中の道 
8赤羽-東川口 

地図 @赤羽-十二月田(しわすだ) A十二月田-鳩ヶ谷 B鳩ヶ谷-石神 C石神-東川口



 荒川を渡り、北に向かう旧街道は、義経が頼朝に参加する時に通った道であり、その後は、旧岩槻街道、旧御成街道の道筋となった。
川口から岩槻街道を進みむが自動車往来の激しい幹線道路を歩くことになる。

 

新荒川大橋
 赤羽駅東口から線路沿いに北に向かい、宝幢院の前を通り荒川に向かう。
新荒川大橋の南には旧岩淵水門があり、川口側には超高層のエルタワーがそびえている。
川口側に近くなって北側を見ると、JRの鉄橋との間に善光寺の屋根が見える。

川口南中学校の南と北
 橋を渡りきった西側に川口南中学校があり、信号で堤防におりて廻り込んで中学校の南側に出る。この校庭に小さな溝に架けた石橋があり、「鎌倉橋」があったという。鎌倉街道が通っていたから名付けられたらしい。
もとの橋の信号までもどり堤防を100mほど西にいくと、堤防脇の道路に信号があり、そこから道が北に続いている。御成街道の時代の川口宿があった通りである。

善光寺
 更に西に向かうと、中学校と同じ並びの高台に善光寺がある。
本堂は比較的新しく、周辺はまだ工事中で整備の真っ最中であった。
建立は建久6年(1195)といい、長野や甲府と並ぶ三大善光寺の一つとして有名であったという。

鎌倉橋の碑
 中学校の北側の信号まで戻り北に向かうが、その角の広場に鎌倉橋の碑が立っている。
それによると、義経記には、「治承4年(1180)頼朝の挙兵に応じた義経が平泉から武蔵国足立郡かわぐちを過ぎる時、従う軍勢は85騎」と記され、奥州への街道の要所であったことを伝えている。

永瀬家本陣跡
 商店街を北に進み約100mほどで、細い道を左に入ると、立派な門構えの永瀬家がある。川口宿本陣跡という。
 商店街には宿場の名残を示すような古い家づくりの家が多くみられる。 

鍋屋の井
 自動車道への突当りに、小公園があり、川口宿絵碑と「鍋屋の井」の石碑がある。
江戸名所図会に描かれた「鍋屋の井」の絵があり、説明板によると、川口は浦和水脈という地下水脈の豊富な地域で、水の湧き出る「吹き井戸」が各地にあったという。

錫杖寺 (しゃくじょうじ)

 旧道は公園から東に向かいすぐ北西にすすむが、その前に、北にある錫杖寺に行く。
養老元年(717)に行基が本堂を建立したとされる。
のち、北条時宗の帰依を受けた鎌倉長楽寺の願行上人が再興し、室町幕府8代将軍義政により七堂伽藍が整備されたという。
徳川秀忠の日光参拝の際の休憩所となり、以後歴代将軍が立ち寄る寺となっていたという。
銅鐘は、寛永18年(1641)川口鋳物師長瀬治兵衛守久が鋳造という。

道の風景
 もとの道に戻り、今の国道122号線を北に進む。芝川を渡ると、左側に鋳物のまち 川口らしさを示す鋳物工場がある。

十二月田(しわすだ)交差点
 続いて十二月田の交差点となる。珍しい名前なので、検索で調べたところ、「(ここから300mほど北にある)十二月田小学校の塀に由来が書かれており、『昔、冬の十二月(しわす)に田の神のお使いのキツネたちが、杉の葉を植えて田植えの真似をしたという言い伝え』からきている」と書いてあるブログがあった。
 少し先右側には、大正12年に建設された「田中家住宅」とあるレンガ造りの洋館があるみその醸造販売で財をなしたという。

薬林寺
 次の交差点の先、左奥に寛正元年(1460)の開山という薬林寺がある。境内には、「岡の薬師」と称される薬師堂(←)がある。入口の脇に小さな祠と元禄15年(1702)の庚申塔がたつ。
 鎌倉時代から旧道はこの寺の西側-芝川の堤防付近を通っていたが、江戸時代の日光参詣の折り、道筋を変更して現在の道となったといわれている。

