中の道 3
-B鶴ヶ峰-長津田 (上の道への連絡道) 

                      地図  @鶴ヶ峰−市民の森 A市民の森−成瀬

 
 鶴ヶ峰から真っ直ぐ北に進んで今の横浜線の中山駅南に行くのが、中道の本道であるが、もうひとつ北方面へ向かう鎌倉街道として、長津田を経由してその先で上道と合流する連絡道があった。
 芳賀氏によれば、これは畠山重忠が元久2年(1205)、幕府に誘い出されて秩父の居館から鎌倉に向かう途中 鶴ヶ峰で討ち死にした時に、たどった道でもあった。


鶴ヶ峰駅から北へ
 駅前の商店街を八王子街道に向かって進む。途中、改修前の帷子川が流れて橋があった所に、「鎧橋」の説明板がある。
 鶴ヶ峰交差点の西側には、畠山重忠公終焉の地の標柱がある。

駕籠塚
 交差点(5叉路)を越えて北に進み、突当りT字路を左折し、すぐ右折して坂道を上る。鶴ヶ峰浄水場の脇を進み、上りきったところに、駕籠塚がある。
鶴ヶ峰での決戦の知らせを聞いた重忠の妻はすぐに後を追ったが、ここまで来て主人の戦死を聞き、駕籠の中で自刃したという。その霊を供養したもの。

水道水路
 旧街道は道なりに進むが、鶴ヶ峰中学校の所で消える。その先は、水道の水路に沿って北東にすすむ。水路の橋脚の右側の細い道をを上がって行く。
ここからズーラシアまでは、「ふるさと尾根道」として整備されている。
中学校を過ぎた先に、詳しい案内板が立っている。

尾根道の風景
                        
                        右方向は ズーラシアへ
     

水路の行き止まり
 水道水路に沿った道はズーラシアのフェンスでブロックされていて先に進めない。
芳賀氏の「中原街道を越えると、旧街道はヒバ林に囲まれた深い堀状の凹道となり・・・・往古そのままの風景で素晴らしい散策路である。」という情景は全く消え去っている。
そこでズーラシアの丘陵の西側に沿って進むことにしたが、川井小学校で先に進めなくなった。川井宿と中山を結ぶバス道路まで行き、そこから北上して旧街道を探すことにした。

八幡神社
 途中川井小学校とバス道路の間にある八幡神社に寄った。
神社の由緒によれば、「源義家の奥州征伐のおり、戦勝祈願して八幡大神を祀り、帰途奥州平定を謝し八幡宮を創立した。当社は一名 矢場八幡とも称し、当所を字矢場という」とある。

水道水路
 八幡神社の西の信号から約500m北に進むと、ズーラシア入り口で消えた水道水路が道路の上を通っている。
川井浄水場とむすばれており、正式には「川井鶴ヶ峰導水路」というらしい。

梅田谷戸の風景
 300mほど先に三保市民の森入口のバス停があり、そこから先 梅田谷戸、梅田の各バス停まで右側の丘陵から下りてくる古道の名残を探したが、残念ながら見つからなかった。

やむを得ず、「三保市民の森入口」までもどりそこから西に向かうことにした。

                  庭先の白い藤

庚申塔(石柱)
 すぐ先に左に分かれる道があり、「庚申塔 梅田講中」 と刻まれた細い石柱が立っている。
道標も兼ねていて、「左 大山みち」 「右・・・・みち」 とある。
市民の森として歩道が整備されている。谷戸を少しずつ上って行き、一番奥の所で、右がわの上り坂を選んで進んだ。
上りきると東洋英和女学院の裏門に出る。


     〈市民の森〉                      出口:東洋英和女学院裏
   

道の風景
 その先、新しい住宅街の中の広いバス道路を北に向かう。 遊水地を抜けると、環状号4号線で、十日市場駅方面に向かう。十日市場西田公園入口の信号で細い道を左に入り、東名高速道路下に向かう。(これが旧道の続きである。)
 東名高速の下を走るバス道路を越えて、東名高速の北側に並行している細い道を横浜線に向かって進む。
最初の角を左に進むと、地蔵堂がある。

地蔵堂
 中に、2体の地蔵が納まっている。右側のものは、延宝8年(1680) 北門村 と刻まれ、左は、台座に享保7年(1722)とある。
 このあたりで旧道は消えるが、坂を上がって行くと古い墓地があり、小さな板碑が立っている。
 その横の灌木の茂っている場所をぬけると、旧道にでる。

石仏
 広くなった旧道をすすみ、「泣坂上」の信号で、先ほど横切った広い道路を横切る。200mほど進むと、左の角に3体の石仏がある。
左は、文化9年(?)(1812)、真中の坐像は、元文3年(1738)とある。

すぐ先で広い道路と合流し坂道を下る。。恩田川の支流を渡り、246号線(厚木街道)を渡って再び緩やかな坂を上がる

地蔵堂
 三叉路で、東から来る道が、江戸時代の大山街道という。角には祠があり、石仏など4体が立っている。赤い水玉模様を着せられているのが珍しい。

ここから西に向かうのも、旧街道を利用した大山街道という。長津田に向かう。

下宿常夜燈
 しばらく行くと、庚申塔や常夜燈が並んでいる。
江戸時代、長津田は荏田と共に宿駅に指定されていた。常夜燈は高さ2.1m、文化14年(1817)に宿中の大山講中が建立したという。
庚申塔、元禄6年(1693)は、祠に納められており、また2基の馬頭観音石塔もある。

