中の道 2.下永谷−鶴ヶ峰
  地図 @下永谷−南本宿  A南本宿−鶴ヶ峰
                              B鶴ヶ峰-中山


 

 

下永谷市民の森には、旧街道が昔の面影がそのまま残されている。
今回は市民の森の南の入り口から旧街道の散策をスタートし、北に向かって主に丘陵地帯をすすむ。

下永谷市民の森 入口 ミウラヤの角
 神奈川中央交通舞岡営業所近くにある、長泉寺前の信号から車道を西北に行き、坂道を登りきったところに、ミウラヤ下永谷店がある。その角を西に向かうと、住宅の間に市民の森への入口がある。

道からの眺め--西

                      道からの眺め--東
 市民の森の中の道の一部として、残されており、林が開けたところは東西への見晴らしがとても良い。

旧街道
 旧街道の典型的な凹道がそのまま残されている区間もある。
また途中には石塔や、祠がある。
松拍稲荷大明神といって、貞享2年(1685)ごろ建立で、宅地造成に伴い近くから移転されたものという。

増威八幡社
 林を下ると、柏尾郵便局を過ぎて、国道一号線にぶつかる。すぐ北の上柏尾の信号から西にJRと柏尾川を渡る。
そこから柏尾川に沿って200mほど南にいくと、右側に長蔵寺があり石段の先に、増威八幡社がある。神社の由緒によれば「創建は天正元年(729)宇佐八幡宮創建の4年後であり、…中略・・・源義家の東征の折り立ち寄り神職の名前を(増井)を『威を増すとは幸先が良い』と喜んだ」という。
 
北へ戻り、秋葉三叉路の交差点を左折し、約100m先を右側に分かれる道がある。このまま北西に向かい、丘陵の尾根道をすすむ。

横浜新道に続く陸橋
 旧街道は、丘陵の上の川上小学校で途切れる。そこで、小学校の北に回り、川上小前の信号を北にすすみ、すぐ先にある歩道橋で、横浜新道を横切る。その先は、川上町と名瀬町の境界の道を進むことになる。
新しい住宅地となって道路もひろくなっている。徳翁寺を右に見て進み、左手名瀬中学校、右手新戸塚病院の間を行くと、戸塚カントリークラブのゴルフ場で消える。
       

武蔵と相模の国境-都塚
 そこで、東側に下り、車道に出て北に行く。両側がゴルフ場で、左に曲がると戸塚カントリーのクラブハウスの入り口となる。旧街道はこのあたりに出てくる。練習場のはずれに、都塚と書かれた白い標柱が立っている。
ここは、武蔵之国と相模の国の国境で、「鎌倉の都が一望できた」と書かれている。
石段の登り口に道票があ、上ると小さい地蔵堂がたっている。
道標 と 地蔵堂
 道標は、「北 二俣川村道、 南 鎌倉道、 西 武蔵境道、 東 ?本宿? 」 と刻まれている。









ここからは、広く拡張された道路を下ることになる。

大池公園
 道の左側が大池公園(こども自然公園)、右側が横浜カントリークラブのゴルフ場で、下りきったところ−左に旧カーブする手前で−右折し南本宿方面に進む。
小川を渡った先のT字路で、旧街道は左に行くが、右に100mほど行くと南本宿市民の森があり、上田(じょうだ)神社がある。

南本宿の風景
 元の道に戻り先に進む。バス道路に出る。桐が作下バス停で、横切って丘陵を上って行く。 途中、二又に分かれるが、右へ進む。
凹道の登り坂となり、その先で保土ヶ谷バイパスをこえる。   
 
