある。神社庁のHPによると、古来より東大久保村の鎮守で、安貞二年(1228)の創建。太宰府の方へ向かい社殿を西向きに造っているために昔から呼び慣らわされた、という。
 その北並びに、大聖院という寺院があり、そこには宝暦元年(1751)から明治4年(1871)までの古文書・古記録類が保管されており、大久保地区にとって貴重な史料であるという。

紅皿の碑
 大聖院のとなりの駐車場の脇に大田道灌の「山吹の里」にまつわる紅皿の碑がある。有名な山吹の花をささげた娘-紅皿は、その後道灌に迎えられて江戸城内に住んだが、道灌の死後、尼となってこの大久保の地に庵をたてたという。紅皿の墓とされる伝承が江戸中期ごろ成立、広まったという。           紅皿の墓と伝承される板碑→

抜弁天厳島神社
 さらに北に進むと広いバス道路に合流する。その先の三叉路は、抜弁天という交差点であり、右側に抜弁天厳島神社がある。 
 この神社は、源義家が奥州征伐の時、遠く富士を望み安芸の厳島神社を祀って戦勝を祈願したところといわれる。
 また元禄8年(1695)生類憐れみの令により、この付近に犬御用屋敷を設け野犬を収容したという。

大久保通りへ-道の風景
 ここから西向天神社までもどり、天神小の北を西に向かい信号のある細い道を真北に向かう。広い交差点を横切り、新宿7丁目商和会という細い商店街を北に進む。途中に東大久保児童遊園地があるが、その北の方角に弁慶足洗い井戸があったという。

箱根山
 大久保通りを横切ると、広い山公園と、アパート群がある。旧街道はここで消えている。そこで箱根山に行くことにする。公園のなかを北西にすすみ、教会過ぎるとと「箱根山」がある。
 この地域は頼朝の武将和田義盛の領地で、和田村と外山村の両村に属していたことから「和田外山」と呼ばれていたという。(説明板による) 寛文8年(1686)尾張徳川家の下屋敷となり、外山荘と呼ばれた。元禄年間に回遊式庭園を作り、池の残土で作り上げた築山が玉円峰といわれ、のちに箱根山と呼ばれるようになったという。(標高44.6m)
明治以降、陸軍外山学校となり、その後、軍の施設として利用された。

道標
 東側の箱根山通りという坂を下り、信号で西に向かい学習院女子大学の門前までいく。そこから北に向かっているのが旧街道という。
その先が早稲田通りで、横切って巣鴨信用金庫の脇を北に向かう細い道を進む。その角に比較的新しい道標が立っている。 「北 面影橋 鬼子母神  東 穴八幡早大  西 高田馬場」と刻まれており、大正15年(1926)とある。
 

高田馬場跡(東側から、茶屋通りを見たところ)
 北に進み最初の東西にはしる通りを横切るが、そこが茶屋町通りといい、早稲田通りとその通りの間が江戸時代の高田馬場である
旧街道を北に進む前に、その通りを東に進む。約200mほど続いた所に、「高田馬場跡」という説明板が立っている。寛永13年(1636)に旗本たちの馬術の練習場として馬場が造られた。享保年間(1716〜1753)には馬場の北側に松並木が造られ8軒の茶屋があったという。
その一角で、堀部安兵衛が叔父の菅野六郎左衛門の決闘の助太刀をしたとされる。

水稲荷神社
旧街道に戻り、その先の細い道を右に入り戸塚一小を回って進むと、水稲荷神社がある。
神社庁のHPによれば、天慶四年(941年)鎮守府将軍 俵藤太秀郷朝臣が旧社地の富塚の上に稲荷大神を勧請したのが始まりという。古くは「富塚稲荷」「将軍稲荷」といわれた。
江戸中期境内の大椋に霊水が湧き評判を呼んだことが、神社名の由来の一つであるという。

甘泉園
 水稲荷神社の参道の途中に甘泉園の山側からの入口がある。
この地は、江戸中期安永3年(1774)
徳川御三卿(御三家を補佐する)の一つ、清水家の下屋敷おかれた所で、回遊式庭園があった。園内に湧水があり、茶に適したところから甘泉園の名前が起こったという。

都電:面影橋駅

 元の旧街道に戻り北に行くと都電の通りとなり、面影橋駅がある。
現在東京を走る唯一の路面電車で、その歴史は、明治44年(1911)、東京市が東京鉄道の軌道を買収して市電となったのがたのが始まりで、昭和17年(1942)東京都の発足により、都電となった。
昭和37年(1962)ごろピークを迎えた後、地下鉄、交通渋滞の影響で廃止され続け、昭和49年(1974)三ノ輪-早稲田間のみ都電荒川線として存続している。

面影橋から見た神田川
 この通りの北側を神田川が流れている。そこにかかる橋は面影橋といい、姿見の橋ともいわれた。
その由来は、歌人の在原業平が鏡のような水面に姿を映したためという説や、鷹狩の鷹をこのあたりで見つけた将軍家光が名付けたという説などがあるという。

ここで日没に近くなり、今日の散策は終了。
ここからは都電荒川線の道路を明治通りまで行き、さらに西のJR高田馬場駅まで行った。



     
    
 散策日   2009年9月25日            
 参考資料  「旧鎌倉街道探索の旅  中道編」  芳賀善次郎