大林寺
西に進み、長津田駅南口入口の手前から南にいき大林寺にいく。山門や本堂は改装済みであったが、ほかはまだ工事中のところがある。

横浜市最大の板碑があるというのも確認できなかった。

大石神社
 
 南口入口の交差点まで戻り、西にいって二本目の角を右折して北東方向に行くのが、旧街道である。 そこに進む前に大山街道をそのまま進み右側の小高い丘の上にある大石神社に行く。
由緒によれば、「創立は定かではなく、新編武蔵風土記によると、もと長津田村大石大権現と称し、在原業平を祀ったものと伝えられている」という。
拝殿前に2本のモミの大木がある。

金比羅神社
 境内裏の細い道を進むと、林の中に、皇太子殿下御野立之跡という大きな碑がたち、隣には慰霊塔がある。
その脇には金比羅神社/八坂神社がある。

長津田駅
 神社から線路に平行して東に下りる道は、長津田駅前から西北に進んでくる旧街道にぶつかる。
そこで田園都市線の跨線橋を渡る。

子育て地蔵
 渡ってすぐ西に行くと、子育地蔵が石の祠に祀られている。
文政年間(1820年代)に、井上重郎左衛門が二児を失い、童子・童女の冥福を祈るために辻々に地蔵を祀ったという。それをここにまとめたという。

           男女双立の道祖神→

庚申塔
 その先100mほどで右に曲がり、その先に古い庚申塔がある。
正面の像の他は庚申供養の文字が見えるぐらいで、結構風化している石塔であった。
そこを左に曲がり道なりに行くと、長津田第二小学校がある。

芳賀氏によると、間もなく南への細道を上がると、東光寺跡があり、碑が立っているというが、いろいろ探しまわったが見つけることが出来なかった。

供養碑
 旧街道に戻ってさらに西に進むと、北側に小高い丘があり、墓碑が立っている。「義民・原嶋源右衛門 供養碑」と書かれた説明板によると、「この供養碑は、享保14年(1729)10月原嶋源右衛門一家断絶の処刑場跡地であるこの場所に、東光寺講中で建立したものである。・・・処刑後の十五回忌に建立された。・・・・平成15年基礎を修復した。」とある。
 この辺りは崖山と呼ばれて、崖山地蔵とも呼ばれており、昔は道端にあってあたりは暗かったので、くらやみ坂・ゆうれい坂などと呼ばれ、どうしても通らなければならない時には大風呂敷ですっぽり隠してから通ったという。
地蔵像・道祖神など
 さらに西に進むと、下水処理場があるが、そのはずれの南の丘陵に上がる道端に、前回の上道の散策時に寄り道の時に見た「天狗童子立像」の道祖神や地神塔、地蔵像が立っている。
 
 ここまで進んできた中道からの連絡道は、この下水処理場の先に恩田川を渡る都橋があるが、そこで上道に合流した、という。
 または、上道は、さらに西の西山橋を渡るのが本道の可能性が高く、中道からの連絡道はここを直進してさらに西山橋まで行ったのではないかと、芳賀氏は述べている。

東光寺跡の捜索
  東光寺跡らしい痕跡を発見できなかったので、南側の丘陵地帯を歩くことにした。

与兵衛坂
今までの途中に「与兵衛坂」という標柱があったので、そこまで戻り、丘に上る。
成瀬地域の伝承で 「東光寺に与兵衛という医者がいて評判だったが、遠回りしてくる患者のために自分の敷地の崖を切り取り、近道を作った」という。

梅稲荷大明神
坂を上った先にある。

東急電鉄長津田検車区
 東光寺跡を求めて、長津田第二小学校の南側を通る旧街道のさらに南側一帯を歩いたが、残念ながら見つけられなかった。
ただし、特定はできなかったが、この辺りというのは確かであり、古くからの交通の要所であったことも理解できた。

ここから長津田の駅までもと来た道を戻って帰った。



芳賀氏は、「旧鎌倉街道探索の旅  中道編」で、東光寺に関して次のように述べている。

 東光寺は、古代の国府間を結ぶ官道(現代の一級国道クラス)の道筋であった。その道筋は、相模国府(海老名市)−店屋駅(町田市町谷)−東光寺−恩田−市ヶ尾−荏田−小高駅−大井駅−豊島駅(台東区浅草)−下総国府(千葉県市川市)となる。・・・東光寺から小高駅へ続く官道筋は東西ほぼ一直線である。
そうすると、都橋付近は古代官道時代の渡河場で休憩場だったかもしれない。その後、鎌倉時代に中道ができるとその集落は下水処理場前あたりまで移動して宿場のようになり、原嶋氏が一帯を支配していたと考えられる。
しかし江戸時代になると、宿場は長津田の方に移り、大山街道の通行が盛んになると鎌倉街道はすたれ、長津田宿が繁盛するようになったのである。
東光寺は、このように古代から近世までの街道ならびに集落の変遷を物語ってくれる。
     
    
 散策日   2008年4月25日            
 参考資料  「旧鎌倉街道探索の旅  中道編」  芳賀善次郎