鳩ヶ谷市
 まもなく鳩ヶ谷市となり、道はまっすぐ北に進む。
今はトラックなどが行き交う4車線の広い道路であるが、途中の交差点の左には小さな祠がたち、歴史を偲ばせる。
ひたすら歩き、埼玉高速鉄道の南鳩ヶ谷駅を過ぎた先の交差点から東へ200mほどの所にある実正寺に行く。

実正寺
 境内左手奥に石塔など並んでいる。
芳賀氏の「探索の旅」には、元弘3年(1333)の板碑があると書かれており、探したが見つからなかった。

 新芝川を渡り、鳩ヶ谷変電所前の交差点の先で、自動車道は岩槻街道と日光御成街道に分岐する。
右側を進む。

とんぼ橋
 鳩ヶ谷市役所方面にいく広い交差点を過ぎて次の角に、古い瓦ぶきの旧家があり、その前に石が置かれ、説明板がある。
用水路の蓋掛け工事の際発見された石橋で、「延宝5年(1677)・・・鳩ヶ谷町とんぼ橋・・」と文字が刻まれているという。
この先にある見沼代用水の完成以前の用水の石橋だという。

見沼代用水東縁
 すぐ先の吹上橋で見沼代用水を渡る。
江戸時代初めにできた灌漑用ダム(見沼溜井といわれた)に代わるものとして、8代吉宗の時代、紀州藩士・井沢弥字惣兵衛が登用され開拓したもので、水源として利根川から取水した84kmにわたる水路である。同時に見沼溜井に排水路を作り芝川と結び荒川へ放水したという。享保13年(1728)完成。
干拓後、新田開発がすすみ見沼田圃が完成、肥沃な穀倉地帯になったという。

鳩ヶ谷宿
 橋を渡ると緩やかな坂道となり台地に上って行く。旧岩槻街道の鳩ヶ谷宿である。左側の小公園に「日光御成道のみちすじ」という大きな説明板があり、ここから幸手までの見どころを絵いりで解説している。
東側奥には本陣があったというが、建物はここから西へ数百m離れた真光寺の本堂になっているという。

氷川神社

 左に入ると創立が応永元年(1394)という、氷川神社がある。
徳川家康が慶長6年(1600) 奥州出陣の途中境内で休息したという故事がある。
 
 古い造りの家がある台地上の道を進む。
氷川神社の前の信号から3つ目の信号を左折し、台地を下りる。 100mほど先の森の中に長い参道のある法性寺がある。

法性寺
文明8年(1476)大田道灌の開基といわれるが、明応7年(1498)に再建された曹洞宗の寺である。石段の先の山門は足利時代末期のものといわれている。。
鐘楼が立ち、広い境内と、周りが大きな樹林で囲まれた落ち着いた寺である。
この樹林は、鳩ヶ谷市の「ふるさとの森」に指定されている。
湧水のある公園の脇を通り、北東に坂道を上がり、もとのバス道に戻る。

地蔵院 道標
 バス道の三叉路(変形四叉路)の右に参道があり、奥に地蔵院が見える。
参道の左角に立派な道標を兼ねた供養塔が立っている。道標 文政5年(1822)という標柱もその脇にある。
正面に「四国八十八箇所徒 五十九番 地蔵院」とあり、右側に「従是 右 こしがや道 二里」とある。
左側は「月山 湯殿山 羽黒山 供養塔・・・」とある。

地蔵院
 鎌倉時代またはそれ以前の草創という。
境内には、正徳元年(1711)作の「良縁地蔵尊」が祠に納められており、良縁ならば結び、悪縁ならば立ち切ってくれるといわれ、説明板には昔話が書かれている。

道の景色
 入口まで戻り、三叉路で北西の道を進む。
途中バス駐車場の端の目立たない場所に小さな祠が立ち、2体の地蔵尊が並んでいる。元禄6年(1694) と宝永3年(1706)とある。
その先で東方向に埼玉高速鉄道の新井宿駅のある交差点を渡る。