 すぐに左近山団地の西端のアパートにさえぎられるが、回り込んでバス道路を過ぎたあとに旧街道が出てくる。このまま北にまっすぐに住宅地の中を進み、途中新幹線を越して次第に下りとなる道を進む。
左側下に二俣川が見え、旧街道はその先の相鉄線の線路でとぎれる。
東に進んで、相鉄線を越えると、左にイトーヨーカ堂・ザ・プライスを左に見て北に進むと、旧街道のあたりかと思われ、帷子(かたびら)川を渡る橋があったという。この上流で帷子川と二俣川が合流していたので、この辺りは二俣川宿とよばれていたという。 
旭区総合庁舎がみえ、その南西に当たる所に、遊歩道ができており、駅前商店街まで続いている。
区役所にはいり、「旭区ふるさと歴史再発見・・・鎌倉武将畠山重忠」という小冊子を頂いてきた。
 

 頼朝の死後幕府の実権を握った北条時政は、比企氏を滅ぼした後、さらに足元を固めるべく頼朝以来の幕府の重鎮であった畠山重忠を討つべく策を図った。元久2年(1205)、重忠の従兄弟の稲毛重成が、鎌倉で異変があると偽って菅谷城にいた畠山親子を誘い出した。 先に着いた四男の重保は、謀反人に仕立てられて殺された。
遅れて出発した重忠は、二男の重秀らとともに134騎の軍勢で鎌倉を目指した。時政の子、北条義時は、討伐軍として数万騎で帷子川の南で待ち受けた。(「万騎が原」の名は北条軍の集会所だったことからつけられた)。鶴ヶ峰に着いた時、初めて重保が謀殺されたことや、重忠自身が謀反人に仕立てられていることを知った。
しかし、潔く決戦を命じ、帷子川を挟んで激戦の末、愛甲三郎季隆の矢に当たって42歳の命を落とした。(稲毛重成は重忠を謀反人に仕立てたということで、三浦義村に討たれている)…その後、時政とともに陰謀にかかわった牧ノ方は、追放され、義時が執権となった。



首洗い井戸 鎧の渡し
クリックすると拡大 遊歩道の脇に、『畠山重忠公について』という大きな説明板があり、古戦場の地図や旧跡がこまかく解説されている。

近くの駐車場の端に、「首洗い井戸」と「鎧の渡し」の標柱が立っている。
旧街道は、この辺りで帷子川を渡ったという。
重忠の首を洗い清めた井戸があったという。
この後、鎌倉に送られたという。

首塚
 北に進むと、右側に首塚があり、地蔵菩薩像のある祠と、七層塔が立っている。この辺りで、重忠が首を斬られた所という。
先ほどの井戸で、首を洗い清め、鎌倉に送られたという。

畠山重忠公碑とさかさ矢竹
 総合庁舎の北、水道道と厚木街道の交差点西の帷子川を見下ろす所に、畠山重忠公碑がある。重忠没後750年を記念して建てられたという。
近くには、『さかさ矢竹』が植えられており、説明板がある。
「矢に当たった時 『我が心正しかればこの矢にて枝葉を生じ繁茂せよ』といい、2本の矢を地面に突きさした。矢は2本ずつ生え続け、『さかさ矢竹』といわれたが、今は消滅した。没後800年にあたり、さかさ矢竹をここに植える」とある。

矢畑・越し巻き
 旧街道から外れるが、重忠のゆかりの場所を見に行く。
水道道を300mほど西北に進み、最初の信号を左に入った奥に、「矢畑・越し巻き」と書かれた白い標柱が立っている。合戦のとき、重忠の陣に向かっていっせいに放った北条勢の矢がこの辺り一面に突き刺さり、矢の畑のようになったということから呼ばれるという。
 この場所から北東の方向にある[六ツ塚」へ行く途中の道の角に新しい堂が建ち、地神塔と1基と、石仏が2基ある。

六ツ塚
 角の先に、重忠をはじめ一族郎党134騎を埋めたと伝えられている六つの塚がある。昭和の初めに、畠山氏を供養するために薬王寺が建てられた。

角まで戻り、西に行くと鶴ヶ峰の交差点(5叉路)を経由して北上してきた旧街道とぶつかる。

南に戻り、鶴ヶ峰駅に帰る。
     
    
 散策日   2007年10月22日            
 参考資料  「旧鎌倉街道探索の旅  中道編」  芳賀善次郎

 「神奈川県の歴史散歩」