氷川神社 と 子日宮神社
 新井宿といっても宿場があったわけではないという。
その先西側に氷川神社、道を挟んで向かい側(東)に子日宮神社がある。それぞれ、西新井宿、新井宿の鎮守であり、東の神社の狛犬は熔岩の台座の上にある。
氷川神社のとなりには宝蔵寺がある。

道の景色
 この辺りは広く拡張された道が続き、首都高速と東京外環自動車道の高架をくぐる。
その手前には、「・・神・・」と深く刻まれた古い石塔が立っている。
外環道の先から石神地区に入るが、道はまた狭くなる。

真乗院


 最初の信号の先右手奥に、真乗院がある。境内には 高さ18mというコウヤマキや、カヤ、シイの大木がそびえている。
閻魔堂には閻魔像、奪衣婆、十王が並んでいる。

 道の周りには植木屋・造園業ががおおくみられる。道路の右側に石段があり、小高い塚となっている。上にある堂の中に石仏3体が納められている。
 
 その先は、新町交差点であるが、旧道はそのまま北に向かうが、寄り道して東に約100mほど行くと左側に妙延寺がある。

妙延寺

 入口に大きく「女郎仏」とあり、その由来の説明板が立っている。
寛政2年(1790)暴風雨の翌日、山の中から若い女の泣く声が聞こえる。病重く、所持品もなく誰ともわからぬまま5日後に亡くなった。この女の人を葬ったのが女郎仏である。
下の病に効果があるということで祈願者が多かったという。いまでは安産祈願の参詣者でにぎわうという。

道の景色:一里塚跡
 元の道に戻り、次の交差点(東西に走る広い道路)を渡った先200mほどの右角に、一里塚ポケットパークという名前の小公園がある。
鳩ヶ谷宿と大門宿間の御成道の一里塚跡に造られたという。
そこに馬頭観音像が立つ。宝暦8年(1758)とある。

道の景色
 道は真っ直ぐに北に向かうが、東川口駅に近くなって右側には住宅が並ぶが、西側はまだ畑が残る。
まもなく武蔵野線を越すと、火の見櫓が立ち、その広場に真新しい鳥居に諏訪大明神とかかげられた神社がある。広い境内で、その奥から東川口駅前に広がる街並みが見渡せる。

貝殻坂
 その先で東川口駅から台地に上がって来る道路と合流する。

 合流地点から300mほど先に、台地から東に下りる坂がある。貝殻坂といい貝塚があったから名付けられたといわれる。
坂を下って綾瀬川沿いの低地を進むのが岩槻街道で、真っ直ぐ進むのが旧日光御成街道である。


今日の散策はここまでの予定であったが、若干時間があるので、御成街道の旧宿場町の大門に寄ることにした。

大門神社
 台地の上を進みその先でバス道と合流する。
すぐに大門神社の大きな鳥居が見えてくる。道路からおよそ200mの参道が続き、林に囲まれた本殿がある。
創立は不詳、住吉十二所社と称し、旧大門村、下野田村の鎮守であったという。

大門宿本陣表門
 神社から100m先の北側に本陣の表門、すぐ先の南側に脇本陣の表門が残っている。
大門宿は元禄10年(1697)に正式に発足(本陣:1、脇本陣:1、旅籠:6)
会田家が、本陣、問屋を務めていた。将軍の日光参詣のときは、岩槻に宿泊したので、ここでは休憩する程度であったという。
茅葺の長屋門で、番所が付いているのが特徴であり、昭和44年の解体修理時に、元禄7年(1694)建立、文政7年(1824)修理の銘文が発見されたという。

脇本陣表門
 本陣とほぼ同じ規模の間口16.0m、奥行き4.6mで、くぐり戸のある長屋門で本陣より簡略化されているという。
安永5年(1776)の10代徳川家治の日光参詣に合わせて建てられたと考えられるという。



 東川口駅に戻る途中、駅前通りの東側を走る広い道路を通った。
けやき通りと名付けられており、広い歩道が「じてんしゃ」ほこうしゃ」とはっきりと区分されているのが印象的であった。
     
    
 散策日   2010年3月3日            
 参考資料  「旧鎌倉街道探索の旅  中道編」  芳賀善次郎